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白書・提言

第3章 主要な地域情勢

   1.アジア及び大洋州
(1)中国とその近隣諸国・地域

【中国国内政治・経済】

 2000年は、中国にとり、国有企業、金融制度、行政機構の三大改革達成に向けた3年計画の最終年であった。大量の失業者発生が不可避で最も困難と言われていた国有企業改革については、2001年1月には「基本的な達成」が宣言された。2001年から始まる第10次5か年計画や2002年に開催予定の第16回中国共産党全国代表大会に向けて、2000年は総じて国内の安定を重視した政局運営が行われた。
 一方、市場経済の進展に伴い、党・政府内部の汚職・腐敗は深刻さを増している。当局は、政権基盤を揺るがしかねないとして、こうした汚職・腐敗の摘発に力を入れており、閣僚級の幹部が死刑執行されるなど厳しい処分が相次いでいる。また、「三講」(政治、学習、正しい気風を語る)教育や「三つの代表」論(中国共産党は(A)先進的生産力、(B)先進的文化、(C)最も広範な人民の根本的利益を代表)キャンペーンなどを展開し、党内の思想引き締めを図っているほか、99年に非合法組織と認定された気功団体「法輪功」の取締りも続いている。
 少数民族問題も、中国が抱える内政不安定要因である。チベット関連では、1月初め、チベット仏教界の活仏カルマパ十七世が中国から極秘裡にインド北部に出国したほか、6月にはダライ・ラマが米国でクリントン大統領と会談した。中国は、後者を非難しつつ、「チベット白書」の発表等を通じ、中国政府の支援策によるチベットの発展状況を強調した。
 経済面では、投資・消費の回復、輸出の増大等により8%(速報値)の国内総生産(GDP)成長率を達成し、また、国有企業の収支状況にも改善が見られた。一方、世界貿易機関(WTO)加盟に向けた産業構造の調整とともに、市場経済化の推進、不良債権の処理等が引き続き主要な課題となっている。10月の中国共産党第15期中央委員会第5回全体会議(五中全会)では「第10次5か年計画(2001年から2005年)に関する建議」が採択され、「発展」を前提として経済の諸課題に対処していくとした上で、農業の重視、西部大開発の推進、情報化社会の構築等がうたわれた。このうち、西部大開発は、今後30年程度の長期間を展望し、沿海部との経済格差が広がりつつある内陸部の経済発展を図るもので、中国経済全体の持続的な発展や食糧・資源問題の解決等を目指すものである。

【対外関係】

 外交では、最優先課題である経済発展推進のため、中国は平和な国際環境と各国との良好な経済協力関係を必要としており、近隣諸国を始め、欧米、第三世界諸国に対して、活発な「全方位外交」を展開している。
 99年の在ユーゴ中国大使館誤爆事件等で一時ぎくしゃくした米中関係は、その後、米中軍事交流の再開(1月)、国連ミレニアム・サミットの際の米中首脳会談(9月)、中国に対する恒久的通常貿易関係(PNTR)付与法の成立(10月)等を通じ修復が図られた。一方、米国の国家ミサイル防衛(NMD)構想、人権問題、台湾への武器売却問題等、米中間には依然様々な懸案が存在している。
 中露間では、プーチン大統領の訪中(7月)等を通じ、政治、経済両面にわたる関係強化が見られた。7月の「上海ファイブ」会合(中国、ロシア、キルギス、カザフスタン、タジキスタン)には江沢民主席が出席し、ロシア及び中央アジアとの関係は一層緊密になっている。
 このほか、近隣諸国との関係では、5月(及び2001年1月)に、金正日(キム・ジョンイル)朝鮮労働党総書記が中国を非公式に訪問し、中朝関係は急速な進展を見せた。  インドとの関係については、ナラヤナン大統領が中国を訪問した(5月)。(2001年1月には、中国首脳としては約4年振りに李鵬全人代委員長がインドを訪問し、関係改善が進んでいる。)このほか、12月には、ヴィエトナムのチャン・ドゥック・ルオン国家主席が中国を訪問し、トンキン湾の境界画定問題が解決した。また、10月には北京で「中国・アフリカ協力フォーラム」が開かれ、アフリカ諸国との協力関係が強調された。
 中国は、アジアにおける地域協力、特に経済分野の協力については、比較的前向きな姿勢を示しつつあり、11月のASEAN+3(日中韓)首脳会合の際に開催された日中韓首脳会合では、その定例化に同意した。

【香港・台湾】

 香港では、97年の中国への返還以降、「一国二制度」(注)は基本的に順調に機能している。経済は回復の兆しを見せているが、不動産市況の低迷、デフレ基調、高失業率は続いている。

(注) 外交及び防衛の分野を除き高度の自治権を有する制度を指す。


 中台間では、3月の台湾における「総統」選挙を前に、2月、中国はいわゆる「台湾白書」を発表し、台湾が統一交渉を無期限に延期すれば、武力の行使を行うこと等を示唆した。3月の「総統」選挙では、民進党の陳水扁氏が当選し、この結果、50年以上にわたって台湾の政権を握ってきた国民党は下野することとなった。両岸関係につき、陳水扁氏は就任後、慎重な姿勢をとっているが、中国は、陳水扁氏が「一つの中国」の原則の受入れにつき曖昧な態度をとっているとして批判的であり、海峡両岸間では話合いの糸口が見出せない状態が続いている。(一方、2001年1月より、台湾当局は金門、馬祖両島に限って中国大陸との直接の通信、通商、通航を部分的に解禁(「小三通」)し、中台間で直接の航行が行われることとなった。)なお、台湾の議会において与党である民進党の議席数は約31%に止まり(国民党は約51%)、また、10月には第4原発建設中止をめぐって野党の反発を受けるなど、陳水扁氏は苦しい内政運営を強いられた。

【モンゴル】

 モンゴルでは、7月に第3回総選挙が行われ、野党の人民革命党が全76議席中72議席を得て大勝し、政権に返り咲いた。政権基盤は安定したが、議員の閣僚兼任を認めた憲法改正の合法性をめぐり、議会と大統領、憲法裁判所の間で確執が見られた。外交面では、11月にロシアのプーチン大統領が旧ソ連時代を含めて、26年振りに元首としてモンゴルを訪問し、両国関係が強化された。

(2)朝鮮半島

【韓国国内政治】

 2000年4月には金大中(キム・デジュン)政権に対する中間評価とも言える総選挙が実施された。この選挙に先立つ2月、98年の政権発足以降、連立政権の運営に参加してきた自民連は、市民団体が行った「落選運動」が金鍾泌(キム・ジョンピル)名誉総裁をも対象とし、これを金大中大統領が支持したと見られたこと、及び自民連の地盤で民主党候補が出馬したことなどを理由として、連立を離脱した。総選挙の結果、野党ハンナラ党が過半数には及ばないものの第1党となり、与党民主党にとっては苦しい国政運営となった。選挙後、金大中大統領は、李漢東(イ・ハンドン)自民連総裁を国務総理に指名し、正式な連立政権樹立合意のないまま、自民連との事実上の協力関係を復活させ、国政運営を行った。(2001年1月に自民連との連立政権復帰に正式合意した。)
 6月の南北首脳会談開催により、現政権に対する支持率は、一時的に上昇したが、経済の悪化を始め、偏重人事(注)、あるいは、政府の対北朝鮮政策が宥和的であるとの批判がなされ、2000年後半、大統領就任時には70%前後を示していた支持率は急落し、年末には30%前後まで落ち込んだ。10月13日、金大中大統領に対し、韓国の民主化と南北関係の改善についての同大統領の長年にわたる真摯な取組等が高く評価され、ノーベル平和賞が授与されることが決まった。受賞決定直後は、韓国国内は祝賀ムードに包まれたことから、受賞決定が支持率低下に喘ぐ現政権にとり、政権運営の求心力として作用するのではという期待があったが、折からの経済状況に対する不満は強く、12月のノーベル賞授賞式を待たずに祝賀ムードは冷め、支持率上昇にはつながらなかった。

