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第1章 総括

   1.概観 - 21世紀の世界とアジア太平洋地域
 21世紀の幕が開いた。過ぎ去った20世紀は、人類が未曾有の繁栄と同時に、歴史上比類のない戦争の惨禍を被った時代であった。アジア太平洋地域も、その主たる舞台の一つとなった。21世紀には、この地球の一人一人が、平和と繁栄を享受し、幸福を実現できる世界を築かねばならない。日本は、先進民主主義国の主要なメンバーとして、また、アジア太平洋地域の一員として、このような国際社会を建設するための国際協調において、リーダーシップを発揮し、その責任を果たすことが求められる。
 21世紀の国際社会は、どのように形を整えるのであろうか。また、日本の位置するアジア太平洋の特徴はどのようなものとなるのであろうか。その中で、日本外交が直面する課題はどのようなものであろうか。新しい時代の潮流は、20世紀の最後の瞬間に、既にその姿を見せ始めている。本年の外交青書においては、20世紀最後の年を振り返りつつ、新たな時代を迎えた国際社会とアジア太平洋地域にみられる特徴的な事象と、日本外交が21世紀に直面するであろう課題について鳥瞰することとしたい。

【21世紀を迎えた国際社会】

 21世紀を迎えた国際社会の新たな変貌を観察するには、次の三つの視角が必要である。
 第1に、普遍的価値観及びそれに基づく諸制度の一層の広がりである。日本を含む先進民主主義諸国が、20世紀後半を通じて拠って立ってきた、自由、民主主義、基本的人権の尊重、市場経済、多角的自由貿易体制といった価値観や制度が、今日の国際社会において、更に高い普遍性を獲得してきている。一部には、民族紛争の頻発、宗教上の過激主義の活発化や民主化の過程の中での揺れ戻しといった事象も見られるが、総体としては、これらの価値観や制度は、冷戦という価値観の相剋の時代を越えて、80年代から90年代を通じ、旧東欧諸国、旧ソ連邦圏、中南米、アジア、中東、アフリカにおいても広く共有されるようになってきた。
 民主主義との関係では、アジアにおいて、90年代には、韓国が先進民主主義国に加わった。台湾では、民主選挙を通じて、初めて国民党以外の党から指導者が選出された。インドネシアでは、アブドゥルラフマン・ワヒッド大統領が民主的な手続きを経て選出された。また、欧州では、東欧革命、旧ソ連邦崩壊に続いて、旧ユーゴースラヴィアの分裂から生まれたユーゴの独裁的なミロシェヴィッチ政権が2000年に崩壊し、民主化を志向するコシュトゥーニツァ政権が誕生している。
 また、経済的にも、計画経済を掲げた共産圏の消失により、市場経済と自由貿易が、地球上を広く覆うシステムとして機能するようになった。旧東欧圏・旧ソ連圏の国々を含むかつての共産主義国の多くが、現在、市場経済化を進めつつある。また、改革開放路線を走る中国の世界貿易機関(WTO)加盟作業は最終段階にあり、加盟後に予想される経済的な変動に対処することが、現実の課題となっている。
 このような普遍的な価値観や制度の伝播が、次に述べる情報通信技術の発達によって大きく促進されていることが特筆される。国際的なメディアによる世界各地の紛争の映像は、世界の様々な紛争により引き起こされる人道上の惨劇を、直ちに高い国際的関心の対象としてしまうが、今日では、国境を越えて爆発的に普及しているインターネットを始めとする情報通信技術の発達が、一国内の人権問題や人道問題に対する国際世論の感度を、更に著しく高める結果を生んでいる。
 第2に、科学技術の進歩と、それに伴う人類の活動の進展がもたらすグローバルな諸問題への対応が、益々求められてきているということである。科学技術は、20世紀の人類の生活を大きく変化させた。それは人類の幸福の増進に大きく役立ったが、その一方で、地球温暖化問題や、オゾン層破壊の問題など、国家の枠組みを越えて、地球的規模で取り組まねばならない環境問題を引き起こしている。また、軍事技術の進展に伴い高度化を重ねてきた大量破壊兵器やその運搬手段である弾道ミサイルの拡散が加速化しており、新しい脅威をもたらしている。
 科学技術との関連で、特筆されるべきは、20世紀の最後に実現した情報通信技術(IT)の進歩である。その発展は、いまだとどまるところを知らない。また、人、モノ、サービス、資本、情報などの国境を越えた移動が驚異的なスピードで加速化している。それは、人類の繁栄を一層の高みに押し上げる力となる大きな可能性を秘めていると同時に、伝統的な価値観との相剋、貧富の格差の拡大、組織的な犯罪の拡大等の問題を生ぜしめている。
 第3に、国際的な協調行動の重要性が、ますます高まってきている。国際社会全体への普遍的価値観の浸透と、グローバルな対応を必要とする国際問題の出現によって、21世紀には、これまでに増して一層緊密な国際協調が必要となってきている。今後も、米国は、国際社会において総合的に突出した力を有する国で有り続けるであろう。しかし、21世紀の国際社会が直面する多種多様な問題に対処するためには、国際的な協調が不可欠である。自由、民主主義、基本的人権、市場経済、多角的自由貿易体制といった価値と制度を共有する国々が、協力して、責任を分かち合っていかなければならない。日本としても、このような取組に積極的に参画していく必要がある。
 また、189の加盟国を抱える唯一の普遍的国際機関である国際連合及び専門諸機関は、21世紀の国際的な協調を進めていく上で、中心的役割を果たすことが期待される。今後、国際連合及び専門諸機関は、多様化し、複雑化する国際社会の諸課題に的確に対応していかねばならない。そのためには、安全保障理事会を含む国連システムの強化が必要である。特に、安保理改革に関しては、2000年に開催された国連ミレニアム・サミット及びミレニアム総会において、155に及ぶ国々の首脳及び外相等が安保理改革を実現する必要性に言及し、安保理改革の動きに政治的な弾みを与えた。今後も、日本として、更に国連改革に積極的に取り組んでいかねばならない。(第1章6.参照)

【グローバルな諸問題と日本の役割】

 自由、民主主義、基本的人権、市場経済、多角的自由貿易体制といった普遍的価値や制度が、その本来の理念を国際社会において実現できるか否かは、国際社会が、これらの価値観や制度に対する新たな挑戦を克服できるか否かにかかっている。それらが、単に標榜されるにとどまらず、実際に個々の人間に幸福をもたらすことが重要である。そのためには、先進民主主義諸国を始めとして、志を同じくする多くの国々が、協力し合い、協調し合って、現在、人類が直面している諸課題に適切に取り組んでいかなければならない。
 日本は、第2次世界大戦に敗れた後に軍事大国となる道を放棄したが、武力行使を一般的に禁止した国連憲章や、多角的自由貿易体制を確立・強化した関税と貿易に関する一般協定(GATT)・世界貿易機関(WTO)のような普遍的な国際システムの下で、20世紀後半に大きく国力を回復・伸張させ、先進民主主義国家としての地位を揺るぎないものとするとともに、日本の歴史上最も高い水準の繁栄を達成することに成功した。この日本の成功は、日本国民の刻苦精励の結果であると同時に、これらの国際システムの存在に負うものである。また逆に、日本が依拠する国際的なシステムは、日本を含む多くの国々の協力によって支えられている。
 21世紀に、日本は、成熟した先進民主主義国家として、このような国際的なシステムやルールの創設及び強化に一層積極的に参画していかなければならない。日本は、現在経済再生のための努力を行っているが、こうした状況においてもなお世界第2の経済大国であり、国際社会が直面するであろう様々なグローバルな諸問題の解決に当たって、国際社会のリーダーの一員としてふさわしい役割を果たしていかなければならない。そして、その役割を遂行するに当たっては、言うまでもなく、国民の理解を得ながら国民とともに外交を展開しなければならない。
 21世紀に人類社会が直面する課題として、特に、次の五つの分野を取り上げたい。
 第1に、国際社会の平和と安定を脅かす大量破壊兵器とミサイルの問題である。
 核兵器の拡散の危険に対処し、核軍縮に向けた取組を進めることは、国際社会の大きな課題である。日本は、2000年に、核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議において、将来に向けた核軍縮措置の合意形成に当たり、積極的に具体的提案を行ったほか、国連総会に「核兵器の全面的廃絶への道程」決議を提出し、圧倒的多数をもって採択された。核のない世界を実現するための具体的道筋を示したこの決議に従って、日本は、核軍縮・不拡散に向けての着実な進展が生まれるよう、国際的な協調行動のために更にリーダーシップを発揮していかねばならない。また、化学兵器禁止条約や生物兵器禁止条約の普遍性を高め実効的に運用していくため、日本としても積極的に取り組んでいかねばならない。
 大量破壊兵器の運搬手段たるミサイルの拡散問題は、益々その深刻さを増している。核兵器等の大量破壊兵器は、その運搬手段たるミサイルに搭載されるとき、地域の、さらには世界の安全保障環境に対して、特に深刻な脅威となる。グローバリゼーションとIT革命の進展により、このような兵器に関する機微な技術の入手及び原材料の移転が容易になる場合があるものと思われ、この問題への取組に対する一層真剣な努力が不可欠となっている。また、ミサイル拡散の脅威への対処をめぐる諸問題は、主要国の外交・国防政策上の重要課題となってきている。このような流れの中で、2000年には、米国の国家ミサイル防衛(NMD)構想や、ミサイル拡散に対するグローバルな取組の在り方が、国際的に大きな議論を呼び、10月のミサイル輸出管理レジーム(MTCR)ヘルシンキ総会において今後「弾道ミサイルの拡散に立ち向かうための国際行動規範」を作っていくこと及びそのための草案について合意された。
 第2に、紛争の予防・解決と平和維持活動の分野である。今なお、世界各地で民族紛争や地域紛争が頻発している。今日の紛争は、従来型の国家間紛争というよりも、国内の民族・宗教紛争としての色彩が濃い。紛争の予防は、良い統治(グッドガバナンス)や持続的成長の問題とともに、国際社会の平和と安定を確保する上で、重要な政治的課題として国際的に認識されてきている。
 20世紀最後の1年間、中東和平問題、東チモール問題、コソヴォ問題、イラク問題、さらにはアフリカのシエラ・レオーネ、エティオピアとエリトリア間の紛争等、世界の地域紛争・問題について様々な形で取組が行われた。中東和平問題については、米国の積極的な仲介の下、永続的和平実現を目指した集中的な交渉が行われたが、その後、イスラエル・パレスチナ間の衝突が発生し、和平合意には至らなかった。東チモール問題及びコソヴォ問題に関しては、G8の枠組みにおける政策協調が引き続き行われた。また、国連東チモール暫定行政機構(UNTAET)や国連コソヴォ暫定行政ミッション(UNMIK)のように暫定的に行政機能を担うといった幅広い任務を付与された平和維持活動(PKO)の派遣を通じて、国連が重要な役割を果たした。日本は、7月のG8宮崎外相会合において、他のG8諸国と共に、紛争予防に関する「宮崎イニシアチブ」を取りまとめ、紛争予防に向けた取組の具体的な一歩を踏み出した。(第2章1節2.(2)参照)
 紛争の未然防止のために、あるいは、紛争発生後に回復された平和の維持のために、国連の平和維持活動の果たすべき役割は、今後とも引き続き大きい。2000年には「国連平和活動検討パネル」(注)による報告書が国連事務総長に提出され、国連の平和維持活動の機能強化の必要性が改めて強調されている(第2章第1節2.(4)参照)

(注) アナン国連事務総長により設置され、国際平和維持活動に限らず、紛争予防や紛争後の平和構築を含めた「国連の平和活動」の現状を包括的に見直し、制度上の問題点を明らかにした上で、改善のための勧告を得ることを目的とした有識者のパネル。「ブラヒミ」パネルと称され、8月、報告書を公表した。


 第3に、情報通信技術(IT)革命とグローバリゼーションへの対応である。人、モノ、サービス、資本及び情報などの流れの大幅な加速化は、20世紀後半の世界に一層の繁栄をもたらした。しかし、世界規模での競争の激化は、途上国のみならず先進国においても、競争における敗者や競争から取り残される者を生み出し、新たな貧困や、社会秩序の不安定化を招く危険性を孕んでいる。また、加速化するグローバリゼーションは、国や地域の伝統的な価値観との相剋を生み、他方で、グローバリゼーションに抵抗する動きが見られるようになってきている。
 2000年には、ITの積極的な活用と情報格差(デジタル・ディバイド)の解消の重要性が広く国際的に認識されるようになった。九州・沖縄サミットにおいて、森総理大臣は、議長として、IT問題に関する「沖縄憲章」を取りまとめ、国際的な情報格差の解消などに向けた国際協力・協調のための第一歩を踏み出した。このような取組は、IT問題に関する国際的取組の先駆けとなるものであり、同時に、日本自身の高度情報通信ネットワーク社会の形成の動きを促進することとなった(第2章2節4.参照)
 グローバリゼーションの利益が一層の繁栄をもたらすためには、国際的に多角的で自由なモノと資本の流通が制度的に確保されていることが前提であり、そのための制度の強化が引き続き重要である。欧州における経済統合を始め、世界においては、二国間や地域で自由貿易協定の締結に向けた動きが広く見られるようになってきているが、国際社会においてグローバリゼーションの利益を最大限に享受するためには、世界貿易機関(WTO)の下での多角的自由貿易体制の強化が不可欠である。2000年には、日本を含む関係国の様々な努力にもかかわらず、WTOの新しい交渉ラウンドの開始について合意することができなかった。今後、先進国のみならず途上国の意見にも耳を傾け、各国の幅広い関心に対応することにより、新ラウンドを2001年中に立ち上げ、WTOの一層の発展を図り、多角的自由貿易体制の維持と強化に努めていくことが重要である。日本はシンガポールとの間で、新時代の連携のための経済協定を締結するための正式な交渉を開始し2001年に交渉を終結することに合意したが、このような二国間の協定もWTOを補完し、自由貿易の推進と制度調和を積極的に図っていく上で重要である(第2章第2節2.及び3.参照)。
 第4に、グローバリゼーションによって国境という垣根がますます低くなる中、世界規模で競争から取り残される国々が生じないよう、開発問題に正面から取り組んでいくことが重要である。それは人道的問題というにとどまらない。繁栄から取り残された国々が更に「周縁化」することは、現在のグローバル化した国際社会のシステム全体に対する信頼を揺るがせる危険がある。そのような危険(システミック・リスク)に対応することは、市場経済を基調とする現在のグローバルな経済システムから最も大きな恩恵を得ている国々の責務でもある。持続的成長の達成は、中長期的には、一方で、貧困と社会的矛盾を除去することにより紛争を予防するという政治的効果を持ち、また、他方で、市場の拡大という経済的効果をもたらすことになる。特に、持続的成長の波に乗れないままに苦闘しているアフリカ諸国の開発問題は、21世紀の人類全体の共通関心事項となるべきものであろう。
 開発問題に取り組むためには、世界最大の政府開発援助(ODA)供与国である日本を始め、先進民主主義諸国間の協調と、これらの国々と途上国との対話が不可欠であり、さらに、非政府組織(NGO)を始めとする市民社会との建設的連携を進めていくことが有益である。このような観点も踏まえ、日本は、九州・沖縄サミットで、他のG8諸国とともに、非G8諸国、国際機関、民間セクター及びNGOを含む市民社会との新しいパートナーシップ構築に向けた大きな一歩を踏み出した。
 最後に、科学技術の進歩とグローバリゼーションの急速な進展の中で、国際組織犯罪、感染症、環境問題などの地球規模の諸問題に国際社会が共同して取り組むことがますます重要になってきている。この地球を生きる人々に平和と繁栄のみならず、幸福をもたらすという人類の大きな目標を達成するためには、国境を越えて人々の生存、安寧、尊厳を脅かすこうした問題に、人間一人一人を重視する視点から、国際社会が協調し、協力して取り組んでいくことが不可欠である。こうした地球規模の諸問題への取組は、現在の国際的なシステムへの信頼を維持・強化することにもつながるのである。
 2000年には、日本を含むG8諸国が議論をリードしてきた、国連国際組織犯罪条約及び関連二議定書の交渉が妥結し、国際組織犯罪と戦うための法的枠組を包括的に定める初めての多数国間条約が採択された。また、九州・沖縄サミットで大きく取り上げられた感染症については、日本は、12月、感染症対策沖縄国際会議を開催し、国際的な具体的行動計画を策定した。地球温暖化問題については、オランダで開催された気候変動枠組条約第6回締約国会議(COP6)では合意に至らず、国際社会の更なる取組が必要とされている。21世紀の国際的な協調行動を導く理念として「人間の安全保障」を掲げる日本は、様々な分野での地球規模の諸問題に積極的に取り組み、国際社会の協調をリードしていくことが求められている。

