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第5章 公開情報の共有
「今度のことで勇気付けられたのは、IYCCが国連を通じて低開発諸国のためにフォーラムの場を提供し、低開発諸国の進展状況を人々に知らしめてくれたことである。もっとも、IYCCのウェブサイトに現れている低開発諸国の進展状況の正確性については、世界の半分が疑っていたのであるが。(南アフリカの国別Y2K調整官、ツエツィ・マレホ)
Y2K問題の性格と広がり、それが社会と経済に及ぼす潜在的な影響力、この問題に取り組むための手段と方法、さらにはこの問題に対する各国の準備状況といったことについての情報は、年間を通じて絶えず変わってきた。確かに相当量の情報がそれぞれの分野において入手可能となったものの、こうしたY2Kの公開情報の質(つまり、公開情報が手に入るのかどうか、情報が信頼出来るのかどうか、さらには情報がしかるべき時に発信されるのかといったこと)については、非常にばらつきがあった。IYCCは各国調整官を支援し、かつ一般大衆に対して情報を提供する目的において、上質の公開情報を収集して発信するよう鋭意努力してきた。
Y2Kに関して各国の準備状況をはっきりさせ、その結果を予測しようとする試みは、1999年が進むにつれてますますはっきりした活動となった。しかし、1999年の終わりになってもなお、Y2Kに関する各国の実際の準備状況やY2Kに起因する障害社会に対して及ぼしうる影響についても、大きな見解の相違があった。こうした見解の相違は公的予測と民間予測の両方で生じた。公的予測の方では、何かにつけて能弁で目に付きやすいが、Y2K障害により基本的なサービスに対して広範囲にわたり深刻な混乱が生じるという予測を立てた。このような予測を行った人々に対して、コンサルタントや各国政府による、相対的により注意深くはあるが、依然として概して否定的な予測が加勢した格好である。例えば、アメリカのCIA(アメリカ中央情報局)は1999年10月の公聴会において、「国家的レベル及び地方レベルでY2Kに対して統一的に対処していない欧州やアジア地域では、高圧送電線網の一部が送電停止状態になる恐れがある」(注:15)と予測した。こうした否定的な見解が広がる中で、1999年半ば以降は次第に、逆にY2K問題はきちんと処理されていると言って、世間を安心させるよう注意がなされるようになった。
注15:1999年10月13日、アメリカ上院の「2000年における技術的問題に関する特別委員会」において行われた、ローレンス・ガーシュウィンの証言。
公開情報の役割に対する理解はゆっくりと進んだ。1998年12月の国連会議においては、情報への配慮に関して、プロジェクト管理と準備体制を作る上で最良の実例をどのように共有しかつ普及させるのかということに焦点が当てられた。そして、1999年6月の国連会議では、より外向的な観点がこれに加わることになった。危機管理計画に最良の実例に関する議論に加えて「公開情報及び公衆の信頼感」の問題に本会議全体がわりあてられた。この本会議では、国別調整官がそれぞれの公共業務に関する計画を説明するとともに、世界的ニュース配信機関の代表も、彼らがどのようにY2Kについて報道するかを説明した。1999年の終わりの数ヵ月間においては、小渕のコミュニケーションが次第に重要になって行った。Y2Kへの対応は多くの場合うまく進行していたし、危機管理計画もきちんと策定されていた。ところが、国内世論も国際世論も、Y2Kへの対応状況について疑念を持ちつづけたのであった。こうした世間の不安心理は、全体的にはY2Kへの対応が出来ている事実よりも、Y2Kによって起こり得る問題に焦点を当てがちなメディアの報道によって増幅された。この点、ある東欧の調整官をして、「いいニュースはニュースではないの」と言わしめたほどである。
そのため、多くのY2K調整官は自らの主たる任務として、一般大衆を含む各利害関係者に対して、情報を提供する仕事に取り掛かったわけである。
