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領事の手記
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「邦人保護の担当官となって」
在ホーチミン日本国総領事館 領事 松原英夫
はじめに
私は現在までの在外公館勤務で、領事部の邦人保護担当官として、海外において邦人が事件や事故に巻き込まれた際の保護・援護活動に携わる機会を多く得た。担当官として、海外において邦人が事件や事故に巻き込まれた際の保護・援護活動に携わる機会を多く得た。
邦人保護担当官は、戦争や暴動、テロ、大規模災害等の大きな事件が発生した際には外務本省の領事局、地域局と連携し、「邦人の安全を守る」という重要な任務のために活動する。
私の邦人保護という仕事に対する取り組み方は、今から約11年前に中央アフリカ共和国で発生した兵士の反乱事件での経験が基礎となっている。当時同地では在留邦人が騒擾に巻き込まれ孤立状態となっていたため、パリの日本大使館に勤務していた私は現地に赴き邦人救出活動を行ったが、私にとって邦人保護の仕事の重さを改めて認識させる貴重な経験となった。この騒擾という人間にとっての極限状態での経験が、私の犯罪被害者をはじめ精神障害者等、人に接する際の姿勢及び邦人保護全般に対する種々の心構えの基本となっているので、この度手記に残したいと思い、筆を取った次第である。
1.中央アフリカでの反乱の発生
中央アフリカでは1996年4月頃より兵士による騒擾事件が起き始めるようになっていた。翌月、5月18日には、首都バンギを中心に反乱兵士による大規模な武力抗議行動が発生した。首都の各所では国軍と反乱軍との間で激しい局地戦となっていった。
当時、私はパリの日本大使館領事部に勤務していたが、この中央アフリカ情勢悪化についての報道を注意深く見守っていた。
なぜ、パリにいる私が中央アフリカ情勢に関心を持っていたかというと、次の理由からである。
1)中央アフリカは仏の旧植民地であり、独立後も旧宗主国として政治・軍事的に大きな影響力を有していた。また、そこで投資活動を行う仏人数も多く、経済的にも深い関係にあり、緊急事態発生時には、仏政府は居住する自国民の保護を検討するからである。
2)更に中央アフリカ情勢が悪化すれば、仏の軍隊はアフリカ地域に持つ軍事基地を最大限利用し、仏人救出活動を展開するはずであり、その動きを見逃さないためである。また私にとって一番大事なことは、仏軍が動き出した時には、現地で窮地に立っているであろう在留邦人の保護・救出を仏政府に要請する必要があるからであった。
当時、仏はアフリカ地域6カ所(ガボン、チャド、中央アフリカ、セネガル、コート・ジボアール、ジブティ)に軍事拠点を有していた。また、仏はアフリカの23カ国との間に軍事協力協定、また、8カ国に対しては防衛協定を締結しており、同地域で緊急事態が発生した際には、即座に仏軍が活動できる体制となっていた。この協定をもとに仏はアフリカ地域で緊急事態が発生した際には実際に自国民や外国人を退去させ、且つ事態を収拾するために軍隊を投入するといった姿勢を一貫して維持していた。
中央アフリカの情勢と邦人の様子を知るため、バンギの日本大使館に電話連絡を行ったところ、「日本大使館付近も銃撃戦となっており、館員は大使館の外に出ることはできず館内に籠もっている」との返事が返ってきた。当時、在留邦人としては首都バンギ市内に大使館関係者9名、経済協力事業関係者が13人、NGO関係者3名、永住者が6名、この他、宗教関係者2名の計33名が滞在、また地方には経済協力事業関係者8名、国際協力事業団(JICA)職員1名が滞在し、国内には全部で42人の在留邦人が確認されていた。
2.救出活動の開始
その後中央アフリカ情勢は悪化を続け、5月21日、仏外務省は在留仏人保護のための「緊急対策室」を発足させた。