【21世紀を迎えたアジア太平洋地域】

 日本が、21世紀においても平和と繁栄を享受し続けるためには、それを可能としているグローバルな国際的システムを維持・強化することとともに、日本の位置するアジア太平洋地域が平和と繁栄を享受することのできる、安定した躍動する地域であり続けることが必要である。
 欧州では、3.7億人の人口を抱え、世界の国民総生産の約29パーセントを占める欧州連合が、自由、民主主義、基本的人権、市場経済を共通の価値として拡大と統合深化の道を着実に歩んでいる。しかしながら、アジア太平洋地域は、いまだそのような状況にはない。北東アジア地域においては、日本、米国、韓国などの先進民主主義国家とともに、中国、ロシアという二つの改革を進めているユーラシア大陸の大国が主要な主体として存在する。朝鮮半島においては、南北首脳会談を始めとする前向きな動きが見られるが、引き続き厳しい軍事的対立が残っている。また、中台両岸においては、貿易、投資など経済の実体面では大きな進展が見られるが(注)、依然として政治的な対立が続いており、両岸対話は再開の目処が立っていない。民主化及び経済改革の努力が進められているインドネシアにおいては、政治的な安定はいまだ達成されず、国内に多くの分離・独立運動を抱えている。このような地域の環境の中で、日本の平和と繁栄を確保することが、日本の外交の重要な課題である。

(注) 2001年1月より、金門、馬祖両島に限って中国大陸との直接の通信、通商、通航が台湾側により部分的に解禁(いわゆる「小三通」)された。


 民主主義と市場経済を掲げる米国との同盟関係を基軸として、韓国との密接な友好関係を構築しつつ、中国及びロシアと信頼に基づく協力関係を構築し、両国の改革の更なる進展を促進していくことが、この地域の安定のための基本的戦略である。このような安定の構図を維持しつつ、かつ、その安定を害さないように、前世紀から引き継がれた北朝鮮との国交正常化の課題に取り組んでいく必要がある。
 また、新しい世紀に、日本がその国際的地位にふさわしい責任を果たし、リーダーシップを発揮するためにも、20世紀の歴史を直視して、アジア太平洋の諸国と共通の未来を築いていかなければならない。
 それではまず、21世紀の日米同盟の姿をどのようなものにしていくべきであろうか。アジア太平洋地域には、好ましい方向に向かう兆候が見られる一方、依然として不確実性、不安定性が存在している。日本はその限られた自衛力のみで自国の安全を脅かし得る全ての事態に対処することはできない。従って、自国の安全を確保し、それと密接不可分の地域の安定を確保するためには、引き続き米国との同盟関係が外交の基軸となる。米新政権は、引き続きアジア太平洋地域における平和と繁栄を重要視しており、日米同盟関係を、対アジア政策の基礎に据えている。日本と米国の国民総生産の合計は、世界の国民総生産の約42パーセントを占め、日本を除く全アジア地域(中国を含む)の国民総生産の約4.9倍の規模である。アジア太平洋地域における主要な先進民主主義国である日米両国の同盟は、21世紀にも引き続きアジア太平洋地域の安定の要であり続けるのであり、日米両国はその責任を果たすよう努力しなければならない。また、米国経済の減速及び日本経済の景気回復・構造改革の見通しなどの懸念材料はあるが、日米両国が経済、社会、環境等、多くの面で、アジア太平洋地域の発展に果たしていく役割は依然として大きい。
 21世紀の日米同盟関係が、この地域の平和と繁栄の要として機能するためには、米国との間で戦略的な見地から十分な対話を行い、政策協調を進めていくことが重要である。日米の絆は、基本的な価値観の共有や、双方の国益の根本的な合致の上に成立するものであり、日本は、共通の利益と相互の責任について厳しい自覚の上に立って、成熟した同盟関係の運営を行うことがますます必要となる。そして、日米安保体制の信頼性の向上のために具体的努力を積み重ねていかなければならない。2000年、日本は、米国との間で、頻繁に首脳会談、外相会談を開催して、両国間で幅広く緊密な政策協調を行った。また、在日米軍施設・区域が集中している沖縄県民が日本全体の平和と安全のために背負っている多大な負担を軽減するための努力が継続され、「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)最終報告の着実な実施が進められてきた。さらに、在日米軍駐留経費の負担に関する新たな特別協定が、国会での承認を得て締結され、また、「日米防衛協力のための指針」の実効性を確保するための国内法整備の一環として「周辺自体に際して実施する船舶検査活動に関する法律(船舶検査活動法)」も国会において成立した。今後とも、21世紀冒頭に成立したブッシュ政権との間で、このような努力を弛みなく継続することが肝要である。
 また、21世紀のアジア太平洋地域を構想するには、隣国韓国との協力関係の構築、発展が不可欠である。日本と韓国との協力関係は、東アジアの平和と繁栄にとって重要である。98年、金大中(キム・デジュン)大統領が日本を訪問し、小渕総理大臣との会談において、過去に区切りをつけて以来、日韓関係は、一層強化され未来志向のものとなった。2000年の金大中大統領の日本訪問においても、21世紀に向け日韓の絆を更に強化していくことで一致した。また、対北朝鮮政策に関する日米韓の緊密な連携関係が構築されている。21世紀における日韓協力関係を確固たるものとするためにも、幅広い交流を推進し、両国の間の信頼関係を更に発展させていくことが不可欠である。
 21世紀にアジア太平洋地域において戦略的構図の変化をもたらし得る最も大きな要因は、中国の変貌であろう。広大な国土と12億を越える巨大な人口を抱える中国は、改革開放政策の下、年平均10%に迫らんとする高成長を継続してきた。同時に、核戦力を有する人民解放軍の近代化も着実に進んでいる。
 中国は、この地域における存在感をますます大きくしており、21世紀に、中国が、更に改革開放政策を進め、この地域で建設的な役割を果たす信頼できる国となることが、アジア太平洋地域の平和と繁栄にとって極めて重要である。
 日本は、中・長期的な視野から、中国との間に信頼に基づく協調関係の構築を行うべく努めてきている。また、あらゆるレベルの交流と協力の拡大を図ってきている。2000年には、朱鎔基総理が日本を訪問し、「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」の定着に向けて、更なる日中協力を増進することで一致した。また、日本近海で活動を行い日本の対中世論を厳しいものとしていた中国海洋調査船の問題については、8月の河野外務大臣の中国訪問の際に、相互事前通報の枠組みを早期に成立させることで一致した(その後、両国で話し合った結果、2001年2月に枠組みが成立)。日本は、中国が改革開放政策の下で安定と繁栄を確保し、日中間の相互依存関係が深まることは日本自身及びアジア太平洋地域の平和と繁栄に資するとの認識に基づき、政府開発援助(ODA)を行ってきている。今後の対中経済協力は、両国をめぐる経済・社会状況等の変化を踏まえ、中国が国際社会の一層責任ある一員となるよう重要課題、分野を一層明確にした支援を行っていくことが必要である。(注)

(注) 中国における日本のODAの広報を含め、対中ODAについては、第1章4.(3)参照


 アジア太平洋地域の将来を考えるに当たり、民主化と市場経済化に向けた移行期の中での改革を続けているロシアの役割は重要な要因である。ロシアは現在、経済運営に色々な困難を抱えているが、国民の高い人気に支えられたプーチン大統領は改革努力を継続しており、今後とも政治面、経済面の改革を徹底しつつ、国際社会の建設的な一員となっていくことは、アジア太平洋地域、さらには、世界の平和と繁栄にとって重要である。そのため日本は、こうした方向に向けたロシアの改革努力を支持しつつ、ロシアとの間で平和条約の締結を含む幅広い分野の関係の強化に努めてきている。
 2000年はクラスノヤルスク合意の目標期限の年であったが、残念ながら平和条約の締結という課題は、21世紀に持ち越されることとなった。日本としては、北方四島の帰属の問題を解決し平和条約を締結するとの一貫した方針の下、引き続き最善の努力を払っていく。
 北朝鮮をめぐっては、2000年に大きな動きが見られた。政権発足当時より金大中大統領は、対北朝鮮「包容政策」を打ち出して、2000年には初の南北首脳会談が実現した。その後も、趙明録(チョ・ミョンロク)国防委員会第1副委員長の米国訪問とオルブライト米国務長官の北朝鮮訪問等が行われた。北朝鮮は、イタリア、オーストラリア、フィリピン、英国(注)と外交関係を開設・再開するなど、国際社会との接触を急速に深めている。このように前向きな流れが見られる一方で、北朝鮮の閉鎖的で軍偏重の体制に特段の変化は見られず、安全保障上の問題や、人権・人道上の問題をめぐり国際社会の懸念が依然として存在しており、今後とも北朝鮮に対しては、これらの国際社会の懸念に、前向きに対応するよう働きかけていくことが重要である。

(注) 2001年2月末日までには、オランダ、ベルギー、カナダ、スペインとも外交関係を開設。


 日朝関係については、韓米両国との緊密な連携の下、北東アジアの平和と安定に資するような形で、第2次大戦後の正常でない日朝関係を正す努力を続けている。また、拉致問題を含む人道問題やミサイル問題等の安全保障上の問題などの諸懸案についても、日朝間の対話を通じて、解決に向け全力を尽くすことが引き続き必要である。2000年には、7月のASEAN地域フォーラム(ARF)閣僚会合の際、史上初めての日朝外相会談が開催され、また、4月に約7年半振りに再開された日朝国交正常化交渉本会談をこれまで3回にわたり行うなど、国交正常化に向け粘り強く取り組んでいる。また、2000年には、食糧不足に苦しむ北朝鮮に対して、国連の世界食糧計画(WFP)を通じて、3月にコメ10万トン、10月にコメ50万トンの支援を決定した。
 21世紀の冒頭におけるアジア太平洋地域の特徴的な動きとして取り上げなくてはならないのは、アジア太平洋地域を覆い始めた地域協力の大きな流れである。地域協力は、ニ国間関係強化の努力を補完するものであり、既に様々な枠組みが設けられ、重層的にアジア太平洋地域における対話と協力を増進している。この地域においてはASEAN拡大外相会議(PMC)に加え、80年代後半以降、アジア太平洋経済協力(APEC)、ARF、アジア欧州会合(ASEM)、ASEAN+3(日中韓)、日中韓などを通じた地域の対話と協力が少しづつ広がりをみせ、冷戦時代に分断されていたアジア太平洋地域における対話と協力の機運が徐々に盛り上がってきている。日本としては、日米同盟などの二国間関係の努力を補完する意味で、このような地域の対話と協力を大切に育てていくことが重要である。2000年には、これらの枠組みでの議論に積極的に参画し、この地域の重層的な対話と協力の枠組み構築を推進した。
 最後に、アジア太平洋地域の平和と繁栄を確保する上で、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国やオーストラリア、ニュー・ジーランド、太平洋島嶼国と友好協力関係を強化するとともに、より大きな視野をもって、欧州諸国や南西アジア諸国と協力していくことの重要性を指摘したい。主要な先進民主主義国である欧州諸国は、米国及び日本とともに、国際社会の平和と繁栄を確保する上で、重要な役割と責任を有している。日本と欧州諸国は、国際社会の主要な一員として、グローバルな目線からお互いに相手の地域の問題に関心を持ち、相互に協力していかなければならない(クロスサポート)のである。2000年初め、河野外務大臣は欧州諸国を訪問し、2001年からの10年を「日欧協力の10年」とすることを提案し、日欧間の政治対話・協力の強化を訴えた。そして7月の日・欧州連合(EU)首脳会議において、この「日欧協力の10年」により、日欧関係の更なる強化を図ることが正式に決定された。
 アジア太平洋地域の平和と繁栄を考える時、その南西に位置する諸国は、例えば中東から日本までのシーレーンの安定という観点から、戦略的に重要である。2000年には、森総理大臣が、日本の総理大臣として10年振りに南西アジア諸国を訪問し、訪問先各国との友好関係を強化した。特に、インドとの間では「21世紀における日印グローバル・パートナーシップ」を構築することで一致した。

   2.九州・沖縄サミット
【概観】

 2000年前半、日本は7月の九州・沖縄サミットを最重要の外交課題として取り組んだ。故小渕総理大臣が万感の思いを込めてその開催を決定した九州・沖縄サミットにおいて、森総理大臣は議長を務め、沖縄の地から明るく力強い平和のメッセージを発出し、21世紀の扉を大きく開けることができた。
 サミットでは、2000年という節目の年にふさわしく、G8がこれまで果たしてきた役割を振り返り、21世紀に向けたG8の役割について議論する有意義な場として、「一層の繁栄」、「心の安寧」、「世界の安定」という「三本柱」のテーマの下で議論が行われた。そして、今まさに国際社会全体の課題となっている情報通信技術(IT)、感染症、これらを含む開発の問題、薬物や犯罪、さらには朝鮮半島情勢を始めとする地域情勢等について活発な議論がなされた。
 今回のサミットの特徴の一つとして、行動志向性を追求したことが挙げられる。コミュニケにおいても、例えば感染症撲滅についての数値目標設定や紛争予防についての具体的取組を明示したことに見られるとおり、具体的行動が多く書き込まれた。また、議長国としても、九州・沖縄サミットの機会に、ITや感染症についての具体的支援策、さらには開発分野における紛争予防の強化のための日本の取組を打ち出した。その上で、コミュニケの発出にとどまらず、これらの具体策を更に引き継いでいくことを目的とする様々な会議を日本は主催した(注)

(注) 情報通信技術(IT)についての作業部会(「デジタル・オポチュニティ作業部会」)、感染症対策国際会議など。


 今回のサミットのもう一つの特徴としては、議長国としてサミット・プロセスの透明性の向上に努めたことが挙げられる。すなわち、グローバリゼーションが急速に進展するとともにサミットの扱う案件が多様化する中、今後ともG8が世界全体の利益のために重要な役割を担っていくためには、非G8諸国、国際機関、非政府組織(NGO)等とのパートナーシップの一層の強化が極めて重要であるが、日本はこの観点からサミット直前に途上国の首脳や国際機関の長、IT分野の民間企業のリーダーを東京に招いてG8首脳と意見交換の場を主催したほか、沖縄においては、NGOの代表との対話の機会も設け、サミットに様々な視点を反映させることに努めた。このような一連の対話は、21世紀に向けてG8がグローバルな課題に取り組んでいくための方向性を示したものとして注目される。
 また、今回のサミットは、7年振りにアジアで開催されるサミットであった。アジアからの唯一の参加国である日本は、アジアの視点を議論に反映させるために、小渕総理大臣が年頭に東南アジア3か国(カンボディア、ラオス、タイ)を訪問したほか、2月にはバンコクでの国連貿易開発会議(UNCTAD)第10回総会の際に開催された日・東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議に出席した。また3月の河野外務大臣、森総理大臣の韓国訪問、5月の唐家セン中国外交部長の日本訪問の機会にもサミットに関する意見を聴取した。さらに6月には森総理大臣が小渕前総理大臣合同葬儀の機会に東京にて開催された日・ASEAN首脳会議に出席するなど、アジア諸国との対話を積極的に行った。
 一昨年、昨年に引き続きサミットは首脳のみの会合となり、沖縄の首脳会合では、それに先立ち開催された福岡の蔵相会合と宮崎の外相会合の議論を踏まえた議論が行われた。

