外務本省

『日本外交文書』
特集「太平洋戦争」(全3冊)

 本巻は、太平洋戦争の開戦から降伏調印までの外務省記録を特集方式により編纂し、3冊に分けて刊行したものです。本巻の刊行により『日本外交文書』の通算刊行冊数は205冊となりました。(A5判、本文2139頁、日付索引129頁、総ページ数2268頁、採録文書総数1258文書)

本巻の構成

  1. I 対米英開戦に伴う諸措置
    1. 一 開戦に伴う対外措置
    2. 二 各国権益の接収・管理
    3. 三 日米・日英間における外交官等の交換
    4. 四 俘虜・抑留者取扱方針
  2. II 対中関係
    1. 一 開戦直後の対中関係(租界接収を含む)
    2. 二 南京国民政府参戦問題と「對支新政策」の展開
    3. 三 日華同盟条約の締結
    4. 四 対重慶和平工作
    5. 五 雑件
      1. 各地情勢(満州を含む)
      2. 重慶政権の諸動向
      3. 経済状況
  3. III 対独伊関係
    1. 一 戦争協力をめぐる対独伊施策
    2. 二 独伊の降伏
  4. IV 対ソ関係の展開
    1. 一 対ソ諸問題の解決
      1. 北樺太利権問題
      2. 漁業問題
      3. 転籍ソ連船抑留問題
    2. 二 独ソ和平斡旋と対ソ特使派遣問題
  5. (以上、第一冊)


  6. V 中立国との関係
    1. 一 汎米外相会議と南米諸国の中立
    2. 二 チモール問題と対ポルトガル措置
    3. 三 その他中立国との関係
      1. バチカン
      2. スペイン
  7. VI 「大東亜共栄圏」の建設
    1. 一 対タイ関係
      1. 対タイ関係の展開
      2. 泰緬鉄道等の敷設問題
    2. 二 対仏印関係
      1. 対仏関係と広州湾接収問題
      2. 「仏印処理」問題と安南国等の独立
    3. 三 対インド施策
    4. 四 占領地への独立付与問題
      1. ビルマ
      2. フィリピン
      3. インドネシア
    5. 五 大東亜省設置問題
    6. 六 大東亜会議
    7. 七 「大東亜共栄圏」における食糧問題
      1. タイ、仏印との米穀取得交渉と食糧需給計画
      2. 中国における食糧問題
  8. (以上、第二冊)


  9. VII 終戦外交と降伏調印
    1. 一 人道的諸問題に関する対米抗議
    2. 二 中立国を通じた和平打診
    3. 三 対ソ交渉とソ連の参戦
      1. 日ソ中立条約廃棄問題と対ソ交渉
      2. ソ連の参戦
    4. 四 ポツダム宣言の受諾
    5. 五 アジアの終戦
      1. 各国への終戦通報
      2. 終戦前後の中国情勢と終戦措置
        1. (1)終戦前後の諸情勢
        2. (2)華北地域
        3. (3)華中・華南地域
      3. インドシナ半島での終戦措置
    6. 六 連合国軍の進駐と降伏文書調印
      1. 連合国軍の進駐
      2. 連合国軍との折衝
      3. 降伏文書調印
  10. 日付索引
  11. (以上、第三冊)


本巻の概要

I 対米英開戦に伴う諸措置

 項目Iでは、開戦に伴う各国への通報、日本本国および占領地域における各国権益の処理問題、日米・日英交換船による外交官等在敵国居留民の交換、および俘虜・抑留者へのジュネーブ条約適用問題をめぐる連合国側とのやりとり等に関する文書を採録しています。本項目は4つの項目から構成されています。

一 開戦に伴う対外措置

 本項目では、開戦に伴う各国への通報などの諸措置に関する文書を採録しています。昭和16年12月8日、対米英戦の宣戦の詔書が渙発されると、東郷外相は在本邦各国大使に開戦を通報しました。その際、独伊両国大使に対しては、宣戦の事実を告げると共に両国の速やかな対米参戦を期待する旨を伝え、同月11日、独伊両国は米国に宣戦すると共に、「日独伊単独不講和協定」に調印しました。(14文書)