(注) 大統領の出身地域である全羅道出身者が主要ポストに任命されている人事。


 韓国国会においては、諸懸案の処理をめぐり、9月の定期国会が約40日間空転する等、与野党対立が深まった。国会再開後も与野党は折り合わず、年末には越年での臨時国会が召集された。

【韓国経済】

 97年の危機から驚異的な速さで回復した韓国経済は、2000年に入り、前半はベンチャー産業、情報通信技術(IT)産業を中心に好調に推移したが、原油価格の高騰及び米国株式市場が調整局面に入ったことを受け、第3四半期以降は株価が下落、消費も手控えムードの中、厳しい状況になりつつある。ただ、年間を通しての経済成長率は9%前後を維持する見込みで、貿易収支も100億ドルを超える黒字を計上、外貨準備高も900億ドルを大きく超えた水準にあり、マクロ的には深刻な状況にはない。2001年の経済も堅調に推移するものと思われるが、国内的に構造改革に反対する労働組合の動きが活発化しており、経済への影響が注目される。

【韓国の対外関係】

 韓国政府としては、北朝鮮政策の遂行に当たり、日米韓3か国の連携・協調を堅持している。(米国との関係では、韓米地位協定の改定交渉を行い、2001年1月妥結した。)中国・ロシア等の主要関係国との関係強化にも努めている。さらに、地域的な取組としては、10月、アジア欧州会合(ASEM)第3回会合を議長国として成功させたほか、11月のASEAN+3(日中韓)首脳会議の際には日中韓首脳会合を主催し、今後の定例化を決定した。

(3)東南アジア

【東南アジア諸国連合(ASEAN)】

 ASEANは、「ASEAN10」の達成により、東南アジア全域を一つの傘の下に包摂する地域協力体に発展を遂げたが、それに伴って、域内の政治体制の相違によって生ずる問題や経済格差の問題が顕在化することとなった。加えて、グローバリゼーションや情報通信技術(IT)革命という国際的な潮流もあり、域内の経済格差と情報格差(デジタル・ディバイド)の問題は更に深刻になっている。ASEANにとって、その結束をいかに維持・強化し一体性を確保していくかがますます重要な課題となっている。
 このような中、2000年11月にシンガポールで開催された第4回ASEAN非公式首脳会議では、ASEAN10か国の首脳が一堂に会し、新旧加盟国間の格差の解消と一体性の確保を主要テーマとして取り上げ、議論した。この首脳会議においては、IT分野におけるASEANの競争力を強化し、ASEAN域内の情報格差を縮小することを目的とする「e-ASEAN枠組み合意」が各国首脳により署名された。また、ASEANの経済統合を推進するための様々なプロジェクトについても議論されたほか、ASEANの政治的結束の重要性について意見の一致を見た。

【東南アジア諸国連合(ASEAN)各国との関係(注)

(注) インドネシア、東チモールについては、第1章3.(4)参照


 小渕総理大臣は2000年1月にカンボディア、ラオス、タイを訪問し、ASEANの域内格差是正と統合推進の努力に対して協力し、ASEAN10の発展と繁栄のために引き続き支援を行っていくとの日本の姿勢を示した。また、九州・沖縄サミットを前に、アジア諸国の意見を聴取した。特にカンボディアについては、クメール・ルージュ(KR)裁判問題に関するカンボディアと国連の協議が膠着する中、小渕総理大臣からフン・セン首相に対し、国際社会の期待に沿った形での事態の打開を直接働きかけ、その後の進展につながったことは重要な成果であった。小渕総理大臣の訪問後、カンボディアと国連の協議は7月に基本合意に至った。
 ミャンマーでは、政権側(国家平和開発評議会:SPDC)とアウン・サン・スー・チー女史が率いる国民民主連盟(NLD)との対立が膠着状態のまま推移してきた。7月に全ての大学が再開されるなどの前向きな動きもあったが、9月には同女史の地方訪問を政権側が阻止し、同女史を自宅軟禁とするなどの厳しい措置をとった。しかし、その後ラザリ国連特使がミャンマーを訪問し、軍事政権幹部とスー・チー女史の双方と会談を行う等の国際社会の働きかけもあり、政権側とNLD側との間で対話の兆しが見られている。  フィリピンでは、エストラーダ大統領がラモス前政権の政策を踏襲しつつ、重要課題として貧困対策、治安回復、汚職・腐敗の撲滅を掲げて政権を担当してきたが、取り巻き政治に対する不満等を背景に、エストラーダ大統領に対する支持率は低下した。そのような中、エストラーダ大統領の違法賭博上納金疑惑が浮上すると、上院で弾劾裁判が行われ、それとともに国民の間でも大統領退陣要求の声が高まった。(その後、2001年1月にはエストラーダ大統領に代わってアロヨ副大統領が大統領に就任した。)  ヴィエトナムでは、11月にクリントン米大統領が南北ヴィエトナム統一後初めて米国大統領としてヴィエトナムを訪問した。今回の訪問は、95年7月の国交正常化以来続けられてきた両国関係改善の総仕上げと位置づけられる。

(4)南西アジア

【南西アジア情勢】

 南西アジア地域に対する国際的関心は高まってきており、特にインドは、西側先進国及び東南アジア諸国等との関係を急速に進展させ、その先端的な情報通信技術(IT)が世界的な注目を集めている。
 他方、同地域では、インドとパキスタンの緊張関係や核不拡散問題、ミサイル発射実験等の不安定要素が依然として存在している。特に、インド・パキスタン関係については、99年5月のカシミールでの戦闘以降緊張関係が継続し、2000年においても、若干の前向きな動き(注)があったものの、両国間の本格的な対話が途絶えている。

(注) 2000年11月、ヴァジパイ・インド首相がカシミールにおける武装勢力への戦闘行動を一定期間停止する旨発表し、パキスタン政府もカシミールの管理ライン沿いのパキスタン軍が最大限の自制を行い、同地域に配備された兵力の一部を撤退させる旨発表した。(また、2001年1月のインド西部グジャラート州における地震に関し、首脳間で短時間の電話会談が行われた。)


 また、パキスタンでは、99年10月の軍事クーデターにより、軍事政権が成立している。同政権は、2002年10月までに国政選挙を実施する意向を表明しており、民主化への努力が続けられている。パキスタン経済については、2000年夏以降国際収支バランスの悪化が深刻化していたが、同年11月、国際収支支援のための国際通貨基金(IMF)融資が承認され(注)、危機的状況を当面脱した。

