外務本省

外交史料 Q&A
昭和戦前期

1930年代(昭和5年~14年頃)

Question
 1930年(昭和5年)、高松宮宣仁親王ご夫妻のユーゴ訪問に関する記録はありますか。

Answer

 外務省記録「高松宮同妃両殿下御外遊一件」があります。

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Question
 1930年(昭和5年)に開催されたロンドン海軍軍縮会議について、随行員まで記載されている名簿はありますか。

Answer

 外務省記録「倫敦海軍会議関係一件 人事関係 復命書及報告書関係」(倫敦=ロンドン)に名簿があります。

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Question
 リットン調査団の報告書はありますか。

Answer

 満州事変に関する現地調査委員会である「リットン調査団」が作成した、いわゆる「リットン報告書」は外務省記録「満州事変(支那兵ノ満鉄柳条溝爆破ニ因ル日、支軍衝突関係) 善後措置関係 国際連盟支那調査員関係 報告書関係(日、支両国意見書ヲ含ム)」に収められています。また、報告書の全文が『日本外交文書 満州事変(別巻)』に採録されています。
 1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件勃発以降、錦州爆撃、北部満州のチチハル占領など、関東軍による軍事行動拡大が続くなか、中国からの正式提訴を受けた国際連盟は、「両国間ノ紛争ノ現存原因ノ終局的解決ヲ容易ナラシムル」ため、5名からなる調査委員会を派遣することを決定しました。英国のリットン伯爵のほか、米国、フランス、ドイツ、イタリアの5カ国から選出された調査委員は、翌1932年(昭和7年)2月から日本と中国を訪問して調査を行いました。
 こうした視察調査をへて、リットンらは同年9月4日に調査結果の報告書をまとめ、10月1日には日中両国などに通達しました。報告書はまず、満州をめぐる日中間の諸問題など歴史的背景と事変勃発前後の経緯について、日本軍の行動は、「合法ナル自衛ノ措置ト認ムルコトヲ得ズ」とし、また「満洲国」は日本軍の存在と日本の文武官憲の活動がなければ成立しなかったと論じています。そのうえで報告書は、日中間の紛争解決のためには、1931年9月(柳条湖事件)前の状態への復帰は問題とならず、現制度より進展させるべきと指摘し、事態解決の原則及び条件として、日中双方の利益と両立することや満州における日本の利益の承認、日中間の新たな条約関係の設定など10項目を明示しています。そして、報告書は上記の条件に合致する一つの方法として、日中両国を連盟理事会に招請して、東三省(満州)に特別な行政組織を設置することを審議・勧告するための諮問会議の開催などを提議しました。
 しかし、日本側は事前に報告書の全貌をつかみながら、報告書公表前の1932年9月15日に「満洲国」を承認しました。その後、日本は連盟内で孤立を深め、1933年(昭和8年)3月27日には国際連盟に脱退を通告することになりました。

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Question
 1932年(昭和7年)、イラク油田の国際開発事業について、日本にも参加を呼びかける提案がイギリス企業からなされたそうですが、この関係記録はありますか。

Answer

 外務省記録「南米其他ニ於ケル帝国ノ利権問題関係雑件 鉱山関係」などに関係文書があります。

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Question
 1932年(昭和7年)12月8日の国際連盟臨時総会における松岡洋右代表の演説文はありますか。

Answer

 この時の松岡の演説は、外務省記録「満州事変(支那兵ノ満鉄柳条溝爆破ニ因ル日、支軍衝突関係)善後措置関係 国際連盟ニ於ケル折衝関係 日支事件ニ関スル交渉経過(連盟及対米関係)」に含まれています。また、本文は『日本外交文書』満州事変第三巻にも採録されています。
 この国際連盟臨時総会では、満州事変の調査にあたったリットン調査団の報告書が審議されていましたが、その審議内容は日本に不利なものでした。こうしたなか、壇上で演説した松岡洋右代表は、かつて「狂ヘル輿論」がキリストを十字架にかけたように、現在の輿論も日本を十字架にかけようとしているが、誤った輿論は数年のうちに必ず変化するであろうと述べて、日本の立場を強弁しました。しかし、松岡の熱弁もむなしく、翌1933年(昭和8年)2月24日の国際連盟総会において、日本軍の満鉄附属地への早期撤退や満州に対する中国の主権承認を内容とする勧告案などが42対1(棄権1)の大差で可決されました。松岡はその場で遺憾と失望の意を表明し、他の日本政府全権とともに会場を退出し、同年3月27日、日本政府は連盟事務総長に連盟脱退を通告しました。

