第1章 概観


2 2004年の国際情勢と日本外交の展開

(1)2004年の国際情勢
 2004年の国際関係においては、依然として世界各地で相次ぐテロや大量破壊兵器等の拡散という脅威にいかに取り組んでいくかということが国際社会の主要な課題とされ、特に中東地域の平和と安定のための取組に焦点が当てられた一年であった。民主的な国家として着実に生まれ変わりつつあるアフガニスタンの復興支援では、日本や米欧諸国を中心とした国際社会の一致した協力が進められた。米国、英国等によるイラクへの武力行使を契機にぎくしゃくしていた米欧関係は、6月上旬にブッシュ米大統領がノルマンディ上陸作戦60周年記念式典に出席するためフランスを訪問したことや、それに引き続いて米国が議長国としてG8シーアイランド・サミットを主催したことを通じて、関係の修復に向けた努力が進められた(注9)。そのような文脈の中で、国際社会が一丸となって山積する様々な課題に取り組まなければならないこと、及び国連の果たすべき役割が重要であることも改めて強く認識された。
 また、テロ、大量破壊兵器の拡散、貧困・開発、気候変動、感染症、紛争、国際組織犯罪といった地球規模の様々な問題も依然として深刻な状況にあり、国際社会が協調して取り組んでいくことの重要性についての認識も広く共有された。2005年9月には、2000年の国連ミレニアム・サミットで採択された「ミレニアム宣言」を見直すための首脳会合が開催される予定であり、2004年12月には、アナン国連事務総長の提唱によって2003年11月に創設されたハイレベル委員会が、こうした課題に国際社会がいかに対処するか、そのために国連の機構を如何に改革すべきかについての議論をまとめた報告書を提出した。現在、加盟国間で国連改革実現に向けた機運が高まっている。

(テロとの闘い)
 国際社会は、引き続き世界的規模で頻発し、攻撃の対象が無差別化しているテロとの闘いに真剣に取り組んできた。イラクをはじめ、サウジアラビア、スペイン、ロシアなど世界の各地でテロが発生する中で、国際社会は、累次の国連安保理決議やG8サミットにおける声明等を採択するなど、いかなる理由をもってしてもテロを正当化することはできないとの認識が共有されるに至っている。

(大量破壊兵器等の不拡散のための取組)
 大量破壊兵器及びその運搬手段であるミサイル等の拡散の問題も、軍縮・不拡散体制への重大な挑戦であり、国際社会は真剣に取り組んできている。
 2月、パキスタンの科学者が核関連技術の国外への流出に関わっていたことが明るみに出たことは、かねてより、国際的な不拡散体制の強化に取り組んできた国際社会に対して少なからぬ衝撃を与えた。これに関し、日本をはじめ国際社会が再発防止策を講ずるよう強く求めた結果、パキスタンは9月、輸出管理法を成立させ、現在その運用に向けて国内制度を整備している。北朝鮮の核問題については、平和的な解決を目指して関係国が六者会合や国際原子力機関(IAEA)を通じて外交努力を重ねてきたにもかかわらず、北朝鮮の一連の不誠実な対応により具体的な進展が見られなかった。また、イランの核問題についても、イラン政府は2003年12月にIAEA追加議定書に署名するなど前向きな動きも見せたが、その後、イランは、累次のIAEA理事会決議において停止を求められているウラン濃縮関連活動を再開したことなどもあり、国際社会の懸念が高まった。本件を安保理に報告すべきであるとの議論もある中、ぎりぎりの交渉が進められ、11月に、英国、フランス、ドイツとイランの間でウラン濃縮関連・再処理活動の停止を含む合意が成立したことで、安保理への報告はひとまず回避された。今後のイランの対応が注目されている。

