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第3章 > 7 アフリカ

7 アフリカ




 アフリカ

アフリカ



【総論】
 アフリカにおいては、多くの国が構造調整改革努力を続けているものの、依然として貧困からの脱却は難しく、サハラ以南アフリカ諸国の約3分の2は重債務貧困国(HIPCs)と認定されている。また、感染症の蔓延は開発への重荷となっているほか、一部諸国では、関係国等の努力にもかかわらず紛争が長期化するなど、政治的混乱が継続している。
 一方で、憲法上の手続きに従って民主的かつ平和裡に選挙が行われる傾向が強まり、アフリカ開発のための新パートナーシップ(NEPAD)においても、民主主義や良い統治(グッド・ガバナンス)を開発の前提条件として重視するなど、着実に民主化の流れは定着しつつある。


 国連大学において講演するムベキ南アフリカ大統領(10月)

国連大学において講演するムベキ南アフリカ大統領(10月)



【各地域の政治情勢】
 南部地域では、ジンバブエにおいて、同国政府の土地改革に対する不満から、2000年2月頃より退役軍人による白人農場主襲撃事件が発生した。英連邦諸国など国際社会は、法と秩序を遵守した土地改革の実施を求めたが、同国は2001年11月に大統領権限により農地強制収用を強行した。こうした土地改革による経済的危機及び社会不安を背景に、2002年3月9日から10日にかけて大統領選挙が行われたが、ムガベ現大統領がツアンギライ民主改革運動(MDC)党首を抑え勝利した。今後とも与野党間の対立や経済社会不安の行方が注視される。また、アンゴラでは1975年の独立以来、アンゴラ政府と反政府勢力であるアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)による内戦が継続してきたが、2002年2月22日、長期にわたってUNITAを率いて来たサビンビ議長が交戦の結果死亡した。このため、内戦は収束に向かうのではないかという見方が強まっている。
 中部地域では、コンゴ民主共和国において、1月にカビラ大統領が殺害され、息子のジョゼフ・カビラ将軍が新大統領に就任した。同大統領は1999年8月のルサカ停戦合意の履行を表明し、国内和平に向けた努力を行っている。安保理決議を受けて兵力引き離しがおおむね実施されたほか、国連平和維持活動(PKO)も本格的な展開を始めた。ブルンジでは、和平プロセスの中で暫定政権が設立され、ツチ族出身とフツ族出身の閣僚がおおむね同数ずつ含まれる民族融和的な内閣が11月に発足した。中央アフリカ共和国では、5月、一部国軍兵士によるクーデター未遂事件が発生し、11月にも一部国軍兵士と大統領警護隊の間で武力衝突が発生するなど、内政が不安定化している。
 西部地域では、隣国リベリアの支援を受けた政府軍と反政府武装勢力である革命統一戦線(RUF)との戦闘が継続していたシエラレオネで、2001年5月、政府側とRUFの間で武装解除の実施方法につき合意がなされ、同国に展開する国連ミッションによって武装解除、動員解除、元兵士の社会復帰(DDR)が進められた。武装解除については、2002年1月にカバ大統領により完了宣言がなされた。象牙海岸共和国(コートジボアール)では、1999年に発生した政変に伴い内政が混迷したが、現在までに国民議会選挙、地方議会選挙が実施され、民主化プロセスが進展中である。ナイジェリアでは、北部地域でイスラム勢力の台頭が見られ、部族・宗教対立が先鋭化する等の事態が生じている。
 東部(アフリカの角)地域では、2000年12月に和平合意が成立したエチオピア・エリトリア国境紛争は、おおむね和平プロセスが順調に進展している。1991年以来無政府状態のソマリアでは、2000年10月に発足した暫定政府と、対立各派が2001年3月に設立したソマリア国民和解復興評議会との間で武力衝突が発生するなど、情勢が一層悪化している。


 アフリカにおける主な紛争

アフリカにおける主な紛争


(column7参照)