従来、仏では武力衝突やクーデター等の騒擾が発生する可能性について、各国にある仏在外公館(大使館等)で調査・分析を行う一方、仏国防省でも独自に調査を行うといった2本立てのシステムで情勢分析が行われていた。実際に緊急事態が発生した際には、大統領、首相、国防大臣並びに外務大臣等のトップからなる指導者会議が設置されるが、仏外務省内には指導者会議で決定された事項を実施するためのオペレーション会議が設置され、その下に「緊急対策室」が置かれ、自国民の保護・退避のための方策を実施することとなっていた。
仏外務省が「緊急対策室」を設置した21日、パリの日本大使館では東京の外務本省からの指示で、仏外務省に対し中央アフリカの在留邦人42名の保護を依頼した。これに対し仏側は快く保護する旨即答してくれた。しかし、この時点では、仏政府は事態が更に悪化するとは予想しておらず、現地の仏大使館が中心となって在留する仏人に対し指定の避難場所への移動を指示しているだけで、国外脱出の勧告は行っていなかった。
しかし、その後現地情勢は緊迫さを増し、同日夕方にはバンギの日本大使館は邦人に対し「退避勧告」を発出したが、この時点で既に首都バンギの空港は閉鎖され、一般商用機の離発着は不可能となっていた。在留邦人の安否が気遣われた。
翌5月22日になり、東京の外務本省からパリの日本大使館に「現地の日本大使館は職員が館に籠城し、館外に出られない状況である。ついては現地在留邦人の安全確保のためパリの日本大使館より職員を現地に派遣ありたい」との指示が出された。
この時、仏衛星テレビでは中央アフリカの首都上空を仏軍戦闘機が威嚇行動する状況を映し出していた。情勢が悪化し、ついに仏軍が動き出したと思い、緊張で身が引き締まる思いであった。
東京から館員派遣指示があった時、仏外務省から避難者を救出する救援機を中央アフリカに差し向けるとの情報を得ていたので、仏外務省の許可を得て私は5月23日午前6時15分オルリー空港発AOM航空救援機で一路バンギへ向かった。
3.バンギ空港
救援機は23日午後1時にバンギ空港に着陸した。着陸後、救援機の機体はターミナルへとゆっくり向かったが、窓越しに空港敷地内でプロペラを旋回させたまま待機している多数の軍用ヘリコプターや足早に移動する兵士が見え、物騒な雰囲気となっていた。
タラップをおり、入国管理事務所に向かった。窓口に1人だけ担当官がいた。情勢を尋ねると、「この反乱で1週間空港事務所に缶詰で帰宅できないでいる。反乱軍は空港の近くまで迫っていると聞いている。」と疲れ切った表情で答えた。
入国管理事務所で電話を借り、バンギの日本大使館に到着の連絡を入れた。H書記官が電話に出て説明した。「大使館事務所は備蓄食糧は十分あり、当面持ちこたえられます。しかし、付近は銃撃戦で館内に弾が飛び込んでくる状況で、館員が館外に出ることはできません。残念ながらそちらに迎えに行くこともできません。」
空港内には到着した救援機に搭乗して脱出しようとする避難者が長蛇の列を作っていた。
行列の中で搭乗を待っている5人の日本人らしき人たちを見つけたので声をかけた。経済協力事業のために駐在している方たちだった。その中でSさんは国際電話が使用できる携帯電話を持っておられたので、充電器も一緒にお借りした。大使館の支援が得られず連絡手段もなく、これからどのようにすればよいか考えていた矢先であったので、助かった。
この救援機は避難者を乗せ午後2時30分、パリへ出発していった。
4.仏軍基地
これからどこに向かおうと思案しながら空港の建物を出たところ、右手の方から仏軍のジープが走ってきた。手を振って止め、軍人に事情を話すと直ちに車に乗せてくれた。
仏軍基地は空港に隣接しており、高い壁に囲まれていた。広い敷地内は避難者でごった返していた。
司令官との面会を申し入れ、基地事務所2階の外廊で面会許可を待ちつつ敷地を見下ろしていると、避難者の中に無線機を持った若い日本人らしき女性を見つけた。大使館のK派遣員であった。K派遣員は騒擾で大使館に出勤できなくなり、仏軍基地に避難することになってしまったと説明した。特に表情には出していないが、避難生活で疲労していると窺われた。