(中東地域の平和と安定のための取組)
 国内でのテロ攻撃が頻発する一方でイラク復興のための国際社会の支援が続けられる中、2004年3月8日、イラク統治評議会メンバーは「移行期間のためのイラク国家施政法」(いわゆる「基本法」)に署名し、6月28日には連合暫定施政当局(CPA)からイラク暫定政府に統治権限が移譲された。イラク暫定政府は、6月1日に、ブラヒミ国連事務総長顧問によって発表された閣僚の下で、2005年1月末までの暫定議会選挙に向けての準備を進めてきたが、米国の主導でイラクの復興が進められているとして反発しているスンニ派を中心とした、復興を妨害するためのテロ攻撃や治安維持のために駐留している米英軍等への攻撃が激化するなど、国内の治安情勢は、予断を許さない状況が続いている。こうした中、2005年1月30日には、イラク初の国民議会選挙が行われ、民主化への大きな一歩を踏み出した。
 アフガニスタンでは、2004年1月の新憲法発布、10月9日の大統領選挙など新たな民主国家としての道を着実に歩んでいる。その一方で、10月に首都カブールでも自爆テロ事件や国連職員の人質事件が発生したり、地方の軍閥間の戦闘も依然として断続的に続いており、治安面での不安要因は残っている。国際社会は、アフガニスタン政府が取り組む治安維持のための対策の支援と復興支援を継続してきている。
 中東和平問題に関しても、様々な動きがあった。パレスチナ過激派によるテロ事件の発生とイスラエル軍による軍事行動が継続する中、2004年3月、イスラム過激派ハマスの指導者ヤシン師が、4月には同ハマスのランティーシ氏がイスラエルにより殺害された。また、パレスチナ側のテロ攻撃に対してイスラエル政府が空爆で報復するなど、状況は混迷の度合いを強めた。こうした状況下、11月、アラファトPLO議長が死亡し、これを機にロードマップの履行に対する国際社会の期待は再び高まっている。中東和平問題の進展を図るべく国際社会の外交努力は活発化し、2005年1月に選挙によって選出されたアッバス・パレスチナ自治政府新長官とシャロン・イスラエル首相との首脳会談が2月8日にシャルム・エル・シェイクで実現し、双方が暴力の停止を表明したことは、今後の和平に向けての新たな一歩として期待される。

(国際経済と経済面での国際的取組)
 2004年は、原油価格の高騰(注10)や年初の鳥インフルエンザによる観光面での悪影響といった景気の不安定要因はあったものの、米国の自律的な景気拡大や、欧州の景気回復の動き、BRICs(注11)の高い経済成長、さらには日本においても景気回復への兆しが見られつつあるなど、全般として概ね着実な景気の回復基調が続いた。
 このような世界的な経済成長の下支えとして重要な役割を担っている一つに、世界的規模で重層的に進められている地域統合や自由貿易協定をはじめとする経済連携の動きが挙げられる。欧州においてはユーロ高に支えられながらEUが拡大してEU域内の貿易が拡大したこと、また、北米地域や南米地域ではNAFTA、メルコスール等を通じて堅調に貿易が拡大しつつあることに加えて、アジアにおいては、そのような地域的枠組みこそないが東アジア地域の域内貿易が増大していることなどは、国際経済の活性化を促す動きとして今後の更なる発達が注目される。
 なお、WTOドーハラウンド交渉については7月に交渉の枠組みに合意し、交渉の期限も延長されたが、細部にわたる途上国側と先進国側の意見の相違を埋めるにはまだ難しい課題が山積している。引き続き、各国が、国際経済の拡大を支えてきた多角的貿易体制の信頼性をかけて、交渉の妥結を目指すとの堅い政治的意思をもって交渉に臨む必要がある。

(貧困撲滅・持続的発展のための取組)
 貧困は、所得や支出水準の低さのみを意味するものではなく、教育や保健といった社会的なサービスを受けられなかったり、ジェンダー格差、政治への参加ができないといった政治的な面での弊害をもたらしており、地域のみならず、国際社会全体にとっても、持続的な発展を大きく阻害する要因となっている。したがって、貧困の撲滅は、国際社会が平和と繁栄を享受するために克服しなければならない必須の課題である。
 2004年は、2000年に設定されたミレニアム開発目標(MDGs)の達成に向けた進捗状況が検討される2005年を翌年に控え、貧困削減のための具体的課題について議論された年であった。6月のG8シーアイランド・サミットにおいても、特にアフリカで深刻なエイズ等感染症、飢餓・貧困といった問題へ対策が議論されたほか、持続可能な開発のための環境対策として、小泉純一郎総理大臣の発案による「3R」イニシアティブ(発生抑制、再使用、再生利用)が採り上げられた。また、国連は、持続可能な開発の障害となる自然災害に対処するため、2005年1月、神戸市で国連防災世界会議を開催し「兵庫行動枠組」を採択した。
 このほか、地球環境の分野においては、11月に、ロシアが京都議定書に批准したことにより、2005年2月16日、同議定書が発効した。今後は、同議定書に定められた温室効果ガス排出量の90年比マイナス6%の削減を達成するとともに、すべての国が参加する共通ルールを構築していく必要がある。なお、2005年のサミット議長国となる英国は、アフリカの開発と気候変動を主要な議題とすると発表しており、この分野への国際社会の関心は一段と高まっている。