ベネズエラの国営石油会社、「ベネズエラ石油株式会社」(PDVSA)の例は、公開情報がますます重要になってきていることの一例として役に立つものである。PDVSAはたてわりな統合形態を取る大きな石油・ガス会社であり、現在13ヵ国で操業している。1998年度において、当社の売上高は257億ドルで、当社は750億バレルの石油を保有して、22隻の海洋タンカーを運行させた。PDVSAは、1998年の初頭にはY2K問題に取り組み始めた。そして、PDVSAは1999年6月までには、あらゆる実務的レベルにおいて、自らの施設におけるY2Kへの対応のための修正を終えていたのみならず、重要な供給者と地域的インフラ・サービスのための、総合的リスク軽減プログラムを軌道に乗せていた。しかしそれでも、当時の主要な公的指標と民間指標によると、ベネズエラ経済の石油部門は「高リスク」と評価されていたのである。PDVSAは、投資家や顧客が、会社の財務面への関与増大によって感知したリスクを減らそうとするかもしれない可能性があることに気が付いた。そこで、PDVSAは会社のY2K調整官であるイワン・クレスポ氏に主要国を回らせて、PDVSAのY2K問題への取り組み状況を説明させた。当社のY2Kへの優れた対応プログラムと、この問題に関するクレスポ氏の深い知識のおかげで、相手に対して強い印象を与えることが出来たのである。例えば、クレスポ氏は相手に対するブリーフィングにおいて、当社がどのように石油精錬所における制御システムをテストし、その結果、高度システムが2000年の前と後のどちらに日付を変更しても正常に動いたものの、これが正常には「ロールオーバー」しなかったことを発見した経緯を説明した。ともあれ、当社の基本的な制御システムは(日付変更の)を通じて正しく作動するはずである。さらに、石油精製所は、それにより生産効率が若干悪くなるとしても、基本的な制御システムを使うだけで満足に作動するはずである。そこで、PDVSAは2000年の前と後のいずれかに日付を設定した上で、数時間の間だけ高度システムを止める計画を立てた。石油精製所の各自動制御システムのテスト結果を示す報告書も入手可能であった。外部に依存する点については、PDVSAは国中にある多数の電力(供給者)と、各々のY2Kプログラムをモニターするために、2週間ごとに会談する計画を説明した。また、PDVSAが予備電力を確保していたところもあった。起こり得る第3の問題領域に対処するため、PDVSAは、会社の保健プランの下で心氓フペースメーカーを受け取った現従業員と前従業員の全てと実際にコンタクトして、それらの心臓ペースメーカーにY2K問題によるトラブルが起きていないことを確認していた(注:16)。
こうした情報の多くが、PDVSAのインターネットのウェブページで入手可能であった。このように、PDVSAのY2Kへの対応プログラムの底の深さと幅の広さのゆえに、大部分の厳格な識者も、ベネズエラの石油が2000年の日付変更以降もスムーズに湧出し続けるだろうと納得したわけである。
注16:全てのペースメーカーは正しく作動するはずであるが、製品の中には、ペースメーカー・モニターに対して正確に作用しないものもある。
IYCCが一般に対して情報を公開した一方、他のY2K情報は公開されず、企業や政府の間で私的な形で流布していた。IYCCはそうした情報をよく見ていたわけではないが、民間のY2K対応情報(例えば「グローバル2000」))の質は、公的ソースから入手できる情報の質と大差なかったと思われる。ツールや方法の領域においては、個々のシステムにおいて実際に何を設定する必要があるかに関して、Rx2000データベースのような民間産業界独自のソースの方がより詳しい情報を持っている場合には、民間の情報ソースにアクセスできる者は多少とも有利な立場を得たのである。
IYCCの主たる活動としては、各国調整官同士の交流及び、各国調整官とY2K専門家との間で交流を図るとともに、あらゆる次元でY2K問題に取り組むために必要とされる良質な情報を提供することにあった。Y2Kへの対応に関する最良の実例を共有することがこうした活動の鍵であったが、この点は第2章において触れた通りである。これに加えて、各国のY2Kへの準備活動や対応体制に関して、国境を超えた体系的情報共有を図ることにより、互いの信頼感を築く必要があった。