二 各国権益の接収・管理

 本項目では、日本本国および占領地域における敵国・中立国・与国の権益処理に関する文書を採録しました。開戦と同時に、日本政府は在本邦敵国公館の機能を停止し、その記録文書・建物・家財などの処理方針を定めました。一方、日本軍占領地域における各種財産の取扱いについては、その処理方針を「占領地軍政実施ニ伴フ第三国権益処理要綱」、「占領地ニ於テ敵側ニ押収セラレアリシ枢軸国(人)ノ権益処理ノ件」などの大本営政府連絡会議決定に基づき実施することとなり、関係国へ通報を行いました。(14文書)

三 日米・日英間における外交官等の交換

 本項目では、外交官等の交換問題をめぐる日米・日英間における応酬ぶりや交換実施の経緯を示す文書を採録しました。昭和16年12月10日、米国より在京スイス公使館を通じて日米外交官等の交換につき提議があり、具体的な協議が開始されました。昭和17年5月中旬、本件実施にあたっての細目が日米、日英間で決定、同年7月24日、ロレンソ・マルケスにおいて「グリップス・ホルム」号と「浅間丸」・「コンテ・ヴェルデ」号の間で日米帰還者の交換が行われたのを皮切りに、同年9月1日・10日に第一次日英交換、翌18年10月19日にインドのゴアにおいて第二次日米交換が実施されました。(17文書)

四 俘虜・抑留者取扱方針

 昭和17年1月、日本政府は、俘虜の取扱いにつき、俘虜の待遇に関する1929年のジュネーブ条約を準用すること、俘虜・抑留者に関する情報の交換を行うこと等につき連合国側と合意しました。また、昭和17年12月には、外務省内に在敵国居留民関係事務室を開設し、敵国における俘虜、抑留者または集団生活者となっている邦人の状況調査、敵国居留民交換事務等の処理にあたることとなりました。本項目ではこうした俘虜・抑留者の取扱い方針をめぐる連合国側とのやりとりに関する文書を中心に採録しています。(11文書)


II 対中関係

 項目IIでは、南京国民政府の参戦問題や「對支新政策」の策定と展開、対重慶和平工作などを中心に、開戦直後から戦争末期までの日中関係の諸相を示す文書を採録しました。本項目は5つの項目に分かれています。

一 開戦直後の対中関係(租界接収を含む)

 本項目では、開戦直後の南京国民政府とのやりとりや上海共同租界などの接収に関する文書を採録しています。昭和16年12月8日午前7時、畑俊六総司令官は汪兆銘の来訪を求めて、日本の対米英開戦の旨を伝達し、次いで日高公使が汪兆銘を訪れて、南京国民政府の不参戦などを要望しました。また、上海では同日午前に日本陸海軍部隊が上海共同租界進駐を開始して重要施設などを接収し、天津や広東でも英国租界等の接収が行われました。(27文書)

二 南京国民政府参戦問題と「對支新政策」の展開

 昭和17年7月、南京国民政府はそれまでの日本側要請を退ける形で対米英参戦問題を提起しました。これを受けて日本側は大本営政府連絡会議において南京国民政府の参戦を決定するとともに(10月29日)、さらに同年12月には「大東亜戦争完遂ノ為ノ対支処理根本方針」などを決定して、南京国民政府の参戦を機として同政府の政治力強化を図り、租界還付・治外法権撤廃や日華基本条約の修正を進めることとなりました(「對支新政策」)。昭和18年1月9日、南京国民政府による対英米宣戦布告とあわせて、日華共同宣言や租界還付および治外法権撤廃に関する協定などが調印されました。その後、在中国各公館では「對支新政策」に基づく現地具体案が進められました。(54文書)

三 日華同盟条約の締結

 本項目では、南京国民政府による日華基本条約の改定提起から日華同盟条約の締結に至る文書を採録しています。昭和18年4月、来日中の陳公博が東条首相に対して、個人的意見として日華基本条約の改訂を提案しました。その後、外務大臣に就任した重光外相による「對支新政策」をアジア地域全体へと広げる方針の下、同年5月31日「大東亜政略指導大綱」が御前会議にて決定され、その中で日華基本条約の改訂と日華同盟条約の締結が決められました。その後、政府内での条約案に関する協議を経て、南京国民政府との条約締結に向けた交渉が行われ、10月30日に谷大使と汪との間で日華同盟条約が調印され、即日実施されました。(24文書)

