第3章 分野別に見た外交


【2004年の交渉概観】
 2002年1月に開始された「ドーハ開発アジェンダ」(新ラウンド)交渉は、2003年9月のカンクン閣僚会議が交渉妥結に失敗した後、しばらくの間各国が交渉の再開を模索する期間が続いた。しかし、2004年に入ると交渉への気運が再び高まり、非公式閣僚会合を経て、7月にWTO一般理事会(議長は大島正太郎在ジュネーブ国際機関日本政府代表部大使(当時))において、これ以上の交渉の停滞が本ラウンドの信頼性を著しく損なうとの各国の危機感から、交渉の土台となる7月枠組み合意(注2)がまとまった。この枠組み合意を受け、2005年12月に香港で行われる第6回WTO閣僚会議、ひいては交渉の最終的な妥結(注3)に向けて、更に交渉が進められている。




WTO一般理事会議長を務めて

 私は2004年2月より2005年2月まで、WTO※1の意思決定機関である一般理事会※2の議長を務めました。
「ドーハ開発ラウンド」と呼ばれる新ラウンド交渉は、2003年にメキシコのカンクンで行われた閣僚会議が不調に終わり行き詰まっていました。これ以上の停滞は新ラウンドを葬り去りかねず各国も危機感を募らせていました。2004年に入り、再度軌道に乗せる気運が高まったところでの議長就任でした。交渉目標の大枠は2001年11月ドーハで立ち上げた際に合意していましたが、その次の一歩が踏み出せないという状態でした。そこで2004年7月末を期限に、軌道に乗せるのに必要な主要課題は決着しようということになったのです。しかし、実際に具体的な交渉を行うとなると、各国の利益が激しくぶつかり合います。しかも、対立軸は必ずしも先進国対途上国にとどまらず、各問題ごとに各国が連携する相手は異なるため、交渉の図式は複雑です。一般理事会議長は、これら利害が錯綜した各国をまとめながら、全体としてバランスのとれたものをいかにして作り上げるか、その調整が任務でした。参加する各国がどのラインまでなら受け入れ可能であるか、その見極めに加え、交渉のプロセスでも細心のバランス感覚が問われます。交渉における透明性が要求される一方で、効率的に交渉を行うために主要国のみの交渉の場も必要となります。この点は、実はコンセンサスの形成というWTOの意思決定のあり方に関わる問題なのです。
 私は、日本における調整では常識的に行われる手法で臨みました。まず、理事会をマネージするにあたり、全てのメンバーが「参加している」という感覚を醸成することに腐心しました。また、農業を中心課題として、実質交渉が主要国間で進む一方で、議長としては各交渉分野の間の横の連携が不可欠と考え、日本流の「ほうれんそう(報告連絡相談)」、「根回し」を徹底しました。
 WTOのあるジュネーブでは、7月に連日連夜の集中的な協議が行われました。多方面での折衝結果をまとめ上げる形で、7月31日深夜、一般理事会において、今後の交渉の枠組みに関する合意を採択し、議長として槌(GAVEL)を下ろしました。この枠組合意が成立したことで今後は最終合意に向けた交渉を行うことができるようになりました。ドーハラウンド交渉は再び軌道に乗ったのです。しかし、最終的な妥結までの道のりは遠く、成否はWTOの各メンバーがどこまで本気であるかにかかっています。


執筆:前在ジュネーブ国際機関日本政府代表部大使 大島正太郎


▲一般理事会議長席に座る大島大使

※1 WTO(世界貿易機関)は、世界の自由貿易を促進することを目的として設立された機関であり、2005年1月現在、148の国と地域が加盟している。
※2 一般理事会は、全ての加盟国の代表によって構成され、少なくとも二年に一回開催される閣僚会議の会合から会合までの間、任務を遂行する機関である。

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