こうした情報の共有は当初各国間の非公式の交流として始まったが、次第に公開情報を普及させる役割へと進展を遂げて行った。すなわち、Y2Kへの対応が目下順調に進んでいるのだということについて人々の信頼感を高める目的において、国際的なY2Kの取り組みの進捗状況を世界に対して知らせる役割である。
最後に、IYCCは公開情報システムを開発・運営することで、実際の2000年への日付変更状況をモニターするとともに、世界中におけるY2K対応の成功例とY2Kに関わる問題点を人々に対して知らせるようにしたのである。
国別、地域別、部門別の調整官の間に信頼感を築くために、IYCCがY2K対応情報に関する標準化システムを創ったおかげで、各調整官は非公式に情報を共有できるようになった。IYCCはメキシコ統計省大臣、カルロス・ジャック氏との密接な協力関係の下に、Y2K対応調査を実施した。なお、カルロス・ジャック氏は、メキシコのY2Kを担当するするとともに、中央アメリカとカリブ諸国における、IYCCの調整官としても活動した。この調査報告は1999年5月に発表され、1999年6月の国連会議に先立って各国調整官より補完されることになった。この調査の目的とするところは、各国と各地域においてなお実行しなければならない作業が何なのかを特定することにあった。そうすることで、こうした重要分野に対して適切に注意を向けるとともに、適切な資源をわりあてることが可能となりえたのである。
この調査報告書は5つの項に分かれている。初めの2項は連絡先情報を提供するとともに、政府のY2Kプログラムの構成について説明している。第3項と第4項では、Y2Kに関わる各国別と国際的なインフラの準備状況について詳述している。各国調整官の方は、Y2K対応のための修正とテストの各局面を既に完了したか、又は完了する予定の月がいつになるのかを示した。これに加えて、国別調整官はそれぞれのインフラがどこまでテクノロジーに依存しているのかについての情報及び、このテクノロジーが現地のものか、又は外国から導入されたものなのかに関する情報を提供した。最後の項では、各国が自らすすんで隣国を支援できるようにしている。それから、後になって2つの項が追加され、そこにおいて危機管理計画や緊急対応計画策定状況に関する情報提供を促している。この調査報告書の写しと、地方レベルの代表的Y2K対応に関する報告は、付録Hに納められている。
各国調整官は、それぞれの調査を終えてその内容を更新した場合、安全装置を施したウェブページにログインして指定のボックスをクリックし、それから(または)当該分野の中に作成した文書を入力する仕組みを取った。ウェブページにアクセスできない各国調整官は、それぞれの調査結果を電子メールか、またはファックスで送付した。
この調査のおかげで、IYCCは次の3つの識見を得ることが出来た。第一は、ほとんどの国において、その国の状況に関する他国の評価を上回る形で、Y2Kへの備えが出来ていたことである。第二は、各国調整官が各国レベルでY2K問題を処理して、それぞれのY2K準備状況を迅速に報告しなければならないとした場合、各国調整官の中には、自国における重要インフラ・サービスの提供者へのアクセスをもっと改善する必要を感じていた者がいたことである。第三には、多くの国において、国境を超えた相互依存への理解が必ずしも十分でなかったことである。第一の点に対応して、IYCCは情報の共有をより重要視することにした。後の2つの点に対処するため、IYCCは、地域会合と情報共有プログラムに関して、強力な国別プログラムを策定するための最良の実例と、国境を超えた諸問題に対処するための危機管理計画をその焦点に据えることにしたのである。
IYCCでは上記の調査結果を踏まえた上で、1999年6月の国連会議に向けて、部門別Y2K準備状況を示すチャートを作成した。ニューヨークで開かれた各地域会合の場で討議された結果このチャートは、各会合の目標を達成する上で大変有用であることが分かった。こうした会合においては、内部リスクが何であるのかを特定してこれを管理すること及び、国別、地域別、及び部門別の適切な危機管理計画並びに緊急対応計画を発展させることに、今後の努力を傾注することになった。
