外務本省

外交史料 Q&A
昭和戦後期

1950年代(昭和25年~34年頃)

Question
 コロンボ・プランに関する記録がありますか。

Answer

 1950年(昭和25年)、コロンボ(現在のスリランカ)で開催された英連邦外相会議において、アジアおよび太平洋地域の国々の経済・社会開発を促進することを目的とする協力機構の構想が提唱されました。これがコロンボ・プランです。その後多くの国々が参加し、数々の技術援助協力を実現しました。日本も1954年(昭和29年)に加盟しています。この関係文書は外務省記録「コロンボ・プラン関係一件」にあります。

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Question
 1951年(昭和26年)1月から2月にかけて訪日した米国のダレス特使が吉田茂首相と日本の再軍備問題について話し合った記録はありますか。

Answer

 第7回外交記録公開で公開された外務省記録「対日平和条約関係 第一次ダレス来朝関係(第一次交渉)」に関係記録が含まれており、そのうち主要な文書は『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 対米交渉』に収録されています。
 1951年(昭和26年)1月25日、羽田に到着した米国のダレス(John Foster Dulles)特使一行は、2月11日に離日するまで三度にわたって吉田茂首相と会談しました。このうち第二回目の会談(1月31日)でダレス特使は、安全保障問題に関して、米軍駐留による日本防衛を示唆しつつ日本もまた再軍備を進め自由世界の防衛に貢献するよう促しました。これに対して吉田首相は日本が再軍備することに消極的な姿勢を示し、ダレス使節団の失望を招きました。こうした状況を打開するため、日本側はその後の事務レベル折衝において、5万人からなる「保安隊(security forces)」の設置や将来の参謀本部に発展すべき「自衛企画本部(Security Planning Headquarters)」を創設するとした文書(「再軍備の発足について」)などを米国側へ提出し、これにより交渉が実質的に進展しました。その結果、2月9日、井口貞夫外務次官とアリソン(John M. Allison)公使により関連文書への「イニシアル(署名)」が行われ、これらの文書は後の平和条約、日米安全保障条約および日米行政協定の基礎となりました。
 なお、以上の経緯については、平和条約交渉において日本の事務方として中心的な役割を果たした西村熊雄条約局長がまとめた調書が『日本外交文書 平和条約の締結に関する調書』(全5冊)として公刊されています。

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Question
 日本がサンフランシスコ平和条約を受諾したときの吉田茂首相の演説原稿はありますか。

Answer

 外交史料館では、1951年(昭和26年)9月7日に吉田茂首相がサンフランシスコのオペラハウスで行った、サンフランシスコ平和条約の受諾演説原稿を所蔵しています。
 吉田首相は当初、英語で演説を行うつもりでしたが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために日本語でするほうが良いだろうとの米国側からの提案に従い、当日になって、急遽日本語で演説することとしました。そのため、演説原稿の作成は、数人が手分けして、大慌てで巻紙に日本語演説を書き写し、それを議場で繋ぎ合わせるという時間ギリギリの作業となりました。当時の関係者は、巻紙の繋ぎ合わせの順序に間違いがあったらどうしようかと気になったとの感想を残しています。
 ちなみに、吉田首相は、議場にいる者は誰も日本語がわからないと判断し、終わりのほうは一節とばして読みましたが、終了後に演説が日本にも放送されていたことを知って、「そんならもっとうまくやるんだったのに」と後悔したと言われています。
 また、受諾演説原稿は全長が30メートル近くもあり、議場にいた外国人の記者はその形状をみて「トイレットペーパーのようだ」と評しました。
 この演説原稿の作成については、『日本外交文書 平和条約の締結に関する調書』第4冊に関係文書が収録されています。

(写真)サンフランシスコ平和条約受諾演説原稿
サンフランシスコ平和条約受諾演説原稿

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Question
 「対日平和条約」の条文、議定書、宣言文を英文で掲載している史料はありますか。

