アフガニスタン政治のダイナミズムを一言で表現するなら、一瞬にしてそれまでの政治の様相が一変することである。23年間にわたる長期的なアフガニスタン紛争が開始されるきっかけとなったのは、1978年4月27日にカブールで起きた共産主義政党勢力によるクーデター事件であった。それから約1年半、アフガニスタンはソ連軍の侵攻を受け、まるで坂道を転がるように紛争に突き進んでいった。今般のボンにおけるアフガニスタン和平会議の成果もまた激しい政治的変動の嵐の中で生まれたものであった。
2001年9月7日、北部同盟の雄マスード司令官の腹心で、旧知の間柄である人物が突然私の事務所を訪問した。久しぶりの再会を喜びながら、アフガニスタンの現状、紛争解決の方法等について私の事務所で3時間以上にわたり、意見交換を行った。主要な議論はいかにしたらアフガニスタン紛争を解決に導くことができるか、紛争解決に無関心な国際社会をいかなる方法で説得し、紛争解決に協力させるかにあった。彼は、軍事的、政治的に膠着状態に立ち至っているアフガニスタンの現状からすれば、段階的な方法以外適切な紛争解決方法は考えられないと主張する私の主張を認め、私の考えをマスード司令官に伝え、再度協議することを約束して別れた。
マスード司令官が遭難し、生死不明であるとの知らせを受けたのは、2日後の9月9日の夕方であった。その知らせは、私の友人である前述の人物の生死も不明であると述べていた。生死の確認をするため衛星電話の受話器を取りながら、アフガニスタン紛争に大きな変化が訪れたことを強く予感した。私の頭を駆けめぐったのはマスード司令官を失った北部同盟の総崩れと、タリバンの全国制覇による大量のアフガニスタン難民のタジキスタン流入という恐ろしいシナリオであった。北部同盟はマスード司令官の暗殺を否定し、戦線の総崩れを防ぐのに懸命の努力を払った。しかし、私には、マスード司令官の暗殺が明白となり、タリバンが最前線を突破して、北部同盟の支配地区に雪崩を打って侵入するのは時間の問題であると思われた。タリバンによる全国制覇によって、アフガニスタン紛争が終了することを厳然たる事実として認めざるをえない情勢に立ち至ったと確信せざるをえなかった。問題はいつの時点で北部同盟が総崩れを起こすかにあった。
そうした情勢に再び新たな政治的・軍事的変化をもたらしたのが、9月11日のアルカイダによるニューヨークの世界貿易センタービル等への自爆テロ攻撃であった。同テロはアフガニスタンにおける北部同盟とタリバンとの政治的・軍事的均衡を逆転させる大きな変化をもたらし、北部同盟は一挙に息を吹き返した。国際社会はアルカイダを擁護するタリバンを敵とし、北部同盟への軍事支援が開始された。私の恐怖のシナリオは数日間の危惧に終わっただけであったが、アフガニスタン紛争解決のために国際社会の関心をいかに獲得するかに腐心したマスード司令官、皮肉にもそれは彼自身の死と、罪もない尊い市民の犠牲の上に成立したといえる。
アフガニスタン紛争のダイナミズム、それは一瞬たりとも気を緩めることのできない政治の嵐と呼ぶことができるが、この荒馬を乗りこなして新たな政治的変動を防ぎ、和平への道に導くことが、日本及び国際社会に課せられた大きな任務であると考える。
執筆:国連アフガニスタン特別ミッション政務官
高橋博史