IYCCは国別のY2K対応プログラムに対する一般の理解を高めるための4種類の情報をそのウェブページを使って提供した。IYCCは、各問題に一番近い筋から直接に得られる事実を知らせることが、Y2Kへの準備に関する実際状況を一般に知らせる最もよい方法と判断した。この場合核になっている前提は、一般大衆が今現実に何が起きているのかについての事実を把握したならば、どう行動すべきかについても、一般大衆が合理的に決定するであろうという考え方である。そこで、IYCCはまず、国別のY2K連絡先情報を単に公開することから始め、その後で調査データを公表し、さらには、各国のY2Kウェブページに関する情報を公表した。そして最終的には、IYCCは、国際的なY2K準備状況を要約した3つの文書を公表したのである。
連絡先情報
IYCCは、各国調整官に関するデータベースから直接情報を取るダイナミックなウェブページを考案作成した。1999年4月にIYCCがその門戸を開いたとき、国連と世界銀行は約120人の各国調整官の連絡先リストを互いに共有していたが、例えば肩書き、勤務先、住所、電話・ファックス番号、電子メールアドレスといった連絡先情報の完成度はまちまちであった。IYCCが最初に行ったことは、このリストを補充して各国の最も適切な連絡先がどこなのかを特定できるようにするとともに、必要となる全連絡先情報を確保するようにしたことである。
さらに重要なことであるが、IYCCが1999年5月に各国調整官の連絡先情報を公表した結果として、マスコミ、他国政府、企業、及び一般大衆が直接各国調整官に連絡して追加情報を求められるようになった。IYCCを通じて各種の要望が各国調整官の元に届くやり方に比較して、各国調整官が、懸念を抱いている人々と直接話が出来るようになったことは重要である。各国調整官の名前と連絡先情報を公表したことは、調整官の地位を高め、IYCCの活動における透明性を維持する上で、大いなる成功を収めたのである。
Y2K準備状況
各国調整官は1999年6月の国連会議において、国際的なY2Kニーズと相互依存に関する理解を高めるため、IYCCがY2K準備状況調査の結果を公表すべきであるという考えで一致した。この会議の後、72人の各国調整官は自らの調査内容を更新したり、危機管理計画や緊急対応計画に関して新たに出された質問に答えたり、あるいは、各国調整官の上記の考え方を支持する趣旨の調査をはじめて提出したりしたのであった。1999年8月には、IYCCはそのウェブサイトに調査結果を公表して、各国のY2K準備状況に関して、各国がそれぞれどのように自分なりにこれを説明すべきかを示唆した。IYCCとしては、こうした情報の提供により、国際的Y2K準備状況に対する一層現実的な理解が高まって、重要分野に対する各国の取り組みが強まり、さらには、利用可能資源の適切なわりふりが出来るようになることを望んだのである。IYCCは、Y2K関連事業アナリストらに向けた書簡において次のように記した。すなわち、「各国のY2K準備状況に関する評価を発表する者は、あらゆる情報源を利用する特別の責務を負うのである。IYCCは、各国においてY2K問題に取り組んできた人々から直接寄せられる生の情報をY2Kアナリストに対して提供すべく、今日行動を起こした次第である」
各国のY2K関連状況が急速に変化するのに伴い、調査報告ページはほとんど瞬時に更新されて、一般大衆が最新の情報にアクセスできることが確保された。1999年12月までに、127ヵ国がIYCCの対応調査を通じて、各国の状況情報を既に共有していた。この調査で報告された情報によって、かなりの作業が既に行われ、108ヵ国が1999年10月までに、最も重要な部門において大部分の準備を既に完了していたことが明らかになった。
結局、IYCCが、各国による報告を信頼したことが正しかった。自己報告調査は、多くの外部アナリストが公表した報告書よりも、一層正確で信頼できるY2K準備指標であることが分かったのである。
国別Y2Kウェブページ