【福岡蔵相会合】

 蔵相会合は7月8日、福岡市にて開催された。会合では、宮澤大蔵大臣が議長を務め、(A)情報通信技術(IT)革命の経済・金融面への影響、(B)国際金融アーキテクチャーの強化、(C)国際金融システムの悪用・濫用に対する行動、(D)貧困削減と経済発展の四つのテーマに焦点を当てて議論が行われ、G7蔵相から首脳への報告書がまとめられた。

【宮崎外相会合】

 G8外相会合は宮崎県宮崎市において7月12日から13日まで開催された。会合では、河野外務大臣が議長を務め、九州・沖縄サミットの三つのテーマの一つである「世界の安定」の観点から、紛争予防や軍縮・不拡散・軍備管理、テロ、国連改革などの地球規模問題、朝鮮半島、バルカン情勢を始めとする地域情勢のほか、犯罪、環境などの経済社会問題も加えた幅広い問題が議題として取り上げられ、突っ込んだ意見交換が行われた。その成果は、「G8外相総括」として発表され、同月21日からの沖縄での首脳会合における議論に反映された。特に紛争予防については、別文書として、紛争前から紛争後までの一連の段階において政治、安全保障、経済、環境、社会及び開発など多様な政策を選択し統合的に用いる「包括的アプローチ」の枠組みの下、紛争地域への小型武器の輸出を許可しない等の措置を盛り込んだ「紛争に関するG8宮崎イニシアチブ」を取りまとめ、G8としての具体的取組の第一歩を記した。さらに、日本は、小型武器に関する日本の行動を発表するとともに、開発分野における紛争予防の強化のための取組を「アクション・フロム・ジャパン」として打ち出した。また、国連改革については、安保理を含む国連システムの改革、強化へのG8としてのコミットメントを表明した。非G8諸国との対話として、非同盟運動(NAM)のトロイカ3か国(南アフリカ、バングラデシュ、コロンビア)、G77議長国(ナイジェリア)、タイの外相を招いた朝食会も開催された。

【沖縄首脳会合】

 森総理大臣が議長を務めた九州・沖縄サミット首脳会合は、7月21日から23日まで沖縄で開催された。
 G8首脳会合では第1に、「一層の繁栄」のテーマの下、情報通信技術(IT)、感染症の問題を含む開発、貿易について議論が行われた。ITについては、そのもたらす機会の活用と情報格差の解消に向けて全世界の参加を呼びかける「沖縄憲章」が採択され、国際的な情報格差を解消するための具体的行動を検討する「デジタル・オポチュニティ作業部会(ドットフォース)」の創設が決定された(第2章第2節4.参照)。また、途上国の開発上の大きな障害となっている感染症の問題については、具体的な数値目標を掲げ、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)・エイズ、結核及びマラリアなどへの取組を強化することで合意した。この関連で日本は、21世紀に先進国と途上国の格差を解消し、世界のすべての人々が一層の繁栄を享受するにはITと感染症が鍵を握ると考え、議長国としての独自のイニシアチブとして、この二つの分野における総計180億ドルに及ぶ協力策を発表した。貿易の分野では、世界貿易機関(WTO)を中心とする多角的貿易体制の利益を途上国が一層享受できるよう支援を強化するとともに、途上国を含む各国の関心にこたえるような、十分に幅広い交渉議題によるWTO新ラウンドを早期に立ち上げるべく努力を強化することが合意された。
 第2に、「心の安寧」のテーマの下では、犯罪、薬物、バイオテクノロジー・食品安全、環境などについて議論された。犯罪については、グローバリゼーションが進行する中で一層深刻となる国際組織犯罪に関し、これに対処する上で有効な国際的な枠組みの創設に向けた各国の意思が確認されたほか、サイバー犯罪などのハイテク犯罪への対策のために協調して取り組むことや、世界的に脅威が増大している麻薬系薬物の生産と不正取引に対抗する国際協力を強化することも合意された。また、バイオテクノロジー及び食品安全性については、欧米間で大きな対立があったが、沖縄では種々のフォーラムを通じた科学的検討の促進や、途上国、市民社会を交えた対話の強化について共通の理解を得て、今後、この問題についての国際的なコンセンサスを構築するための道筋が示された。環境については京都議定書の早期発効に向けた協力への強い決意や再生可能エネルギーに関するタスクフォースの立ち上げなどが確認された。
 第3に、「世界の安定」のテーマの下では、地域情勢を含む政治問題が議論された。特に、日本の安全保障にとり重要な北東アジアについては、森総理大臣の強いイニシアチブによって、「朝鮮半島に関するG8声明」が発表され、南北首脳会談を始めとする一連の前向きな動きがG8より後押しされるとともに、安全保障や人道問題における国際的懸念への北朝鮮の建設的対応を期待するとのメッセージが打ち出された。そのほか、「地域情勢に関するG8声明」では、中東和平プロセスへの支持、南アジア、バルカン、アフリカ、サイプラス情勢に関するG8の協力の重要性が確認された。また、紛争予防については「予防の文化」の重要性が確認され、ダイヤモンドの不正取引や小型武器の分野での具体的な取組が表明された。軍縮・不拡散・軍備管理の分野では、包括的核実験禁止条約(CTBT)発効促進、カット・オフ条約交渉の早期開始への決意などが表明された。
 なお、G8首脳会合に先立ちG7首脳会合が行われた。そこでは、G7経済、重債務貧困国の問題、国際金融システム及び金融犯罪、ウクライナの原子力安全について議論され、その成果としてG7首脳声明が発出された。
 今回のサミットは日本では初めての東京以外の都市での開催となった。沖縄での首脳会合の開催に当たっては、沖縄県の方々は県を挙げてサミット出席のため沖縄を訪れたG8首脳を大変温かく迎えた。各国首脳は沖縄の温かいもてなしの心に触れ、沖縄の豊かな文化や歴史を目にすることができた。また、首脳会合開催の前後は、沖縄の姿が内外のマスコミを通じ様々な形で世界に広く紹介されることになった。こうして「世界の目を沖縄に、沖縄の心を世界に」という、サミットに寄せた沖縄県側の期待が文字通り実現し、「沖縄」を世界に発信できたことが、様々な形で今後の沖縄の発展につながるものと期待されている。

   3.2000年の注目すべき動き
(1)朝鮮半島情勢

【総論】

 2000年は、朝鮮半島において大きな動きが見られた年であった。南北間においては、6月の歴史的な南北首脳会談を契機として、対話と協力が急速な展開を見せ、南北分断後これまでに見られなかった潮流が生まれているとも言える。米朝間においては10月には、金正日(キム・ジョンイル)総書記の特使として趙明録(チョ・ミョンロク)国防委員会第1副委員長が米国を訪問したことに続き、オルブライト米国務長官が米国現職閣僚としては史上初めて北朝鮮を訪問した。また、日朝間においても、7月のASEAN地域フォーラム(ARF)会合に際しての史上初の日朝外相会談や約7年半振りに国交正常化交渉が再開されるなどの進展が見られた。さらに、北朝鮮は中国、ロシア、欧州諸国を始め、様々な国との間で積極的な対外政策を展開している。
 このように朝鮮半島をめぐり、前向きな動きが見られる中、日本は、これを後押ししていくことが重要であるとの認識の下、韓米両国と緊密に連携しつつ、日朝国交正常化交渉に粘り強く取り組んできた。こうした日朝間の対話の中で、人道上の問題や安全保障上の懸案の解決に向けて努力している。

【日朝関係】

 日本の対北朝鮮政策は、北東アジア地域の平和と安定に資するような形で、第2次世界大戦後の正常でない日朝関係を正すよう努力していくことを基本方針としている。
 日朝関係は、99年12月の村山元総理大臣を団長とする日本国政党代表訪朝団の北朝鮮訪問以降、同月に日朝国交正常化交渉予備会談が行われるなど、前向きな動きが出てきていた。2000年3月、青木官房長官は、当面の対北朝鮮政策として、4月前半に日朝国交正常化交渉を再開すること及び北朝鮮に対し10万トンの食糧支援を行うことを発表した。これに続き、北京において日朝赤十字会談が開催され、日本人配偶者の故郷訪問の実施、日本人「行方不明者」のしっかりとした調査の開始、1945年以前に行方不明になった朝鮮人被害者の安否調査、10万トンの食糧支援に対する北朝鮮側の謝意表明等が盛り込まれた共同発表が発出された。これを受けて、9月には2年振りに日本人配偶者の故郷訪問が実施されている。
 4月には平壌において日朝国交正常化交渉が約7年半振りに再開された。それ以来計3回(4月、8月、10月)にわたって本会談が行われたが、交渉を通じて双方はお互いの基本的立場について一通りの説明を行い、交渉は双方の立場の接点を見出すための作業を行う段階に入っている。
 正常化交渉において、北朝鮮側は、何よりもまず日本側が「過去の清算」について協議、確定し、その上で関係改善のための話し合いを行うべきと主張し、「過去の清算」においては、(A)謝罪、(B)補償、(C)文化財、(D)在日朝鮮人の地位を中心に話し合っていく必要があるとの立場である。これに対し、日本側は、国交正常化の実現に当たっては国民の理解と支持を得る必要があり、それゆえ、拉致問題、ミサイル等の諸懸案を解決に向けて前進させることが必須であるとの立場である。日本としては引き続き粘り強く国交正常化交渉に取り組んでいく方針である。
 また、日朝間のハイレベルの対話として、7月に北朝鮮がASEAN地域フォーラム(ARF)に初めて参加した機会を利用して、バンコクにおいて河野外務大臣と白南淳(ペク・ナムスン)外相との間で史上初の日朝外相会談が開催された。
 なお、依然深刻な食糧不足に直面する北朝鮮に対し、10月、日本は、50万トンの食糧支援を世界食糧計画(WFP)を通じて行うことを発表した。これは人道上の考慮に加え、朝鮮半島に前向きな動きが出ていることを踏まえ、日朝関係ひいてはこの地域の平和と安定という大局的見地に立って決定したものである。この支援に対しては、北朝鮮側より洪成南(ホン・ソンナム)内閣総理発森総理大臣宛書簡の中で謝意が表明された。

【南北朝鮮関係】

 韓国政府は、98年2月の金大中(キム・デジュン)大統領の就任以来、(A)武力挑発は拒否する、(B)吸収統一はしない、(C)和解と協力を可能な分野から促進する、との三原則を掲げる「包容政策」を北朝鮮に対し遂行している。
 南北関係は、民間企業ベースの交流はあったものの、当局間対話は停滞していたが、2000年中に大きな進展を見せることになった。まず、3月に金大中大統領がベルリンにおいて、対北朝鮮政策について述べた「ベルリン宣言」を発表したが、その後4月に南北首脳会談を行うことが発表され、6月中旬の南北首脳会談開催に至った。
 6月13日から15日、金大中大統領が平壌を訪問し、北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記との間で、史上初の南北首脳会談が行われた。その結果、両首脳は、(A)南北統一問題の自主的解決、(B)離散家族の相互訪問等人道問題の解決、(C)経済協力を通じた民族経済の発展、(D)南北当局間対話の開催、(E)金正日総書記の適切な時期の韓国訪問等を内容とする南北共同宣言に署名した。
 その後、4回の南北閣僚級会談(7月、8月、9月、12月)、2回の南北赤十字会談(6月、9月)、2回の離散家族相互訪問(8月、11月)が行われた。また、9月には金容淳(キム・ヨンスン)朝鮮労働党書記の韓国訪問が実現した。経済面でも2回にわたる実務接触を通じ、12月の第4回南北閣僚級会談では、投資保障、二重課税防止、商事紛争解決の手続、精算決済に関する合意書が署名される等、南北共同宣言のフォローアップが着実に行われてきている。さらに、南北共同宣言には言及はなかったものの、軍事面でも、9月に初の南北国防相会談が行われ、その後11月から12月にかけて3回にわたる軍事実務協議が行われた。

【米朝関係】

 米朝間においては、引き続き米朝協議が継続的に行われ、ミサイル問題、核問題、テロ問題などにつき協議が続けられてきたが、10月に入って、金正日(キム・ジョンイル)総書記の特使の米国訪問、それに続き、オルブライト国務長官が北朝鮮を訪問する等、ハイレベルの要人往来が行われるに至った。
 金正日総書記の特使として米国を訪問した北朝鮮の趙明録(チョ・ミョンロク)国防委員会第1副委員長は、クリントン大統領、オルブライト国務長官ほかと会談し、(A)米朝双方は、他方に対し敵意を持たないこと、(B)北朝鮮側はミサイル問題に関する協議が継続している間はいかなる種類の長距離ミサイルも発射しないこと、(C)双方はテロに反対する国際社会の努力を支持し促進していくこと、(D)クリントン大統領のあり得べき北朝鮮訪問を準備するため、オルブライト国務長官が近いうちに北朝鮮を訪問すること等を骨子とする米朝共同コミュニケを発出した。これを受けて、同月、オルブライト国務長官が米国の閣僚としては史上初めて北朝鮮を訪問し、金正日総書記ほかと会談し、ミサイル問題を始めとする広範な議題について議論した。その後、米国側は、クリントン大統領の北朝鮮訪問について、懸念事項につき十分な進展が行われるのかを見極めた上で最終的に判断するとしていたが、米国大統領選挙の結果、政権交代が行われることもあって、最終的に同訪問を断念するとの大統領声明を12月末に発出した。

【北朝鮮のその他の対外的な動き】

 北朝鮮は、その他の国々との間でも積極的な対外関係を展開した。
 まず、ロシアとの関係では、2月に友好善隣協力条約に署名し、7月にプーチン大統領が北朝鮮を訪問し、中国との関係では、5月に金正日(キム・ジョンイル)総書記が中国を訪問する等、金正日総書記自身が前面に出て積極的な対外政策を展開した。7月にはASEAN地域フォーラム(ARF)閣僚会合に北朝鮮として初めて白南淳(ペク・ナムスン)外相が参加し、この機会に、日朝、米朝、南北の外相会談がそれぞれ行われた。
 また、北朝鮮は7月までにイタリア、オーストラリア、フィリピンと外交関係を開設あるいは再開し、9月には、欧州連合(EU)加盟国のうち、北朝鮮と外交関係を有していない9か国及び欧州委員会に対し外交関係の開設を提案する書簡を送付した。このうち英国については北朝鮮との外交関係を12月に開設した。(北朝鮮は、2001年に入り、オランダ、ベルギー、カナダ、スペインとも外交関係を開設した。)

【北朝鮮内政】

 内政面では、2000年9月の労働党創建55周年記念日を祝賀するための行事を開催したが、他方一部で推測されていた党大会の開催や人事の改編等は行われなかった。金正日(キム・ジョンイル)総書記は、社会主義を守るために軍事力の維持・強化を最優先する「先軍政治」を強調しつつ、思想・政治・軍事・経済の強大国である強盛大国の建設を標榜し、現在遅れている経済の復興に努力している。しかし、経済の実状は、エネルギー・外貨不足等により深刻な状況にある。外国からの食糧支援により食糧事情は若干改善しつつあると言われるものの、2000年の穀物生産は再び減少したと見られている。

【朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)】

 KEDOは、94年の米朝間の「合意された枠組」を受けて、95年3月に日米韓が設立した国際機関であり、北朝鮮が核開発を凍結することと引き替えに、軽水炉プロジェクトの資金手当及びその供与、暫定的な代替エネルギーの供与等を目的としている。
 軽水炉プロジェクトについては、99年末、KEDOと韓国電力公社との間で軽水炉建設を請け負わせるための主契約及び韓国輸出入銀行とKEDOとの間の貸付契約、2000年1月、国際協力銀行とKEDOとの間の貸付契約が署名され、これを受けて、2月主契約が発効し、プロジェクトは本格工事の段階に入り、以後、建設工事に係る作業が行われている。
 日本は、KEDOが北朝鮮の核兵器開発を阻むための最も現実的かつ効果的な枠組みとの認識の下、KEDO理事会のメンバーとしてKEDOの政策決定に積極的に参画している。また、人的貢献としてKEDO事務局に事務局次長を始め政策スタッフや原子力の専門家を派遣しており、資金面でも、事務局経費等として2000年末までに約4300万ドルを拠出してきている。また、99年のKEDOとの間の資金供与協定に基づき、軽水炉プロジェクトに対して、国際協力銀行を通じ、これまでに計約234億4000万円(約2億1000万ドル)の資金供与を実施し、右貸付けに係る利子補給としてこれまでに約4億9000万円を拠出している。