基地司令官に面会し、邦人保護のためパリからやってきた事情を説明したところ、基地オペレーション・ルームの片隅に机を割り当ててくれた。パリとバンギの日本大使館に基地内に邦人保護事務局を開設したと連絡した。これにより東京の外務本省、パリの日本大使館とは携帯電話で、バンギの日本大使館とはもっぱら無線で連絡するようになった。
100平米ほどのオペレーション・ルームには常時20人程度の軍人が出入りし、机に設置されたパソコンで救出する避難者を特定していた。敷地内には次から次へと避難者を乗せた装甲車が入り、また避難者救出のために出動していった。
また、仏軍は軍用輸送機を使用し、基地内に逃げてきた避難者たちの人定を調査の上、国外退避可能な人々を選別してガボンの仏軍基地へ向けピストン搬送を開始した。
5.現地に留まりたい日本人
東京の外務本省、中近東アフリカ局アフリカ第1課の首席事務官から連絡があった。
「バンギの日本大使館からの連絡によると、大使館では電話で在留邦人に対し、退避を呼びかけていますが、宗教関係者の2人の女性だけが避難を拒否し、現地に留まると言っているそうです。ついては、この2人をなんとか救出するようお願いします。この2人を出国させればあなたの任務は終了ということにしましょう。」
本省からの連絡にとりあえず「わかりました、やってみましょう」とは答えたものの、内心厄介なことになったと思った。この宗教団体はこれまでアフリカを問わず、世界各地の厳しいところで布教活動をしていると聞いていたからである。また、布教活動のため一生懸命なあまり、おいそれとこちらの言うことは聞いてくれまいと思った。
早速、この両名に電話を入れ、現地の情勢を説明した上で「危険が迫っているのでお2人とも仏軍基地に避難して下さい」と勧めたところ、2人とも「今のところ危険は感じていません。宗教活動のためこちらにいるので避難するつもりはありません。」と答え、あまり現状を感じ取っていないかの様子であった。これでは私も当分帰国できないなと思い、焦りを感じたが、その思いをぐっと飲み込み、努めて明るい口調で「ではこれから情勢が更に悪化する可能性がありますので、私から時々情勢説明の連絡をしましょう。もし、お住まいの地域まで危険が迫り、助けが必要になったらいつでも私の携帯に連絡して下さい」と話し、今後も連絡を継続する約束をし、電話を切った。説得まで長期戦になりそうな気がしたが、ここは相手の気持ちや事情を考え、話し合いを続けようと思った。
6.日本大使館館員の避難
一方、バンギの日本大使館では食糧の備蓄があるとはいえ、A大使、K参事官をはじめ館員全員が館内に籠城し、情報分析、邦人保護のため休みなく働いていいた。情勢が好転しないこともあり、K参事官は3日前頃からマラリア熱に罹患しているにも拘わらず、病気を押して激務についていた。
このような状況から、大使館は一部館員等の退避を決定した。23日午後4時すぎ、K参事官はじめ一部館員及びその家族が仏軍基地内に移動し、仏軍用機でガボン共和国に向けて出発した。私を手伝ってくれたK派遣員も同行し出発していった。
私は定期的に2人の邦人宗教関係者に電話を入れ情勢を伝えたが、彼女らの気持ちに変化はなかった。
7.夜
仏軍基地のオペレーション・ルームは軍人たちの仮眠所となるため午後10時30分をもって閉鎖となった。勤務を終えた兵隊たちが寝袋を担ぎどかどかと入ってきて、機関銃やロケット弾を床に置き、寝場所を確保し始めた。部屋に武器類があるので私は留まれないことになり、基地事務所の外に出て寝場所を探すことになった。
仏軍の装甲車は午前2時半を過ぎまで、避難者たちを救出し基地内に運び入れる作業を続けていた。基地内に入ってから余程怖い思いをしたのであろう、感極まって泣き出す女性もいた。この避難者の光景を見て、明日もねばり強く説得し無事に2人を連れ帰ろうと思った。
基地内は子供や女性が優先し、建物に収容された。私を含めた男性の多くは収容先がなく敷地内を歩いていた。