(アジア、欧米における動き)
 韓国では、3月に、盧武鉉(ノムヒョン)大統領(無党籍)が4月に予定されていた総選挙において特定の政党を支持したとして公務員の中立性を問われて弾劾訴追され、同大統領の権限が一時停止するなど政権の空白が生じ、外交への影響が危ぶまれた。しかし、イラクへ派遣していた韓国軍によるイラク復興支援の是非も問われた総選挙で、少数与党(ウリ党)が過半数を占めたことで、北朝鮮への「平和・繁栄政策」は引き続き維持された。また、6月には韓国軍のイラクへの増派も決定され、兵員数においては米国、英国に次ぐ第三の規模(約3,700人)となっている(2005年2月現在)。
 中国については、胡錦濤(こきんとう)国家主席をはじめとする指導部は、経済発展を最優先課題と位置づけ、引き続き高いレベルでの経済発展(2004年は9%超の成長率)を遂げており、2004年の貿易総額の面においても米国、ドイツに次ぐ第三位となっている。その一方で、経済成長のみを追求せず、社会全体の持続的な均衡発展を目指す「科学的発展説」を提唱し格差の是正等に取り組んでいる。外交面では、中国は、国内の経済発展に有利な状況を創出するために、良好な国際関係を求める全方位外交を引き続き展開しており、EUをはじめとして首脳レベルを含めた交流を活発化させている。また、近年、国連平和維持活動(PKO)への要員派遣を拡充してきており、国際場裡への参画に積極的になりつつあることも注目される。台湾との関係では、中国は、問題の平和的解決に最大限の努力を払うとしつつも台湾独立に対しては武力行使の可能性を放棄しないとの立場を変えておらず、2004年末に「反国家分裂法」の審議を決定した。その一方で、経済面での交流は拡大しており、2005年1月には旧正月期間中に中台双方で直航便の相互乗入れが実現した。中台関係については、日本や米国は、双方に対して平和的な解決、対話の早期再開を求めてきている。
 東南アジアにおいては、フィリピンやインドネシアにおいて大統領選挙が行われた。フィリピンにおいては、5月10日の選挙でアロヨ大統領が接戦の末再選を果たした。同大統領は、第二次政権発足直後で支持基盤がいまだ不安定であった状況下の7月、イラクでのフィリピン人の人質事件が発生した際、当初の予定を早め、解放の条件とされていたフィリピン軍の撤退を受け入れた。このことは、イラクの主権移譲が実現し、イラクの復興支援に一丸となって取り組もうとしていた国際社会にとって少なからぬ衝撃を与えた。インドネシアにおいては、今回初めての直接投票による大統領選挙が行われた。インドネシアの大統領選挙は民主化がアジアにおいて進展していること、及びイスラム社会においても民主主義が受け入れられつつあること、という二つの点において意義を有している。
 インド、パキスタンの関係にも肯定的な進展が見られた。2004年1月、バジパイ・インド首相とムシャラフ・パキスタン大統領との間で約2年半ぶりに再開した首脳会談においてカシミール問題もテーマに含めた複合的対話を行うことが合意され、マンモハン・シン・インド新首相の下でも対話が継続されている。
 6月のG8シーアイランド・サミットの議長国を務めた米国は、同サミットにおいて、テロとの闘い、イラク・アフガニスタン政策の延長を進める決意を明確にするとともに、中東諸国の改革努力を支援する姿勢を明らかにした。また、2001年9月の同時多発テロ以降、国防戦略の見直しを進めてきた米国は、国際社会の新しい安全保障環境に適応すべく、世界規模での米軍の軍事態勢の見直しを行ってきている。11月に再選を果たし、二期目の任期に入ったブッシュ大統領は、これを一層推進するものと見られる。
 欧州においては、3月にNATOが19か国から26か国に、5月にEUが15か国から25か国に加盟国数が拡大するなど、地域統合の進展が顕著であった。EUの基本条約となる欧州憲法条約の2006年の発効に向けた動きも加速化している。