(2)中東和平

 91年のマドリッド会議で開始された現行の中東和平プロセスは、94年のパレスチナの暫定自治開始やイスラエルとジョルダンとの平和条約締結などの重要な成果をあげたが、96年5月のネタニヤフ政権の誕生によって一時停滞した。99年7月にイスラエルで新政権を成立させたバラック首相は、パレスチナ、シリア、レバノンの全ての交渉トラックで和平を推進するとの姿勢を示し、99年9月には、パレスチナ・トラックでシャルム・エル・シェイク合意に達し、2000年においても当事者間で和平努力が継続された。特に、パレスチナ・トラックでは一時、和平への期待が大いに高まったが、結果的にはどの交渉トラックにおいても具体的な成果を得ることはできなかった。
 まず、パレスチナ・トラックでは、年初よりは交渉が停滞し、2月の枠組み合意期限(注)も延期されたが、7月11日、クリントン米大統領は、バラック首相及びアラファト・パレスチナ解放機構(PLO)議長をワシントンDC郊外のキャンプ・デイヴィッド山荘に招き、最終的合意の実現を目指して、三者首脳会談を開始した(キャンプ・デイヴィッド首脳会談)。同会談では、領土、エルサレム、難民等のパレスチナ問題の核心について、これまでになく踏み込んだ交渉が行われたが、2週間に及ぶ集中的な交渉を経ても合意に到達することができず、同月24日交渉は終了した。このため、最終地位合意期限である9月13日(注)以降にパレスチナが独立に向けていかなる動きを示すかが注目されたが、9月上旬、パレスチナは、国際社会の交渉継続に対する期待を踏まえて、独立を延期し、交渉を継続していくことを決定した。

(注) 99年9月のシャルム・エル・シェイク合意は、2000年2月13日までに枠組み合意、同年9月13日までに最終合意を締結するとの目標を設定。


 9月28日、イスラエルのシャロン・リクード党首がエルサレム旧市街の神殿の丘を訪問し、その直後、イスラエル治安当局とパレスチナ人との衝突が発生した。10月16日に行われたシャルム・エル・シェイク首脳会談(注)等の停戦了解にもかかわらず衝突は継続し、12月までに死者約350名、負傷者数千名が発生する現行の和平プロセス開始後最悪の衝突となった。この衝突を受けて、国連では、第10回国連緊急特別総会が開催され、10月、暴力行為や武力使用の即時停止等を求める決議が採択された。また、アラブ・イスラム諸国は、10月にアラブ・サミット(於カイロ)、11月中旬にイスラム諸国首脳会議(於ドーハ)を開催し、イスラエルを非難し、パレスチナを支援する統一的立場を示した。バラック首相は、12月9日、国民の意思を再度問うとして辞任の意図を表明しつつ、政権の交代まで和平交渉に取り組む姿勢を示し、12月中旬には、ワシントンにおいて最終的地位交渉が再開された。クリントン大統領は、領土、エルサレム問題、難民等に関する橋渡し提案を行ったが、これら核心問題に関するイスラエル、パレスチナ双方の立場の隔たりは大きく、クリントン大統領の任期中に、両当事者は合意に到達することはできなかった。

(注) 10月16日から17日、カイロで開催。バラック首相、アラファト議長に加え、クリントン米大統領、ムバラク・エジプト大統領、アブドッラー・ジョルダン国王、アナン国連事務総長、ソラナEU・共通外交・安全保障政策(CFSP)上級代表が出席。


 次に、レバノン・トラックに関しては、バラック首相は、合意に基づく撤退が困難であることを踏まえ、5月中旬、南レバノンからの一方的撤退を開始し、同月24日までに撤退作戦を完了した。6月18日、国連はイスラエルが安保理決議425に従って撤退したことを確認する旨の安保理議長声明を発出した。
 シリア・トラックについては、2000年1月3日より、バラック首相とシャラ・シリア外相をそれぞれ代表とする両国交渉団が米国ウェスト・ヴァージニア州シェパーズタウンを訪れ集中的な交渉を行った。交渉では、クリントン大統領の仲介の下で、国境、水資源等の懸案について委員会が設けられ、米国の仲介案も示されたが、一週間後に交渉は中断した。3月にはクリントン大統領がハーフェズ・アル・アサド大統領と会談したが、交渉の再開には至らなかった。6月、70年以来30年間シリアの大統領の地位にあった大統領が逝去(注)し、7月、バッシャール・アサド新大統領(故大統領の次男)が誕生したが、その後も交渉の再開には至っていない。

(注) ダマスカスにおいて行われたハーフェズ・アル・アサド大統領の葬儀には、日本より、河野外務大臣が参列。


 多国間協議については、2000年2月、モスクワにおいて多国間協議運営委員会が約5年振りに開催され(注)、作業部会公式会合を開催していくことで一致したが、その後、開催には至っていない。

(注) 日本より東総括政務次官、オルブライト米国務長官、イワノフ露外相、レヴィ・イスラエル外相、ファイサル・フセイニ・パレスチナ代表団長、ムーサ・エジプト外相等が出席。


 日本は、中東和平問題が、中東地域のみならず世界全体の平和と安定に直結するとの認識の下、公正、永続的かつ包括的和平の実現を支援するために、政治的、経済的に積極的に役割を果たしてきている。7月の九州・沖縄サミットでは、日本は、他のG8諸国とともに、中東和平支援に関する声明を発出した。さらに、森総理大臣は、8月に日本を訪問したアラファト議長と、また9月にはニュー・ヨークにてバラック首相と直接会談し、和平実現に向けて粘り強い交渉努力を求めた。イスラエル・パレスチナ間の衝突に対しては、日本は、河野外務大臣のベン・アミ・イスラエル外相、ナビール・シャアス・パレスチナ暫定自治政府(PA)国際協力庁長官との電話会談等の場で、暴力の停止と交渉再開を両当事者に訴えるとともに、地域周辺国への働きかけを積極的に行った。
 また、日本は地域の安定のためにはパレスチナ人の自立促進が不可欠との認識の下に、93年以降累計約5億8000万ドルに及ぶ対パレスチナ支援を実施してきている。特に、イスラエルとパレスチナの衝突発生の後に、パレスチナ人の窮状を緩和するために、緊急医療支援を始め430万ドルを超える対パレスチナ支援を実施した。さらに、日本は人的貢献として96年以降、ゴラン高原の国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)に要員を派遣する等人的貢献を進めているほか、日本が作業部会議長を務める環境分野を含め、観光、水資源分野などの多国間協議にも積極的に参加してきている。

(3)ユーゴ・コソヴォ

 過去10年にわたって南東欧地域における最大の不安定要因となってきたのは、ユーゴースラヴィア連邦共和国(以下「ユーゴ」)におけるミロシェヴィッチ政権の存在であった。ミロシェヴィッチ氏は、89年に旧ユーゴ連邦のセルビア共和国大統領に就任してから、2000年10月まで、10年以上の間一貫してユーゴにおいて支配的地位にあった。2000年10月に民衆の力により、ミロシェヴィッチ政権が崩壊し、平和的にコシュトゥーニツァ政権が誕生したことは、この意味で極めて大きな意義を有する出来事であった。
 ミロシェヴィッチ大統領は、セルビア民族主義を前面に押し出した政策を推進し、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが旧ユーゴ連邦からの独立を宣言した際に、これら各国に介入するとともに、コソヴォにおいてはアルバニア系住民に対して抑圧的な政策をとった。こうした政策は悲惨な民族紛争を生み出し、大きな物的被害をもたらすとともに、多数の犠牲者、難民・避難民を発生させた。
 特に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、ムスリム系(スラブ系イスラム教徒)、セルビア系及びクロアチア系が主要構成民族となっていたが、独立を主張するムスリム系及びクロアチア系と、これに反対するセルビア人との間で、92年4月より本格的な武力紛争に突入した。ミロシェヴィッチ政権は、セルビア系勢力を支援したため、国際社会はボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の主要な責任はミロシェヴィッチ政権にあるとし、ユーゴに対して厳しい国連制裁を課した。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争はその後、主要3民族の三つどもえの紛争・対立の様相を呈し、95年末に包括和平合意(デイトン合意)の成立により紛争が終結するまでの間、約20万人の死者と220万人とも言われる難民・避難民が発生した。
 その後も、欧米諸国は、ユーゴ国内の民主化、コソヴォ自治州のアルバニア系住民の扱い、デイトン合意履行への非協力等の問題のため、ミロシェヴィッチ政権下のユーゴとは積極的な交流を行わず、国連等国際機関への加盟も認められず、国際通貨基金(IMF)、世界銀行等国際金融機関からも排除され、国際的に孤立状態が続いた。
 さらに98年2月末より、ユーゴ南部に位置するコソヴォにおいて、同地域の圧倒的多数を占めるアルバニア系住民とユーゴ当局との紛争が激化し、多数の難民・避難民を出す事態となった。紛争は99年に入りコソヴォ・アルバニア系住民の武装勢力(コソヴォ解放軍)とセルビア治安部隊との衝突が激化した。国際社会は、和平案を提示するなどしたが、ユーゴ側は頑なにこれを拒否したため、99年3月から6月まで北大西洋条約機構(NATO)によるユーゴ空爆が行われ、また、ミロシェヴィッチ大統領を始めとする同政権幹部は、99年5月末、「コソヴォにおける人道に対する罪」などで旧ユーゴ国際刑事裁判所に戦争犯罪人として起訴された。和平交渉が膠着する中、同年5月、ドイツのボンで急遽開催されたG8外相会合でG8としての紛争解決のための共通の立場が合意された。G8案を踏まえた和平案をミロシェヴィッチ大統領が受け入れたことを受け、同年6月、国連安保理決議1244が採択され、国連コソヴォ・ミッション(UNMIK)が設立された。コソヴォでは現在、UNMIKを中心に和平履行が進められており、2000年10月には地方選挙が実施され、アルバニア系の穏健派が勝利した。他方で、同地方選挙ではセルビア系住民は参加せず、また、国際社会の多くの国がコソヴォ独立に反対する中、アルバニア系住民は引き続き、ユーゴからの独立を強く求めており、問題の解決は容易ではない。
 一方、ミロシェヴィッチ大統領は、ユーゴ連邦大統領の地位を保持し続けることで自己の政治的な延命を図るために、2000年7月、それまで再選が禁止されていた連邦大統領選出などに関する憲法規定の改正を強行した。これは国際社会のみならず、選挙制度の変更によって不利な立場に置かれることになったモンテネグロ共和国(セルビア共和国と共にユーゴ連邦を構成)の強い反発を招いた。
 しかし、2000年9月24日に行われた選挙では、セルビア民主野党連合(DOS)のコシュトゥーニツァ候補が多くの支持を集めた。これに対し、ミロシェヴィッチ大統領は不正な手段により決選投票に持ち込もうとした。しかし、10月5日及び6日にDOSが首都ベオグラードで呼びかけた大規模デモに多数の民衆が結集し、その結果、ミロシェヴィッチ大統領は退陣に追い込まれ、10月7日、国内の民主化と国際社会との協調を重視するコシュトゥーニツァ新大統領が就任した。
 コシュトゥーニツァ新政権は、現在、国内民主化、国際社会への復帰、経済の建て直しに取り組んでいる。ユーゴの国際社会への復帰は順調に進んでおり、10月には南東欧安定協定への参加、11月には国連及び全欧州安保協力機構(OSCE)への加盟、また、12月にはIMFへの加盟が実現した。また、同月、ユーゴはボスニア・ヘルツェゴヴィナとも国交を樹立し、旧ユーゴ諸国との関係正常化も大きく進展した。さらに、12月23日に実施されたセルビア共和国議会選挙の結果、コシュトゥーニツァ大統領が率いる民主改革派勢力が圧勝し、権限が集中する共和国レベルでも政権を確保した。他方、モンテネグロ共和国の中にはユーゴからの独立を望む声も大きく、ユーゴとモンテネグロの関係については引き続き予断を許さない。
 2000年9月以来の一連の動きは、南東欧地域全体を安定と繁栄に向けて前進させる画期的な出来事と言える。日本は、従来より、南東欧の平和と安定は欧州のみならず国際社会全体にとり重要課題であると認識してきており、民主化へ向けたユーゴの動きを後押しするために、2000年12月、1000万ドルを上限とする対ユーゴ緊急人道支援(難民支援570万ドル及び小麦生産用肥料支援430万ドルで構成)を実施するとともに、コソヴォ情勢の悪化を受けて98年6月に導入していたユーゴに対する経済制裁(セルビア共和国に対する新規投資の停止及びユーゴ連邦政府及びセルビア共和国政府に対する資金凍結)を解除した。
 日本は、民主化の途についたユーゴの改革の流れを更に促進するためには、ユーゴの近隣諸国が果たす役割も大きいとの認識から、ユーゴに対する協力のみならず、その近隣諸国への協力も重視している。

(4)その他の動き

(A)インドネシア 

 インドネシアは、アジア通貨・経済危機による経済的打撃とこれに伴うスハルト長期政権の崩壊を経験し、以後、様々な分野での改革に取り組んできているが、分離・独立運動などによる地方における情勢の悪化を始め、政治・経済運営などに当たり、引き続き多くの困難に直面している。2000年においても、まず、内政面では、アブドゥルラフマン・ワヒッド大統領の汚職関与疑惑等が浮上したこともあり、8月の国民協議会(MPR)年次総会に向け、イスラム系諸政党勢力を中心とする大統領降ろしの動きが表面化した。大統領側は内閣改造と副大統領への職務の一部委譲によりこの動きは乗り切ったものの、その後も政治的対立は継続している。また、地方情勢については、アチェ特別州、イリアン・ジャヤ州における分離・独立運動、マルク州及び北マルク州における住民間抗争を抱え、いずれも解決の目途は立っていない。経済情勢については、経済危機時の状況からは回復基調にあるものの、市場の信認は依然として弱く、本格的経済回復のためには各分野での改革の進展が課題となっている。
 日本は、インドネシアの安定は地域の安定と繁栄にとって極めて重要であるとの認識に立ち、その改革努力を支援してきている。2000年には2回の首脳会談と3回の外相会談が行われ、このような機会に日本の基本的立場を改めて表明するとともに、インドネシアの諸課題への取組に対し両国間の信頼関係を基礎とした友人としての助言を行ってきた。例えば、4月の首脳会談の際には、経済改革プログラムの実施や東チモール問題への対処につき、大統領の取組を支持し、一層のリーダーシップの発揮を期待する旨表明した。また、9月に発生した西チモールの国連難民高等弁務官(UNHCR)事務所襲撃事件に際しては、事件直後の国連ミレニアム・サミットでの首脳間の対話の機会などをとらえて、インドネシア政府としての積極的な対応を促した(西チモールにおける東チモール難民問題については、東チモールの項参照)。
 地方情勢に関しては、日本は、インドネシアの領土的一体性を支持するとの立場を明らかにしてきており、また、情勢の悪化に伴う避難民の窮状を緩和するとともにインドネシア政府の事態収拾に向けた努力を側面支援するため、様々な支援を実施してきている。また、7月のG8宮崎外相会合、同じく7月のASEAN+3(日中韓)外相会議、日・欧州連合(EU)首脳協議等の結論文書においてインドネシアの領土的一体性への支持が盛り込まれた。
 対インドネシア支援に関しては、10月17日、18日の両日、東京で対インドネシア支援国会合(CGI)が開催され、インドネシアの経済情勢・構造改革の状況を始めとする諸課題について議論が行われた。各国政府・国際機関からはインドネシアの更なる構造改革の努力を要望しつつ、同国の2001年度の資金需要を満たすための支援として総額48億ドルに及ぶ援助の供与が表明され、日本からも、自らも厳しい財政状況にあるものの、インドネシアの改革努力支援の重要性に鑑み、2001年度の資金需要のみならず中長期的視点をも踏まえた支援表明を行った。