(注) 日本は、深刻なパキスタン経済を救済するため緊急避難的措置をとる必要があること、また、2000年8月の森総理大臣のパキスタン訪問時に同国の核不拡散分野での一定の進展が示されたこと等を勘案して、本件パキスタンの国際収支支援のための国際通貨基金(IMF)融資を支持した。


 核問題に関しては、インド、パキスタン両国とも包括的核実験禁止条約(CTBT)の署名に向けての国内のコンセンサス作りに努めている状況が依然として続いている。

【日本との関係】

 2000年8月、森総理大臣はバングラデシュ、パキスタン、インド、ネパールを訪問した。バングラデシュ、パキスタン及びインドについては、日本の総理大臣としては10年振り、ネパールについては初めての訪問であった。訪問した各国で大変な歓迎を受け、南西アジア諸国が極めて親日的であり、日本に対して強い期待を持っていることを改めて認識させるものであった。訪問の主な目的は、南西アジア地域が日本にとってますます重要になっていく中で、訪問先各国との間の友好協力関係を増進することにあった。特にインドとの間では、広範な分野での多面的協力を内容とする「21世紀における日印グローバル・パートナーシップ」の構築に合意し、その一環として情報通信技術(IT)分野での協力を推進していくことに合意した(注)

(注) 2000年8月の森総理大臣のインド訪問の際、森総理大臣はインドのシリコンバレーと呼ばれるバンガロールで両国間のIT協力に関する演説を行い、民間経済交流の拡大、IT人材交流の活性化、IT対話の促進の三つの柱からなる「日印IT協力推進計画」を表明した。


 また、訪問した各国から、G8サミットにおける日本のイニシアチブであるデジタル・ディバイド対策や感染症対策につき強い期待が表明されるとともに、森総理大臣が表明した各種の日・南西アジア交流プログラム(注)の実施に対し、高い評価と謝意が表明された。さらに、2002年は日・インド、日・パキスタン及び日・スリ・ランカ外交関係樹立50周年及び日・バングラデシュ外交関係樹立30周年に当たり、双方で記念となる行事を開催することに合意した。今後、これらの計画を着実に実施していく必要がある。

(注) 日本研究等を行っている研究者や芸術家を日本に招聘する計画(「森フェローシップ」)等がある。 


 核問題に関しては、日本は、インド及びパキスタンが核不拡散上の進展を示すことを強く求めており、両国に対する経済措置を維持している(注)。森総理大臣からは、インド、パキスタン両国首脳に対し、改めて包括的核実験禁止条約(CTBT)署名を始めとする核軍縮・不拡散分野での一層の進展を求め、両国からCTBT発効まで核実験モラトリアムを継続する旨の確認を得た。これを受け、経済措置の枠内でインドに対しては継続中の円借款2案件の資金供与を、パキスタンに対しては同国の経済状況等を勘案し、1件の円借款の追加的資金供与に対し前向きに対応する旨伝えた。また、これ以前にも、2月の橋本総理大臣外交最高顧問のインド訪問等、機会があるごとにハイレベルでの働きかけを粘り強く続けている。
 また、インド・パキスタン関係については、両国が、「ラホールの精神」の下、対話を通じたカシミール問題の平和的解決に向け努力を続けることを期待している。

(注) 日本は98年5月のインド及びパキスタンによる核実験の実施を受け、新規の無償資金協力(緊急・人道的性格の援助及び草の根無償を除く)及び新規の円借款の停止等の経済措置を決定した。


(5)大洋州

【大洋州情勢】

 オーストラリアは、99年頃から東チモール問題への対応をめぐり、インドネシアとの関係で緊張を招いたが、6月及び11月に両国首脳による会談が行われたほか、12月7日から8日には第5回オーストラリア・インドネシア閣僚会議をキャンベラで開催し、インドネシアの経済復興促進のための共同行動計画を採択するなど、関係の改善に努めている。
 また、オーストラリア政府は、公開討議も含めた国防政策の見直しを実施し、12月に7年振りとなる国防白書を発表した。同白書では、同国の戦略目標として、(A)国土防衛、(B)近隣諸国の安定、領土保全及び一体性の促進、(C)安定と協力の促進に向けた東南アジア諸国との協力、(D)アジア太平洋地域全体の戦略的安定の維持への貢献、及び(E)国際平和維持のための国際社会、特に国連との協力、の五つが挙げられ、今後10年間で実質年3%の国防費増額を行い、国防能力を向上させる計画が盛り込まれている。
 ニュー・ジーランドでは、99年末に成立したクラーク政権が産業振興、公的年金制度の見直し、教育の質の向上、環境保全等に取り組む旨発表しており、これまで、所得税率の引き上げ、高齢者年金支給水準引き上げ、F-16戦闘機導入中止等の政策を実施してきている。
 太平洋島嶼国では、5月にフィジーで、6月にはソロモンで政治危機が相次いで発生した。フィジーでは、5月、フィジー系の政治的優位の強化を主張する民間人ジョージ・スペイト率いる武装勢力が議会を占拠し、インド系のチョードリー首相ら30人を人質として拘束する事件が発生したが、その後、軍が全権を掌握し、現行憲法は廃止され、7月、ライセニア・ガラセ氏を首相とする暫定文民政権が発足した。ソロモンでは、6月、反政府武装勢力が、ウルファアル首相を自宅で拘束する事件が発生した。その後、ウルファアル首相は辞任し、野党のソガワレ党首が首相に選出された。

【日本との関係】

 日本は4月22日、南太平洋フォーラム(現太平洋諸島フォーラム(PIF))に加盟する16か国・地域の首脳、閣僚を招待し、宮崎で「太平洋・島サミット」を開催した。議長を務めた森総理大臣より、「若者」、「海」、「未来」をキーワードとする「太平洋フロンティア外交」を推進していく方針が表明され、その具体化としての日本の一連の政策を発表した。「太平洋・島サミット」では、「太平洋・島サミット宮崎宣言」と「太平洋環境声明」が採択され、日本と太平洋島嶼国のパートナーシップの今後の更なる発展の端緒となる大きな一歩となった。
 また、11月には浅野政務次官がキリバスにおけるPIF域外国対話に参加し、日本と太平洋島嶼国との関係の一層の強化について、関係首脳、閣僚と「太平洋フロンティア外交」へのコミットメントを明確にアピールした。