上記の調査に加えて、IYCCは各国に対して、それぞれの国のウェブサイト上により詳細な情報を載せるように促した。IYCCが1999年4月初めにその門戸を開いたとき、たった24ヵ国程度の国しかY2Kウェブサイトを持っていなかったのである。
1999年8月初めに、IYCCは、107ヵ国のY2Kウェブサイトに対する評価を公表したが、そのうちの60ヵ国分が英語で書かれていた。IYCCは、各ウェブサイトに含まれる情報に関して、22を「高度に有益」、15を「いくらか有益」と判断したが、23は「限定的な」情報しか提供していないと見なし、47については英語以外の言語で情報を提供しているとした。87ヵ国はY2Kウェブサイトを持っていなかった。こうした評価を発出するに当り、IYCCは次のように注釈をつけた。すなわち、「Y2K対応情報を公開している国ほど、自国内と国際市場において公衆の信頼感を一層維持することになりやすい。情報がほとんど発出されないと、人々はコンサルタントの意見や噂に依拠して意思決定をすることになるだろう。そして、そんな時人々は、きちんとしたY2K問題に対する準備がまだ為されていないのだといった、最悪の事態を想定してしまうかもしれないのである」
1999年12月までに、113ヵ国が英語版ウェブサイトを開設していた。そして、さらに21ヵ国が自国の公式言語でウェブページを開いた。あらゆる国のウェブページは、IYCCのウェブサイトからアクセスすることが出来た。
要約文書
IYCCは3つの重要な評価報告書を公表し、自らのウェブサイト上にこれを載せて一般の注意を喚起した。この3つの報告書とは、「Y2K=その影響の構造」、「Y2Kへの準備=国際的準備状況」、及び「原子力とY2K」の3つである。これらの報告書の抜粋は付録Jにおさめられている。
有用かつ時宜を得た情報を公表することにより公衆の信頼醸成に成功したことに基づき、IYCCは信頼感を維持し、かつ、2000年への移行期における国際的なY2K状況についての、信用できる情報源として発言するに相応しい立場に立つことが出来た。この任務を遂行するため、IYCCは「国際状況監視」(GSW)を設立し、2000年への移行期の間はその情報共有戦略の焦点をGSWだけに絞った(2000年への移行期のY2Kに関する情報を収集し、発信したGSWについては、第8章「ロールオーバーのモニタリング」において詳述している)。
IYCCのホームページは一時的にGSW特別ページに置換えられ、ホームページ閲覧者が直ちに世界サマリー・チャートを見ることが出来るようになっていた。この国際サマリー・チャートは、各国情報、国別Y2Kホームページ、プレス・リリースや一般情報にリンクしていた。これらのホームページは非常にうまく行った。世界中のほとんど全ての主なメディアと、数多くの地方メディアがIYCCをインタビューしてGSWについての記事を書き、その結果、GSWの知名度とその有効性を大きく高めることになった。ニュースメディアと一般大衆は、IYCCのウェブサイトにおけるGSW情報を極めて高く評価した。
ほとんどの国が、新年、産業活動を無事に開始したと報告した後、IYCCは、GSWページへの素晴らしいリンク付きで元のホームページに復帰した。GSWウェブページは、各国調整官の連絡先情報、調査報告書、各種ウェブページを公表する中で出来上がってきた前のものに続いて、各国調整官が自分達の意見をそこにおいて述べられるようになっていた。
(コラムの中の翻訳)
「あらゆる国で、事態が全て順調であったことは実に素晴らしい。IYCC、それにグローバル・ステータス・ウォッチを作ったことは、本当に優れた構想である……。わたしはこうしたことに資金を出すことは、実によい投資であったと考えるが、それは何も、全てのシステムが今順調に動いているという理由のためばかりではない。見方を変えてみると、それが、作り上げた世界的な協力網だったという事こそが大事なのである。ここから得た教訓はたいへん価値のあるものなのであって、わたしは皆がこのことを決して忘れてしまわないように望むものである。本当に素晴らしい仕事に対して心から感謝したい」(コロンビア、サン・マーチン大学基金、イング・ラファエル・J・バロス)