(2)2004年の日本外交の展開
 2004年は、世界の至る所で民間人を巻き込んだテロが発生していること、イラクにおける邦人人質事件の発生を含め、日本の繁栄に重大な影響を及ぼす中東情勢について予断を許さぬ状況が継続したこと、さらには、北朝鮮の核問題や拉致問題に関して具体的進展が見られていないことや、中台関係に緊張が続いていることなど、日本をめぐる安全保障環境は不透明な状態が継続し、国民の安全保障に対する意識は一層高まった。そのような中で、日本政府は、自国及び自国民の安全と繁栄を確保するために、必要な様々な取組を行ってきている。また、前年に続いて有事法制の整備を進めたほか、12月には新たな防衛大綱を策定するとともに、弾道ミサイル防衛システムの導入を閣議において決定するなど、日本の安全保障政策の基盤の強化に取り組むとともに、対外的にはイラクやアフガニスタンの復興支援を通じて今後の国際平和協力活動のあり方を発展させるための重要な一歩を踏み出した。国際的なテロとの闘いにおいては、G8や日・ASEAN等の枠組みにおいてテロ対策に関する行動計画、共同宣言を策定するなどの成果を上げた。
 2004年は、また、日本にとっては、重層的な経済連携の推進を図り、東アジア地域との地域協力の強化のための道筋をつけるための努力を行った一年でもあった。「共に歩み共に進む」パートナーであるASEAN地域とも、東アジア共同体の構築も視野に入れつつ、経済連携を進めるべく準備を進めてきた。
 さらに、日本は、国際社会全体が抱える諸問題に有効に対処するためには、国際社会が一体となって問題に取り組むことが不可欠であるとの考えから、特に、国連が21世紀の国際社会の現実を反映したものとなるための機構改革の必要性を強く主張した。日本は、2004年6月に「国連改革に関する有識者懇談会」(注12)報告書をとりまとめたほか、7月には、川口順子外務大臣が国内外の有識者やハイレベル委員会の委員を招き、ハイレベル委員会関連京都会合を主催して日本の考え方を提示した。さらに9月には、小泉総理大臣が、ドイツ、ブラジル、インドの首脳と会議を開き、安保理改革のために共闘し、常任理事国入りについての相互支持を行うことを表明した。また、ニューヨークの国連総会一般討論演説において小泉総理大臣が国連の機能強化の重要性と日本の安保理常任理事国入りへの決意を訴えたほか、同行した川口外務大臣も国連に参集した各国代表に対して精力的に日本の立場に対する理解を求めた。
 日本外交の要である日米関係は、小泉総理大臣とブッシュ大統領との個人的な信頼関係もあり、かつてないほど良好なものとなっている。9月に就任した町村孝外務大臣も就任後の最初の訪問先として米国に赴き、米政府要人との一連の会談を通じて、「世界の中の日米同盟」という考え方の下で、日米両国が国際社会の諸課題に取り組んでいくことを確認した。

