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アラン・ガルシア
(Alan GARCIA)
1949年5月23日
リマ市
期間 | 学歴 |
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1970年 | ペルー・カトリック大学法学部在学 |
1970-1971年 | 国立サン・マルコス大学法学部卒(弁護士) |
1972-1974年 | マドリード大学法学部博士課程 |
1974-1977年 | ソルボンヌ大学社会学部博士課程 |
期間 | 経歴 |
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1977-1982年 | アプラ党組織委員 |
1978-1979年 | 憲法制定議会議員 |
1980-1985年 | 下院議員 |
1982-1985年 | アプラ党書記長 |
1985-1990年 | 大統領 |
1985年- | アプラ党党首 |
1990-1992年 | 終身上院議員 |
2006年6月 | 大統領選挙決選投票にて当選 |
2006年7月 | 大統領就任 |
ピラール・ノレス夫人との間に一男三女。前妻との間に一女。婚外子あり(男、公表済)。
2008年3月、公式実務訪問賓客として訪日。
歌(オペラ音楽やクリオーリョ音楽など)。自宅にカラオケセットを持っている。
スペイン語
(1)アプラ党創始者のアヤ・デ・ラ・トーレに若くして抜擢され、1978年の制憲議会で政界デビューを果たした。アヤ・デ・ラ・トーレの死後、分裂状態にあったアプラ党を再組織し、1985年には36歳という若さでアプラ党初の大統領となった。
(2)1990年の選挙では、フジモリ氏を支持したが、その後、フジモリ派と物別れした後は、フジモリ政権に対する批判を強め、政府と議会との対立をあおり、1992年のフジモリ大統領(当時)の自主クーデターの一つの要因となったといわれる。自主クーデター後は、コロンビアに政治亡命した(その後フランスに滞在)。
(3)フジモリ政権崩壊後の2001年、帰国し、大統領選に立候補、決選投票に進んだが、僅差でトレド大統領に敗れた。
(4)2006年大統領選挙では、決選投票にて52%強を得票し、当選した。
(5)公立学校時代に、日系人子弟と机を並べた経験から、親日派である。