(写真)『松岡洋右』
『松岡洋右』

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Question
 赴任国のアメリカで死去した、斎藤博駐米大使について教えてください。

Answer

 1910年(明治43年)外務省に入省した斎藤博(1886~1939)は、ワシントン、パリ、ニューヨーク、オランダ在勤などを経て、日本が国際連盟脱退を通告した直後の1933年(昭和8年)に、49歳の若さで駐米大使に任ぜられました。着任した斎藤は、アメリカの外務当局や財界と折衝を繰り返したほか、日本の外交政策や日米関係の歴史を解説した著書("Japan's Policies and Purposes")の執筆や、アメリカ各地での外交、経済問題に関する講演活動などを通じて、急速に悪化するアメリカ国内の対日感情緩和に努めました。また、1937年(昭和12年)12月に日本海軍が揚子江に停泊中の米艦パネー号を沈没させる事件が起こると、その直後に3分52秒にわたる全米中継放送を、本国からの訓令を待たずに行ない、事態の沈静化に努めました。しかし、斎藤はこうした激務から体調を崩し、1939年(昭和14年)2月にワシントンで亡くなりました。彼の死後、ハル(Cordell Hull)米国務長官が「(斎藤大使は)理解ト同情ヲ以テ日米友好関係ノ為ニ尽力シタ」とのステートメントを新聞に寄せるなど、その死を惜しむ声がアメリカ国内で広まりました。アメリカ政府はさらに、最新鋭の巡洋艦「アストリア号」で斎藤の遺骨を護送するという異例の措置をとって、彼の死に特別の弔意を示しました。
 アメリカがアストリア号で遺骨を護送した経緯のほか、彼の葬儀が外務省葬として実施されたことに関する記録は、外務省記録「本邦人弔喪関係雑件 斎藤大使葬儀関係」に関連記録がおさめられています。

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Question
 1934年(昭和9年)に南洋へ航海した少年団に関する記録はありますか。

Answer

 外務省記録「本邦少年団及青年団関係雑件」に関連記録が含まれています。
 日本のボーイスカウト運動の基礎となった「少年団日本連盟」の「海洋健児部」は、1934年7月、青少年の実地訓練を図るとともに、寄港地での各少年団との交流などを目的として、練習船「和爾丸(わにまる)」を南洋各地に派遣しました。
 団長の原道太(海軍大佐)以下、総員57名からなる一行は、途中暴風に遭難しながらも、台湾、マニラ、サイゴン、シャム(現在のタイ)などを訪問し、各地で各国政府や各国少年団、在留邦人らから歓迎を受けました。特にタイでは、これまで一般には使用が許されていなかった国王専用の埠頭を「和爾丸」乗員のために開放するなど熱い歓迎を受けました。そうした様子を当時の記録は、「当国(タイ)民衆殊ニ少年団関係ノ青少年ノ親日的傾向ハ今般和爾丸ノ来航ニ依リ一段ノ刺激ヲ與ヘラレタルノ感アリ」と記しています。

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Question
 日本の在中国公使館が大使館に昇格した経緯に関する史料はありますか。

Answer

 外務省記録「在支帝国公館関係雑件 格式変更関係 昇格関係 公使館ノ部」などに関連記録が含まれており、そのうち主要な文書については、『日本外交文書』昭和期II第一部第四巻に採録されています。
 日本は、清国時代の1873年(明治6年)に山田顕義を初代特命全権公使に任命して以来、中国に公使館を設置していました。1935年(昭和10年)、日中国交改善に向けた機運が生じると、日本政府は同年5月7日、須磨彌吉郎南京総領事を通じて中国側に日本公使館の大使館昇格決定を通報するとともに、中国側も同様の措置をとるよう要請しました。これに対して中国側は、日本側の決定に謝意を示して同時昇格の準備を整えると回答し、両国政府は新聞に同時昇格を発表することで合意しました。こうして、日中間の大使館同時昇格が実現し、日本側の初代大使には有吉明公使が、中国側においては蒋作賓駐日公使が初代大使に昇格しました。