(日本の周辺諸国・地域との関係)
 北朝鮮との関係については、日本は、日朝平壌宣言に基づき、核、ミサイル、拉致といった諸懸案を包括的に解決し、東アジアの平和と安定に資する形で国交正常化を図るとの基本方針に立って、外交活動を展開した。
 拉致問題については、5月22日、小泉総理大臣が訪朝して行われた第2回日朝首脳会談を契機に、拉致被害者家族8名の帰国が実現した。また、同会談の際、安否不明の拉致被害者については、ただちに「白紙」の状態からの本格的な調査を再開する旨の金正日国防委員長の約束を得た。しかし、8月以降、三次にわたって行われた日朝実務者協議を通じ、北朝鮮からは、「8名は死亡、2名は入境を確認せず」との北朝鮮側の説明を裏付ける情報ないし物証は得られなかった(注13)。これを受け、日本は12月24日、北朝鮮に対し、安否不明の拉致被害者の真相究明、生存者の帰国を要求するとともに、引き続き、北朝鮮より迅速かつ誠意ある対応がない場合には、政府として厳しい対応を取らざるを得ないとの立場を明らかにした。一方で、議員立法の形で、2004年2月には、日本の平和及び安全の維持のために必要があるときは、日本政府が独自の判断で送金停止等の措置を講じてカネ・モノの流れを制限することが出来るよう、外国為替・外国貿易法(外為法)が改正されたほか、特定船舶入港禁止特別措置法も6月に成立した。
 核問題については、6月の第3回六者会合の際、米朝双方より具体的提案が示されたこともあり、核問題の解決に向けた前進が期待された。しかし、その後、北朝鮮側が次第に態度を硬化させたため、第3回会合での合意にもかかわらず、9月末までの第4回会合は実現せず、その後も、北朝鮮が、米国大統領選挙の様子見を行ったことから、結局、年内には具体的前進は得られなかった。
 中国との関係においては、2004年を通じて貿易をはじめとする経済関係や人的交流に一層の進展が見られた。その一方で、日本の排他的経済水域における「相互事前通報の枠組み」あるいは国連海洋法条約の手続きに従わない中国の海洋調査船の度重なる活動や、東シナ海の日中両国の中間線付近での資源開発、中国原子力潜水艦による国際法違反の領海内における潜水航行など日本の安全保障や主権的権利その他の権利を侵害する深刻な問題が生じた。これらに対して、日本は、厳重な抗議を行ってきている。アジア太平洋地域の平和と繁栄には地域・国際社会に寄与する安定した日中関係が不可欠であり、11月のチリでの日中首脳会談においても、小泉総理大臣と胡錦濤国家主席との間で、個々の分野で意見の相違があっても、真剣な対話を深める必要性があることについて確認するとともに、未来志向の協力関係を強化していくことで一致した。
 基本的な価値観を共有し、政治上、経済上、極めて重要な隣国である韓国とは、小泉総理大臣と盧武鉉大統領の間のシャトル首脳会談が実施されたほか、既に開始されている羽田・金浦間航空便の運航や日韓FTA交渉等が引き続き推進されるなど、2004年を通じ、良好な関係が維持された。また、2004年1月より韓国において第四次日本大衆文化開放が実施され、日本の音楽や映画などが韓国で開放された一方、日本においても「韓流ブーム」と言われるように韓国の映画やドラマなどが人気となるなど政治、経済、文化といった広範な分野での交流が進み、未来志向の関係の一層の深化が見られた。最近の動きとして、2005年3月16日に島根県議会において「竹島の日」条例が成立したことなどを契機に、3月23日には盧武鉉大統領が韓国国民に宛てた「日韓関係に関する国民への手紙」を発表するなど韓国政府は対日姿勢を強めるに至っているが、日本政府としては、日本の立場を明確に説明するとともに、韓国政府に対し、冷静な対応を求めている。
 韓国、中国との三国間協力も、2004年6月に日中韓外相三者委員会(注14)が川口外務大臣(当時)の主宰で行われ、一層の進展を見せた。2003年10月に発出された「日中韓三か国協力の促進に関する共同宣言」の進捗状況について議論されたほか、この三国がASEANとの関係を一層促進していく必要があることが確認された。さらに11月、首脳の了承を得て、町村外務大臣がラオスで開かれた三者委員会に出席し、進捗報告書と行動戦略を採択した。アジア地域における主要な日本、韓国、中国が三国間協力を通じて連携を強化していくことは、この地域の平和と安定からも望ましいことであり、今後の一層の進展が期待されている。

(アジア太平洋地域の発展と繁栄)
 日本は、WTOを中心とする多角的な自由貿易体制を補完する取組として、特にアジア諸国との経済連携強化に努めている。経済連携協定(EPA)は、貿易・投資の拡大をもたらすのみならず、日本と相手国双方の構造改革を促すことにより、この地域の更なる経済活性化と成長につながる取組であると言える。現在、日本は韓国(2003年12月交渉開始)、マレーシア(2004年1月)、タイ、フィリピン(ともに同2月)との間で経済連携協定の交渉を行っており、フィリピンについては、11月の首脳会談において協定の主要点について大筋合意を確認した。韓国については、12月の日韓首脳会談で、2005年末までの交渉妥結を目指すことを再確認した。また、2005年4月からは、2003年10月に日・ASEAN首脳会議で合意された日・ASEAN包括的経済連携の「枠組み」を踏まえ、東南アジア諸国連合(ASEAN)全体との経済連携協定の締結に向けた交渉も開始する予定であり、引き続き、アジア諸国との経済連携を重点的に推進していく考えである。

