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 2.

カナダ


 (1) 

日加関係(日加経済関係を含む)


2008年は、在カナダ日本公使館開設から80年目となる日加修好80周年であり、日加両国で、良好な二国間関係の一層の発展を目指した様々な交流及び行事が行われた。首脳レベルでは、7月にG8北海道洞爺湖サミット出席のために初訪日したハーパー首相が、同サミット終了後公賓として東京を訪問し、北海道及び東京のそれぞれにおいて日加首脳会談が行われた。同首脳会談の中で両国首脳は、2009年夏のしかるべき時期に、天皇皇后両陛下にカナダを国賓として御訪問していただく方向で今後所要の調整を行うことで意見の一致を見たほか、気候変動問題及び世界地域情勢等につき緊密に意見交換を行った。また、外相レベルでも、2月に電話会談が、6月及び11月に日加外相会談が行われ、両国外相は、日加修好80周年の機会に日加関係が一層緊密化していることを確認するとともに、グローバルな課題に日加間で協力して対処していくことで一致した。

日加両国間では議員交流も盛んであり、7月には、カナダ・日本国会議員連盟のメンバーが訪日し、東京で第16回日加議員連盟年次総会を開催したほか、北海道を訪問した。また、11月には、オタワにて第7回日加安保シンポジウムが開催され、両国政府関係者・有識者によって日加両国政権の外交政策、平和協力及び災害救援等につき意見交換がなされた。

経済面では、日本にとって特にエネルギー供給国としての重要性が高いカナダとの経済関係を強化するため、11月には新たに貿易投資対話が開始された。12月には日加次官級経済協議が開催され、「日加経済枠組み」の下で、様々な投資、貿易促進のための取組が積極的に進められている。



 (2) 

カナダ情勢


3年目を迎えるハーパー政権にとって2008年は、政権獲得後初の総選挙の年であった。ハーパー首相は、2006年2月の首相就任以来公約を着実に実施してきた。2008年9月には下院議会を解散し、10月14日に第40回連邦下院総選挙が行われた。同総選挙では、与党保守党が再び勝利したが獲得議席数は過半数には及ばず、少数政権が続行されることとなった。しかし11月、政府が「経済・財政声明2008」を発表すると、野党各党は、金融・世界経済危機の最中にあって景気刺激策が盛り込まれていないとして同声明不支持の態度を表明。さらに野党3党が、これまでカナダでは見られなかった連立・閣外協力に合意して政府不信任案を提出・可決に向けて動いたため、ハーパー首相は、不信任案提出を阻止するため議会を停会した(2009年1月再開)。

外交面では、2007年に引き続きアフガニスタン支援を重視し、アフガニスタン南部地域のカンダハールを中心に2,500人以上の兵を派遣しているが、2009年1月末までに108名の犠牲者を出している。

カナダ経済は、好調な個人消費支出に支えられ、近年3%前後の成長率を遂げてきたが、世界的な金融危機の影響を受け、個人消費は鈍化、消費者信頼感は過去13年間で最低の数値を示し、2007年に変動相場制開始以降の最高値を記録したカナダドルの対米ドル高も2008年後半から下落している。このため、2008年、2009年のGDP成長率はそれぞれ0.6%、0.3%の見通しとなっている。その一方で、物価上昇率や失業率等の経済指標は安定、金融機関も健全かつ自己資本が優良であり、G7各国の中では好調な経済を維持している。

財政面では、1997年度に均衡財政を達成して以来、2007年度まで継続して財政黒字を計上しており、健全な財政運営が続いている。


COLUMN

日米文化交流の橋渡しの恩人ジョン万次郎の記念館建設事業について

ペリーの率いる米国の使節団が浦賀に上陸する12年前、未だにわが国が鎖国政策をとっていた天保12年(1841年)に、14歳の少年万次郎と米国の捕鯨船長ウィリアム・ホイットフィールドとが運命的な出会いをしました。

この年の1月、四国の足摺岬沖で4人の漁師に連れられた少年万次郎は暴風雨で無人島に遭難し、143日後に米国捕鯨船に救助されました。

4人の漁師はハワイで下船しましたが、船長は万次郎を見込んで、同船させ、捕鯨を続け、1年半後に北大西洋岸の捕鯨船基地に帰り、万次郎は基地の近くのマサチューセッツ州フェアヘイブンにあった船長ホイットフィールドの家に1843年5月からホームスティをしたのです。

万次郎は「ジョン・マン」と呼ばれ、小学校、中学校、さらに航海術を教える専門の学校で専門技術を学び捕鯨の航海に出て、一等航海士にもなって働き続けました。遭難9年半後の1850年には、帰国を決心し、ハワイを経て、上海行きの米国商船に乗り、日本の近海からは小さなボートに乗り移り、琉球の小渡濱海岸にこっそり上陸しました。ここでは民家に保護され、6か月間琉球に留め置かれた後、当時琉球を支配していた島津藩主に保護され、のち長崎奉行の取調べの後、故郷に12年ぶりに帰りました。

さらに土佐の領主から武士にとりたてられ、その後江戸幕府の直参として中濱万次郎という士族扱いの名前が与えられ、日本の鎖国政策を改めることを進言しました。

1854年ペリーとの間ですすめられた日米和親条約締結の影の力となったのです。その後勝海舟や福沢諭吉とともに咸臨丸でサンフランシスコ港へ向かったのです。ジョン万次郎は米国文化を民間人としていち早く日本に紹介し、まさに日米文化交流の橋渡しをしたという功績を果たした人です。

2009年5月には、万次郎のホームステイした家の改修が、私たちホイットフィールド・万次郎友好記念館開設発起人会の募金9,000万円で完成し、フェアヘイブンの町に寄贈する譲渡式が5月7日にフェアヘイブンで挙行され、日本側から多数のものが参加の予定です。

できれば米国の大統領と日本の総理大臣がこの歴史的な場所で会談する機会があることを切に望みます。


ホイットフィールド・万次郎友好記念館開設発起人委員会委員長 日野原 重明


写真・日野原重明委員長
日野原重明委員長

写真・「ホィットフィールド・ジョン万次郎友好記念館」への修築が進められている、ホィットフィールド船長の家

「ホィットフィールド・ジョン万次郎友好記念館」への修築が進められている、ホィットフィールド船長の家(米国・マサチューセッツ州フェアへイブン)


2007年の夏、万次郎がお世話になったホイットフィールド船長の家が荒れ果てた状態で売りに出されていることを聞いた聖路加国際病院の日野原理事長は、日米友好の礎を築き、日本の近代化に献身的な働きをした中濱万次郎を記憶にとどめ、また、万次郎にそうした機会を与えたホイットフィールド船長の好意に感謝するため、2008年1月に「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」開設募金・発起人会を立ち上げ、その代表としてホイットフィールド邸の購入、修築へ向けた募金活動に尽力されてきました。


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