=-=-=-=-=-=-=-=-=
領事の手記
=-=-=-=-=-=-=-=-=
「私の9. 11」
在マイアミ総領事館 領事 大野政美

 2001年9月11日、米国で同時多発テロが発生したとき、私は休暇で日本に一時帰国したばかりでした。テレビをつけたまま久しぶりに会った同僚数人と酒を飲みながら、初めて領事として在勤しているイスラム国での苦労を語り、少しずつ気持ちがほぐれているときでした。
 テレビ画面に緊急ニュースが流れ、ニューヨーク貿易センタービルに一機目の旅客機が衝突する映像が流れましたが、その時は、「コントロールを失った小型機が偶々衝突したのか、日本人に被害がなければよいが」、と考えた程度でした。そのニュースを見ていると2機目が衝突しました。
 このとき、「これはテロだ。恐らくビン・ラディンだ。直ぐに帰任しなければならない」と感じました。当時、私の任国では治安対策の中で、ビン・ラディンの活動が一つの脅威となっており、常に情報をフォローしていたことのよる所謂「感」によるものです。

 翌日、早速帰任フライトを変更すべく当初予約していた航空会社の事務所へいきましたが、航空機使用によるテロ事件が発生したため、暫くの間飛ばさないことになった、とのこと。仕方なく直行便は諦め、他の航空会社事務所へ行き、漸く3日後のフライトが取れ、途中1泊して帰任出来ることとなりました。「在留邦人の退避が始まろうとしているときに、自分は何をしているのだ」と焦っていました。乗り換えの空港では一時的に退避してきたJOCV隊員達とばったり会い、大変なときに自分が不在であったことに対し申し訳ない気持で一杯でした。

 帰任すると、直ちに在留邦人の把握と万が一の際の退避の検討に取りかかりました。
 退避経路についてはかなり悩みました。海への出口には余りに距離があり、しかも治安が悪いところを長時間通過することになるのですが、比較的近い隣国とは常に軍事的に緊張している状況でした。当時、隣国との軍事衝突に備えての退避は想定されていましたが、その時は軍事衝突の可能性があるその隣国へのバスによる越境退避以外の選択肢はなかったのです。

 話は変わりますが、通常業務についても触れておきたいと思います。日本からはあまり見えませんが、普段から忙しいところでした。
 大体、邦人援護と査証で業務全体の8割を占めていました。
 まず、査証ですが、任国人の日本における不法滞在・就労者が後を絶たず、犯罪に走るものが多かったため、査証発給は極めて厳しくしており、書類審査及び面接を実施し、何度となく追加書類を要求し、それでも偽造書類が多く流通していたため、疑いがある場合は結果的に断ることがありました。
 次に邦人援護ですが、長期滞在者及び永住者は少なく、邦人援護対象者は所謂バックパッカーの被害と彼らによる犯罪及び登山やトレッキング中の病気や死亡事案の処理でした。
 この種の事案を処理する際に、とにかく同国における情報入手の困難さには辟易しました。被害者の名前が不明であったり、間違っていたり、事件発生場所も正確に把握出来ず、警察が発行する報告書もいい加減で不明箇所が多かったのです。
 また、遺体処理も大変でした。同国では遺体を荼毘に付すことが困難で、廃墟のようなヒンズー寺院にお願いして場所を借り、自分達で薪の櫓を組み、その上に遺体を乗せ一晩かけて荼毘に付していました。また、検死等の際も遺体の扱いがいい加減であったため、ご家族が対面するまでに身体をきれいに拭き清潔な服を着せ、花を添え、場合によっては化粧を手配することもありました。たとえ領事の仕事だと理解していても、特に若い女性の遺体の処理の際には涙が出て止まらなかったことを覚えています。

 その様な通常業務も継続しつつ退避計画を作成する必要が生じた訳ですが、何分当時は新米領事であったこともあり、どの様に作成して良いか分からず手探りの状態でした。
 本省からは「退避計画はまだか」と再三にわたり督促され、通常業務に追われなかなか出来ずにいると、終いには本省より出張者が来て手伝ってくれることになりました。
 正直にいえば、かなり困惑しました。「自分は一生懸命やっている。出張者など来て貰う必要はない」と憤慨していました。事実、出張者は小生の作りかけの退避計画を見て「もう殆ど出来てるじゃないか」と言ってくれました。
 退避計画が出来たら、万が一に備えバスの借り上げの手配、国境付近官憲への協力依頼、退避先の隣国の大使館へ行き入国カードを事前入手等々の各種手配を開始しました。

 次に在留邦人数等の調査と「万が一の際に退避するか否か」の意思の確認を事前に行っておく必要がありました。同国の在留邦人の中で所在がなかなか掴めないのが同国人を夫としている日本人妻及び子供達です。
 永住者の方々も多くないため日本人会もなく、電話等のインフラが整っていない地方にバラバラに生活されているため、在留届は出ているが連絡をとることが出来ない人達がいらっしゃいました。例えば住所は「○○郵便局の裏」というものもありました。
 結局、最後まで連絡がとれなかった人も数人いましたが、中には「退去強制にあった夫と一緒であれば、日本へ退避しても良い」という人等も出てきて、思わぬ難題が発生しましたが、最終的には本省と協議し問題を解決していきました。