Answer

 1951年(昭和26年)9月8日にサンフランシスコで調印された「対日平和条約」には、契約、時効期間、流通証券、保険契約の問題に関する「議定書」と、1939年(昭和14年)9月1日に日本が当事国であったすべての多数国間条約の効力を承認すると同時に、平和条約発効後1年以内に日本が加入を約束する多数国間条約を列挙した日本の「宣言」並びに日本の領域内にある当該国の墓地に関して連合国側と交渉を開始する旨を述べた日本の「宣言」が付随しています。
 「対日平和条約」をはじめ、上記各文書の英文は、外務省編『日本外交文書』「平和条約の締結に関する調書」第五冊に掲載されているほか、第7回外交記録公開で公開された記録中の「サン・フランシスコ対日講和会議関係議事録及び関係文書集(欧文)」に記載されています。

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Question
 日本は、対日平和条約発効後に国際連合への加盟を申請したそうですが、その際の申請書は残っていますか。

Answer

 1952年(昭和27年)4月に対日平和条約が発効し、その後日本政府は国際連合への加盟を希望し、6月4日の国会の承認を経て、6月23日付で当時の岡崎勝男外務大臣名で国際連合事務総長宛に申請書を提出しました。外務省記録「日本の国際連合加盟関係一件 国連第7総会における加盟申請」(第1巻)に申請書の写しが残っています。
 なお、52年段階の日本の申請は、安全保障理事会においてソ連が拒否権を発動したため、却下されました。実現は、日ソ国交回復後の1956年(昭和31年)になりました。

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Question
 1953年(昭和28年)に、当時の皇太子がエリザベス女王の戴冠式に出席するため訪英した際の記録を探しています。

Answer

 第13回外交記録公開で公開された外務省記録「皇太子継宮明仁親王殿下御外遊一件 英国エリザベス女王戴冠式御出席」に関連記録があります。
 昭和天皇の名代としてエリザベス英国女王の戴冠式に出席することとなった明仁皇太子は、1953年(昭和28年)3月30日、プレジデント・ウィルソン号で横浜港を出発し、ハワイやサンフランシスコ、バンクーバー、オタワ、ニューヨークなどを経由して、4月27日に英国に到着しました。英国で皇太子は、エリザベス女王やチャーチル首相と会談しました。エリザベス女王との会談では、会話をリードするほど流暢かつ積極的な英語を披露し、また、耳の遠くなったチャーチルに顔を寄せて話す様は、「孫が御祖父さんと会話をしているような和やかさがあった」と記されています。
 ただし、当時はまだ戦争の傷跡が深く、英国内には日本に対する厳しい見方もありました。そのため、当時の記録は、皇太子の英国訪問を日英関係親善に大げさに結びつけるようなことは「甚だしくリアリスティックでない」と論じる一方で、日英関係を立て直す上で目に見えない一つの礎石を置いたことなどに意義があると評価しています。
 6月2日のエリザベス女王の戴冠式に出席した皇太子は、フランス、スペイン、スウェーデンなどを訪問した後、再び米国に渡り、ワシントン、ボストン、ロサンゼルスなどを経て、同年10月12日に帰国しました。7カ月以上に及ぶ旅行の間、訪問した国は14カ国にのぼります。

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Question
 1954年(昭和29年)に被爆した第五福竜丸の「航海日誌」、「航海図」および「漁撈日誌」はありますか。

Answer

 これら日誌類をもとに経緯をまとめた文書は外務省記録「第五福竜丸その他ビキニ原爆被災事件関係一件」にありますが、日誌類そのものはありません。なお、「航海日誌」は第五福竜丸展示館(江東区所在)にあります。

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Question
 1954年(昭和29年)の吉田茂首相の欧米諸国訪問に関する記録はありますか。