   2.北米
(1)米国

【米国内政】

 好調な米国経済を背景に、60%前後と高い支持率を維持してきたクリントン大統領は、2000年1月27日、多くの政策提案を盛り込んだ任期中最後の一般教書演説を行い、任期最後まで政策課題に意欲的に取り組もうとする姿勢を示したが、国内政局は、年明けとともに大統領選挙を中心に動き始めた。
 1月上旬、民主・共和各党の大統領選挙立候補者による討論会が開始され、各党指名候補を絞り込むための予備選挙が、1月24日のアイオワ州における党員集会(コーカス)、2月1日のニューハンプシャー州での予備選挙により幕を開けた。しかし、予備選挙期間を2か月以上も残した3月中旬までに、民主党については、ゴア副大統領が唯一の対立候補であるブラッドレー元上院議員の挑戦を退け、また、共和党については、予備選初期の段階で一部の州で苦杯を嘗めたものの、ブッシュ・テキサス州知事が党指名獲得を確実にしたことから、以降、11月7日の投票日まで長丁場の本格的選挙戦が展開されるに至った。選挙の争点は、米国経済の好景気や米国が直面する外交上の緊急課題がないこともあって、専ら国内問題が中心となった。具体的には、好景気により生じる財政黒字の使途、教育、さらには約8000万人のベビーブーマー世代層の引退開始が迫りつつあるという事情を背景とする高齢者医療保険制度・社会保障(公的年金)制度の改革問題等が主たる争点となった。
 選挙戦では、ブッシュ候補が、「思いやりのある保守主義」を標榜し、制度改革や超党派による結果達成を主張したのに対し、ゴア候補は、「繁栄と進歩」を唱え、現政権の政策路線継続を主張した。両候補の支持率は、一進一退を繰り返しつつも、ほぼ拮抗したまま推移し、1960年以来の接戦選挙とも言われる中で、特に、中西部諸州を中心とした接戦州の帰趨が選挙結果を左右するとして注目された。
 選挙結果は、開票が進むにつれ予想を上回る大接戦の様相を呈し、結局、当選者の判明はフロリダ州の選挙結果如何の状況となった。同州の選挙結果をめぐっては、ゴア候補の陣営が手作業による再集計を請求したことに端を発し、司法府をも巻き込む形で、11月7日の投票から36日間にわたり争われるという異例の展開をたどった。最終的には、連邦最高裁判所の判決がこの争いに決着をつけ、ブッシュ候補がフロリダ州の大統領選挙人を獲得することにより当選が決まったものの、一般得票総数ではゴア候補がブッシュ候補を上回るという、いわゆる「ねじれ現象」(1888年以来、112年振り)が生じた。
 大統領選挙と同時に連邦議会議員選挙が行われたが、事前の予想では、上院は共和党が多数を維持、下院は民主党の議席増により多数党返り咲きの可能性有りとも見られていた。実際の選挙結果は、上院は120年振りの両党同数に、また、下院は民主党の議席微増となり、両党の勢力が伯仲することとなったため、新議会における議会運営をめぐる両党間の駆け引きや、共和党新政権が議会といかなる関係を構築していくのかが注目されている。なお、今回の議会選挙では、ニュー・ヨーク州選出上院議員選挙に出馬したヒラリー・クリントンが、大統領夫人としては初めて議員に当選した。

【米国外交】

 政権終焉を目前にしつつも、クリントン大統領は積極的に外交課題に取り組んだ。
 米中関係では、関係改善に向けた動きが多く見られた。まず、前年の在ユーゴ中国大使館誤爆事件以来途絶えていた軍事交流が再開され、6月にはオルブライト国務長官が中国を訪問し、「建設的な戦略的パートナーシップ」の構築を目指すことが再確認された。対中恒久的通常貿易関係(PNTR)付与法案も米国議会を通過し、10月にクリントン大統領の署名を得て成立した。他方、2月に下院で可決された台湾安全保障強化法案は議会の閉会をもって廃案となり、台湾をめぐる問題や人権問題等は、2000年は米中間で大きな焦点とはならなかった。
 ロシアとの関係では、米国による国家ミサイル防衛(NMD)計画と、それに関連する対弾道ミサイル・システム制限(ABM)条約の修正問題が大きな懸案の一つであった。9月、米国政府がNMD配備決定の先送りを発表したことなどによって、本件をめぐる米露関係の緊張化は当面回避された(第2章第1節2.(3)参照)が、ブッシュ政権が弾道ミサイル防衛に積極的な姿勢を既に明らかにしていることから、今後の動きに注目が集まっている。
 米朝間では、2000年10月に趙明禄(チョ・ミョンロク)国防委員会第1副委員長の米国訪問やオルブライト国務長官の北朝鮮訪問が実現するなど、これまでに見られない高いレベルの接触があった。その過程で、米国が対北朝鮮経済制裁の一部緩和を実施し、また、国際テロに関する米朝共同声明、米朝関係の改善とミサイル問題等を内容とする米朝共同コミュニケが発表された。
 中東和平については、7月にキャンプ・デイヴィッドで、米国・イスラエル・パレスチナの首脳会談を開催するなど、和平の実現に向けてクリントン大統領自ら積極的に関与し一部では大きな前進も見られたものの、結局、具体的成果は得られなかった(第1章3.(2)参照)
 また、クリントン大統領は、3月に南アジアを訪問し、インド、パキスタンに対して緊張緩和と核・ミサイルの不拡散等を訴え、11月には、ヴィエトナム戦争後米国大統領としては初めてヴィエトナムを訪問した。

【米国経済】

 91年3月に始まった米国の景気拡大は、2000年12月で史上最長の117か月を記録した。景気拡大の最大要因は、情報通信技術(IT)革命の成果による生産性の急速な上昇・株高による所得効果・規制緩和の推進・適切な財政・金融政策の実施などであり、その結果、低失業率と物価の安定の両立が実現し経済パフォーマンスは著しく進展した。2000年初頭には、高い成長による景気過熱感が見られたが、後半以降は個人消費などを中心に大幅な減速が見られた。景気減速が鮮明になったことを受けて、連邦準備制度理事会(FRB)は12月の連邦公開市場委員会(FOMC)において政策スタンスを「インフレ警戒型」から「景気配慮型」に大きく転換した。(さらに、2001年1月には緊急利下げに踏み切った。)
 好景気による税収増と歳出の抑制を背景に、2000会計年度(99年10月から2000年9月)の連邦財政は2370億ドルの黒字と、98年度以降3年連続の黒字となり過去最高を更新した。
 2000年後半から米国経済の減速は鮮明となっている。史上最高値圏内で推移していた株価は、インフレ懸念の顕在化から4月にダウ平均・ナスダック指数共に史上最大の下げ幅を記録した。ダウ平均は回復し1万ドルを超える水準で推移したが、ナスダック指数はハイテク企業の相次ぐ業績の下方修正やネットバブルの崩壊からピーク時(2000年3月)の5割以下まで下落が続いた。株価下落による内需の更なる減速・経常収支赤字の大幅な拡大等のリスク要因はあるが、依然として経済のファンダメンタルズが良好であることに加え、財政拡大・金融緩和の余地もある。今後は経済が軟着陸するか否かが焦点となっている。

(2)カナダ

 カナダでは、クレティエン首相の率いる自由党が経済の好調、財政黒字等を背景に引き続き高い支持率を維持し安定した政局運営を行った。野党側ではカナダ改革保守連合の結成等の動きがあったが、11月に行われた連邦総選挙の結果は、与党自由党が改選前の議席を上回る過半数を獲得して勝利を収め、クレティエン首相が3期連続で政権を維持することとなった。
 経済面では、2000年も年率平均5%前後の高い国内総生産(GDP)実質成長率を記録し好調を維持していたが、第4四半期に入り米国経済の後退を受け、成長率が鈍化した。ただし、消費者物価上昇率は2%台で推移し、失業率も6%台を維持しており安定しているほか、財政面でも、97年度に均衡財政を達成して以降黒字基調にある(99年度財政黒字115億加ドル)。
 外交面では、従来より積極的に取り組んできている国連平和維持活動(PKO)や対人地雷問題に加え、平和構築や人間の安全保障の分野でも独自の取組を行っている。また、カナダは北米自由貿易協定(NAFTA)を通じての北米市場統合の推進、アジア太平洋経済協力(APEC)への積極的参加及び米州自由貿易地域(FTAA)構想や大西洋経済パートナーシップ(TEP)構想への積極的参画、世界貿易機関(WTO)を通じての自由化推進を経済外交の主な柱としている。
 日加関係については、森総理大臣が5月にオタワを訪問した。またクレティエン首相が7月に九州・沖縄サミットのため日本を訪問した際にも、日加首脳会談が行われた。外相レベルでは、6月にダマスカス(アサド・シリア大統領国葬の際)で、また7月の九州・沖縄サミットの際にアックスワージー外相と河野外務大臣との間で日加外相会談が行われた。日加間の協力分野は多岐にわたり、賢人会議「日加フォーラム」の第4回会合が10月に、第2回「平和と安全に関する日加協力シンポジウム」が11月に東京で開催された。
 二国間の経済関係は、大きな懸案事項もなく、基本的に良好である。日本の対カナダ貿易は99年輸出・輸入額とも前年を下回ったが、2000年には、前年同期比プラスに転じ、近年の減少傾向に歯止めがかかった。