四 対重慶和平工作

 本項目では、開戦後から終戦直前まで様々なかたちで模索された「対重慶和平工作」に関する文書を採録しています。開戦後、南京国民政府は同政府のなしうる最大の対日協力は重慶との全面和平実現であるとして重慶側の動向などを繰り返し伝えていました。しかし日本政府はこれに同調せず、まずは諜報路線を設定するとの方針をとりました。その後、現地では様々なルートを通じての工作が図られましたが、具体的な成果にはつながりませんでした。小磯国昭内閣成立後、政府は戦争遂行のために対重慶和平工作を進めることとして、蒋介石の南京帰還・日華同盟条約破棄・完全撤兵などの和平条件を含めた対重慶和平方針を最高戦争指導会議で決定しました。小磯首相は昭和20年3月21日の戦争指導会議に「繆斌工作」に基づいた和平案を提示しましたが、これには重光外相のみならず杉山元陸相・米内光政海相なども強く反対し、結局挫折することとなりました。(40文書)

五 雑件

 本項目では、上記項目では採録しきれない文書を3つのテーマに分けて雑件的に採録しています。「各地情勢(満州を含む)」には、華北政務委員会の動向や汪兆銘の満州国・華北・広東訪問などを採録しています。「重慶政権の諸動向」では、開戦に対する重慶国民政府側の反応や重慶国民政府と中国共産党との関係に関する報告、山西省での閻錫山に対する切り崩し工作などに関する文書を、また「経済情勢」では中国の経済情勢に関する南京国民政府とのやりとりや日本側の対中経済政策、中国各地の経済状況などに関する報告などを、それぞれ採録しました。(64文書)

III 対独伊関係

 項目IIIでは、開戦後におけるドイツ、イタリア両国との間での各種協定締結の経緯や、ドイツの対ソ参戦要求への日本側対応、ドイツ、イタリアの降伏をめぐる日本の措置ぶりに関する文書などを採録しました。本項目は2つの項目から構成されています。

一 戦争協力をめぐる対独伊施策

 本項目では、日独伊3国間の「新秩序建設」を目的とした各種協定の締結経緯やその具体的な協力内容、ドイツの対ソ参戦要求に対する日本側の措置に関わる文書を採録しています。対英米開戦後、日独伊3国は「三国条約混合委員会」などを通じて協力関係の強化を図り、昭和17年1月18日の「日独伊軍事協定」の調印を契機として、中立国における3国間での情報共有等が促進されました。また翌18年1月20日に締結された「経済協力ニ関スル日本国ドイツ国間協定」においては、日独両国が「大東亜」と欧州における新秩序建設のため経済の総力をあげて相互に援助することが定められました。一方で日本政府は、ドイツからの対ソ参戦要望に対しては、極めて慎重な対応を見せました。(51文書)

二 独伊の降伏

 昭和18年9月8日、ムッソリーニ失脚後のイタリアではバドリオ政府が連合国軍に無条件降伏しました。日本政府は、バドリオ政府下のイタリアを敵国として取り扱うことを決定しましたが、その後ムッソリーニのファシスト共和政府をイタリアの正当政府として承認しました。しかし、昭和20年4月30日にはドイツでヒトラー総統が自殺、翌月2日にはベルリン陥落、ヒトラーの後継デーニッツ総統は5月8日、連合国側に無条件降伏しました。本項目では独伊両国の降伏をめぐる日本側の諸措置に関する文書を採録しています。(42文書)

IV 対ソ関係の展開

 項目IVでは北樺太利権解消問題、漁業条約問題、転籍ソ連船抑留問題等、当該期の日ソ間における諸懸案および日本政府による独ソ和平斡旋の試みに関する文書を採録しました。本項目は2つの項目から構成されています。

一 対ソ諸問題の解決

 本項目では、北樺太利権解消問題、漁業条約問題および転籍ソ連船抑留問題などに関する文書を採録しました。日本の戦局悪化に伴い、ソ連側は北樺太における石油・石炭利権解消につき日本側に強く要求するようになりました。これに対して日本政府は、日ソ国交の静謐維持が緊要の課題であるとの立場から利権解消に同意し、昭和19年3月30日、北樺太石油・石炭利権移譲の議定書に調印しました。また同日、同じく懸案とされた漁業条約の五年間効力存続に関する議定書への調印も行われています。転籍ソ連船の抑留問題では、太平洋戦争開戦後にソ連籍に転籍した米国船の抑留をめぐり日ソ間で意見が対立しましたが、最終的に日本側が妥協、抑留中の船舶をすべて釈放することで本件は解決しました。(53文書)

