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COLUMN

日米文化交流の橋渡しの恩人ジョン万次郎の記念館建設事業について

ペリーの率いる米国の使節団が浦賀に上陸する12年前、未だにわが国が鎖国政策をとっていた天保12年(1841年)に、14歳の少年万次郎と米国の捕鯨船長ウィリアム・ホイットフィールドとが運命的な出会いをしました。

この年の1月、四国の足摺岬沖で4人の漁師に連れられた少年万次郎は暴風雨で無人島に遭難し、143日後に米国捕鯨船に救助されました。

4人の漁師はハワイで下船しましたが、船長は万次郎を見込んで、同船させ、捕鯨を続け、1年半後に北大西洋岸の捕鯨船基地に帰り、万次郎は基地の近くのマサチューセッツ州フェアヘイブンにあった船長ホイットフィールドの家に1843年5月からホームスティをしたのです。

万次郎は「ジョン・マン」と呼ばれ、小学校、中学校、さらに航海術を教える専門の学校で専門技術を学び捕鯨の航海に出て、一等航海士にもなって働き続けました。遭難9年半後の1850年には、帰国を決心し、ハワイを経て、上海行きの米国商船に乗り、日本の近海からは小さなボートに乗り移り、琉球の小渡濱海岸にこっそり上陸しました。ここでは民家に保護され、6か月間琉球に留め置かれた後、当時琉球を支配していた島津藩主に保護され、のち長崎奉行の取調べの後、故郷に12年ぶりに帰りました。

さらに土佐の領主から武士にとりたてられ、その後江戸幕府の直参として中濱万次郎という士族扱いの名前が与えられ、日本の鎖国政策を改めることを進言しました。

1854年ペリーとの間ですすめられた日米和親条約締結の影の力となったのです。その後勝海舟や福沢諭吉とともに咸臨丸でサンフランシスコ港へ向かったのです。ジョン万次郎は米国文化を民間人としていち早く日本に紹介し、まさに日米文化交流の橋渡しをしたという功績を果たした人です。

2009年5月には、万次郎のホームステイした家の改修が、私たちホイットフィールド・万次郎友好記念館開設発起人会の募金9,000万円で完成し、フェアヘイブンの町に寄贈する譲渡式が5月7日にフェアヘイブンで挙行され、日本側から多数のものが参加の予定です。

できれば米国の大統領と日本の総理大臣がこの歴史的な場所で会談する機会があることを切に望みます。


ホイットフィールド・万次郎友好記念館開設発起人委員会委員長 日野原 重明


写真・日野原重明委員長
日野原重明委員長

写真・「ホィットフィールド・ジョン万次郎友好記念館」への修築が進められている、ホィットフィールド船長の家

「ホィットフィールド・ジョン万次郎友好記念館」への修築が進められている、ホィットフィールド船長の家(米国・マサチューセッツ州フェアへイブン)


2007年の夏、万次郎がお世話になったホイットフィールド船長の家が荒れ果てた状態で売りに出されていることを聞いた聖路加国際病院の日野原理事長は、日米友好の礎を築き、日本の近代化に献身的な働きをした中濱万次郎を記憶にとどめ、また、万次郎にそうした機会を与えたホイットフィールド船長の好意に感謝するため、2008年1月に「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」開設募金・発起人会を立ち上げ、その代表としてホイットフィールド邸の購入、修築へ向けた募金活動に尽力されてきました。


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