   3.中南米
 2000年の中南米は、全般的に政治的安定と経済発展が続く中で地域統合の更なる深化も見られた。しかし、一部の国で政治的不安定が見られたほか、貧富の格差等の社会問題が深刻化している。このような地域情勢を踏まえて、日本政府は、中南米地域の中長期的安定の確保、日本の民間セクターによる経済活動への支援、さらに、国際市場への重要資源の安定供給・流通と日本のエネルギー政策上の利益の確保を外交課題と位置づけ、諸々の施策を講じてきた。また、11月に初の日・カリブ閣僚レベル会議を開催し、日本の中南米との関係に一層の幅を持たせたことも大きな成果であった。

【政治・社会:進展する民主化と今後の課題】

 2000年には、グァテマラ(1月)、ウルグァイ及びチリ(3月)で新大統領が誕生したほか、ヴェネズエラでは、新憲法の下で7月、チャベス大統領が圧倒的な支持を得て再選された。メキシコでは、7月の大統領選挙で野党国民行動党のフォックス候補が勝利し、71年間で初めて政権与党が交代した。このように、80年代にほぼ民政移管を達成した中南米地域は政治的におおむね安定的に推移し、民主化の一層の定着が見られたものの、エクアドル政変、パラグァイでの退役軍人等によるクーデター未遂等、一部の諸国では不安定さが見られた。
 日本政府は、このような中南米地域に対し、その中長期的な安定と発展の確保を一つの重要な柱として中南米外交を行っている。ペルーの大統領及び国会議員選挙に際しては、米州機構(OAS)が行う選挙監視に対し、選挙監視要員を派遣するとともに資金援助を行った。また、コロンビア政府がゲリラとの武力抗争の終結、麻薬対策及び経済社会開発等を目指して99年に発表した「プラン・コロンビア」を受け、日本は人道及び経済社会開発分野の支援に積極的に取り組んでいる。

【経済地域統合の更なる拡大・深化】

 中南米経済は、ブラジル及びメキシコを中心としておおむね順調に推移し、地域全体では4%の成長が達成されたと見られる。景気低迷の続いていたアルゼンティンでは、12月に国際通貨基金(IMF)を中心とする国際金融支援策が発表され、市場の懸念は当面払拭されたものの、景気の低迷及び厳しい財政状況に変化はなく、引き続き動向が注目される。
 地域経済統合については、更なる拡大と深化への努力が続いた。8月にブラジリアで開催された初の南米首脳会議では、南米南部共同市場(メルコスール)とアンデス共同体との間で、2002年1月までに自由貿易協定を締結することが宣言された。米州自由貿易地域(FTAA)の創設に向けては、米国の動向が交渉の鍵となっている。また、メキシコ及びチリより日本との自由貿易協定締結の希望が表明されている。

【地域協力】

 10月、東京で第4回日・メルコスール高級事務レベル協議を開催し、両地域間の経済面における協力につき確認した。11月には東京で、初の日・カリブ閣僚レベル会議を開催し、日本は、カリブ諸国の努力に対する支援を盛り込んだ協力策を発表した。
 また、8月、政治、経済、文化等の分野における中南米と東アジアの間での相互理解の向上、協力関係強化を目的とした東アジア・ラテンアメリカ・フォーラム(EALAF)の第2回高級事務レベル会合がチリにて開催された。2001年3月に初の外相会合を開催することが合意され、今後、これまでは存在しなかった東アジアと中南米の対話の枠組みとして発展していくことが期待される。

【ペルー】

 99年12月に3選出馬を表明したフジモリ大統領は、2000年5月の決選投票で勝利して7月に3期目の政権が発足した。米州機構(OAS)は決選投票プロセスに疑問を提起したが、その後、フジモリ大統領の当選を事実上追認する代わりに、(A)司法改革、(B)選挙制度改革、(C)表現と報道の自由等を柱とする民主化措置を提案した。右を受けて、与野党の間で民主化対話が開始された。
 2000年9月、大統領の側近であるモンテシノス国家情報局顧問が野党から与党に所属替えした国会議員へ金銭を手渡している映像が公開されたことを契機に、フジモリ大統領は、大統領選挙及び国会議員選挙の早期実施、自らの大統領選挙不出馬を表明した。11月、国会議長の不信任案が可決され、野党が国会主導権を握った。同大統領は、ブルネイでのアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議に出席の後に立ち寄った日本で辞表を提出したが、国会はこれを受理せず、事実上同大統領を罷免した。この結果、憲法規定に従ってパニアグア国会議長が大統領に就任し(任期は2001年7月28日まで)、デ・クエヤル元国連事務総長を首相兼外相に指名した。
 日本はパニアグア大統領の就任を祝すとともに、今後の日本の対ペルー政策には基本的に変更はない旨の就任メッセージを発出した。
 なお、フジモリ前大統領は辞任表明後も、引き続き日本に滞在しているが、12月、同人の日本国籍が確認された。

   4.欧州
(1)欧州連合(EU)

 2000年はEUが、その深化と拡大に向けて着実に歩みを進めた1年であった。

【拡大と機構改革】

 2月には、これまで加盟交渉を実施してきているポーランド、チェッコ、ハンガリー、エストニア、スロヴェニア及びサイプラスの6か国に加えて、ルーマニア、スロヴァキア、ラトヴィア、リトアニア、ブルガリア及びマルタの6か国との加盟交渉が新たに開始された。
 同時に、こうしたEUの拡大に対応するためにEUの機構改革について協議するための政府間会合(IGC)が開始され、欧州委員会の構成、特定多数決票数配分、特定多数決適用範囲の拡大等について議論が行われた。
 12月のニース欧州理事会においては、首脳レベルでの夜を徹した調整が行われた結果、これら機構改革問題は、新しいEUの基本条約となるニース条約に関する合意によって一応の決着を見た。この結果、欧州委員会の構成、特定多数決の新たな適用分野や、特定多数決の新しい票配分、一部の国だけが特定の政策について統合を進める「より密接な協力」の発動要件の緩和、欧州議会の議席再配分等が合意された。また、更なる条約の再編、EUと各国の権限配分の明確化等について議論し、ニース条約を更に改訂する条約交渉のための政府間会合を2004年に開始することも合意された。