二 独ソ和平斡旋と対ソ特使派遣問題

 本項目では、日本政府による独ソ和平斡旋の努力、そのための特使派遣提議、日本側提議に対する独ソ両国の反応などに関する文書を採録しています。昭和19年9月、日本政府は、独ソ和平斡旋の試みとしてソ連への特使派遣を計画しました。しかし、ソ連側は特使派遣の理由が明確ではなく、また国内外で「誤解」が生じる恐れがあるとして受入れを拒否しました。日本政府はドイツに対しても、ベルリン・東京でそれぞれ和平斡旋を提議しましたが、ドイツ側からも同提案を拒絶する内容の回答が伝えられました。(21文書)

V 中立国との関係

 項目Vでは、汎米外相会議をめぐる南米諸国への説得工作、日本軍のポルトガル領チモール占領に関わるポルトガルとの交渉に関する文書のほか、スペイン、バチカンとの関係についての文書を採録しています。本項目は3つの項目から構成されています。

一 汎米外相会議と南米諸国の中立

 日本政府は、南米の動向が連合国側の国運の趨勢を左右するとして開戦当初より注視していました。昭和17年1月15日より28日まで開催された汎米外相会議では、「対枢軸国共同宣戦布告決議」などが提議されたため、日本政府は採決阻止を目的として積極的な説得工作をブラジル・アルゼンチン・チリ・ペルーに対して行いました。本項目では、汎米外相会議をめぐる南米諸国の動向および日本の説得工作などに関する文書を採録しています。(30文書)

二 チモール問題と対ポルトガル措置

 本項目では、日本軍のポルトガル領チモール占領に対するポルトガル政府の抗議と日本側の対応、視察員派遣問題および日本軍の撤兵をめぐる交渉などに関する文書を採録しています。昭和16年12月17日、豪蘭連合軍がポルトガル領チモールに進駐すると、翌17年2月20日には日本軍が蘭領チモールにおける作戦上の進展を理由に葡領チモールを占領しました。豪蘭軍駆逐後も実質的な占領を続ける日本軍に対し、昭和19年6月、サラザール首相はチモールからの日本軍撤退を正式に要請、翌20年5月に交渉が開始されましたが、チモールにおけるポルトガルの行政権が回復されたのは日本の敗戦後のことになりました。(37文書)

三 その他中立国との関係

 本項目では、当該期の日本とバチカンおよびスペインとの関係を示す文書を採録しています。バチカンとの関係強化を図っていた日本政府は、昭和17年3月、原田健公使をバチカンに派駐しました。一方で、バチカンが重慶政府の使節受け入れを決定したことが明らかになると、その阻止のため種々の働きかけを行っています。スペインとの関係では、スニエル外相の全面的な協力により、在米情報網の設置が進められ、当該情報網を通じて入手された機密情報は、「東情報」として在スペイン日本公使館経由で東京へと送られました。(44文書)

VI 「大東亜共栄圏」の建設

  項目VIは、太平洋戦争中に日本が「大東亜共栄圏」の建設を掲げて展開した戦時外交に関する文書を採録しています。本項目は7つの項目から構成されています。

一 対タイ関係

 本項目では、開戦直後の日本軍のタイ国内通過に関する協定および日タイ同盟条約締結から、特別円協定など日タイ金融関係に関する文書、タイ国内で対日協力に批判的な動きが表面化するなかで決定・実行された「マライ」および「シャン」地方におけるタイの失地回復、タイと南京国民政府との外交関係開設問題、さらに戦争末期に現地軍において検討されたタイへの武力発動への対応ぶりなど、開戦直後から戦争末期(ポツダム宣言受諾前)までの対タイ関係の文書を採録しています。また、泰緬鉄道などの鉄道敷設に関する文書も採録しています。(57文書)

二 対仏印関係

 開戦直後、仏印との間に共同防衛に関する現地協定を結んだ日本は、以後、静謐保持の方針に基づき、仏国の主権を認めつつ同国と協力して仏印問題の処理にあたりました。昭和18年2月には、軍事作戦上の観点から広州湾への軍隊進駐を実行しました。その後、ヨーロッパでの情勢変化を受けて、日本政府は静謐保持を主とする対仏印政策の見直しを開始、軍側が仏印への軍政施行の方針を示したのに対し、重光外相は大東亜共同宣言の趣旨に則りインドシナ3国を独立させる必要性を強調し、結局安南国などを独立させることとなりました。昭和20年3月9日、日本側が仏印に対して軍事行動を開始し、数日で主要地点を確保すると、安南国などインドシナ3国はそれぞれ仏国との保護条約を破棄して独立しました。本項目では以上の経緯に課する文書を採録しています。(128文書)