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Question
 1935年(昭和10年)に来日した人類学者のジョン・エンブリーに関する記録はありますか。

Answer

 エンブリーは三重と鹿児島の両県を訪れました。両県庁は外務省に彼の動静を報告し、この報告書が外務省記録「外国人本邦来往並在留外人ノ動静関係雑纂」の中にあります。

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Question
 1935年(昭和10年)に日本の経済使節団がブラジルを訪問し、翌年にはブラジルの経済使節団が来日したそうですが、それらの記録はありますか。

Answer

 外務省記録「本邦人ノ海外視察旅行関係雑件(中国及満州国ヲ除ク) 視察団ノ部 訪伯経済使節団関係」および「外国人渡来関係雑件 視察団ノ部 伯国経済使節団関係」(伯国=ブラジル)があります。また、『日本外交文書』(昭和期II第二部第四巻・第五巻)にも関係文書が採録されています。
 1935年ブラジルに派遣された日本の経済使節団は、川崎造船社長の平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)を団長とし、両国の親善や経済関係の促進を目的とするものでした。使節団はブラジル各所を視察して現地での交流に努めるとともに、両国貿易均衡のためのブラジルからの綿輸入措置などについて同国外務省と協議し、通商に関する各種勧告、決議、宣言を採択して帰国しました。平生はこの経験に基づき、帰国後の1935年12月5日、昭和天皇に日伯貿易に関する御進講を行っています。また翌1936年(昭和11年)には、訪伯使節団への答礼としてブラジルからも使節団が来日し、巡遊した日本各地で歓迎を受けました。

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Question
 カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に新渡戸記念庭園(新渡戸ガーデン)が造られた経緯を記した文書はありますか。

Answer

(写真)新渡戸稲造記念石燈と庭園(1935年)(庭園寄贈記念式プログラムより)
新渡戸稲造記念石燈と庭園(1935年)
(庭園寄贈記念式プログラムより)

 「太平洋の架け橋になりたい」という言葉で有名な新渡戸稲造(にとべ・いなぞう、1862~1933)は、その言葉通り、国際親善のために尽くし、1933年(昭和8年)、カナダで開催された太平洋調査会の会議に出席した後に病に倒れ、その生涯を閉じました。
 西海岸に位置し、日本からカナダへの玄関口だったバンクーバーでは、1935年(昭和10年)8月、在留邦人とバンクーバー日本協会が協力して、新渡戸の功績を記念する石燈とそれを中心とする日本庭園をブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)構内に造園し、同大学に寄贈しました。庭園は、周囲との調和を考え、純粋な日本式ではなく、日加両国の樹木からなる折衷様式で造られました。
 石井康(いしい・こう)バンクーバー領事は、寄贈式典でのスピーチで、新渡戸の輝かしい業績を象徴するものとして輝く石燈を寄贈したことを述べ、この庭園により日加の親善理解が一層深まることを希望しました。
 新渡戸が亡くなった状況や、庭園が造られた当時の様子を示す記録は外務省記録「本邦人弔喪関係雑件」に残されています。
 その後、1958年(昭和33年)にUBCによる日加文化交流が企画され、翌年、新渡戸ガーデンは拡張・改築されました。
 1958年夏に日本を訪れたUBC芸術科長は、日本庭園を視察した後、新渡戸ガーデンを拡張し、より本格的な日本庭園に改築することを同大学総長に提案しました。新渡戸とも面識があった同総長はこの案に賛成し、日本側に協力を要請、バンクーバー日系市民協会や日系庭園業者等が改築に協力しました。
 庭園が拡張・改築された際の関連記録は第14回外交記録公開で公開された外務省記録「本邦諸外国文化交換関係雑件」に綴られています。
 新渡戸ガーデンは現在もUBC構内にあり、2009年には、天皇皇后両陛下が訪れるなど、日加親善の場となっています。

(注)加奈陀=カナダ

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Question
 満蒙開拓青少年義勇軍(昭和10年代に国家的政策として推進された青少年農業移民の組織ならびにその運動)に関する記録はありますか。