【経済分野における進展】

 2000年は、特に、情報通信技術(IT)、税制調和、及び欧州会社法の制定について大きく前進した。
 IT分野においては、2000年6月に開催されたフェイラ欧州理事会において、情報社会の恩恵をあらゆる欧州市民が享受できるよう、「電子欧州行動計画」(eEurope2002)が承認され、欧州における新たな経済への移行を確定的なものとするための条件を整備する戦略が具体的に提示された。
 同時に、フェイラ欧州理事会では、単一通貨ユーロの導入と歩調を合わせて長年議論を重ねてきた税制調和(tax coordination)についても、政治的合意に達した。
 12月のニース欧州理事会では、欧州会社法の成立に向けた動きがあった。今後、具体的な法令の実施までには更なる年月を要することが予想されるが、汎欧州レベルの会社(いわゆる「欧州会社」)の設立に道を拓くという意味で注目すべき前進と見られている。 

【ユーロ導入後の経済通貨統合】

 99年1月に導入されたユーロは2000年末で2年を経過したが、11月までは前年に引き続き対ドル・対円でのユーロの減価傾向が続いた。対ドル相場下落の要因として様々な指摘がなされたが、特に欧州から米国への証券投資・直接投資を通じた資金の流出及び欧州中央銀行(ECB)の金融政策への市場の信認の欠如を挙げる見方が多かった。ECBは、度重なる利上げと為替市場への介入(G7各国通貨当局との協調介入を含む)により過度のユーロ安の阻止を目指した。11月下旬以降、米国経済の減速が次第に鮮明となる中で、ユーロ相場の回復傾向が明確となっていった。ただし、これまで指摘されてきたユーロ圏の諸問題(硬直的な労働市場に代表される構造問題、域内経済格差の拡大やユーログループ(ユーロ圏蔵相の会合)とECBの役割分担等)が抜本的に解決されたわけではなく、今後も現在のユーロ相場が続くか否かは不透明である。
 経済通貨統合をめぐる2000年の動きとしては、ギリシャのユーロ参加決定とデンマークの国民投票におけるユーロ参加否決が挙げられよう。以前は経済収斂基準を達成していなかったギリシャについては、6月のフェイラ欧州理事会において2001年1月1日からのユーロ参加が決定された。デンマークについては、2000年9月、ユーロ参加の是非を問う国民投票が実施されたが、その結果はユーロ参加への反対票が多数となった。

【安保面での域内協力の進展】

 これまで経済・通貨分野で統合を進展させてきた欧州連合(EU)は、外交・安全保障政策分野においても統合を進めることで主体性を持った活動を進めつつある。
 中でも、99年12月のヘルシンキ欧州理事会で、北大西洋条約機構(NATO)が全体として関与しない場合でも、EU主導の軍事オペレーションを開始・遂行するため、平和維持任務、危機管理任務等を遂行できる5~6万人規模の危機管理部隊の創設や、関係機関の創設が合意されたことを受け、この目標の達成に向けた取組が進められた。
 その結果、兵員10万人以上、戦闘機約400機、艦船約100隻をプールすることが可能となった。また、西欧同盟(WEU)の平和維持任務、危機管理任務等をEUに移行することも決定された。

【オーストリア自由党への対応】

 2000年2月にオーストリアにおける国民党と自由党(注)の連立政権発足に対し、オーストリアを除く欧州連合(EU)加盟14か国は、自由党が参加するオーストリア政府と政治レベルでの二国間の公的関係を推進せず、受け入れない、国際機関におけるオーストリアの立候補者を支持しない、EU加盟国に駐在するオーストリア大使の接遇を実務レベルに限定する、という対オーストリア二国間措置を実施した。その後、中立的立場の「賢人」グループがオーストリアにおける人権状況等を調査し、その結果も踏まえ、9月に議長国のフランスは、対オーストリア二国間措置の解除を発表した。
 この措置の過程で、EU基本条約の民主主義や人権等のEUの基本的価値に反する違反の存在の認定に関する議論がなされ、ニース条約では理事会における加盟国の5分の4以上の賛成で、EUの基本的価値に反する明白なおそれがあることを決定できるとする早期警戒制度が設定された。

(注) 極右ともいわれるハイダー・ケルンテン州知事が選挙時の党首。


(2)中・東欧

 20世紀の締めくくりとなる2000年の中・東欧は、この地域における民主化、市場経済化が更に進捗する1年となった。クロアチアでは、99年末のトゥジマン大統領の死去を受けて1月に実施された大統領選挙で、国際社会との協調や国内の民主化を公約に掲げるメシッチ大統領が選出され、また、ユーゴでは、9月の連邦大統領選挙を契機に民族主義的政策により国際的に孤立していたミロシェヴィッチ政権が崩壊した(第1章3.(3)参照)。10月にはポーランドにおいて民主化を推進する現職のクワシニェフスキ大統領が再選される等、各国において民主主義、市場経済を志向する政党が勝利を収めた。
 反面、旧ユーゴ地域における民主化、市場経済化はまだ始まったばかりである。例えばボスニアでは、4月及び11月の選挙は公平かつ民主的に実施され、2001年2月には非民族主義的な中央政府も成立したが、民族主義的な勢力もいまだ根強い。また、その他の南東欧諸国も紛争の余波を受け、中・東欧の北部に位置する国々に比して改革の速度は遅れている。南東欧地域の安定と繁栄は、国際社会における重要課題の一つとなっており、日本は、日本と欧州のクロスサポート(相互支援)という観点も踏まえ、積極的に南東欧諸国の改革努力を支援している。
 日本は、これまで中・東欧諸国の民主化・市場経済化のための改革努力を支援してきたが、中・東欧諸国における民主化の進展により、日本と中・東欧諸国との関係も変化してきている。特に北部の諸国との関係は、重要なパートナーとして、政治・経済・文化等、様々な分野において関係を深化させていくという関係に移行してきている。このような考えから、4月のゲンツ・ハンガリー大統領の日本訪問において、森総理大臣は、両国間関係が交流と協力を深めていく新たな出発点に立ったことを伝えた。また、10月の清子内親王殿下のスロヴァキア、スロヴェニア御訪問は、日本と中・東欧の関係を深めるものとなった。

   5.ロシア及び旧ソ連新独立国家(NIS)諸国
【プーチン大統領就任】

 ロシアでは、99年末のエリツィン大統領の辞任を受け、大統領選挙が3月26日に行われた。選挙戦の始めから当選を確実視されてきたプーチン首相(99年12月31日から大統領代行)は、1回目の投票での当選に必要な得票(50%)を超える約53%の票を得て当選を決めた(2位は約29%のジュガーノフ共産党議長)。5月7日、プーチン大統領は正式に就任し、直ちにカシヤノフ内閣を組閣した。
 国民からの強い支持(注)や政権に対する議会の宥和化などを背景に、プーチン大統領は就任直後から政策目標の「強い国家」の建設に向けての政策を次々と実施し、「ポスト・エリツィン」時代の新しいリーダーとして指導力を発揮した。