【経済・社会情勢】
 経済面においては、多くの国が市場経済原理の導入、緊縮財政等を中心とする構造調整改革を進めている。2003年までの中期を見れば、アフリカ諸国の半数以上の国で年平均国内総生産(GDP)成長率が5%を上回るとの見通しがある一方で、一次産品市場の動きによって影響を受ける国も多く、国際競争力のある産業育成が総じて進んでいないことから、依然として経済基盤は脆弱である。アフリカ地域の1990年代の1人当たりGDPは1970年代より低下しており、人口の約4割が1日1米ドル以下の所得での生活を強いられる状況に大きな改善はない。さらに、アフリカ諸国の多くでは、累積対外債務への返済が国家財政の大きな負担となっており、世界銀行、国際通貨基金(IMF)が認定するHIPCs42か国のうちアフリカ諸国が33か国を占めるなど、アフリカ諸国の債務問題は国際社会においても深刻な問題となっている。また、アフリカの人口は、世界の1割を占めるが、世界のエイズ感染者の7割がアフリカに集中しており、社会・経済の全般にわたって著しい悪影響を及ぼしている。

【日本の取組】
 2001年には、首脳レベルでの対アフリカ外交が進展し、日本の政策に対してアフリカ諸国が認識を深め、これまで以上に強い協力関係が日本とアフリカの間で構築された。
 1月、森総理大臣は、日本の現職総理大臣として初めてサハラ以南アフリカ(南アフリカ、ケニア、ナイジェリア)への訪問を実現した。南アフリカで行われた日本の対アフリカ協力に関する政策スピーチでは、日本は、アフリカ問題の解決なくして21世紀の世界の安定と繁栄はないとの認識の下、開発支援及び紛争予防・難民支援を車の両輪として対アフリカ協力に引き続き積極的に取り組んでいくこと、また、幅広い双方向交流に基づく新たな日・アフリカ関係を発展させていくこと等のメッセージを発信した。この訪問は、貧困、感染症、紛争など、アフリカが直面する問題に国際社会の主要な一員として日本が積極的に取り組むという決意の現れとして、訪問国のみならず、アフリカ各国の首脳から高い評価を受けた。
 5月にはオバサンジョ・ナイジェリア大統領が日本を公式訪問し、10月にはムベキ南アフリカ大統領が国賓として訪日し、それぞれ小泉総理大臣との首脳会談及び各界有識者との意見交換等を行った。ナイジェリアとの間では、首脳会談において日本とナイジェリアがスペシャル・パートナーとして協力を強化していくことが同意され、二国間関係が一層発展した。また、南アフリカとの間では、新世紀において世界が直面する課題に取り組むために両国が南北の懸け橋として協力すべきであることが確認された。森総理大臣の訪問に続き、アフリカの主要国であるこれら両国の大統領の訪問が実現したことにより、日本の対アフリカ外交は一層厚みを増したといえる。
 また、日本は、森総理大臣のアフリカ訪問の機会に表明したように、開発支援と紛争予防・難民支援を車の両輪に据えて対アフリカ協力を積極的に推進してきた。開発支援については、1993年に開始されたTICADプロセスが進展しつつあり、2001年12月、日本は、国連、アフリカのためのグローバル連合(GCA)、世界銀行と共催でTICAD閣僚レベル会合を開催した(第1章3(6)を参照)。紛争予防・難民支援については、DDRプログラムが進められているシエラレオネへの日英合同ミッションの派遣、地域の紛争予防・解決に取り組むアフリカの地域機関への支援を行っているほか、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)や世界食糧計画(WFP)等の国際機関を通じた難民・国内避難民支援を引き続き行っている。


 交換公文署名に立ち会うオバサンジョ・ナイジェリア大統領と小泉総理大臣(5月)

交換公文署名に立ち会うオバサンジョ・ナイジェリア大統領と小泉総理大臣(5月)



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