Answer

(写真)吉田 茂
吉田 茂

 第11回外交記録公開で公開された外務省記録「吉田総理欧米訪問関係一件(1954.9)」に関連記録が含まれています。
 吉田茂首相は、1954年(昭和29年)9月26日、米国、カナダ、英国、フランス、西ドイツなど欧米7カ国を歴訪する外遊に出発しました。英国では、エリザベス女王に拝謁したほか、戦前から旧知のイーデン外相と会談し、貿易問題、戦犯問題、中ソ関係などにつき議論を交わしました。
 また、米国でのアイゼンハワー大統領との会談では、日本、米国、英国などによる国際的な対共産主義機関の設置を提案したほか、記者クラブでの演説では、米国資本40億ドルを東南アジアの経済開発に投入する「東南アジア・マーシャルプラン」構想を打ち上げました。しかしながら、この構想については、ダレス国務長官が吉田首相との会談で、「米国としてはかかる巨額を融通することできざるのみならず、(中略)遺憾ながら東南ア諸国の実状が40億ドルに上る融投資に適格なりとは申難し」と述べて、にべもなく却下されました。
 吉田首相は11月17日に帰国しましたが、国内を留守としている間、政界では激しい権力闘争が繰り広げられており、翌12月7日には内閣総辞職を余儀なくされました。

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Question
 1955年(昭和30年)に開催されたアジア・アフリカ会議に関する史料はありますか。

Answer

 第10回外交記録公開で公開された外務省記録「アジア・アフリカ会議一件」に関連記録が含まれています。
 アジア・アフリカ会議は、1955年4月に、ビルマ(現在のミャンマー)、セイロン(現在のスリランカ)、インド、インドネシア及びパキスタンからなる「コロンボ・グループ」の提唱によりインドネシアのバンドンで開催されました。開催地の名をとって「バンドン会議」とも呼ばれています。この会議には、独立間もないアジア・アフリカ諸国など29カ国が参加し、インドのネルー、中国の周恩来、インドネシアのスカルノらが一堂に会しました。日本からは高碕達之助(たかさき・たつのすけ)経済審議庁長官が代表として参加しています。会議では、経済協力や文化協力のほか、基本的人権と国連憲章の尊重、全ての国の主権と領土保全の尊重、内政不干渉など、いわゆる「平和10原則」を提起した宣言を含む最終コミュニケを打ち出しました。
 なお、1965年には第2回アジア・アフリカ首脳会議をアルジェリアで開催することが予定されていましたが、同国でのクーデター発生など情勢変化により開催延期となりました。この間の経緯については、第20回外交記録公開で公開された外務省記録「第2回アジア・アフリカ会議関係」に関係文書が含まれています。

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Question
 日本とフィリピンとの賠償交渉に関する記録はありますか。

Answer

 第15回および第19回外交記録公開で公開された外務省記録「日本・フィリピン賠償交渉関係一件」に、1952年(昭和27年)の予備交渉開始から1956年(昭和31年)5月の賠償協定調印までの日本とフィリピンとの交渉過程などに関する文書が収められています。
 太平洋戦争中に日本軍によって大きな被害を受けたフィリピンは、サンフランシスコ平和条約の調印前から80億ドルの賠償を要求するなど、日本に対し賠償請求を強く主張していました。その結果、日本が独立を回復した直後から、日本とフィリピンとの間で賠償交渉が行われましたが、賠償額や両国国会での反対論を前に交渉は難航しました。しかし、度重なる交渉の結果、1956年5月9日に日本側全権の高碕達之助(経済企画庁長官)らとフィリピン側全権のフェリノ・ネリ(Felino Neri)大使らとの間で、賠償5億5千万ドル、経済協力2億5千万ドル(総額8億ドル)からなる日比賠償協定が調印されました(同年7月23日発効)。

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Question
 日本が国際連合に加盟した際の重光外相の受諾演説文は公開されていますか?