(注) 後述の原潜沈没で批判を浴びたが、2000年を通じてプーチン大統領の支持率はおおむね60%から70%の高水準を維持。


 内政面では、エリツィン時代に発言力を増した地方への統制が強化された。5月にプーチン大統領は、七つの連邦管区を設置して各管区の大統領全権代表が知事等の「お目付役」となる体制を整備し、さらに、知事等と連邦院議員の地位の分離や知事等の解任制の導入に関する法律を8月上旬までに成立させた。また、地方に対して連邦法に矛盾する地方法の是正を強く働きかけた。チェチェンでも断固たる姿勢を示した。なお、12月には旧ソ連邦国歌の曲の復活を含む国家シンボルに関する法律の採択にも成功し、注目された。
 経済面では、国際石油価格の高値維持や98年のルーブル切り下げを背景に産業及び投資が復調する中で、プーチン大統領は経済の本格的な構造改革を目指す作業に着手した。特筆されるのは社会経済プログラムの策定(7月)や所得税一本化等を柱とする税制改革(8月)などで、12月には新生ロシア史上初の均衡予算(2001年度)が採択された。なお、プーチン大統領は、エリツィン政権下で勢力を拡大した有力実業家からは一線を画す姿勢を示しつつ(注)、財界との秩序ある関係を模索した。

(注) 例えば、6月のグシンスキー「モスト・グループ」総裁の逮捕等。


 外交面では、プーチン大統領は就任直後から多くの国を訪問し、エリツィン時代に比して首脳外交は格段に活発化した。米国との間では、国家ミサイル防衛(NMD)反対の立場から活発なやりとりを行うとともに、他のG8首脳とも二国間及び多国間の場で積極的に対話を進めた。また、アジア太平洋諸国に対しても、中国、北朝鮮(共に7月)、日本(9月)、インド(10月)への訪問やアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議出席(11月)等を行った。対独立国家共同体(CIS)諸国外交も、ベラルーシとの連合国家創設プロセスの推進等を含め積極的に実施した。
 これまでのところ、プーチン大統領は、就任以来強力な政敵や抵抗には遭遇せず、政権の運営はおおむね安定的に推移してきている。今後、プーチン大統領は政策の真価を一層問われていくことになるが、国際石油価格の下落やルーブル切り下げ効果の減少など経済面での不安要因も現れつつある中で、大統領が政局の安定を維持していくのか、経済の構造改革をどれだけ進められるのかが注目される。

【チェチェン問題】

 99年8月に紛争が再燃したチェチェン共和国では、ロシア連邦軍が攻勢を続け、2000年2月頃には首都グロズヌイを含め共和国平野部をおおむね制圧した。この中で、チェチェン共和国での統治の回復・強化を図るプーチン大統領は6月にチェチェン臨時行政府を設置し、同共和国を連邦大統領の直轄統治下に置いた。臨時行政府の長官にはイスラム教指導者出身のカディロフが任命された。
 しかしチェチェン武装勢力は、南部の山岳地帯を中心に一定の勢力を維持しつつ、破壊活動等により連邦軍の掃討作戦への抵抗を続けており、状況は依然予断を許さない(連邦政府側の発表では、99年8月以来のチェチェン武装勢力側の死者は約1万3500人、連邦政府側の死者は約2600人)。今後は軍事作戦とともに、行政府の強化や経済的な復興も重要な課題となる。

【原子力潜水艦「クルスク」沈没】

 8月12日にコラ半島沖バレンツ海にて演習中の原子力潜水艦「クルスク」号が沈没し、英国、ノールウェーの協力を得ての救出作業にもかかわらず、結局乗組員118人全員が死亡するという事件が発生した(沈没の原因は調査中。ロシア側の発表では放射能の異常は観測されていない。遺体は一部が引き揚げられたが、船体の引き揚げ及び残りの遺体回収は2001年夏と報じられている)。
 この事件をめぐっては、休暇中のプーチン大統領が事故現場に急行しなかった等の事情もあって、一時政権批判の声が強まり、プーチン政権は発足後初めて苦境を味わうことになった。

【旧ソ連新独立国家(NIS)諸国】

 断固たる経済改革の実行が課題となっているウクライナでは、クチマ大統領が政府・議会間の円滑な政策調整メカニズムを創設することを念頭に、4月に議会制度の改革等の是非を問う国民投票を実施し、大多数の国民の支持を得た。ベラルーシは、国家運営についてかねてより欧米諸国から非民主的との評価を受けていたが、10月行われた下院選挙も民主的選挙のための国際基準が満たされていなかったとして批判された。
 中央アジアでは、カザフスタンが当初の予想を上回る経済成長を示したのに対し、キルギスでは対外債務の増加、貧困層の拡大などの問題を抱えている。キルギスでは、2月に議会選挙が、また、10月に大統領選挙が行われたが、共に欧米諸国より非民主的であるとの厳しい評価が下された。ウズベキスタンでは、これまで進めてきた「漸進主義」による経済改革によって安定した成長を示していた経済にも停滞が見られた。タジキスタンでは、2月及び3月に旧反政府勢力も参加する議会選挙が大過なく実施され、合意されていた和平プロセスが完了した。日本政府はこれまでタジキスタンにおける和平達成のために支援を行ってきたが、同国における平和構築のために日本を含めた国際社会の支援が引き続き期待されている。8月から10月にかけてウズベキスタン及びキルギスにイスラム過激派が侵入したが、大きな混乱もなく鎮圧された。
 コーカサス地域では、ナゴルノ・カラバフ、アブハジア、南オセチアにおける民族紛争の解決に向け、努力が続けられたが、目立った進展はなかった。グルジアでは、4月に大統領選挙が行われ、現職のシェヴァルナッゼ大統領が圧倒的支持を得て再選されたが、もともと資源に乏しい上、国内に民族紛争を抱えており、厳しい情勢にある。

   6.中東
【イラク】

 イラクは、90年8月のクウェイト侵攻以来、国連の経済制裁の下に置かれている。イラクが大量破壊兵器の廃棄を始めとする関連安保理決議を履行することが重要であり、これは経済制裁解除のためにも重要である。99年12月、国連安保理は、国連の作業に対するイラクの協力拒否という状況を背景に、大量破壊兵器の廃棄に関する新たな委員会(国連監視検証査察委員会(UNMOVIC))を設置するとともに、イラクが120日間UNMOVIC及び国際原子力機関(IAEA)に全ての点で協力した場合、経済制裁を120日間停止することを主な内容とする国連安保理決議1284を採択した。日本を含む各国は、イラクに対し、UNMOVICへの協力を始めとする関連安保理決議の履行を働きかけている。しかしながら、これまでのところイラクはUNMOVICへの協力を拒否しており、イラクは依然として国連の経済制裁の下に置かれている。また、2000年を通じて、散発的に「飛行禁止区域」での米英軍による空爆が行われた。その一方で、フランスやロシアからの航空機乗り入れ、ヴェネズエラ大統領やジョルダン首相のイラク訪問や、バグダッドと地方都市を結ぶ国内線旅客機の運行の再開等、国連の経済制裁の下での新たな展開も見られる。
 国連による経済制裁が長期化する中、イラク国内では医薬品や食糧等の不足など人道状況が悪化している。このため、96年12月以来、イラクに対する経済制裁の例外として、国連監視下で石油を輸出することを許可し、石油代金によって人道物資を購入する計画(「Oil For Food」計画)が、国連安保理決議に基づき実施されている。
 日本はイラクによる関連安保理決議の完全な履行を求めるとの立場を堅持しているが、同時にイラク国民の人道上の要請に対応する必要があること等に鑑み、2000年12月、この計画の日本における円滑な実施に努めることを主な内容とする閣議了解を行った。

