3.イラン

イランとの直接対話を通じた問題の解決を標榜(ぼう)するオバマ米新政権が1月に発足したことを受け、イラン・米国関係が注目された。イラン暦新年(3月)には、オバマ米国大統領が、イランに対する率直かつ相互尊重に基づく関与政策を模索している旨を表明した。これに対し、イランの最高指導者ハメネイ師は、米国に対する警戒感を示しながらも、米国の変化はその行動で判断すると応じた。その後、米国は3月のアフガニスタンに関する国際会議(於:ハーグ(オランダ))にイランを招待すべきであるとの立場を示したほか、4月にはイランの核問題に関する、イランとEU3(英国・フランス・ドイツ)+3(米国・ロシア・中国)の協議に完全な参加国として出席する旨を表明した。しかし、イランは、米国の変化を具体的な行動で判断するとの立場を崩さなかった。

6月に行われた大統領選挙は、当初、国民の関心は低いと見られたが、選挙戦の終盤にかけ、候補者同士のTV討論等を契機に大きな盛り上がりを見せた。12日に投票が実施され、高い投票率(85%、選挙実施委員会発表)を記録する中、現職のアフマディネジャード候補が63%(同上)の得票で勝利した。しかし、対立候補のムサヴィ氏(元首相)やキャルビ師(元国会議長)等が選挙に不正があったとして選挙結果に異議申立てを行ったことから、これらの候補の支持者を中心に、全国で選挙に対する大規模な抗議活動が展開され、一部で治安当局と衝突するなどして、当局の発表によれば、30数名が死亡したとされる。憲法擁護評議会は、6月末に実施された一部の票の再集計結果を踏まえ、選挙結果を確定させ、8月にアフマディネジャード候補がイラン・イスラム共和国大統領に就任した。大統領選後の一連の事態について、各国はイラン当局の措置を行き過ぎたものとして非難や懸念を表明した。これに対しイランは、外国勢力の支援の下で組織的な破壊行動が行われたとして、外国大使館の現地職員や外国人記者等を拘束し、欧米諸国等と対立した。

9月、第2次アフマディネジャード政権は、EU3+3との交渉のために2008年5月に提示した提案パッケージ注1の改訂版を提示し、イランの核問題については解決済みであり議論しないが、同パッケージに基づき協議する用意があるとした。しかし、同月、イラン中部のフォルド(コム近郊)に新たなウラン濃縮施設を建設中であることが明らかとなり、国際社会の批判が高まった。 こうした中、10月、イランとEU3+3は1年以上ぶりに協議を実施し、次回会合の実施、新たな濃縮施設へのIAEA査察官の受け入れ、テヘラン研究用原子炉の燃料供給のためのイラン製低濃縮ウランの国外移送について、原則的な合意に至ったとされている。しかし、新たな濃縮施設への査察は実施されたものの、次回会合は行われず、また、イラン製低濃縮ウランの国外移送についても、その方法をめぐって、具体的な合意は形成されなかった。

11月、IAEA理事会は、イランに対して、9月に申告のあった濃縮施設の即時建設中止、同施設の建設経緯等に関する説明、ほかに未申告の施設がないことの保証を求める決議を、ロシア、中国を含む賛成多数で採択した。これに対しイランは、新たな10か所の濃縮施設の建設計画を明らかにしたほか、テヘラン研究用原子炉用の燃料を独自で製造する旨を表明するなど、反発を強めた(イランの核問題に対するIAEA等の動きについては、第3章第1節4.「軍縮・不拡散・原子力」も参照)。

2010年1月、オバマ政権発足から1年が経過し、同政権の対イラン外交の評価が問われる中、米国は対話の扉は開いておくとしながらも、対話と圧力のアプローチに基づき、イランに対する圧力の検討を開始した。イランは、インフレや失業率の高止まり、核問題を背景とする海外企業の投資減少等の影響から困難な経済状況にあり、第2次アフマディネジャード政権は、補助金等経済政策の合理化を進めている。また、大統領選後に発生した抗議活動は、一旦(いったん)は収束したものの、12月の宗教祭日等、その後も散発的に継続しており、イランの指導部及びアフマディネジャード政権は難しいかじ取りを迫られている。

日本は、中東地域の大国であるイランが同地域や国際社会の平和と安定のために一層建設的な役割を果たすよう、同国との独自の伝統的な友好関係に基づき活発な働きかけを行ってきている。特に核問題については、国際的な核不拡散体制を堅持する必要がある等の立場から、5月の中曽根外務大臣のイラン訪問、9月の岡田外務大臣とモッタキ外相との会談や12月のジャリリ国家安全保障最高評議会書記の訪日の機会を含め、度重なる会談や次官級協議等の、様々なレベル・分野における二国間対話を通じて、イランの建設的な対応を強く働きかけている。

(注1)政治・安全保障分野、経済協力分野及び核問題を協力の柱として提示。