Answer

 関係文書が外務省記録「本邦移民関係雑件 満州国ノ部」ほかにあります。

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Question
 1936年(昭和11年)のモンゴル人旗長の訪日に関する史料はありますか。

Answer

 外務省記録「外国人渡来関係雑件 視察団ノ部」に関連史料があります。
 満州国興安四省及び吉林省内蒙古のモンゴル人旗長(「旗」は地方の行政単位)からなる16名の視察団一行は、各都市の行政制度と文化施設などの視察を目的に、1936年4月に来日しました。
 一行は、4月9日に首都新京(現在の長春)を出発し、12日に大連を出港、15日に神戸港に到着しました。最初に訪問した京都では比叡山や清水寺などの仏閣を訪問し、東京では、三里塚御料牧場や農事試験場、横須賀軍港などを見学しました。
 その後一行は再び関西地方に向け出発、高野山や宮島を訪れた後、4月29日に下関から釜山に向けて出港しました。

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Question
 耐氷型貨物船ボロチャエベツ号のソ連への引渡しに関する記録はありますか。

Answer

 1936年(昭和11年)、日本の造船所がソビエト連邦から3隻の耐氷型貨物船を受注し、そのうちの1隻が「ボロチャエベツ号」と名づけられました。しかし、同造船所が契約を破棄し、同船がソ連側に引き渡されなかった結果、国際裁判になりました。外務省記録「外国船舶建造並修理方本邦へ依頼関係雑件」には、この間の経緯を記した記録が含まれています。
 ちなみにボロチャエベツ号は、その後、「地頭丸」、「宗谷」と名を変え、戦後は南極観測船として活躍しました。

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Question
 フランスにおける柔道創始者の一人として知られるフィールデンクライス博士は、戦前に日本の駐フランス大使を務めていたスギムラという人物の協力を得たそうです。柔道を得意としたスギムラという大使が本当にいたのですか。

Answer

 フィールデンクライス博士に協力したスギムラ大使とは、1937年(昭和12年)4月に駐フランス大使に就任した杉村陽太郎大使のことだと思われます。杉村大使は講道館で嘉納治五郎の薫陶を受け、柔道六段の腕前で、柔道の得意な外交官として有名でした。また、杉村は長年国際連盟の事務次長として、多くの国際紛争の解決に活躍し、駐イタリア大使の後駐フランス大使に就任しました。しかし、病を得て1938年(昭和13年)1月には帰国を余儀なくされ、同4月に亡くなり、外務省では、彼の多大な功績に対して外務省葬を執り行いました。その関係記録として「本邦人弔葬関係雑件 杉村陽太郎葬儀関係」があります。

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Question
 1937年(昭和12年)の秩父宮のヨーロッパ訪問に関する記録はありますか。

Answer

 秩父宮雍仁親王(やすひとしんのう)は、ジョージ6世の戴冠式に昭和天皇の名代として参列するため、1937年3月、同妃とともに横浜を出港、カナダ、アメリカを経由してイギリスを訪問しました。戴冠式(5月12日)に出席後、予定では欧州各国を周遊することになっていましたが、体調不良から大幅に予定を変更し、7月中旬までロンドンに滞在した後、9月上旬までスイスに逗留、帰途ドイツを巡遊し、イギリス、カナダ経由で、10月15日に東京に帰りました。この間、9月13日にはニュルンベルグにおいてドイツのヒトラー総統と会見しています。これらの関係文書は、外務省記録「各国皇帝即位関係一件 英国ノ部 ジョージ第六世戴冠式関係」などにあります。

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Question
 昭和戦前期にイエメンの王子が来日した時の記録を探しています。

Answer

 外務省記録「各国名士ノ本邦訪問関係雑件「イエーメン」国人ノ部」に関係記録が収められています。
 1938年(昭和13年)5月、東京の代々木に完成したイスラム教寺院の落成式典に参列するため、イエメンから国王の代理として第三王子フセイン(Prince Seif el-Islam el-Hussein)が来日しました。当時日本とイエメンとの間には基本的な条約関係はありませんでしたが、日本政府は、対イギリス・対ソ連政策との関連でもイスラム教国との友好関係が緊要であるとの見地から、フセイン王子一行を政府の賓客として接遇しました。
 日本滞在中、王子は各地を視察するとともに、1938年6月の宇垣一成外務大臣をはじめ要人と精力的に会見し、日本とイエメンの国交親善に尽くしました。
 フセイン王子は、1939年(昭和14年)1月に日本を去りました。その後、パレスチナでの会議に出席するためエジプトに滞在していたフセイン王子は、表敬に訪れた横山正幸駐エジプト公使に対し、「日本ノコトハ一生忘レ難シ」と、訪日の感想を述べています。