【イラン】

 2000年2月及び5月に実施された第6期国会選挙では、ハタミ大統領の改革路線を支持する議員が全議席数290のうち6割以上を獲得し、国民の更なる改革への期待が示された。しかし、同国会選挙以降、改革を支持する要人の暗殺未遂事件や司法当局による改革派系新聞の一斉発行禁止処分、ジャーナリストの逮捕・収監等、保守派勢力による改革支持派への圧力が強まっている。また、ハタミ政権において言論・文化の自由化の推進役であったモハジェラニ文化・イスラム指導相が辞任(12月)に追い込まれた。今後も2001年6月に実施予定の大統領選挙に向け、ハタミ大統領の進める改革路線に対する保守派勢力からの抵抗が予想される。その他、内政面ではユダヤ系イラン人のスパイ容疑をめぐる裁判が国際的に注目され、裁判の適正手続きや透明性の確保が求められている。
 対外関係においては、2000年、ハタミ大統領による中国(6月)及びドイツ(7月)訪問を通じた主要国との関係強化やアルジェリアとの外交関係再開(9月)といった中東地域の諸国との関係改善が進んでいる。一方、米国との関係については、米国による対イラン経済制裁の一部緩和等、改善へ向けた動きも見られたが、大きな進展にはつながらなかった。
 日本は、ハタミ大統領の進める改革路線及び国際社会との関係改善を支持し、同国が地域及び国際社会の平和と安定のためにより積極的役割を果たすよう働きかけを行ってきている。2000年10月、イラン大統領としては初めてハタミ大統領が日本を訪問し、天皇陛下との御会見、森総理大臣との首脳会談及び共同声明への署名を行い、幅広い分野における両国共通の立場及び協力の展望を明らかにしたほか、中東諸国首脳として初めて国会において演説を行った。同時に、森総理大臣より、近年のイランのミサイル開発についての懸念を表明するとともに、テロ問題での一層の取組を促した。
 また、この機会に、日本企業によるアーザーデガン油田開発に関する優先交渉権の獲得やイランへの原油輸入代金前払い等に関する合意等がなされた。

【湾岸諸国等】

 湾岸地域に残存する多くの未確定国境のうち、2000年6月にはサウディ・イエメン間で国境画定に合意し、同年7月にもサウディ・クウェイト間で海上国境画定について合意に到達した。その一方で、イランとアラブ首長国連邦間の三島問題(アブー・ムーサ島、大トンブ島、小トンブ島)をめぐる係争は引き続き対話の糸口が見えておらず、また、99年12月に一旦首脳間で平和的解決を検討することに合意したカタル・バハレーン間のハワール諸島等をめぐる国境紛争も進展が見られていない。
 2000年10月には、その背景等はいまだ明らかではないが、イエメン沖で米駆逐艦コールに対する爆破事件が発生した。
 エネルギー面では、アラビア石油(株)が有していたカフジ油田のサウディ・アラビア分採掘権の期限が2000年2月末に到来したが、期限は延長されなかった。政府としても本交渉への側面的支援として、サウディ政府に対し採掘権更新交渉の環境作りの提案を行ったが、結局、契約の当事者であるアラビア石油(株)とサウディ政府の間で合意に達することができなかった。今後も、カフジ油田のクウェイト分(2003年1月)を始めとして、2018年までに湾岸地域に有する自主開発油田採掘権の期限が訪れる。また、日本の湾岸に対するエネルギー依存度は高まっており、世界経済全体についても湾岸諸国の重要性が高まることは確実である。
 (このような中、河野外務大臣は2001年1月、湾岸諸国(カタル、アラブ首長国連邦、クウェイト、サウディ・アラビア)を訪問した。)

   7.アフリカ
【2000年の動き】

 政治面では、3月にはセネガルで、12月にはガーナで、平和裡かつ民主的に行われた選挙の結果、与野党間での政権交代が行われ、90年代にサハラ以南アフリカで急速に進展した民主化の流れが定着している国があることを示した。また、長年内戦に苦しみ、無政府状態が続いてきたソマリアでは、2000年8月に暫定大統領が選出された。一方では、99年12月の軍事クーデター以降、軍部暫定政権による統治が行われていた象牙海岸では、2000年10月に行われた大統領選挙をめぐって再び騒擾が発生し、今なお政治的に不安定な状況が続いている。また、ジンバブエにおいては、土地改革をめぐり与野党間での緊張が高まっており、政治的安定の確保は引き続きアフリカ諸国にとって大きな課題であると言える(アフリカにおける紛争への取組については、第1章3.(4)参照)。
 経済面においては、多くの国が世界銀行及び国際通貨基金(IMF)と協力しつつ、市場経済原理の導入、緊縮財政等を中心とする構造調整改革を進めている。2003年までの中期で見れば、アフリカ諸国の半数以上の国で年平均国内総生産(GDP)成長率が5%を上回るとの見通しがある一方で、ココア、コーヒーなどの一次産品市場の動きによって影響を受ける国も多く、国際競争力のある産業育成が総じて進んでいないことから依然として経済基盤は脆弱である。同地域の90年代の1人あたりGDPは70年代より低下しており、人口の4分の1が1日1米ドル以下の所得での生活を強いられる状況に大きな改善はない。さらに、アフリカ諸国の多くでは累積対外債務への返済が国家財政の大きな負担となっており、世銀・IMFが認定する重債務貧困国(HIPCs)41か国のうちアフリカ諸国が32か国を占めるなど、アフリカ諸国の債務問題は国際社会においても深刻な問題となっている。
 また、アフリカにおいてマラリア等の感染症の蔓延を防止することも急務となっている。中でも、アフリカは、世界の人口の1割を占めるがエイズ感染者の7割が集中しており、平均寿命の低下、家計収入の減少、孤児の激増、退学率の上昇、生産性の低下、財政負担の増大等、社会・経済の全般にわたって著しい悪影響を及ぼしており、人類全体の問題として懸念されている。

【日本の取組】

 日本は、これまでアフリカの開発及びその基盤となる政治的安定の確保のため、アフリカ諸国による努力を積極的に支援してきている。
 特に、開発への支援としては、日本は98年10月に東京にて開催された第2回アフリカ開発会議(TICADⅡ)の際に採択された「東京行動計画」の着実な実施に向け、他のドナー国・国際機関、アフリカ諸国と共に、フォローアップに積極的に取り組んでおり、教育・保健・衛生等基礎生活分野(BHN)を中心とした支援を行っている。特にエイズ対策では九州・沖縄サミットで「沖縄感染症対策イニシアチブ」が表明されたが、対アフリカについても、2000年11月に「HIV/AIDS分野における南南協力」をテーマに保健医療分野アフリカ開発セミナーを開催するなど取組を強化している。
 森総理大臣が九州・沖縄サミット、国連ミレニアム総会の機会を含め、合計3か国の首脳と会談を行い、河野外務大臣も、G8宮崎外相会合の機会を含め、合計6か国の外相と会談を行った。
 (森総理大臣は2001年1月に南アフリカ、ケニア、ナイジェリアを訪問した。特に、最初の訪問国である南アフリカで行った政策スピーチでは、(A)アフリカ問題に取り組む日本の決意を示し、(B)開発支援及び紛争予防・難民支援を車の両輪とする日本の対アフリカ協力の基本的考え方を表明し、(C)幅広い双方向交流に基づく新たな日・アフリカ関係を発展させていくというメッセージを内外に発信した。)



第4章 / 目次


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