「IYCCのウェブサイトは、我々のY2K指令センターにとっては、2000年に移行する際、世界中で何が起きているのかについて知ることが出来る素晴らしい情報源であった。実際、それはCNNやその他のメディアが流す情報に比べてより信頼でき、より時宜を得たものであると我々は判断した(我々が気付いたところでは、そもそも、そうしたメディア自体もこのウェブサイトを情報源として利用したのである)。こうした各国間の協力態勢は大いに評価できるものであり、たぶんそのおかげで、事態に対してヒステリーに陥らず冷静に対処できたのである」(カナダ・アルバータ州国庫支部、企業コミュニケーション・マネージャー、マヤ・プンガー)。
WWW.IY2KCC.ORG
IYCCは、そのウェブサイトを主な公開情報源として使った。IYCCは、1999年4月6日にそのウェブサイトを立ち上げた。このウェブサイトは英語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語の4ヵ国語で書かれ、3000以上の個別ページを含んでいた。そして、IYCCのリンクを通じて、約100のウェブサイトにたどり着くことが出来る。このウェブサイトは、月平均で50万~100万のアクセスを受けていた。この数字は1999年12月には300万以上に跳ね上がり、2000年への移行期に関する報告システム、すなわちGSWが作動開始になってからの年末の3日間だけで約200万のアクセスがあった。
IYCCは、そのウェブサイトに関し、何百もの賛辞を受け取ったが、その中には、アメリカ合衆国ウィスコンシン州マディソン大学のコンピュータ科学学部から受けた「インターネット・スカウト・プロジェクト」賞も含まれていた。IYCCのウェブサイトは、この科学学部で出している1999年12月17日号の「スカウト・レポート」の特集記事として取り上げられた。このレポートが取り上げるのは、「内容の深さ、情報源の権威、それに、情報がどのようにうまく維持・紹介されているかといった諸点を考慮した上で、最も有用と見なされるものだけ」なのである。
IYCCのウェブサイトは、各国調整官、メディア、それに一般大衆にとって価値ある情報源であった。ここのホームページを拠点として、ツールとテンプレート、プレス・リリース、行事カレンダー、さらには、各国に関する情報(調整官の連絡先詳細、ウェブページ・リンク、Y2K準備状況を含む)、Y2K専門サービス(YES)部隊、部門、地域に関する情報にも素早くアクセスできた。「新情報」、「沿革」「IYCCについて」の各部門について、各々別々のページがあった。1999年末には、GSWのロールオーバーに関する報告のために特別のページが設けられた。総じて、国別、地域別、部門別のY2K調整官の連絡先情報は国別のページにリンクしていて、これは、調査結果とニュース・リリースがそうであるように、レポーターと一般大衆にとって大変貴重なものであった。Y2K調整官の連絡先情報、調査結果、それにニュース・リリースの3つの部門は、最もアクセスの多いページとなった。
ニュース・リリースとメディア・キャンペーン
IYCCは、ウェブサイト以外にも、報道関係に対して特別の注意を払った。IYCCのメディア掌握戦略の目的とするところは、一般大衆を安堵させつつ、170ヵ国のY2K準備状況に関してメディアを教育することにある。個々の戦略は、具体的には次の通りである。
- 世界の一般メディアに対して、正確な進捗状況報告書を規則的に順次配布すること。
- 情報を普及させるために既存の国際機関と協力すること。
- 開発途上国おいて、世界的、地域的、及び国別報道官(又はコーディネーター)の活動を活発化させること。
- 効果的な長期的報道を促すため、適切なメディア編集局と会合の場を持つこと。
- Y2K専門家サービス(YES)のボランティア活動を促進すること。
IYCCはこうした戦略を成功裏に実施し、世界中の記者や編集者に対して、電子メールとファックスにより33のニュース・リリースを配布した。これにより、全ての主要報道機関が数千のニュースクリップを作った。IYCCは、これまでにこれらのニューズクリップを約6000ほど収集している。