(B)東チモール

 東チモールでは、国連東チモール暫定行政機構(UNTAET)の下で、東チモール人により独立に向けた国造りへの取組が進められている。日本は、99年9月の騒乱直後から積極的な人道援助を実施してきたのに加え、東チモールの独立と国造りのためにできる限りの支援を行うとの基本方針の下、99年12月に第1回東チモール支援国会合を東京で主催し、支援国として最大の3年間で約1億3000万ドル(復興・開発支援に約1億ドル、人道支援に約3000万ドル)の支援表明を行った。その後、日本は、2000年1月に東チモールにおける復興・開発需要を調査するための経済協力調査団を派遣したのを始めとして、積極的な復興・開発支援を行ってきている。
 また、第1回支援国会合直後の2000年1月12日から14日まで東外務総括政務次官が、4月30日には河野外務大臣がそれぞれ東チモールを訪問した。7月のG8宮崎外相会合においては、議長である河野外務大臣より、自身の現地視察の結果を踏まえ、国際社会の支援継続の必要性を指摘し、外相総括にもこの旨が盛り込まれた。
 国際社会による支援が本格化する中、東チモールの人々は、国造りへのより積極的な参加を求めるようになり、東チモール統治のいわゆる「東チモール人化」に向けた取組が積極的に進められることとなった。具体的には、7月、UNTAETの下で東チモール暫定内閣(ETTA)が設立され、その8名(のち9名)のメンバーのうち4名(のち5名)に東チモール人が就任することとなった。また、10月には、36名の東チモール人代表からなる国家評議会(National Council)が発足し、重要な意思決定機関としての役割を担うこととなった。日本は、東チモール人の責任ある積極的な参加を促し、東チモールが独立後に自立可能となるよう人材育成等に重点を置いた支援を実施していく考えである。また、日本は、住民和解の重要性、多様な意見を許容できる民主主義の確立を訴えている。なお、独立に向けた今後の日程については、2001年末までの独立を目標に選挙実施、憲法制定等の準備を進めていきたいとの意思が東チモール人側より表明されている。
 東チモールにおいて国造りのプロセスが本格化する一方、西チモール(インドネシア共和国東ヌサトゥンガラ州)に留まっている東チモール難民に対しては、引き続きインドネシア政府及び国際機関等により生活状況の改善や東チモールへの帰還のための支援が行われた。日本は、これら難民に対する支援として、国際機関を通じた支援を実施したのに加え、99年11月より2000年2月まで、自衛隊機による人道援助物資輸送(インドネシアのスラバヤ-クパン間)を実施した。こうした中、9月、西チモールのアタンブアにある国連難民高等弁務官(UNHCR)事務所が襲撃され、職員が殺害される事件が発生した。これに対し、国連安全保障理事会は、インドネシア政府が治安回復等のため必要な措置をとること等を求める決議1319を採択した。日本は、首脳レベルを始め、様々なレベルでインドネシア政府の努力を促す働きかけを行った。その後、インドネシア政府により武装分子の武装解除等の措置がとられてきており、11月に派遣された国連安保理ミッションからは同政府の取組に対する一定の評価が表明された。しかし、この問題の包括的な解決のためには、インドネシア政府の継続的な努力が必要であり、また、日本を含む国際社会としてもこれを積極的に支援していくことが必要とされている。

(C)アフリカにおける紛争への取組

 サハラ以南アフリカでは、人為的な国境線の策定、国家基盤の脆弱性などを背景に、貧困、民族・宗教対立、天然資源等の経済的利権、権力、独立問題などの複雑な要素が絡み合い、世界で最も多くの武力紛争が発生している。2000年は、シエラ・レオーネ内戦において、国連平和維持活動(PKO)の要員が拘束され、また、アフリカにおける紛争の一因といわれるダイヤモンドの不正取引の問題が国際的関心を呼ぶなど、アフリカの紛争が国際的な関心を集めた。
 こうした武力紛争の発生・継続により、多くの人々が殺傷され、難民・国内避難民が大規模に発生するだけでなく、これに伴う経済の停滞、環境破壊を招いている。また、統治能力を失った政府が有効な対策をとり得ないことから、エイズを含む感染症の蔓延、人権の抑圧、武器・薬物の流出入、組織犯罪の活発化なども見られる。
 アフリカ統一機構(OAU)、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)、南部アフリカ開発共同体(SADC)等のアフリカの地域的機関や周辺国による和平努力を受けて、2000年にはエティオピア・エリトリア紛争、ブルンディ内戦において、紛争解決に向けた一定の進展が見られたが、シエラ・レオーネでは、一時、停戦合意が破られ、コンゴー民主共和国をめぐる紛争では、いまだ解決の道筋が見えないなど、アフリカの紛争問題の解決は容易ではない。アフリカ地域の安定と繁栄は、世界の安定と繁栄のための重要な要素であり、国際社会としてもアフリカ自身による紛争問題に対する努力を積極的に支援する必要がある。

【日本の取組】

 これまで日本は、アフリカの紛争の予防、解決のため、(A)和平プロセス、復興努力等に対する財政的貢献(注1)、(B)PKO要員派遣等の人的貢献(注2)、(C)紛争の平和的解決の働きかけ等の政治的貢献(注3)、(D)紛争の予防、解決のためのシンポジウム開催等の知的貢献(注4)等、様々な支援を行ってきた。また、紛争の予防、解決のための包括的アプローチの一環として、(A)選挙監視要員の派遣、(B)難民等に対する支援、(C)紛争予防、解決のための制度整備への支援(注5)、(D)小型武器を含む武器の流入への規制、(E)対人地雷除去、犠牲者支援、(F)紛争ダイヤモンドへの取組なども積極的に行ってきた。特に2000年は、日本は九州・沖縄サミットの機会に、南アフリカ、ナイジェリア、アルジェリアを含む、途上国の首脳、国際機関の長等とG8首脳の対話の機会を設け、アフリカ問題にスポットを当てた。また、国連ミレニアム総会の機会にも、森総理大臣は南アフリカ、ナイジェリア、アルジェリアの3大統領と会談し、アフリカの紛争問題などについて意見交換を行った。(さらに、森総理大臣は2001年1月、現職総理大臣として初めて、アフリカを訪問し、アフリカ問題の解決なくして21世紀の世界の安定と繁栄はないと訴え、訪問先の首脳より高い評価を受けた。)

(注1) 576,704千ドル(94年から99年総計)
(注2) 国連モザンビーク活動(ONUMOZ)にアフリカで初めて自衛隊の要員・部隊を派遣し(93年から95年)、さらにルワンダ難民救援のため、人道的な国際救援活動として、自衛隊の部隊等を派遣した(94年)。
(注3) 98年に東京で開催された第2回アフリカ開発会議(TICADⅡ)等の機会に、小渕総理大臣、高村外務大臣といった政府要人より大湖地域、エティオピア、エリトリアを始めとした紛争関係国・機関の要人に対し、直接和平を働きかけたほか、紛争関係の国際会議等にも出席し、アフリカの紛争問題解決のための活動を行っている。
(注4) 「アフリカの紛争予防と和平イニシアチブにおける準地域機関とNGOの役割」(2000年5月)、「児童兵の社会復帰に関する国際ワークショップ/シンポジウム」等。
(注5) 96年以降、アフリカ統一機構(OAU)平和基金へ合計約145万ドル拠出。2000年、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)へ、10万ドル拠出。


【シエラ・レオーネ内戦】

 シエラ・レオーネ内戦に関しては、99年5月に政府と反政府勢力である革命統一戦線(RUF)との間で停戦合意が締結され、7月にはロメ和平合意が締結された。しかし、2000年5月、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の撤退後、反政府勢力支配地域に展開しようとした国連シエラ・レオーネ・ミッション(UNAMSIL)に対し、RUFが攻撃を行い、要員を拘束するなど、ロメ和平合意を無視して戦闘を継続し、状況は悪化した。リベリアの仲介などにより、UNAMSIL要員は解放され、11月には、政府とRUFとの間で停戦合意が締結された。しかし、UNAMSILの能力は地域の安定を維持するのに十分とは必ずしも言えず、停戦合意の実効性が確保されるよう引き続き注視が必要である。 

【エティオピア・エリトリア国境紛争】

 エティオピア・エリトリア両国間では、98年5月に国境画定問題をめぐる武力衝突が発生して以来、断続的に戦闘が繰り返されてきたが、アフリカ統一機構(OAU)や米国を中心とする和平仲介努力、日本を含む国際社会による和平実現のための働きかけが実を結び、両国は2000年6月に、敵対行為の即時停止と平和維持ミッションの派遣などを内容とする休戦合意に署名した。12月には和平合意への署名がなされた。今後は、包括和平合意の内容が着実に実施され、国境確定を含む残された課題が解決されるよう引き続き積極的に取り組んでいくことが必要である。

【ブルンディ内戦】

 ブルンディにおいては、93年10月の内戦勃発以降、多数派フツ族(全人口比85%)と少数派ツチ族(全人口比15%)との間で抗争が繰り返されてきた。タンザニアのニエレレ元大統領の下で行われてきた仲介活動は同氏の逝去後、マンデラ前南アフリカ大統領に引き継がれ、累次の和平会合が開催されてきた。和平プロセスに対しては、日本も計21万ドルの和平会合開催のための財政支援を行っているほか、クリントン米大統領を始めとする国際社会も和平プロセス進展のために積極的な働きかけを行ってきた。その結果、2000年8月には、アルーシャで和平合意の署名が行われ、9月までに交渉当事者すべてが和平合意に署名した。このような好ましい動きを受け、12月にはパリにおいて支援国会合が開催され、ドナー国・機関による支援表明が行われた。今後は、和平プロセスに参加していない主要反政府武装勢力の和平プロセスへの参加を得て敵対行為の停止を確保するために、国際社会が一体となって一層働きかけを強めていくことが必要である。

   4.日本の主要な二国間関係
(1)日米関係

【日米関係総論】

 日米両国は、2000年においても、首脳、外相レベルの会談を始めとする緊密な対話を行い、二国間の政治・安全保障、経済問題に加え、グローバルな課題への取組等、幅広い分野において協力関係を深めた。
 首脳レベルでは、4月の森総理大臣就任直後のクリントン大統領との電話会談を始めとして、5月の森総理大臣米国訪問、6月の故小渕前総理大臣の葬儀参列のためのクリントン大統領の日本訪問、そして7月の九州・沖縄サミットの機会に日米首脳会談が開催され、日米二国間関係のみならず国際情勢やグローバルな問題についても幅広い議論を行った。このように3か月連続で日米両国の首脳が会談を行うことは、これまでに例がないことであった。また、サミットに参加したクリントン大統領は、現職大統領としては初めて復帰後の沖縄を訪問し、沖縄の平和祈念公園内の平和の礎で、沖縄の心あるいはその悼みに対し、最大限配慮、感謝するとのスピーチを行った。
 その後、11月のアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議の際に行われた日米首脳会談においては、両首脳は対北朝鮮政策を中心に意見交換を行い、対北朝鮮政策に関する日米韓の連携が重要との点で意見が一致した。このAPEC首脳会議への出席がクリントン大統領にとって事実上最後の日米首脳会談の機会であったことから、森総理大臣から同大統領の任期8年間における活躍に対し深甚なる敬意を表した温かいメッセージを送った。
 外相レベルでも幅広い対話と政策協調が行われ、河野外務大臣は、2月中旬に米国を訪問し、クリントン大統領、オルブライト国務長官、バシェフスキー通商代表と会談し、九州・沖縄サミットや世界貿易機関(WTO)新ラウンドの早期立ち上げを含む幅広い分野で日米協力を行うことで意見が一致した。さらに7月のオルブライト国務長官の日本訪問に際する外相会談、9月の国連総会出席の折に行われた外相会談において、安全保障、ロシア、朝鮮半島等をめぐる国際情勢を中心に大所高所からの意見交換を行った。また、国連総会の際に日米外相会談と並んで行われた日米安全保障協議委員会(「2+2」会合)では、アジア太平洋地域の戦略及び二国間の安全保障問題につき議論を行った。また、10月の韓国での日米韓3か国外相会談では対北朝鮮政策に関する日米韓の緊密な連携を行っていくことを確認した。
 11月に行われた大統領選挙では、フロリダ州の投票結果をめぐる混乱から、選挙結果確定に時間を要したが、12月14日のブッシュ・テキサス州知事の大統領当選確定の際及び同大統領の就任直後に、森総理大臣はブッシュ大統領と電話会談を行い、日米同盟関係を一層強化することで一致した。(また2001年1月、次期国務長官への指名を受けたパウエル元統合参謀本部議長は、河野外務大臣との電話会談の中で、日米同盟を維持・強化するとともに、日米両国が緊密な対話を通じた政策協調を行っていくことで一致した。1月に入ってのブッシュ政権の発足を受け1月下旬に河野外務大臣が、また3月には森総理大臣が米国を訪問し、パウエル国務長官及びブッシュ大統領とそれぞれ会談した。外相会談においては、日米同盟関係の重要性を確認し、これを一層強化し、世界の平和と繁栄に向け日米両国が緊密な対話を行い密接に協力していくことで意見が一致した。ブッシュ政権発足後、初の首脳会談では、今後の日米関係の在り方の基本的方向性について、忌憚のない話し合いを行い、その中で日米同盟関係を強化し、二国間の当面の問題への対処につき緊密な対話を行い、協力していくことで意見が一致した。経済分野について両首脳は、米国経済の再成長、不良債権問題への効果的な対処を含む日本の構造改革及び規制改革などの日米各々の政策課題について確認するとともに経済・貿易分野での日米間の対話強化、WTO新ラウンド年内立ち上げに向けた協力につき意見が一致した。政治分野では、えひめ丸の衝突事故については、ブッシュ大統領より深い遺憾の意が表明され、原因究明、引き揚げ及び補償等につき、できることはすべて行うとの表明があった。日米安保の分野では、96年の日米安全保障共同宣言等に基づく取組を引き続き実施することの必要性を再確認し、また沖縄に関する諸問題につき「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)プロセスを引き続き実施すること等を確認した。このほかにも朝鮮半島情勢等の国際情勢についても意見交換が行われる等会談は有意義なものとなった。

【日米経済関係】

 米国は引き続き大きな対日貿易赤字(813億ドル(2000年))を有している。しかし、米国の対世界貿易赤字は近年飛躍的に増大してきており、2000年も前年に引き続き史上最高水準を更新したが(4347億ドル(2000年))、これは基本的に米国の好景気が原因であること及び対日貿易赤字は全体の2割弱(中国と同水準。なお、2000年は米国の貿易赤字相手国第1位は中国)であること等を背景に、対日貿易赤字そのものは大きな問題とならなかった。
 他方、米国は、日本経済の回復のためには規制緩和・構造改革が重要であることを強調し、日米間の規制緩和対話の推進に力を入れてきている。3年目を迎えた日米規制緩和対話では、電気通信分野における東西NTTの接続料引き下げ問題を始めとするいくつかの懸案事項が残されていたが、いずれも7月に決着し(注)、7月22日の沖縄における日米首脳会談においてこれらの項目を含む第3回共同現状報告が発表された。この日米首脳会談において、両首脳は対話を更に1年継続することを確認し、これを受け、現在4年目の対話が行われている。

(注)東西NTTの接続料引き下げ問題に関しては、最終的に、接続料の22.5%の引き下げを3年間かけて実施することを基本枠組みとし、その枠組みの下で当初2年間に80~90%の大幅な前倒しを実施するとともに、2年後には更なる引き下げも念頭に置きつつ現在の料金算定モデルを更新すること等で話し合いが決着した。