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Question
 1938年(昭和13年)のヒトラー・ユーゲント来日に関する史料を探しています。

Answer

 外務省記録「各国少年団及青年団関係雑件」に主要な史料が含まれています。
 ドイツ・ナチス党の青少年組織であるヒトラー・ユーゲントの一行30名は、1938年8月16日、横浜港より入国し、11月12日に神戸港から出国するまで89日間にわたって日本に滞在しました。このヒトラー・ユーゲントの来日は、日独防共協定の締結(1936年)を契機に、両国親善の促進を図ることを目的に日独青少年団交歓事業の一環として実現したものです。日本滞在中、一行は近衛文麿首相をはじめ文部・外務・陸軍・海軍の各大臣と接見したほか、富士登山(8月20~21日)や全国青少年団連合歓迎大会(於:神宮外苑、9月28日)への出席など各種行事をこなしました。また、8月28日から9月12日までは東北地方・北海道を、10月2日から11月12日までは東海・近畿・中国・九州地方を視察旅行し、各地で歓迎を受けました。同記録にはこれら訪問先での一行の動静に関する各道府県からの報告などが綴られています。
 また、一行の日本滞在中には上海と青島に在留するヒトラー・ユーゲントの代表団12名も日本に招待され、奈良・京都では一行と行動を共にしました。同記録には、彼らの使用した鉄道チケットが残されています。
 なお、ヒトラー・ユーゲントの来日と前後して、日本からは訪独青少年団がドイツを訪問しており(同年7月から11月)、11月12日には、帰国したばかりの日本側青少年団と帰国直前のヒトラー・ユーゲント一行との間で交歓会が開催されました。

(写真)ヒトラー・ユーゲントが使用した鉄道チケット
ヒトラー・ユーゲントが使用した鉄道チケット

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Question
 戦前の日本における対ユダヤ人政策の基本をなしたと言われる「ユダヤ人対策要綱」に関する史料はありますか。また、同要綱に関する説明文はありますか。

Answer

 1938年(昭和13年)12月6日に五相会議(首相、蔵相、外相、陸相、海相により構成された当時の最高国策決定機関)で制定された同要綱は、戦前期日本の対ユダヤ人政策の基本方針を定めたガイドラインで、当時日本の友好国であったドイツにおいてユダヤ人が迫害されている状況にあったにもかかわらず、ユダヤ人を他の外国人同様公正に取り扱うことなどが明記されています。同要綱の内容は、制定の翌日12月7日に有田八郎外相より主要在外公館に電報で伝えられました。この電報の起案文書が外務省記録「民族問題関係雑件 猶太[ユダヤ]人問題」(第5巻)に残っています。また、同要綱の解説文はワシントン・ホロコースト博物館で2000年(平成12)から翌年にかけて開催された展示会「Flight and Rescue」の図録に記述されています。

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Question
 第2次世界大戦中のリトアニアでユダヤ系避難民にビザを発給したことで知られる外交官、杉原千畝について教えてください。

Answer

 杉原千畝(すぎはら・ちうね、1900~1986)は岐阜県に生まれ、早稲田大学在学中に外務省留学生試験に合格し、外務省に入省しました。外務省では、若くしてソ連の経済状況を詳述した報告書(「『ソヴィエト』聯邦国民経済大観」)をまとめるなど、ソ連の専門家として活躍し、また、一時移籍した「満州国」外交部では北満鉄道譲渡交渉をはじめとする対ソ交渉等に従事しました。その後、情報部第一課、在フィンランド公使館勤務を経て、1939年(昭和14年)より新設の在カウナス領事館に副領事(領事代理)として赴任しました。1940年(昭和15年)7月、ソ連によるリトアニア併合が確定的となるなか、通過査証(ビザ)を求めて日本領事館に大挙して押し寄せるユダヤ系の避難民に対して、杉原は2000通以上ビザを発給し、これら人々が国外へと脱出する手助けをしました。戦後、杉原のこうした行為は様々な形で讃えられており、1985年(昭和60年)にはイスラエル政府より、ユダヤ人を救った外国人に与えられる「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・ヴァシェム賞)」が授与されています。
 杉原に関する史料として、先述の「『ソヴィエト』聯邦国民経済大観」のほか、ユダヤ系避難民へのビザ発給に関する記録(外務省記録「民族問題関係雑件 猶太人問題」所収)などを所蔵しています。また、彼の活動を示した展示も行っています。