Answer

 重光葵(しげみつ・まもる)外務大臣の受諾演説文(和文、英文)は、第10回外交記録公開で公開された外務省記録「日本の国際連合加盟関係一件 正式加盟関係」で全文公開されています。
 日本は、サンフランシスコ平和条約の発効直後に国際連合に加盟を申請し、1956年(昭和31年)12月18日、国連総会で加盟が承認されました。その際、日本政府代表の重光外相は演説を行い、各国に対して「深甚なる謝意」を表明するとともに、日本が「東西のかけ橋」としての責任を有する旨を述べました。

(写真)重光 葵
重光 葵

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Question
 1957年(昭和32年)に生じた西イリアン(西ニューギニア)の帰属をめぐるインドネシアとオランダの紛争に関する記録はありますか。

Answer

 外務省記録「西イリアン問題関係一件」(26冊)が公開されています。

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Question
 ラーマン(Tuanku Abdul Rahman Putra)マラヤ連邦首相が1958年(昭和33年)に訪日した時の写真を探しています。

Answer

(写真)歓談する岸首相(左)とラーマン首相(右)
歓談する岸首相(左)とラーマン首相(右)

 第11回外交記録公開で公開された外務省記録「国賓訪日記念写真アルバム ラーマン・プトゥラ マラヤ連邦首相」に、ラーマン首相が1958年5月21日から27日まで訪日した際の写真が収められています。アルバムの中には、宮中での天皇陛下への謁見や岸信介首相との会談、芦ノ湖遊覧や国立競技場で第3回アジア競技大会を観戦する様子など、日本滞在中のラーマン首相の様々な活動を伝える写真が数多く含まれています。
 ちなみに、このときの岸首相とラーマン首相との首脳会談では、主に日本・マラヤ連邦間の経済面での関係強化が討議されました。ラーマン首相が「日本人は勤勉であるが、その生産品の市場に困難を感じていると思われるので、マラヤとしては出来る限り日本のためにかかる機会を供与したい」との考えを示したのに対し、岸首相も「機械及び開発資材の輸出を通じて日本はマラヤの経済開発に貢献できると考えており、自分としては両国の経済的関係が相互補完の関係になるよう持って行きたい」と応じています。この岸首相とラーマン首相との会談記録は、第11回外交記録公開で公開された外務省記録「マレイシア要人(マラヤ連邦要人を含む)本邦訪問関係雑件 トゥンク・アブドゥル・ラーマン・プトウラ首相関係」に含まれています。

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Question
 1959年(昭和34年)、キューバからの親善使節としてチェ・ゲバラが来日したというのは本当ですか。

Answer

 本当です。第17回外交記録公開で公開された外務省記録「米州諸国特派使節及び親善使節団本邦訪問 キューバの部」に関係記録があります。
 エルネスト・ゲバラ(Ernesto Guevara:通称チェ・ゲバラ)は、キューバのカストロ首相の特使として使節団を率いてアジア諸国を巡り、その間の1959年7月15日に日本を訪れました。使節団の日本での目的は、経済状況の視察と、日本・キューバ間の貿易増進の可能性を探ることでした。
 ゲバラ特使は滞日中、両国の貿易増進に向けて池田勇人通産大臣と会談し、外務省の当局者とも数回の非公式協議を行いました。協議内容は日本の繊維品に対する高関税率の是正、貿易不均衡の解消、日本・キューバ間の通商協定締結交渉などで、この時の交渉は、翌1960年(昭和35年)の通商協定締結の土台となりました。
 ゲバラは7月22日以降関西方面へも足を伸ばし、大阪や広島を訪れた後、同27日、日本を去りました。

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Question
 1959年(昭和34年)から始まった在日朝鮮人の帰還事業に関する記録がありますか。

Answer

 外務省記録「太平洋戦争終結による旧日本国籍人の保護引揚関係雑件 朝鮮人の部」の中に関係文書があります。

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Question
 戦後の日本と香港との関係を示す記録はありますか。

Answer

 第11回、第13回および第14回外交記録公開で公開された外務省記録「日本・中共関係」、「日本・中共関係雑件」、「香港経済関係雑件」、「英領殖民地事情 香港の部」、「中共事情半月報(香港)」、「チャイナ・グループ研究会一件(在香港各国領事研究会)」などに、1950年代から60年代における日本と香港との関係を示す文書が収録されています。
 これらの記録には、香港の政治・経済情勢に関する分析や、中国大陸の動きについての在香港総領事館からの調査報告などが含まれています。

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