第3章 > 6 中 東
中 東

【アフガニスタン】
1979年以来侵攻していた旧ソ連軍が撤退した1989年以降、アフガニスタンは群雄割拠の内戦状態に陥っていたが、1994年末頃から新興勢力タリバン(「神学生達」の意)が台頭してきた。タリバンは、内戦に嫌気がさしていたアフガニスタン国民の支持を集め急速に支配地域を拡大し、1999年夏までに首都カブールやマザリシャリフ、石仏遺跡で有名なバーミヤンなどを含めた全土の約9割を掌握した(残り1割は、北部同盟が実効的支配)。タリバンに対しては、ウサマ・ビンラディン庇護、テロ支援、麻薬栽培等の理由により、国連安全保障理事会(以下「安保理」)によって累次対タリバン制裁決議が課されており、タリバンは国際社会から孤立していた。2001年2月には、タリバンは、アフガニスタン国内の彫像を非イスラム的と見なし、すべて破壊するべきであるとの布告を発出し、3月中旬には、実際に、バーミヤン遺跡を破壊するに至った。
9月11日の米国同時多発テロ発生後、米国や英国などはウサマ・ビンラディンをテロの首謀者と断定し、10月からはウサマ・ビンラディンの組織アルカイダと同組織を支援するタリバンに対する武力攻撃を開始した。タリバンは、11月に首都カブールから撤退し、12月までにはアフガニスタンにおける拠点をほぼすべて失った。
タリバンが国土の実効的な支配を失ったことを受け、ブラヒミ・アフガニスタン担当国連事務総長特別代表の構想に基づき、ドイツのボン近郊で行われたアフガニスタン各派代表者会合では、12月5日、
12月22日に暫定政権が発足する、
暫定政権設立後6か月以内に、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)がザヒル・シャー元国王により招集され、移行政権の詳細につき決定する、
移行政権設立後18か月以内に憲法制定ロヤ・ジルガが招集される、
さらに、緊急ロヤ・ジルガ開催後2年以内に新憲法に基づく自由で公正な選挙が行われることにつき各派間で合意に至った(ボン合意)。ボン合意を踏まえ、日本は、12月22日、アフガニスタン暫定政権成立式典に植竹外務副大臣を派遣し、同暫定政権を政府承認した。
日本は、アフガニスタンが再びテロリストの温床となることによって、地域の不安定要因とならないためにも、アフガニスタンに安定した政権が樹立され、着実に復興を遂げていくことが重要であると考えており、11月20日、米国と共同でアフガニスタン復興支援高級事務レベル会合をワシントンDCにて開催し、12月20日から21日にかけてブリュッセルにて開催されたアフガニスタン復興支援運営グループ会合を経て、2002年1月21日から22日にかけて東京において開催されたアフガニスタン復興支援国際会議に至る復興への道筋を立ち上げるなど積極的な役割を果たしてきた。
【イラク】
イラクは、1990年8月のクウェート侵攻以来、国連の経済制裁の下に置かれている。1999年12月、安保理は、国連の査察活動に対するイラクの協力拒否という状況を背景に、大量破壊兵器の廃棄に関する新たな委員会(国連監視検証査察委員会(UNMOVIC))を設置するとともに、イラクが120日間、UNMOVIC及び国際原子力機関(IAEA)にすべての点で協力した場合には、経済制裁を120日間停止することを主な内容とする国連安保理決議1284を採択した。日本は、日本への石油供給の約8割を占める湾岸地域の平和と安定を実現するためには、イラクがUNMOVICへの協力を始めとする国連安保理決議を履行することが極めて重要であると考えており、他の国連加盟国と共にイラクに対し、関連安保理決議の履行を働きかけてきた。2001年2月には、イラクと国連の間で問題の解決に向けた対話が行われたが、これまでのところイラクはUNMOVICへの協力を拒否しており、依然として国連の経済制裁下に置かれている。
国連による経済制裁が長期化する中、イラク国内では医薬品や食料等の不足など人道状況が悪化している。このため、1996年12月以来、イラクに対する経済制裁の例外として、国連監視下で石油を輸出することを許可し、石油代金によって人道物資を購入する計画(「Oil For Food」計画)が、安保理決議に基づき実施されている。この計画の実施により、イラク国民の生活状況に一定の改善が見られている。さらに、2001年5月以降、安保理は、経済制裁がイラクの一般国民に与える影響を抑えつつ、軍備管理面での効果を一層高める措置を導入するため、経済制裁の見直し作業を行なっている。日本としても、イラクの一般国民が経済制裁の影響に苦しむのは適当でないと考えており、安保理で行われている経済制裁の見直し作業を支持している。
(column6参照)