 その様に退避の準備をしているときに、懇意にしていた在留邦人より「日本人が国境付近の部族地域で拘束されたらしいが、知っているか」との連絡が入りました。事実関係を調査しようにもどこから手をつけて良いか分からず、とにかく可能な限りの各方面に問い合わせたところ、ある邦人が浮かび上がりました。ところが、翌日、その邦人より「大使館が自分を探していると聞いたが、自分は拘束されておらず、元気である」との電話があったため、また再度情報収集を始めたところ、東京(外務本省及び報道機関)から情報がもたらされました。若い男性でした。どうやら国境を超えようとして隣国の部族に拘束されたようでした。
 部族地域とは、部族単位で統治されており、国も簡単に手を出せないような地域のことであり、隣国との間にたくさんの部族がありました。
 その隣国には我が方大使館はなく、同人の所在調査及び引き渡しを依頼するのは、任国にあったその国の大使館以外はありませんでした。しかし、その国は戦時下にあり、とても同国の部族に拘束された日本人の情報を入手出来る状況ではありませんでした。

 そして、米国がアフガン攻撃を開始しました。
 私は、邦人の退避準備と共に、渡航情報の見直しを行うため、幾度となく米、英及び仏の各大使館に赴き同国の退避計画につき聴取し、情報交換を行うとともに、タリバン関係者及び任国官憲より戦況を含む情報を入手すること、それに併せ、毎日邦人の退避状況、フライト状況を本省に報告することとなりました。
 とても査証まで手が回らなくなり、本省に依頼し数週間後、漸く緊急案件以外の領事業務を停止することを認めて貰いました。
 その頃は、夜遅く帰宅し、翌朝は4時頃に本省からの電話で叩き起こされるという日々が続きました。本省からの電話は拘束された邦人についての情報はないかという問い合わせでした。本省の仕事のやり方は理解していましたが、私は心身共に疲れ切っていたため、一度電話で「領事担当官を何だと思っているのだ、いい加減にしろ」と怒鳴ったことがありました。

 隣国に拘束された邦人の行方を部族関係者に調査依頼する等手を尽くし調査していましたが、残念ながらこれと言った情報が掴めずにいたところ、邦人退避を検討するような任国の厳しい状況であるにも関わらず、その邦人のご家族が心配されて訪ねて来られ、神経を使われたせいもあるのでしょう、体調を崩されました。そのご家族は部族地域に近い街に滞在されていて、大使館員もその街に来て欲しいと言われましたが、大使館は全力で各種の情報収集等に当たっており、とてもご要望に応えることが出来ず、医薬品を送付するくらいのケアしか出来ませんでした。

 その直後、当該邦人が発見され、隣国との国境で引き渡しを行うこととなりました。
 国境に行くには部族地域を通らなければなりません。防弾車を用意して、「単なる領事である自分だけでは事が上手く進まないだろう、誰に一緒に行ってもらおうか」と考えていたところに、大使から「一緒に行きましょう」との電話がありました。昼頃に防弾車2台で、大使、総務班長、私の3人で邦人救出に向かいました。
 少し走ると、大使より昼食をとりましょうとのこと。私は昼食のことは頭に全くなかったのです。本当は私が手配しなければいけなかったのですが、邦人救出が上手く行くかどうかで頭が一杯でした。大使夫人の作られたサンドイッチと飲み物がトランクから出てきました。サンドイッチを受け取ると、大使から「ビールでもどうですか。あまり緊張しても良くないですよ」と勧められた。こんな時にビールなんてと思いましたが、言われてみれば、自分の異様な興奮状態に気が付き、有り難く頂きました。車の中で昼食を済ませた後、大使は目を瞑って休まれました。私はその横で手はずが全て整っていないまま大使館を出発したので、携帯電話で、大使館、先方官憲、部族関係者と連絡をとりながら、まずはご家族を迎えに向いました(後で、大使から「車の中ではずっと電話で大変でしたね」と言われた。大使は寝たふりをして私の話を聞いていたのです)。

 ご家族を迎えていよいよ国境へ向かおうとしていたとき、現地官憲が、暗くなるので部族地域へ立ち入りを許可しないと言い出しました。しかし拘束された邦人の安全のためにはとにかく早く迎えに行く必要がありました。私が困っていたとき、大使は周りにいた報道関係者達に向かって「自分は日本の大使である。これから日本人保護のために国境まで行こうというのに、通してもらえない。私には理解出来ない」と非常に立派な英語でとうとうと話されました。当然周囲の厳しい目はそこにいた任国官吏に向けられた。そして大使は携帯電話で任国の閣僚と話し、ついに通行を許可させた。
 我々の車の前後には、銃をもった軍人を溢れんばかりに積んだワゴン車が配置され、悪路を高速で国境に向かいました。

 国境に到着した時は既に暗くなっていました。国境事務所の一室で邦人に会いました。こともなさそうに座っている邦人を見て、深く息を吐きました。
 帰路、また高速で部族地域を通り抜けました。もし、途中に丸太でも置いて武装集団に待ち受けされていたら、というリスクはありました。しかし、他に方法は無かったのです。

 領事という仕事は、ここで述べたことだけでも多岐にわたることは理解して頂けると思います。そして、決して領事だけで処理出来るものばかりではありません。この事件も理解のある苦労を厭わない上司がいたからこそ解決出来たのです。
 そして、9.11の影響はNYから遠く離れたここにもあったのです。


領事の手記
トップページ