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Question
 1939年(昭和14年)にサウジアラビアを訪れた三土技師の報告書はありますか?

Answer

 1939年、日本とサウジアラビアとの間の修好条約締結交渉のため横山正幸駐エジプト公使一行がサウジアラビアに出張しましたが、一行はその際に見聞した諸事実などをもとに、同国の政治、外交、経済、教育、風俗習慣などに関する詳細な報告書を作成しました。
 三土技師とは、石油その他の鉱物資源調査のため、横山公使一行に随行した三土知芳(みつち・ともよし)商工技師のことで、三土は1939年5月付で「『サウード、アラビア』国ニ於ケル石油『コンセッション』問題」という報告書を日本政府に提出しました。同報告書は、サウジアラビアの石油事情及び同国と日本との石油利権交渉問題につき詳細に記述しており、外務省記録「南米其他ニ於ケル帝国ノ利権問題関係雑件 鉱山関係」に含まれています。

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Question
 宮下玉吉という外交官に関する記録はありますか。

Answer

 宮下玉吉は南京総領事館に書記生として勤務していました。1939年(昭和14年)6月10日、視察で南京を訪れた外務政務次官を囲み、総領事館の官邸で中国側要人を招待した宴会が開かれました。この席で酒に毒が盛られる事件が発生し、大騒ぎとなりました。宮下書記生は同僚の船山巳之作書記生とともに、毒を受けた体をかえりみず来客の介護に当たり、一同を危地から救いましたが、自らは手遅れとなり、二人は同夜半に相次いで亡くなりました。犯人は官邸に雇われていた中国人で、騒ぎが起こったときにはすでに逃げていました。この事件の記録は外務省記録「支那事変関係一件 南京総領事館ニ於ケル中毒事件」にあります。また詳しい経緯は外務省編『外務省の百年』下巻に書かれています。

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Question
 昭和戦前期に日系二世養成のために設立された「敝之館」に関する記録はありますか。

Answer

(写真)敝之館の印影
敝之館の印影

 外務省記録「本省職員養成関係雑件」に関係記録が含まれています。
 敝之館(へいしかん)は、海外(主に米国)生まれの日系二世に対して2年間にわたり日本語や日本事情を学習させて、将来的な対外宣伝と通信事業に従事する人材を養成することを目的に、外務省情報部長の河相達夫が中心となって、同盟通信社と満鉄の協力を得て東京中野に設立された施設です。1939年(昭和14年)夏に募集を開始し、同年12月1日に第1回生16人が入校しました。
 敝之館では日本の歴史地理や文化、政治経済、習字、翻訳などについて学習するとともに、実地見学として樺太・北海道から九州・沖縄・台湾までを視察旅行するなどの活動を行いました。1941年(昭和16年)には、第1回生の成績が「頗る良好」であったとして2度目の募集を開始しましたが、日米関係の悪化により北米からの希望者が集まらず、東南アジア方面でも募集が行われました。その後、戦時中も敝之館は存続し、1945年(昭和20年)4月に第5回生が入校しましたが、同年8月の終戦により閉鎖となりました。敝之館の学生・卒業生の一部には、海外放送・通信の傍受などを目的に設置された「外務省ラヂオ室」の設立、運営に深くかかわるものもいました。
 なお、「敝之館」の名称は、『論語』「公治長篇」の「願車馬衣軽裘、与朋友共、敝之而無憾(願わくは車馬衣軽裘を、朋友と共にし、之を敝りて憾む無からん)」(現代語訳:車馬や着物や毛皮の外套を友人たちと共有し、それが破れ損じたとしても、うらめしく思ったりしないようにしたい)に由来しています。

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