 現在日米間で政治問題化しているような大きな個別の経済摩擦案件は基本的にないと言えるが、今後米国の景気の減速が大きなものとなる場合には、米国内での保護主義の台頭が問題となり得ることに注意する必要がある。例えば、95年に日米間で策定された自動車・同部品問題に関する措置の期限は2000年12月31日であったが、米国側は日本の自動車・同部品の市場アクセスは改善していないとして同措置の延長・拡大を求めた。これに対し日本側は、自動車産業・同部品産業が国際化した現状を踏まえれば、95年措置のようなものは必要ないとの立場であり、結局同措置は2000年末に終了した。本件につきブッシュ政権がどのような立場をとるかが注目される。
 また、議会の動きも注視していく必要がある。その一例として、10月28日、ダンピング防止税及び相殺関税により得た国庫収入を、提訴又は提訴を支持した国内企業に分配することを内容とした米国連邦法(通称バード法)が成立した。これに対し日本は、12月21日、オーストリア、ブラジル、チリ、欧州共同体(EC)、インド、インドネシア、韓国、タイの各国と共同で、同法とダンピング防止協定を始めとする世界貿易機関(WTO)ルールとの整合性について懸念があるとして、WTO紛争解決手続の下での二国間協議要請を米国に対して行った。

【拡大する日米協力】

 93年に発足した「地球的展望に立った協力のための共通課題(日米コモン・アジェンダ)」の枠組みの下で、日米両国は、「保健と人間開発の促進」、「人類社会の安定に対する挑戦への対応」、「地球環境の保護」及び「科学技術の進歩」という4つの柱、18分野において、これまで約90以上のプロジェクトを推進してきた。
 2月に東京において、第10回次官級全体会合が開催され、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)・エイズを含む感染症、人口・健康、麻薬対策、母子の健康、深海掘削及び海洋観測等の6つの分野において進展が見られたことを確認し、今後重点分野として協力を推進していくこととなった。また、当面の最優先課題としてHIV・エイズ、結核やマラリアといった感染症への取組を行っていくこととした。さらに近年、企業、非政府組織(NGO)といった民間セクターとの連携が増加しており、今後も、こうした連携を強化していくことを確認した。
 次官級全体会合の前日には、保健・衛生と緊急災害支援をテーマに第2回セミナーを開催し、日米両国政府関係者に加え、NGO、国際機関及び被援助国の代表も交え、今後の活動へと生かしていくための様々な意見・提案が活発に議論された。
 また、96年2月に発足した「コモン・アジェンダ円卓会議」(会長:平岩外四経団連名誉会長)は定期会合を開催し、地球規模の様々な問題について討議し、日米両国政府に対し助言と指針を与えてきている。また、インドネシアにおいて環境教育のプロジェクト等を通じ、国内外のNGOとの連携も積極的に行っている。

【今後の展望と課題】

 上述のとおり2001年1月及び3月の日米外相会談及び日米首脳会談を通じ、ブッシュ新政権との間で、日米同盟関係の重要性を再確認して上で、幅広い分野において緊密な対話を行いつつ、日米同盟関係を一層強化していくという21世紀の日米関係についての基本的な方向性が打ち出された。今後は、このような基本的方向性の下で、二国間及び国際社会が直面する問題への取組における協議や協力を一層深めていくことが求められている。

(2)日韓関係

【日韓関係】

 隣国韓国との協力関係は、東アジアの平和と繁栄にとって重要であり、特に対北朝鮮政策を進めるに当たり、不可欠である。日韓関係は、98年の金大中(キム・デジュン)大統領の日本訪問、99年の小渕総理大臣の韓国訪問を通じて過去に一区切りがつけられ、その後も名実共に「近くて近い国」としての関係を築くための努力がなされている。2000年も99年に引き続き、98年に署名された「日韓共同宣言-21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」及び付属の行動計画に基づいて、広範な交流が繰り広げられ、未来志向の関係を発展させていくための二国間の協力体制は、一層強化されることとなった。また、金大中政権下における日本文化開放が更に進んだ結果、両国間の歌謡公演や映画上映が盛んになり、日韓文化交流が新時代に入ったことが印象づけられた。
 政治対話も間断なく継続され、5月に森総理大臣が韓国を訪問し、9月には金大中大統領が日本を訪問する等、首脳及び閣僚間の活発な往来が行われた。このような首脳間の対話においては、日韓共同宣言及び行動計画の着実な実施が確認されるとともに、文化・国民交流や経済協力に関する活発な意見交換が行われた。また、対北朝鮮政策についても、日米韓の連携の重要性が相互に確認された。
 2002年は、両国にとってサッカーのワールドカップ共催の年であり、また、「日韓国民交流年」でもある。これらを成功させ、日韓関係を盤石なものとしていくことが重要である。2002年に向けて、幅広く国民各層での交流を深め、新時代に入った日韓両国間の信頼の基盤をより強固に構築していかなければならない。
 なお、竹島をめぐる領有権問題が日韓関係の諸懸案の一つとして挙げられるが、竹島は、歴史的事実に照らしても国際法上も明らかに日本固有の領土であり、このような日本の立場は一貫している。今後とも両国間で粘り強く話し合っていく方針である。

【日韓経済関係】

 99年3月の小渕総理大臣の韓国訪問時に両国首脳により発表された「日韓経済アジェンダ21」に基づき、両国間の貿易・投資等の促進に向けた各種協議が行われている。投資協定については99年9月から本交渉を開始し、2000年内の合意を目指して鋭意交渉を重ねてきたが、なお双方で詰める点も残されており、交渉妥結には今しばらく時間を要する状況にある。また、基準・認証分野については電気用品等両国の関心分野における専門家会合を開始したところである。自由貿易協定(FTA)については、日本貿易振興会(ジェトロ)・アジア経済研究所と韓国対外経済政策研究院(KIEP)の共同研究結果を基に、公開シンポジウムが両国で開催されるとともに、9月の熱海での首脳会談において両国民間人で構成されるビジネス・フォーラムの設置について合意された。日韓関係の発展、拡大に伴い、需要が伸びている航空問題については、航空当局者間協議等を通じ、当面の施策として、関西空港の乗り継ぎルートの充実や、深夜、早朝の羽田発着チャーター便が実現の運びとなった(後者については、2001年2月より就航)。

(3)日中関係

【総論】

 日中関係は最も重要な二国間関係の一つである。日中関係の発展は、アジア太平洋地域はもちろん、世界の平和と繁栄にとって極めて重要である。近年、中国は改革開放政策の下、大きな経済成長を背景に、国際社会における影響力を急速に拡大してきている。21世紀を迎え、日本としてはあらゆるレベルでの交流と協力の拡大を通じ、中国が国際社会において、より一層建設的なパートナーとしての役割を果たすよう、引き続き積極的な外交努力を行っていく方針である。
 21世紀の日中関係の在り方については、98年に江沢民国家主席が日本を訪問した際に発出した「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」により、基本的な枠組みが築かれ、日中両国が単に両国のためのみならず、国際社会に資するよう協力することが強調された。その後、緑化基金事業、中国人の団体観光、シンクタンク間の知的交流、治安当局間協議などが開始され、新漁業協定が正式に発効し、日本側による遺棄化学兵器の初の大規模発掘・回収事業も無事終了するなど、日中両国の協力関係において様々な進展があった。2000年5月には、江沢民国家主席が日中関係についての「重要講話」を発表し、21世紀に向けた日中友好関係の重要性を謳っている。
 日中間の要人往来も極めて緊密であった。中国からは、4月には曾慶紅共産党中央組織部長が、5月には唐家セン外交部長がそれぞれ日本を訪問した。また、6月には銭其シン副総理が小渕前総理大臣合同葬参列のために日本を訪問したほか、10月には朱鎔基国務院総理が日本を公式訪問した。日本からは、8月に河野外務大臣が中国を訪問した。さらに多国間外交の機会をとらえ、9月には、国連ミレニアム・サミット及び総会の場で森総理大臣と江沢民国家主席、河野外務大臣と唐家セン外交部長がそれぞれ会談した。また、10月のアジア欧州会合(ASEM)第3回会合の際には河野外務大臣と唐家セン外交部長が再び会談した。さらに、11月のASEAN+3(日中韓)首脳会議の際には、99年に引き続き、日中韓首脳会合(森総理大臣、朱鎔基中国国務院総理、金大中(キム・デジュン)韓国大統領が出席)が開催され、今後同会合を定例化することで合意した。 
 この中で、特に10月の朱鎔基総理の日本訪問の際には、日中両国は「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」の定着のため、首脳間で日中両国間の相互理解の増進及び信頼醸成の重要性を確認し、今後更に協力関係を確立していくことで意見の一致を見た。具体的な成果としては、安保対話及び防衛交流の拡充・強化、特に艦艇の相互訪問について一致したほか、日中国交正常化30周年の2002年に、相互の幅広い理解促進を目的として、「日本年」、「中国年」を実施することでも一致した。また、首脳間ホットラインがこの時開通した。このほか、朱鎔基総理は滞在中、相互理解の促進の観点から、中国首脳としては初めて、テレビを通じて一般市民との対話を行った。
 このように、日中両国の友好協力関係は着実に発展している一方で、両国間にはいくつかの懸案も存在した。春から夏にかけて、中国の海洋調査船が日本の排他的経済水域内において日本の事前同意のないまま頻繁に海洋調査活動を実施し、5月と7月に中国の海軍艦艇が日本周辺で情報収集と見られる活動を実施したことと合わせ、日本国内では中国に対する厳しい見方が広がった。これを受けて、河野外務大臣は、8月の中国訪問時の日中外相会談の機会に日本側の問題意識を中国側に明確に伝達した。この結果、日中両国は海洋調査について相互事前通報の枠組みを作ることで合意した(同枠組みについては、2001年2月に成立した)。なお、中国の海軍艦艇の日本近海での活動は、2000年7月を最後に行われていない。
 対中経済協力については、日本は、中国が改革開放政策の下で安定と繁栄を確保することは日本自身及びアジア太平洋地域の平和と繁栄に資するとの認識の下、79年以来、中国に対して政府開発援助(ODA)を実施してきた。しかし、昨今の中国の経済成長や日本の厳しい経済・財政状況などを背景に、日本の対中経済協力の在り方の見直しを求める声が強まり、中国国内での日本の対中経済協力についての広報不足も指摘された。政府としては、対中ODA供与開始以来20年を超え、両国をめぐる経済、社会状況などに大きな変化が生じていることを踏まえ、中国が国際社会の一層責任ある一員となるよう、重要課題、分野を一層明確にした支援を実施していく必要があると考えている。このような観点から、今後の対中ODAの在り方について幅広く各界の意見を聴取するため、7月、有識者などにより構成される懇談会(「21世紀に向けた対中経済協力の在り方に関する懇談会」(座長:宮ざき勇元経済企画庁長官))を外務省に設置し、12月に懇談会の提言が発表された。政府としてはこの提言などを踏まえつつ、中国に対するODAの基本的な方針となる「国別援助計画」を2001年3月末までに策定する予定である。なお、中国政府は、10月に北京において「日中経済協力20周年記念式典」を開催し、日本の対中ODAに対し、感謝の意を表明した。また、朱鎔基総理も日本訪問時に日本の対中ODAを高く評価し、今後日本のODAについての広報を強化する旨表明した。

【日中経済関係】

 日中間の経済関係は基本的には良好な関係にある。貿易総額は、98年アジア経済危機等の影響からいったん減少したものの、99年には約7兆5000億円、2000年には9兆2000億円と史上最高額を更新した。日本は中国にとって第1位の貿易相手国、中国は日本にとって第2位の貿易相手国となっており、貿易における相互依存関係は高まっている。なお、貿易収支は88年以降日本の入超となっている。
 対中直接投資は95年度には770件、4320億円と過去最高を記録したが、その後は減少傾向にあり、99年度では76件、838億円であった。アジア経済危機、日本国内の不景気が主な原因と考えられるが、広東省、海南省等のノンバンクの債務返済、模倣品取締りの弱さ等、中国市場の投資環境の未整備も問題となっている。こうした問題の解決については、首脳会談を含め様々な機会に中国側の努力を求めている。
 多角的貿易体制の強化、中国の改革開放政策の一層の促進、中国を国際社会のより一層建設的なパートナーとしていくとの観点から、日本は中国の世界貿易機関(WTO)加盟実現を一貫して強く支持してきた。99年の小渕総理大臣の中国訪問の際に、先進国の中で最も早く二国間交渉を実質妥結し、その後の中国と他の国・グループとの交渉前進の推進力となった。2001年2月現在、中国は残る1か国(メキシコ)との交渉とジュネーヴにおける多国間交渉の一部を残すのみとなった。

【台湾との関係】

 72年の日中共同声明は第2項で「日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する」旨、第3項において、日本政府としては「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部である」との「中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重」する旨表明している。日本と台湾の関係については、この日中共同声明に基づき非政府間の実務関係として民間及び地域的な往来を維持してきている。
 2000年を通じて、日台貿易総額は約5兆8000億円で前年比約16.3%増の大幅な伸びとなった。また、12月、日台の民間企業集団間で台北・高雄間を結ぶ高速鉄道に日本の新幹線システムを導入する契約が締結された。
 両岸関係に関しては、日本としては台湾をめぐる問題が当事者間の直接の話し合いを通じて平和的に解決されることを強く希望するとの立場であり、また、その観点から、両岸対話が早期に再開されることを期待しており、こうした日本の考えを繰り返し明確にしてきている。

(4)日露関係

【総論】

 日本は、ロシアとの関係では、北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結し、日露関係の完全な正常化を達成するために最善の努力を払うとともに、ロシアの改革努力を支持しつつ、様々な分野における協力と関係強化を図ることを基本政策としてきている。真に安定的な日露関係を構築することは、日露両国の利益にかなうのみならず、北東アジア地域の平和と安定に寄与するものと考えられる。
 2000年も、日露間では、97年11月の橋本総理大臣とエリツィン大統領との間のクラスノヤルスク首脳会談における合意(注)や、25年振りに行われた小渕総理大臣のロシア公式訪問の際に発出された98年11月の「日露間の創造的パートナーシップ構築に関するモスクワ宣言」等、これまでの両国首脳間の一連の合意及び宣言を踏まえつつ、引き続きハイレベルの頻繁な対話が維持され、両国関係の強化が図られた。その結果として、政治、経済、安全保障、人的交流、国際問題に関する協力等の幅広い分野において、日露の協力関係が着実な進展を見た。

(注)クラスノヤルスク首脳会談では「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことにつき合意。

 平和条約交渉については、継続的な交渉にもかかわらず、クラスノヤルスク合意の目標期限である2000年末までの平和条約締結は実現しなかった。現在、両国政府は、これまでの交渉の結果を総括し、交渉を更に加速化するための「新たな方策」を取りまとめるべく、協議を続けている。

【緊密な政治対話の継続】

 2000年も、日露間ではハイレベルの緊密な政治対話が維持された。
 4月には小渕総理大臣の特使として派遣された鈴木宗男衆議院議員のロシア訪問を踏まえて、森総理大臣とプーチン大統領がサンクト・ペテルブルクで首脳会談を行った。この結果、日露間の戦略的・地政学的関係の推進、幅広い経済協力、平和条約の締結という三つの課題を同時に進行させ、21世紀に向けて新しい両国関係を創るための基礎を形作るよう努力することで一致した。
 9月にはプーチン大統領が日本を公式訪問し、森総理大臣との間で幅広い分野における日露関係について議論を行った。首脳会談の結果、両首脳が平和条約問題に関する声明、貿易経済分野の新たな協力プログラム、国際問題に関する共同声明の三文書に署名したほか、16の文書が発表された。
 このほか、森総理大臣とプーチン大統領は、7月の九州・沖縄サミット、11月のアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会談(於ブルネイ)の機会に会談を行った結果、2000年には計4回の首脳会談が行われた。
 外相レベルでも、河野外務大臣とイワノフ外相の相互訪問が行われるとともに、国際会議の機会を利用し、計6回の外相会談が実施され、二国間問題や国際情勢について緊密な協議が続けられた。

【平和条約締結交渉】

 9月の日露首脳会談においては、平和条約問題に関して突っ込んだ意見交換が行われた。その結果、両首脳は以下の点につき一致し、これらの点を中心とする「平和条約問題に関する日露両国首脳の声明」に署名した。