三 対インド施策

 本項目では、インドおよびアラビアに対する日独伊3国による独立保障宣言の実施に関する諸交渉、ドイツに滞在していたチャンドラ・ボースの処遇に関する大島駐独大使とボースとの会談や日独伊間のやり取り、ボースに対する日本側現地機関の反応や日本側の対応ぶり、ビハリ・ボースを代表とするインド独立連盟の動向に関する文書を採録しています。また、自由印度仮政府成立後の、同政府承認問題やアンダマン・ニコバル両諸島の帰属問題、さらに同政府を正式政府とする問題や日本からの外交代表派遣の検討などに関する文書なども採録しています。(51文書)

四 占領地への独立付与問題

 本項目では、ビルマ、フィリピン、インドネシアに対する独立付与問題に関する文書を採録しています。昭和18年1月、政府は大本営政府連絡会議において「占領地帰属腹案」を決定して、ビルマとフィリピンを独立させることになりました。その後、同年8月1日にビルマが、10月14日にはフィリピンが独立を宣言し、両国との日本との間には同盟条約がそれぞれ締結されました。インドネシアについては当初日本領土へ編入することとなっていましたが、現地機関からの要望を受け入れて、昭和19年9月に小磯首相が第85帝国議会において将来のインドネシア独立に言及した「小磯声明」を発表しました。その後、昭和20年5月末より再びインドネシア独立施策が検討され、同年7月17日の戦争指導会議において「東印度独立措置ニ関スル件」が決定し、独立準備は現地軍に委ねられることとなりました。(27文書)

五 大東亜省設置問題

 本項目では、昭和17年11月の大東亜省設置に関連する文書を採録しています。開戦後、陸海軍および興亜院・企画院の間では対満事務局・興亜院・外務省等の統合が検討されていましたが、この動きに対し外務省は東郷外相が東条首相に直談判するなど強く牽制していました。しかし結局、興亜院らの意向を強く反映した大東亜省設置が閣議決定されました(昭和17年9月1日)。外務省は当初、東郷外相が単独辞任するなどの反対姿勢を見せたものの、省内での討議を経て大東亜省設置に協力して影響力を保つとの方針をとるに至りました。他方、中国など関係各国間には、大東亜省設置は日本のアジア諸国植民地化の動きであるといった懸念が広まりました。11月1日、政府は勅令をもって大東亜省を設置し、青木一男が大臣に任ぜられました。(27文書)

六 大東亜会議

 昭和18年5月、日本政府は大東亜諸国からの戦争協力強化などを定めた「大東亜政略指導大綱」を御前会議決定し、日華同盟条約締結やフィリピン独立などの方針を定めるとともに、同年10月下旬に「大東亜会議」を開催することとしました。同年11月5、6日、大東亜会議は帝国議会議事堂で開催され、各国代表演説などののち、政府内で累次の議論や協議をへて作成された「大東亜共同宣言」を採択して終幕しました。昭和20年3月には、第二次大東亜会議を開催することを決定しましたが、交通手段の問題等により開催延期となり、その代替策として同年4月23日に在本邦各国大使による大東亜大使会議が開催されました。(9文書)

七 「大東亜共栄圏」における食糧問題

 開戦後、接収した中国各地の租界や占領地に対する食糧供給という課題を背負った日本政府は、企画院を中心として「大東亜共栄圏」全体の食糧需給計画を策定しました。タイおよび仏印との間では開戦以前より米取得に関する交渉が進められており、開戦後は上計画にも依拠しつつ交渉が進められました。他方、中国では、日本軍が進駐した上海などでの深刻な食糧不足が懸念され、仏印やタイなどからの食糧融通や中国における食糧自給率の向上を図ることなどが検討されました。しかし、こうした目論見は功を奏さないまま、中国における食糧問題は深刻化し、重光大使らにとって大きな懸念材料となっていました。本項目では以上の問題に関する文書を採録しています。(94文書)

