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第1章 まえがきと経緯
20世紀末において、Y2K問題が、世界中のコンピュータやディジタルシステムを脅かした。限られていたメモリー量と処理時間を節約するため、コンピュータ・システムやディジタル・制御システムの多くが、年号を表示するのに二桁だけを使うよう設計されていた。 Y2K問題は、年号表示部分に依存している計算や動作が2000年1月1日で「00」となると誤作動を起すであろうとういう懸念から発生した(注5)。世界の何百万もの多様なディジタル・システムの一件ずつに対し Y2K問題の潜在的影響を評価する作業。それぞれのシステムの必要不可欠な部分を適切に機能させるための修復、交換作業。修復システムあるいは新システムのテスト。またそれらが他のシステムと連動するかどうかのテスト。修復が適切になされなかった場合の危機管理計画の策定とテスト。これらは、管理の分野での第二次世界大戦以来の最大の課題とみなされた。
Y2K問題に対処するための作業は1990年代初頭から半ばにかけて始まった。1998年の半ばまでに、多数の組織や国々が、その組織や国民にとって重要不可欠な機能を支えるシステムの評価、修正、テストを開始していた。国際的な取組も一部で始まった。とりわけ、世界銀行と金融部門では、Y2K問題に世界の電子・経済ネットワークに重要な関係者すべてが、確実に対応できるよう動き始めていた。
しかしながら、多くの国で作業は予定より遅れていることが次第に明らかになった。一部の国では作業すら開始しておらず、国際的な調整が不十分であることも明らかになった。イギリス、アメリカの政治指導者たちが、国際的な取り組みをさらに活発化する必要性を表明し始めた。イギリスのトニー・ブレアー首相、アメリカのスティーブ・ホーン下院議員、ロバート・ベネット上院議員などである。1998年9月、米国大統領Y2K対策委員会のジョン・コスキネン委員長がパキスタンの国連常任代表で国連情報科学作業部会の議長であるアマッド・カマル大使と会談し、国際協力について話しあいを行った。
作業部会はすでに、Y2K問題を国連自体のシステムの機能をマヒさせうる深刻な問題だと認識しており、世界各地の国連のシステムの問題に対処するため連繋し、対応を開始していた。Y2K問題をめぐる各国政府の間にも強力な調整の必要性を感じたカマルは、ただちに国連で各国のY2K調整官の国際会議の開催にむけた努力することを承諾した。カマルとコスキネンは、Y2K問題の国際的な協力体制の推進に関心を示していた数名の各国Y2K調整官を呼び集めた。世界銀行からの財政支援を得て、この世界代表グループは、わずか3ヵ月という記録的な早さで国際会議を組織した。最初のY2K調整官会議は、国連情報科学作業部会の主催で1998年12月にニューヨークの国連本部で開催された。この98年12月の国連会議には120ヵ国の代表が参加した。このメンバーの多数は、カマルによって作成され、管理されていた国際電子メール・リストに掲載されていた人々であった。
この98年の 国連12月会議は、電力や電気通信など重要な社会基盤部門におよぼすY2K問題の脅威に焦点を当て、情報を共有化するための地域作業グループを設立し、政府間で進行していた協力作業に必要な調整メカニズムを特定した。
1999年2月、10ヵ国のY2K調整官が、カマルのリーダーシップの下、ニューヨークで会談し、IYCCを設立した。このグループは国際Y2K協力センターの運営委員会として機能することを合意し、その任務と目標を定め、米国政府から派遣されたブルース・マコーネルを委員長に選出した。(国際Y2K協力センターの任務と運営委員会の委員の名簿は付属文書A及びBに含まれている。)国際Y2K協力センターの任務は「全世界の社会と経済でのY2K問題の悪影響を最小限にくいとめるため、政府間、民族の間、民間部門の間で戦略的な協力関係を強化し、促進すること」であった。
国際Y2K協力センターは1999年3月ワシントンに5名の常勤職員でオープンした。その後、国際Y2K協力センターの「バーチャル」支部が(途上国における電気通信問題を扱うため)ソウル、(保健医療部門のY2K問題に対処するため)ロンドン、(アジアのエネルギー部門に対処するため)東京に開設されることになった。担当国政府の推薦による職員がこれらの支部や、サンチアゴ、メキシコシティ、ソフィアの地域事務所の職員となった。 世界銀行の「インフォデブ」計画が、国際Y2K協力センターのワシントン本部を支えるため100万ドルの予算を提供した。イギリス、米国、オランダ、スウェーデン、カナダ、スイス、フランス、イタリア、オーストラリアからの拠出金3,700万ドルを配分するため、国際Y2K協力センターと世界銀行は、密接に連携した。「インフォデブ」計画は、この資金を地域事務所の支援と、国のレベルでY2K問題に対処している開発途上国への直接援助に使用した。最後に、広範な実際業務と管理業務の支援は世界情報技術サービス連盟(WITSA)が提供し、新しい組織を設置する仕事を比較的容易にした。
一連の地域会合及び部門会合が各国のY2K問題対策を支援するため1999年の前半に開催され、1999年6月、ニューヨークの国連本部での第2回Y2K調整官会議で山場を迎えた。この第2回会議では、危機管理応計画、情報公開戦略、日付変更に伴う不具合の監視に焦点が当てられた。1999年末までの間、各国の調整官、各分野専門家及び国際Y2K協力センター間の連絡は電子的に行われた。実際のところ、この取り組みから学んだ教訓の一つが、国際的な活動を調整するにあたっての電子的手段(電子メール、電話、ファックス、インターネット)の有用性であった。(この教訓についての詳細は第10章で述べている。)
各国のY2K状況報告システムであるグローバル・ステータス・ウォッチ(GSW; Global Status Watch)に報告されたように、世界は、2000年への移行をごく小規模な問題だけで通過した。(最新のY2K誤作動リストは付属文書Cを参照。)一部の国で投入された費用の額につき、一部で批判があったが、実際のところの費用は必要に応じたものであたった(世界における費用についての議論は付属文書Dを参照。)。
本報告書で示しているように、世界のY2K問題をめぐる経験は、国際協力及び協力をささえる人脈、電子ネットワークの使用における特記すべきユニークな事項として一つの章となっている。この取り組みに参加したものは、大きな成果に対してそれぞれが果たした役割に誇りを持ち、学んだ教訓が、将来における国家の難問を地球規模の協力体制で解決するための取り組みに生かされることを願っている。
本報告書の残りの部分は、各国の強力なY2K対策計画を促進し、地域協力を支援し、各部門間の協力関係を強化するための取り組みについて述べている。国際Y2K協力センターの地球規模の活動についても述べている。すなわち公開情報の共有化の重要な役割、危機管理と対応計画の促進、簡素化と支援(ボランティアの使用も含む)、ロール・オーバー時における地球規模の監視、深刻な事態が発生した場合のために確立された枠組み、及び、全プロセスを通じて学んだ教訓について述べている。
注5:1999年9月9日(9/9/99)や2000年2月29日などの他の日付にかかわるマイナーな問題点も、包括的なY2Kの問題として対処。
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