(1)クラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続すること。
(2)これまでの諸合意に立脚して、四島の帰属の問題を解決することにより平和条約を策定するため交渉を継続すること。
(3)平和条約交渉の効率性を高めるため、以下の措置をとること。
  • 交渉を加速化するための新たな方策の策定
  • 日露間の領土問題の歴史に関する共同作成資料集の改訂
  • 平和条約締結の重要性を世論に説明するための努力の活発化


 この首脳会談の結果を踏まえ、年末まで、両国間で鋭意交渉が続けられた。11月にブルネイで行われた日露首脳会談においては、外相及び専門家レベルでの交渉を更に続け、具体的進展が得られるのであれば、森総理大臣がイルクーツク訪問を行うことにつき合意され、12月には鈴木宗男衆議院議員が総理親書を携行してロシアを訪問し、その早期実現のための話し合いが行われた。
 (2001年1月には河野外務大臣がロシアを訪問し、「領土問題の歴史に関する共同作成資料集の新版及び平和条約の重要性に関する世論啓発事業に関する覚書」に署名した。9月に両首脳から指示が出された「新たな方策の策定」については、外相間で更に議論が深められた。2001年3月、森総理大臣がイルクーツクを訪問し日露首脳会談が行われ、日露両国がクラスノヤルスク合意に基づき、平和条約の締結に向けて全力で取り組んできた結果を総括し、「イルクーツク声明」を採択した。)

【経済関係】

 経済分野では、9月にプーチン大統領が日本を公式訪問した際、「橋本・エリツィン・プラン」を発展させた貿易経済分野の新たな協力プログラムが作成された。これは、投資環境の整備、改革支援を含む八つの主要な分野における今後の協力の基本的方向性を示したものである。また、11月に河野外務大臣がロシアを訪問した際には、フリステンコ副首相との間で貿易経済に関する日露政府間委員会第4回会合が開催された。
 ロシア政府の改革努力に対する支援としては、日本は、日本人専門家の派遣やロシア人研修員の受入れ等の形態での技術協力、国際協力銀行によるアンタイドローン等の支援を継続している。

【その他の分野での交流・協力】

 9月のプーチン大統領日本訪問時に署名された「国際問題における日露協力に関する共同声明」においては、グローバルな問題や地域的な問題についての日露協力の実績と今後の協力の可能性が取りまとめられた。
 安全保障対話・防衛交流の分野では、ロシア国防相の日本訪問、海上自衛隊艦艇のカムチャツカ訪問等が行われた。
 また、日露青年交流事業として、99年7月の事業開始から2000年末までの間に、合計約1000人の日露青年が交流した。

(5)日欧関係

 日本と欧州は、価値観と制度を共有する主要な先進民主主義諸国として、国際社会に安定をもたらし、繁栄を実現するためお互いに協力していかなければならない。このような観点から、2000年、日本は以下のとおり、欧州連合(EU)及び西欧諸国との間で関係強化の努力を行うとともに、お互いの地域の問題への協力(クロスサポート)(例:日本によるコシュトゥーニツァ新政権下のユーゴ支援、EUによる朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)への貢献継続の決定等)を行い、さらにはG8を始めとする様々な枠組みでグローバルに協力した。

【日・EU関係】

 2000年は、日・EU関係の更なる強化に向けて新たなステップを踏み出す年となった。まず1月に河野外務大臣が欧州諸国(イタリア、ベルギー、英国、フランス)を訪問した際、フランスにおいて行った「対欧州政策スピーチ」の中で、これまで日・EU関係において経済分野に比べ希薄であった政治分野での対話と協力を一層強化していくとのメッセージを打ち出した。続いて、7月に東京において実施された第9回日・EU定期首脳協議において、森総理大臣、シラク欧州理事会議長(仏大統領)及びプローディ欧州委員長は、日・EU関係を世界に開かれた形で更に発展させるため、2001年から始まる10年を「日欧協力の10年」とすることを宣言した。また、これを具体化するため、2001年に開催予定の次回日・EU定期首脳協議において、91年の共同宣言を基礎とした日・EU協力に関する新たな政治文書と行動計画を発出することも合意された。こうした中、双方の要人訪問や様々な機会における協議、あるいは河野外務大臣とソラナEU共通外交・安全保障政策(CFSP)上級代表との頻繁な電話会談等、極めて緊密な日・EU政治対話が行われている。また、このような作業と並行して、日・EU間の経済・貿易関係を一層強化するため、「競争政策に関する協力」と「相互承認」に関する2つの国際約束の策定作業が進められてきている。

【西欧諸国と日本の二国間関係】

 「日欧協力の10年」推進に当たり、日・EU協力の一層の強化を重点的に図っていくことは上述のとおりであるが、他方で西欧各国との二国間の協力関係の更なる拡充を図ることが引き続き重要であることは言を待たない。
 この点、先述の1月の河野外務大臣に続き、4月末から5月初頭にかけて森総理大臣は、G8各国を訪問し、各国首脳と意見交換を行い、首脳間の個人的な信頼関係を構築するとともに、九州・沖縄サミット成功に向けて改めて各国の協力を取り付けた。
 5月後半には天皇皇后両陛下がオランダ及びスウェーデンを公式訪問され、スイス及びフィンランドにお立ち寄りになられた。両陛下はオランダ、スウェーデン両国王室及びスイス、フィンランドの各大統領から大変な歓迎を受けるとともに、市民とも幅広く交流された。
 7月の九州・沖縄サミットを始めとする種々の国際会議の際には、G8を始めとする欧州各国要人との間で、二国間の首脳会合、外相会合、蔵相会合が実施された。また、サミットの際には、沖縄入りした欧州首脳の多くは県内各地を訪問し、沖縄県民との交流を深めた。
 文化行事も引き続き盛んに行われ、ドイツにおいて「ドイツにおける日本年」、また日本とオランダ両国において、日・オランダ交流400周年記念事業が行われた。(さらに、2001年1月には、森総理大臣はアフリカ訪問の帰途、日本の現職の総理大臣として初めて、ギリシャを訪問した。)  
 このように欧州と活発な交流が行われたが、特筆すべき動きとしては以下のものがある。

【日・オランダ関係】

 2000年は日・オランダ交流400周年に当たり、両国で総計約700に上る様々な記念行事が行われたほか、天皇皇后両陛下のオランダ御訪問の成功とあいまって21世紀における日・オランダ関係の一層の強化に向けて新たな進展が見られた。
 また、2月のコック首相の日本訪問の際、小渕総理大臣との間で実施された日・オランダ首脳会談では、日・オランダ交流400周年を踏まえ、旧オランダ領東インド(現インドネシア)におけるオランダ人戦争被害者問題を乗り越え、未来志向の日・オランダ関係の構築を一層強化していくことで一致した。

【21世紀における日独関係】

 10月に、フィッシャー外相が日独定期外相協議のため日本を訪問し、河野外務大臣との間で政治文書「21世紀における日独関係、7つの協力の柱」が交換された。本文書は96年に外相レベルで作成され日独間協力の基盤となってきた「日独パートナーシップのための行動計画」に代わる新たな基盤として、日独間で今後グローバルな協力関係を強化していくべき柱を7つ盛り込んでいる。

【中央アジアの包括的安全保障に関する日・OSCE会議】

 12月、日本と欧州安全保障・協力機構(OSCE)が初めて共催する会議が日本で開催された。OSCE加盟国、関係国際機関等が参加し、日本及びOSCE双方が共に関心を有する中央アジアの包括的安全保障について、各々の立場から、率直な意見交換が行われた。

   5.地域協力
 アジア太平洋地域における地域協力は、地域の多様性を反映し、政治面においても経済面においても、欧州と比べてその発展のスピードは緩やかなものであった。しかし、20世紀最後の10年間、東アジアを包含するアジア太平洋地域において、地域協力が少しずつ広がりを見せ始めており、その機運は徐々に高まってきている。このような進展は、種々の二国間の取組とあいまって、この地域の平和と繁栄に資するものといえよう(ASEAN地域フォーラム(ARF)については、第2章第1節(3)参照)。

(1)東アジアにおける地域協力

【東南アジア諸国連合(ASEAN)との関係】

 ASEAN諸国は97年に発生した通貨・金融危機によって深刻な影響を受けたものの、日本を始めとする国際社会の支援と各国自身の改革努力によって、2000年を通して経済は着実な回復基調を示した。日本は2000年を通じて、ASEAN各国との間で、21世紀に向けた新たなパートナーシップの構築に努めた。
 まず、7月にタイで開催されたASEAN拡大外相会議(PMC)の際には、日本からASEANに対する新たな支援を行うための基金が設立された。(注1)河野外務大臣は、地域の平和と繁栄に向け、ASEANが果たした役割を評価しつつ、そうしたASEANをパートナーとして位置付け、関係を強化する方針を表明し、具体的な協力策として、「小渕プラン」(注2)の実施状況や情報通信技術(IT)に関する包括的協力策、メコン河流域開発の取り進め方等につき説明した。

(注1) 「日・ASEAN総合交流基金(JAGEF)」  99年11月の日・ASEAN首脳会議の際に小渕総理大臣が表明した「ASEAN新規加盟国のASEAN関連部局の機能強化とASEAN中央事務局の機能強化のための新たな支援」を具体化するためASEAN拡大外相会議のASEAN+1(日本)の外相会合の冒頭で設立に関する書簡の交換が行われた。
(注2) 「東アジアの人材の育成と交流の強化のためのプラン」(小渕プラン)  東アジアにおける人的ネットワーク構築のために人材育成と人的交流を強化する10項目にわたる包括的人材交流プログラム。99年11月のマニラでのASEAN+3(日中韓)首脳会議の際、小渕総理大臣が表明。金融分野と高等教育分野における専門性の高い人材育成の拡充、市民レベルの人材交流の強化、留学生交流への支援強化を目指すもの。


 11月末にシンガポールで開催された日・ASEAN首脳会議に出席した森総理大臣は、日・ASEAN賢人会議(注1)の報告書を、21世紀における日・ASEAN関係のあるべき姿を展望するものとして評価しつつ、「日・ASEANニュー・パートナーシップ」(注2)の重要性を強調した。また、賢人会議の提言を踏まえ、日本とASEANが共同で国際的な秩序の構築に積極的に関与すべきとの観点から、IT、世界貿易機関(WTO)及び国連改革の各分野における協力を提案した。さらに、日・ASEAN関係を一層強化するためには、人と人の交流、なかんずく、21世紀を担う若者の交流が重要であるとの認識から、ASEAN諸国の高校生を日本に招聘する新たな留学プログラムを提案し、ASEAN各国首脳からは歓迎の意が表明された。

(注1) 「ビジョン2020日・ASEAN協議会」(日・ASEAN賢人会議)  98年12月のハノイでの日・ASEAN首脳会議において小渕総理大臣より設置を提案した賢人会議。日本とASEAN各国の民間有識者から成り、3回の会合を重ね、2000年11月の日・ASEAN首脳会議に報告書を提出した。
(注2) 「日・ASEANニュー・パートナーシップ」 (A)対等なパートナーシップ、オーナーシップ及び相互尊重、(B)ビジョン2020/ ハノイ行動計画に基づくASEAN諸国の国内改革、(C)「日本の第三の開国」の重視、(D)「ASEAN内格差」の是正を共通の目的とすること、(E)「意志ある者同士の連帯」の重視、の5つの原則に基づく日・ASEAN間のパートナーシップ。


【ASEAN+3(日中韓)】

 97年夏に発生した通貨・金融危機が各国に波及し、その影響が東アジア全体に広がったことをきっかけとして、東アジア諸国は相互依存関係を強く認識するに至った。通貨・金融危機の教訓を踏まえ、東アジア諸国の間で地域協力を強化する気運が高まる中で、ASEAN+3(日中韓)の枠組みが生まれた。
 97年12月に初めて開催されたASEAN+3首脳会議は、98年12月の首脳会議でその定例化に合意し、99年11月のマニラでの首脳会議では、東アジア諸国が経済、文化、政治・安全保障等の幅広い分野で地域協力を推進していく決意を謳う「東アジアにおける協力に関する共同声明」を、同首脳会議の枠組みで初の共同声明として採択した。
 そうした中、2000年7月のバンコクでのASEAN拡大外相会議(PMC)の際には、同共同声明の実施状況の中間レビューを主な目的として、ASEAN+3外相会議が初めて開催された。この外相会議においては、河野外務大臣から、「開かれた地域協力」と「日・東アジア・パートナーシップ・イニシアチブ」(注)を提唱し、具体的協力分野として、人材育成やASEAN域内の経済格差の問題を取り上げた。また、朝鮮半島情勢、インドネシア情勢等についても議論が行われ、「インドネシアの主権、領土的一体性及び国家的統一を支持するASEAN+3共同声明」が採択された。

(注) 「日・東アジア・パートナーシップ・イニシアチブ」
 日本からの資金協力・技術協力を通じて途上国を卒業した東アジア諸国(シンガポール、韓国)、または卒業間近の国(マレイシア、タイ)などとパートナーシップを構築し、主に東アジア域内の三角協力を推進するためのイニシアチブ。


 同年11月のシンガポールにおけるASEAN+3首脳会議では、東アジアにおける地域協力の強化が主要な議題となり、森総理大臣からは、21世紀に向けて東アジア協力を推進するに当たって踏まえるべき原則として、(A)パートナーシップの構築、(B)開かれた地域協力、(C)将来の方向性としての政治・安全保障も含む包括的な対話と協力、の3点を提唱した。これを受け、参加各国首脳の間で東アジアにおける地域協力の方向性につき活発な議論が行われ、その中で、ASEAN側からは、「東アジア・サミット」や「東アジア自由貿易・投資地域」といった提案も行われた。これらの提案については、今後、金大中(キム・デジュン)韓国大統領より提案のあった「東アジア・スタディ・グループ」の場で、中長期的な観点から検討されることとなった。また、同首脳会議では、現在東アジア諸国が直面するグローバリゼーションと情報通信技術(IT)革命という課題に対応していくための具体的な協力策についても議論され、特にITについて、日中韓3か国が「e-ASEAN構想」(注)の推進などのASEAN側の努力に連携・協力していくことで合意を見た。森総理大臣からは、ITをチャンスと捉えて活かしていくとの観点から、東アジアにおけるIT協力の方途を検討するための「東アジア産官学合同会議」を2001年に日本で開催することを提案し、各国首脳の賛同を得た。また、東アジアの地域協力推進のための日本の協力策として、森総理大臣より、海賊対策、金融等の分野においても具体的提案を行い、各国首脳の高い評価を得た。日本としては今後とも、東アジアの対話と協力の一層の強化に向けて、積極的にイニシアチブを発揮していく方針である。

(注) e-ASEAN構想
 ASEAN内で、自由で統合された "e-space"(電子空間)を実現し、情報化された世界経済におけるASEANの競争力の強化を図ることを目的として、ASEAN内でIT協力を推進するとの構想。昨年9月のASEAN経済閣僚会議で打ち出され、実施機関としてe-ASEANタスクフォースの設置も併せ決定し、その後のASEAN首脳会議で承認。


【日中韓】

 99年11月のマニラでのASEAN+3(日中韓)首脳会議の際には、小渕総理大臣の提案により、日中韓3か国の首脳レベルの対話が朝食会という形で初めて実現したが、2000年11月のシンガポールでのASEAN+3首脳会議の際にも、前年に引き続き、日中韓3か国首脳の朝食会が行われた。そこでは、今後、日中韓首脳会合を毎年開催されるASEAN+3首脳会議の際に開催し、日中韓3か国が持ち回りで主催することで合意し、2001年の会合は日本がホストとなることが決まった。
 日中韓3か国間の具体的な協力としては、日中韓経済協力共同研究について、3か国のシンクタンク間で研究を開始することで合意したほか、文化・人的交流の分野では、森総理大臣より、2002年が「日韓国民交流年」であり、日中国交正常化30周年でもあることに言及しつつ、同年を契機に日中韓3か国間の交流も促進し、その一環として「日中韓ヤング・リーダーズ交流プログラム」を実施することを提案した。これを受けて、朱鎔基中国総理からは、こうした2002年を「日中韓国民交流年」とすることが提案され、3か国首脳により合意された。その他、情報通信技術(IT)や環境の分野についても議論が行われ、各々の分野での具体的な協力の方向性が確認された。この日中韓プロセス、3か国間の協力を着実に進めていくことは、北東アジアの平和と繁栄に資するものと考えられる。