VII 終戦外交と降伏調印

 項目VIIは、戦争末期の終戦に向けた外交活動から降伏文書調印までの文書を、6つの項目に分けて採録しました。

一 人道的諸問題に関する対米抗議

 本項目では、那覇や東京への空襲といった軍事目標主義に反する行為への対米抗議に関する文書や、阿波丸事件をめぐりスイスを介して行われた日米間の交渉、広島への原爆投下に関する意見具申電や対米抗議など、戦争末期に発生した戦争遂行上に伴う人道上の諸問題に関する文書を採録しています。(12文書)

二 中立国を通じた和平打診

 本項目では、スウェーデン、スイス、バチカン等、中立国を通じた和平打診の動きに関する文書を採録しています。昭和20年5月、在スウェーデン日本公使館では在本邦スウェーデン公使バッゲを介した和平打診が検討されましたが、同時期には在スウェーデン小野寺陸軍武官による日本陸海軍の存続を条件とした和平工作も計画されていました。スイスでは、昭和20年7月頃、岡本清福陸軍武官を中心にダレス機関に対する和平打診が行われ、また、本工作と並行するかたちで、藤村義朗海軍武官補佐官がドイツ人ハックを仲介者として、ダレス機関に対し和平の瀬踏みを行っています。さらにバチカンの日本使節館では、昭和20年6月、法王庁司教を通じて米国側のアプローチを受けました。(18文書)

三 対ソ交渉とソ連の参戦

 昭和19年秋以降、戦局の悪化を背景として、日本の対ソ外交の主要目標は日ソ中立条約の存続に置かれていましたが、昭和20年4月5日、ソ連側より同条約廃棄の意思が通告されました。同年6月の広田・マリク会談において、日本側は日ソ関係改善案を提示しましたが、ソ連側から熱意ある回答は得られませんでした。同年7月には、無条件降伏ではない講和の実現を目的として、近衛文麿元首相が天皇の親書を携えてモスクワに派遣されることが計画されましたが、ソ連側からは受け入れ拒否の回答がもたらされ、8月9日、ソ連は日本に対し宣戦布告を行いました。本項目では、日ソ中立条約の廃棄通告をめぐる諸問題、近衛特使派遣問題、ソ連参戦から日ソ両軍戦闘停止前後の諸措置に関わる文書などを採録しています。(107文書)

四 ポツダム宣言の受諾

 昭和20年7月26日、アメリカ、イギリス、中国の3カ国による「ポツダム宣言」が公表されました。日本政府内では同宣言受諾の可否をめぐって様々な検討が行われましたが、8月10日早朝、同宣言の受諾を、スイス、スウェーデン両国を通じてアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えました。翌11日、上記4カ国より、いわゆる「バーンズ回答」を受領、8月14日にその受諾を回答するとともに、午後11時、終戦の詔書が発布されました。本項目においては、ポツダム会談に関する観測から同宣言発表後における外務省内での検討ぶり、受諾通報に至る一連の関係文書を採録しています。(31文書)

五 アジアの終戦

 本項目では、ポツダム宣言受諾に関するアジア各国への通報措置や中国、タイなど各地における終戦措置に関する文書を採録しています。中国大陸では、「以徳報怨」として知られる蒋介石演説により戦後中国の対日方針が伝えられ、その後日中間で在留邦人の現地定着方針や日本軍撤退完了までの武器保持などをめぐり交渉が重ねられました。タイとの間では、タイの対英米宣戦布告が無効であることや、日本軍の武装解除の方法、日タイ同盟条約の廃止などについて意見が交わされました。また、インドシナ半島ではベトミンの勢力拡大が続いており、8月29日にヴェトナム民主共和国臨時政府が成立し、日本側に対してハノイ総督府の明け渡しなどを要求しました。(97文書)

六 連合国軍の進駐と降伏文書調印

 本項目では、連合国軍の日本本土進駐や降伏文書調印に関する日本と連合国側とのやりとりに関する文書を採録しています。8月15日、マッカーサーは自身が連合国最高司令官に任ぜられたことを伝えるとともに、戦闘行為停止のため日本側と直接取決める権限を付与された旨を伝えました。同月20日、河辺虎四郎参謀次長を全権代表とする使節は、マニラにおいて連合国軍側と協議を行い、天皇布告文・降伏文書・一般命令第一号の3文書および「要求事項」を受領しました。同月30日にマッカーサー率いる本隊が日本本土に進駐し、9月2日にはミズーリ艦上において、日本側より重光葵外相と梅津美治郎参謀総長、連合国側よりマッカーサーらにより降伏文書への調印が行われました。(57文書)

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