【イラン】
2001年6月に実施された第8期大統領選挙では、ハタミ大統領は、改革路線に対する保守派の激しい抵抗(改革支持の活動家等の逮捕)が続く中で出馬することになったが、国民からは前回選挙を上回る支持(得票率77%)を得て再選を果たした。しかし、8月の第2次ハタミ内閣発足後も改革支持派国会議員の裁判所召喚が行われるなど保革の対立は継続している。
対外関係においては、9月の米国同時多発テロ後、欧州及び中東諸国首脳との電話会談が活発に行われたほか、イギリス外相による革命後初のイラン訪問(9月及び11月)やイタリア・ドイツ外相の訪問(10月)等各国との関係の強化に向けた取組が一層活発化している。米国との関係については、8月にイラン・リビア制裁法が5年間延長された。米国同時多発テロ後、イランが米国のアフガニスタンにおける軍事行動に協力姿勢を示す動きが見られたものの、それ以降、両国関係の改善に向けた大きな進展は見られていない。ロシアとの関係では、3月にハタミ大統領がロシアを訪問し、10月には軍事協定締結の動きが見られた。
日本は、中東地域において強い影響力を有するイランが改革及び国際社会との対話や緊張緩和路線を一層推進し、中東地域及び国際社会の平和と安定のために一層積極的役割を果たすことが重要であると考えており、様々な対話の機会を通じてイランに対し働きかけを行ってきている。米国同時多発テロ後の10月には、高村総理大臣特使がイランを訪問し、国際社会が一致してテロに対抗していく必要性を確認した。11月にはハラジ外相が訪日し、テロとの闘い及びアフガニスタン和平・復興のための協力について意見交換を行った。
また、日本にとって大産油国であるイランとの関係を維持し、発展させていくことは、経済的側面からもその重要性が認識されている。2月にはザンガネ石油相が訪日し、7月には平沼経済産業大臣がイランを訪問したほか、革命後初の政府派遣経済使節団のイラン訪問が実施され、二国間経済関係拡大へ向けての一層前向きな雰囲気が醸成された。また、議員交流も活発化し、野呂田衆議院予算委員長(8月)、吉田衆議院外務委員長(11月)等がイランを訪問したほか、イラン友好議員連盟代表団も訪日した(10月)。
さらに女性交流についても、8月、丸谷外務大臣政務官が、革命後初めて、女性要人としてイランを訪問し、イランの女性要人と会談し、両国間での女性交流の端緒が開かれた。
【湾岸諸国等】
2001年は、湾岸戦争及びクウェート解放10周年に当たる年であった。10年経った現在でも、湾岸諸国にとって、イラン及びイラクとの政治的なバランスを測りつつ、米国を中心とする西側諸国に地域の安全保障を事実上依存するという状況に大きな変化は生じていない。日本は、国際社会の安定と繁栄に大きな影響を与えうる、また日本がほとんどのエネルギーを依存する中東地域の安定を維持するためにも、この様な地域的な事情に配慮しつつ、対湾岸諸国外交を展開していく必要がある。
2001年1月、河野外務大臣は湾岸諸国(カタール、アラブ首長国連邦、クウェート、サウジアラビア)を訪問し、湾岸諸国との重層的な関係に向けた新構想(河野イニシアチブ)(注)を表明した。河野イニシアチブは、中長期的な視点に立った対湾岸諸国外交の強化、人的交流や文化交流を包摂する湾岸諸国との幅広い協力関係の構築を目的としており、イスラム世界との文明対話の促進、水資源開発・環境協力及び幅広い政策対話の促進を三本柱に据えている。これを受け、日本とイスラム諸国の知識人ネットワークの構築に向けたリストの作成、日・湾岸協力理事会(GCC)安全保障セミナーの開催が行われたほか、8月には丸谷外務大臣政務官がイエメン、サウジアラビア、バーレーン、オマーン等を訪問し、幅広い政策対話の促進を図るとともに、政府高官等における女性ネットワークの拡大に努めた。また、日本の海上自衛隊の練習艦隊が遠洋航海として初めて湾岸諸国を親善訪問し、各国海軍の若手将校を中心に交流を行ったことも、日本と湾岸諸国の関係の深化の上で注目された。
日本のエネルギー安全保障の観点からも、湾岸諸国との関係の強化は極めて重要である。日本の湾岸諸国に対するエネルギー依存度は依然として高く、湾岸地域における日本の自主開発油田採掘権の延長問題も懸案事項である。7月には平沼経済産業大臣がサウジアラビア、アラブ首長国連邦、クウェートを訪問し、経済面における日本と湾岸諸国の関係強化が図られた。
豊富な石油埋蔵量を有する湾岸諸国の重要性は、今後の世界経済にとっても一層高まることが確実であり、日本は、河野イニシアチブのフォローアップを始め、湾岸諸国との包括的な関係の強化を積極的に図っていく必要がある。
マフムード・カタール外務担当大臣の出迎えを受ける河野外務大臣(1月)