CNNとロイターとのハイレベル編集会議を持ったおかげで、責任ある長期的報道をうまく行わせることが出来るようになった。それは丁度、世界中のほとんど全ての主要メディアの記者やプロデューサーとの間で、突っ込んだ内容のインタビューと会合の場を持ったことがもたらした成果と同様である。
Y2K専門家サービス(YES)の立ち上げ、IYCCの開設、ワシントンDCにおける第2回南米フォーラム会議、1999年6月の国連会議=自由フォーラム、といった事柄のおかげで、IYCCの組織化の初期段階において、有用なニュース材料を提供することができた。マイアミ大学北南センターによって、サン・パウロ、カラカス、及びマイアミで夏季を通じて行われたジャーナリスト・セミナーのおかげで、ラテン・アメリカにおいて優れたニュース報道が生れ、IYCCがラテン・アメリカのメディアと関係を築く助けとなった。
国際的メディアが、IYCCを責任感があり、信用でき、かつ「率直で正直」であるとして頼りにするようになったため、ニュースの「競合」がまだあまりなかった1999年8月時点において行われた調査報告書の発表については、ほとんどあらゆる面からこれをとり上げた完全な形での報道がなされ、これがため、その時から年末までの間にIYCCの地位と存在感を高めることになった。すなわち、これによりIYCCは、実際上全てのY2K関連ニュースに関する公式コメンテーターに昇格したわけである。1999年の第4四半期を通じて、ほとんど毎日出版・テレビ・ラジオのインタビューが行われ、この結果、1999年12月においては、IYCCの活動に関する報道が集中的に行われるようになった。
こうして、IYCCの所長、または広報担当部長、あるいはその両者が様々のテレビ・ラジオの生インタビュー番組や録画インタビュー番組に出演した。すなわち、NBC「トゥデーズ・ショー」、CBS「モーニング・ニュース」、ABC「イブニング・ニュース」、それから、CNN、BBC、ロイターズ・テレビ、オーストラリア放送局、ラジオ・フランス、イタリア・ラジオ、ニュージーランド・ラジオ、カナダ・ラジオとの数々のインタビュー、加えて、アメリカにおける各種ローカルラジオ・テレビの数々の報道番組、といった具合である。さらには、世界中の出版メディア記者との電話インタビューも数多く行った。
最後に、IYCCのスタッフは、世界中から来る数千にのぼる問合せや情報請求を適切に処理し、これらにきちんと回答して行くことにより、公衆の信頼感を高めた。これらの問合せや請求は、旅行のアドバイスや各国別のY2K対応状況の情報請求から、多数の高校・大学生、大学教授、金融サービス・アドバイザー、企業の企画部門などからの調査情報を求める特別の請求まで多岐にわたった。「1999年9月9日」問題とうるう年問題に関し、数多くの問合せがIYCCに寄せられた。他には、各国のロールオーバー時間、ロールオーバー間にY2K状況をモニターする必要性についての懸念についての問合せ、さらには、予想された通りGSWに関する多くの照会があった。これに加えて、毎日のようにIYCCのウェブサイトにリンクさせてもらいたいという商売上の依頼や、製品の売りこみもあったが、これらは丁重にお断り申し上げた。
世界中の一般大衆やメディアが核兵器の誤発射、化学工場の安全性、世界的規模での停電(不況)、航空の安全性、汚物処理システムの事故といった事態に関する心配を和らげるべく、IYCCを頼りにするようになった。IYCCとしては、寄せられるどんな依頼に対しても丁寧かつ丁重に答え、出来るだけ正確で完全な情報を与えるように努めており、また、必要な場合には別の機関への照会も行ってきた。
各国調整官と一般大衆は、情報共有と互いの作業関係における、こうした開放性と透明性の恩恵を相互に享受してきた。IYCCは、こうした公的コミュニケーション・プログラムをスタートさせ、育て上げ、さらには維持することに成功したのである。
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