私はとりあえず、マラリア蚊を避けるため、虫の集まらない、暗い建物の軒下に身を横たえ夜が明けるのを待った。
時々、基地の塀越しに政府軍か反乱軍によるものかわからないが、赤い閃光を放つ弾がバンギの暗闇に向かって飛んで行き、その先に丘か山があるのか、時々弾は跳ね返り違う方向に飛んでいくのが見えた。
8.任務完了、そしてガボンへ
5月24日、午前8時30分からオペレーション・ルームは再開した。
すぐに、2人の邦人宗教関係者に電話し、仏軍基地へ避難する意志があるかどうか尋ねた。この時2人の住居間近で銃撃戦が始まっており、非常に動揺した様子で、
「本当は2人とも一刻も早くこの場所から逃げ出したいのですが、ここを管理する上司のドイツ人女性が許可してくれません。」と訴えた。
私は「その上司を説得できるかもしれないので、私が話をしたいと言っていると伝えて下さい。」と言ったところ、少し逡巡した様子の後、
「わかりました。上司に伝え、松原さんに電話して貰うようにしますので待っていて下さい。」との返事だったので、了解し待つことにした。
しばらくしてそのドイツ人女性から私の携帯に電話があった。私が中央アフリカ情勢が現に危険な状態となっており、脱出する時期に来ていることを説明したところ、
「実は今朝から、自分の居住地の周辺は銃撃が始まっており、もう外出できない状況となっています。危険が迫っていることは十分判りました。昔ザイールでも大規模な暴動にあいひどい目に遭っているので身にしみて判っています。 私は女児とこちらに居住していますが、2人の邦人宗教関係者の他、あなたが私たち親子にも国外に脱出する支援をして下さるなら、あなたの説得を受け入れます。」と話した。
これに対し「あなた達親子も一緒にお助けしましょう」と答えると、ほっとした様子で、「ありがとう。基地に移動する準備をします。」と返事が返ってきた。
その日の正午過ぎ、2人の邦人宗教関係者、ドイツ人女性親子計4名が装甲車で救出され仏軍基地に到着した。無事2人を救出した旨、外務本省、パリ、バンギの日本大使館に報告した。
同日午後、仏軍に救出した4人の出国申請を行い、夕方、仏軍大型輸送機に搭乗しガボン共和国の首都リーブルビルの仏軍基地に向かった。出発の際、仏軍兵士達は軍用機後部の搭乗口左右から2列縦隊で放射状に並び、搭乗する避難民らを保護した。離陸後、輸送機はゆっくりと機体を上昇させていった。小窓からバンギ近郊の緑色の森林が見えていた。心の中で、反乱軍がこの機を狙わないようにと願い、早くもっと上昇し安全な空域に入って欲しいと祈った。
終わりに
結局、当時私はフランスの支援を得て、邦人を救出しガボン共和国を経由しフランスに戻ることができたが、この救出活動により、この身をもって得た緊急事態での経験は、次のような事で、現在私が行っている犯罪被害者や精神障害者への邦人保護を行う上で、被害者や障害者等との接し方、心構えの基礎となっている。
- 一口に人命を助けるといって担当官一人ががんばっても無理で、現場にいる邦人はそれぞれ事情があるということを念頭に相手から話をよく聞き、ねばり強く救出活動に当たらなければならない。
- 担当官は現場の状況によって邦人保護のアプローチの方法を変える必要がある。また救出活動をおこなう自分自身の命も危険にさらす覚悟も必要である。
- 戦争や暴動が発生した時など、通常の日常生活から絶した状況では、そこにいる人の心情は常に変わると言うことを前提に事に当たる必要がある。つい先ほどまでは現場に留まり死も厭わないといっていた人が土壇場で救出を求めることがある。
世界各地で依然として、内乱、暴動、テロ事件は後を絶たず、現地にいる在留邦人、旅行者を保護するため、毎日必ずどこかの在外公館で館員達が危険を承知の上立ち向かっている。これら同僚達の活躍と安全を祈りつつ、今日も邦人保護を担う領事として職場に臨んでいる次第である。
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