(2)APEC

 アジア太平洋経済協力(APEC)はアジア、大洋州、北米、中南米、ロシアといった広範で多様な地域を包含したユニークな地域協力として注目される。89年に12のメンバーで発足して以来、順次メンバーを増やし、現在では21のメンバーにより構成され、世界の人口の57%、国内総生産(GDP)の43%を占める世界最大の地域協力である。APECはアジア太平洋地域の持続可能な発展に向け、貿易・投資の自由化及び円滑化、そして、経済・技術協力という三つの柱を通じて様々な活動を積極的に行ってきた。また、「開かれた地域協力」を標榜し、多角的自由貿易体制の維持、強化への貢献を通じて、アジア太平洋地域の発展をもたらしてきた。その際、APECは、緩やかなメンバー間の地域協力という性格を有し、「協調的自主的」な行動を原則としてきた。
 2000年、ブルネイのバンダル・スリ・ブガワンで開催されたAPEC首脳・閣僚会議においては、各メンバーがアジア経済危機から脱出しつつある一方、石油価格高騰という不安定要因が見られる状況を背景に、これまでのAPECでの議論を着実に実施するとの観点から、前向きな議論が行われた。閣僚会議においては、APECの活動の柱である貿易・投資の自由化及び円滑化、経済・技術協力の一層の促進に加え、市場機能の強化、グローバリゼーションの進展を踏まえた情報通信技術(IT)革命や電子商取引について活発な意見交換が行われた。首脳会議では閣僚会議での成果を踏まえ、グローバリゼーションへの対応、多角的貿易体制の強化などについての議論が行われた。
 グローバリゼーションに関しては、特にIT革命の進展に着目し、その恩恵をいかに活用し、同時にグローバリゼーションに伴う問題にいかに対応していくかにつき、活発な議論が行われた。その結果、APEC域内の人々が2010年までにインターネットを通じて情報、サービスにアクセスするための政策的枠組みを開発、実施することが合意され、その第一歩として、2005年までにアクセス人口を3倍にするという目標が設定された。また、森総理大臣より、日本が九州・沖縄サミットに先立ち発表した情報格差(デジタル・ディバイド)解消のための5年間で約150億米ドルの包括的協力策の相当部分をAPEC域内で活用することが発表され、歓迎された。
 多角的貿易体制の強化に関してはすべての世界貿易機関(WTO)加盟国の関心及び懸念にこたえるような、バランスが取れ、かつ充分に広範なアジェンダ(議題)の新ラウンドを2001年中に立ち上げることで意見が一致した。また、日本の提案である「WTO協定実施のための能力構築」に関し、途上メンバーのニーズを分析し、これにこたえるためのプロジェクトをまとめた「戦略的APEC計画」は、多くのメンバーより歓迎され、承認を受けた。
 地域貿易協定に関しては、近年アジア太平洋地域において進展が見られることが留意され、地域貿易協定がWTOにおける多角的自由化のための踏み台として役立つものであることで意見が一致した。同時に、地域貿易協定が、WTOルールに整合的であるべきことも確認された。

(3)ASEM

 アジア欧州会合(ASEM)(注1)は、北米とアジア、北米と欧州の関係に比べ希薄であったアジアと欧州の関係を強化する目的で96年3月に発足したフォーラムである(注2)。アジアの一員であるとともに先進民主主義諸国の一員として欧州諸国との間でも価値観を共有する日本は、ASEMの目的であるアジアと欧州の間の対話と協力の強化を図る上で重要な役割を担うことができると考えており、今後ともASEMの活動に積極的に参加する考えである。

(注1) アジア側10か国、欧州側15か国及び1機関が参加。
(注2) 現在(2000年1月末)までに首脳会合が3回、閣僚級の会合が8回(蔵相会合3回、外相会合2回、経済閣僚会合2回、科学技術大臣会合1回)開催されている。


 10月に韓国ソウルで開催された第3回首脳会合(ASEM3)においては、今後10年間のASEMの活動の方向性につき首脳間で確認され、21世紀に向けアジア・欧州協力を推進していくことで一致した。同会合においては、ASEMの三つの柱である政治・経済・文化その他の分野ごとに、積極的な議論が行われた。
 政治分野では、ユーゴ情勢、東チモール情勢、国連改革、国連平和維持活動(PKO)を含む政治及び安全保障の諸問題が議論された。特に、今回の首脳会合がソウルにおいて開催されたこともあり、南北首脳会談を始め大きな動きを見せている朝鮮半島情勢について活発な議論が行われ、ASEM参加国と北朝鮮双方の関係強化への努力を訴える「朝鮮半島の平和のためのソウル宣言」が採択された。
 経済分野では、情報通信技術(IT)、世界貿易機関(WTO)、グローバリゼーション、石油価格問題、経済危機再発防止等のための経済・金融協力の強化について議論された。ITについては、多くの参加国がデジタル・ディバイド対策の必要性を表明した。また、WTOの新ラウンド立ち上げ、中国のWTO早期加盟、国際金融システム強化等の世界的な課題について、アジア・欧州間の更なる対話と協力によって、グローバルな多国間協力の枠組みを一層強化すべきということで意見が一致した。
 文化その他の分野では、特に文化的・知的・教育分野の協力において多くの参加国は、人材育成が重要であること、さらには、人的交流が相互理解の効果的な方法であることを指摘した。また、この分野でのアジア欧州財団(ASEF)の役割が高く評価された。社会分野の協力の強化については、所得格差を克服するための教育、人材育成分野での協力の必要性が指摘された。
 そのほか、デジタル・ディバイド(日韓等が共同提案)、麻薬、マネーロンダリング、人の密輸等の国際組織犯罪に対し、ASEMで効果的に取り組むための各種のイニシアチブ(新規プロジェクト)が承認された。これらのイニシアチブの中には、九州・沖縄サミットの主要テーマと密接に関連するものも少なくなく、日本としては、サミットのフォローアップの観点からも、可能なものについては積極的に取り組んでいくこととしている。
 今次首脳会合で、21世紀最初の10年のASEMの活動のビジョンを示す、アジア欧州協力枠組み2000(AECF2000)が採択された意義は大きい。AECF2000は、ASEMの原則及び目的、優先事項、仕組み等が定められ、本文書中において初めて新規参加のための指針が盛り込まれた。また、現在隔年で開催されている各種の閣僚会合が今後は毎年開催されることとなった。さらに、議長声明には、次回第4回首脳会合は2002年にデンマークのコペンハーゲンで開催されることが明記された。
 ASEM3の議長国として尽力してきた韓国に対して、日本は、準備段階より様々な形で協力や支援を行った。こうした議長国韓国に対する日本の協力や支援は、日韓二国間関係の観点からも非常に有意義なものであった。

   6.国際連合
 かつて、国連の第1の目的である国際の平和と安全の維持に必ずしも十分な役割を果たすことができなかった安全保障理事会は、現在冷戦の終焉に伴い本来の機能をより有効に果たすことが期待される状況となっている。また、同時に、近年のグローバリゼーションの進展は、人類の一層の繁栄を可能とする一方で、人権侵害、貧困、感染症、犯罪、環境、人口、難民といった負の側面への対応を国際社会に課している。このような状況において、国連は、唯一の普遍的かつ包括的な機関として、様々な課題に国際社会全体が取り組む上で中心的な役割を果たすことがますます期待されている。
 2000年4月3日、アナン国連事務総長は、「我ら人民:21世紀における国連の役割」と題する事務総長報告を発表し、21世紀の国際社会が直面する諸課題と、それに対処するための国連の機能強化について自らの考えを示した。また、8月には、国連の平和活動を検討する国連平和活動検討パネル(いわゆる「ブラヒミ」パネル)が、今後の国連の平和活動についての勧告を取りまとめた(第2章第1節2.(4)参照)。そして9月にはミレニアム・サミットが開催され、世界の首脳が国連に参集し、21世紀の国際社会が直面する諸課題への対応の在り方について幅広く議論を行った。

【ミレニアム・サミット及びミレニアム総会一般討論】

 9月、ニュー・ヨークで行われた国連ミレニアム総会(注)においては、その一環として6日から8日、国連加盟国189か国のうち144か国の首脳の参加を得て、ミレニアム・サミットが開催された。同サミットでは、「21世紀における国連の役割」を包括テーマに、21世紀の国連の在り方について活発な議論が行われた。このうち、各国の代表が演説を行う全体会合では、特に、平和と安全の問題、開発と貧困撲滅の問題及び安保理改革への言及が多くなされた。同サミットの最終日には、21世紀の諸課題への国連の取組を示したミレニアム宣言が採択された。なお、同サミットの準備過程において、国連加盟国のみならず、市民社会等の声を汲み上げるための様々な催しが行われた。

(注) 新たな千年紀を記念して第55回国連総会を特に「国連ミレニアム総会」と命名したもの。


 日本からは森総理大臣がミレニアム・サミットに出席し、(A)「人間の安全保障」、(B)安保理改革・財政改革の早期実現を通じた国連の強化、(C)核軍縮・不拡散への取組の重要性を訴えた。また、円卓会合では、グローバリゼーションに関する議論の中で、(A)貧困を削減し、(B)情報格差を解消することの重要性を訴えた。
 ミレニアム・サミットに引き続いて行われた国連総会一般討論では、9月13日に河野外務大臣が演説を行い、日本自身の経験を踏まえて、核軍縮・不拡散の問題に国際社会が一致して取り組むことの重要性を訴え、さらに、21世紀の繁栄や人間中心の世界の実現に向けての取組の重要性を強調し、そうした取組強化のために、安保理や財政の改革を通じた国連の機能強化が急務であることを訴えた。

【安保理改革】

 21世紀の平和と繁栄のために国際社会が取り組むべき課題はますます多様化・複雑化してきている。そのような中で国連がこれらの問題に有効に対応するためには、その機能を強化することが不可欠であり、特に、国際の平和と安全の維持に主要な責任を担う安保理が国際社会の現状を反映したものとなるよう改革されることが急務となっている。
 改革の具体的な議論については、94年1月以来、既に約7年にわたり「安保理改革に関する作業部会」等の場において議論されてきている。これまでの議論を通じて、日本の常任理事国入りについては大多数の国から支持を得ているが、拡大後の安保理の規模(「数」の問題)、拒否権の扱い、新常任理事国の選出方法など具体的な論点について各国の意見が収斂していない状況にあるため、改革は実現していない。
 2000年の動きとしては、日本の働きかけもあり、4月3日、米国が「数」の問題に関する立場の見直しを行い、従来の「20ないし21」より若干大きな議席数をもたらすような提案を検討する用意がある旨発表した。また、同日、アナン国連事務総長は、ミレニアム・サミットに関する事務総長報告の中で、安保理の正統性と効率性の向上のために改革が必要であることを指摘した。このほか、7月のG8首脳及び外相会合の文書において、安保理改革が不可欠である旨初めて明記され、また、ミレニアム宣言においては、「全ての面における安保理の包括的改革の実現のための努力を強化することを決意する」との文言が盛り込まれた。
 日本は、ミレニアム・サミット、ミレニアム総会を通じて常任・非常任理事国双方の議席の拡大等について多くの国の支持を得ることを目指した種々の働きかけを行った。そのような働きかけもあり、9月のミレニアム・サミット、総会一般討論及び11月の安保理改革に関する国連総会審議を通じて、169か国が安保理改革の必要性に言及し、そのうち98か国が常任・非常任議席双方の拡大への支持を明示的に言及した。その結果、「非常任議席のみの拡大」の主張への支持は大きく減退し、これまで改革の進展を阻んできた障害の一つが取り除かれたといえる。

<財政改革>

 ますます拡大する国連の活動を支えるためには健全な財政基盤の確立が不可欠である。国連財政の安定化のためには、各国がその分担金を着実に支払うことは勿論であるが、日本は一貫して、分担金支払いの促進のためには、国連の予算や組織の一層の効率化・透明化と、加盟国への分担金の割当(分担率)が各国の経済動向や国連における地位・責任等を反映した衡平なものとなることが重要であると主張してきた。
 このうち、予算については、日本等の主張により、予算額の水準がここ数年ほぼ横這いとなっており、また、財政評価の在り方についても改善の試みがなされてきている。  また、分担率について、2000年12月、国連総会は2001年から2003年の分担率に合意した。その際、日本が交渉において、上記の立場や日本の困難な財政状況を粘り強く説明した結果、各国の理解を得て、2000年の20.573%から約1%の減少となった。
 このように、日本が国連財政改革を長期的な視点で捉え、予算の効率化と分担率の衡平化に積極的に取り組みつつ、分担金支払いを着実に履行するとの方針を採っていることについては、各加盟国が高く評価しており、国連における日本の発言力を高めることに貢献している。また、国連財政関連の交渉に一貫した立場をもって主体的に参加することにより、国連予算にも日本の政策的意図を反映させるよう努めてきている。

【日本人職員】

 日本の国連に対する大きな財政貢献に比し、国連に勤務する日本人職員数は望ましい水準に達していないのが現状である。このような状況を改善するため、日本は若手職員派遣制度の活用や国連事務局などの採用ミッションの受入れ等を通じ、日本人職員の増強に努めている。
 国際機関の日本人幹部職員については、2000年には、国際連合人道問題担当事務次長に大島賢三氏の採用が決定したほか、国連人口基金事務局次長に和気邦夫氏、国連食糧農業機関水産局長に野村一郎氏が就任した。

   7.人間の安全保障
【人間の安全保障について】

 国際社会は現在、貧困、紛争、難民問題、人権侵害、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)・エイズ等感染症、犯罪、テロ、環境破壊など様々な地球規模の問題に直面している。グローバリゼーションの進展がこうした問題を一国のみで解決することをますます難しくしている中、これらの課題に対し、個々の人間の生存・生活・尊厳を確保するという観点から、人間を中心に考える取組を強化することが重要となっている。これが「人間の安全保障」の考え方であり、その取組に当たっては、各国政府、国際機関、非政府組織(NGO)を含む市民社会等、国際社会の様々な主体が協力を進めていくことが必要である。日本は、21世紀の国際協調の理念として「人間の安全保障」を掲げ、21世紀を人間中心の世紀とするため努力を傾注している。

【日本のイニシアチブ】

 小渕総理大臣は、21世紀を「人間中心の世紀」とするために人間の安全保障が重要である旨表明し、また、「人間の安全保障基金」を国連に設置することを表明する等、日本外交の中に人間の安全保障を明確に位置付けた。
 2000年7月、日本は、アマルティア・セン・ケンブリッジ大学教授(98年ノーベル経済学賞受賞)、緒方貞子国連難民高等弁務官(UNHCR)ほか、国内外の有識者の参加を得て、東京で「人間の安全保障国際シンポジウム」を開催した。同シンポジウムにおいては、人間の安全保障の観点から、紛争に伴う問題への対応や開発分野の取組を検討した上で、人間の安全保障の在り方について活発な議論が行われた。
 森総理大臣は、9月の国連ミレニアム・サミットにおける演説で、人間の安全保障を日本外交の柱の一つと位置付け、99年3月に国連に設置された人間の安全保障基金に対して、それまで拠出した90億円以上に加えて、近い将来100億円程度を目指して拠出する意図を表明した。さらに、人間の安全保障のための世界委員会の発足を支援し、人間中心の取組に対する考え方を深めていきたい旨述べた。
 上記演説を受けて、日本は2000年度補正予算、2001年度予算を通じ、着実に国連への拠出に向けた措置を講じてきている。(また、2001年1月には、緒方前国連難民高等弁務官及びアマルティア・セン・ケンブリッジ大学教授を共同議長とする「人間の安全保障委員会」の発足が正式に発表された。)
 このように、人間の安全保障の考え方に関し、日本は具体的施策を積み上げつつ、知的・財政的貢献を積極的に行い、国際的な場で議論をリードしてきており、今後とも外交を展開していく上での中心的な視点の一つとして、取組を強化していくこととしている。



第2章 第1節 / 目次


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