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エッセイなど
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省員エッセイ

外交と合気道
(国際報道官 千葉 明)

平成18年3月

 国際報道官というのは外国メディアを相手にする仕事であり、総理大臣外国訪問に同行しての現地・第三国メディア対策も重要な仕事の一つだ。中でも、歴訪の締めくくりに行われる内外記者会見は、会場選定から資料の取りまとめ、現場の取り仕切りまで国際報道官室の職責である。何しろ、一度として同じ展開になったことがない。ハプニングの連続で、しかも原則生中継だ。一連の会談が終了して他の担当課長がほっと一息ついている時も、最後まで緊張が抜けないのが国際報道官である。

 それでも、記者会見が終わってしまえば、出発までの束の間は憩いのひと時だ。そんな時、時間が許す範囲で現地の合気道道場にお邪魔するのが、いつしか習慣になった。

 合気道は試合を認めない。投げ技や固め技の型稽古を繰り返す。それだけに、愛好家同士の交流に向いている武道だ。世界主要都市にはたいてい道場があり、インターネットでつながっているから、事前に連絡すれば「すわ、道場破りか」と警戒されることもなく、快く受け入れてくれる。ロシアにチリ、オランダにイギリス、インドネシアにマレーシア。普段は宿舎の地下室辺りに設けられた穴蔵のような報道担当官室で、昼も夜も分からない日々を送る身にとって、任務終了後の道場通いは、現地の人と文字通り肌を触れ合い、ともに汗をかく貴重なチャンスとなっている。

 大学を卒業してから長い間道場に寄りつかなかった私を、再び合気道に招き入れてくれたのは、中国だった。ややこしい話は省略するが、ニュージーランドに移民して合気道にはまった中国人青年が、故郷に帰って合気道を広めようと奮闘しているのを、私が手伝うことになったのだ。今でこそ中国各地に展開する道場を擁しているが、当初は失敗の連続で、相棒の中国青年と二人して、込み上げる不安を押さえつつ、ひたすら初心者を指導する毎日だった。これまで支えて下さった大勢の方々に、心から感謝する次第である。

 さて、「道」というからには、技術の向上ばかりでなく、それを通じた人格の陶冶がなければ武道とは言えない。少なくとも、道場で身に付けたことが日常にも生かされなければ嘘だ。私にはまだまだ遠い道のりだが、最近、人に行く手を譲るのが好きになってきた。性格が良くなったのではなく、単に間合いをとる練習をしているに過ぎないのだが、道を譲らないよりはいいだろう。

 それから、「人とぶつからない」ということが習性になってきた。それは対立を避ける、というのとは違う。合気道では、打ちかかってくる相手の力を受け流して技を掛ける技術を発達させてきた。単にガツンとぶつかるだけでは、臂力に優る者が勝ち、年老いた者が負けるのが必定だ。相手の勢いを最小限の接触で無力化してこそ武術である。そしてそれが心の習性になってこそ武道である。そのためには自分の立っている場にも拘らない。相手に気取られぬまま、さり気なく足場を換え、相手のバランスを崩して一気に中心部に攻め込む。立場に拘るのは「居着く」といって忌避される。

 外交交渉の要諦も同じだと思う。ある瞬間は相手の立場に立ったように見えても、最後に畳に身を沈めるのは、あくまで相手の方なのだ。

 もう一つ、これは他の武道でも共通だが、「肉を切らせて骨を断つ」ということがある。こちらもある程度のことは覚悟しないと、とても相手を制しきれるものではない。よく、毅然としてぶつかれ、と勇ましい一方で、自分の方はかすり傷一つ厭う人があるが、それは武道家たる所以のものではない。

 また、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということもある。「一歩踏み込め、そこは極楽」という極意もある。一歩踏み込むその勇気、身を捨てるその潔さが武道の真骨頂であり、潔さはまた武士道の最高の徳目でもある。外交の範を武士道に取るとすれば、まず潔さを体現できなければならない。

 武道を極めない者に真の武士道は体得できない、そう信じて明日も、どこかの国のどこかの町で、道場に足を運ぶ。
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