(中東地域の平和と安定のための取組)
 中東地域の平和と安定は、国際社会全体の平和と繁栄の前提であり、日本にとってもエネルギー安全保障上極めて重要である。そうした観点から、日本は、イラクやアフガニスタンの復興に尽力してきたほか、中東和平問題の解決に向けた具体的な進展のための国際社会の努力に積極的に貢献してきた(注15)。また、日本は中東・イスラム諸国とは伝統的に友好関係にある立場を活かし、「日・アラブ対話フォーラム」や「イスラム世界との文明間対話セミナー」など日本独自の取組を通じて関係の強化を図るとともに、この地域の平和のための努力を行ってきた。
 日本は、2004年1月からサマーワに派遣している自衛隊による人的貢献とODAによる支援を「車の両輪」としてイラクの復興支援に当たってきた。こうした取組は厳しい治安情勢の中でも着実に現地の人々の理解を得てきており、アッラーウィー首相ほかイラク政府関係者からも累次にわたって謝意の表明が寄せられた。その一方で、武装勢力による抵抗も激化し、民間人を人質にとってイラクに駐留する外国軍隊等の撤退を求める事例も多く見られるようになり、日本人も人質になって殺害される事件も発生した。日本政府は、アルジャジーラ等の中東向けのメディアを通じて解放を呼びかけたほか、あらゆる外交ルートを駆使し、関係国の協力を求めるなど人質の救出に全力を挙げた一方で、テロリストによる自衛隊の撤退要求については、いかなる理由をもってしてもテロを正当化できないこと、自衛隊による人的貢献はイラク人のためのものであるといった立場をはっきりと示し、これに応じない方針を明確にした。日本はさらに、10月にイラク復興支援信託基金を通じた復興計画を議論するための東京会合(注16)を主催したほか、11月に、町村外務大臣がシャルム・エル・シェイクで開催されたイラクに関するG8及び近隣国等による閣僚会合に出席し、イラクの復興に向けて国際社会の一致した協力が必要であることを訴えた。また、日本政府は、12月、イラク人道復興支援特措法の基本計画を延長し、引き続き自衛隊による復興支援を継続させていくこととした。
 アフガニスタンにおいては、これまで「平和の定着」の構想に基づいて、NGOや国際機関とも連携しながら、選挙支援、治安改善、復興といったあらゆる面での支援を行ってきている。また、10月には、テロ対策特措法の基本計画の内容を変更するとともに期限を延長し、インド洋沖でこれまで行ってきた米国、英国等の艦船への給油活動に加え、水の補給等も行えるよう活動内容を拡充した。
 また、イランの核問題は、国際的な核不拡散体制に対する挑戦であって、日本としても懸念しており、イランに対して、二国間での様々な協議やIAEAの場を通じて、IAEA理事会の累次決議を誠実に履行するよう働きかけてきた。

(ロシアや中央アジア、欧州との関係)
 ロシアとの間では、引き続き頻繁な政治対話が行われ、幅広い分野の協力が進展した。北方領土問題については、9月、小泉総理大臣が現職の総理大臣としては初めて洋上から北方領土を視察し、北方領土問題の重要性、平和条約締結が日露双方に利益となることを確認した。一方、ロシア側はロシアの義務であるとしつつ二島返還による最終決着に言及した。ロシア側の発言は、交渉に対する真剣さの表れとも受け止められるが、二島のみの引渡しによる最終決着は、日本として受け入れられるものではない。2005年1月に町村外務大臣がロシアを訪問して行った外相会談では、双方の立場に隔たりがあるが、隔たりを埋めるための真剣な話合いを行っていくことで意見が一致した。
 また、8月には、川口外務大臣は中央アジア4か国(ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタン、キルギス)を訪問し、「中央アジア+日本」の対話の枠組みを立ち上げた。この枠組みは、これまでの二国間関係を中心とする協力に加え、中央アジアにおける地域内協力を促進することにより中央アジアと日本の関係に新たな次元を切り開くものとして中央アジア各国から高い評価を受けた。
 欧州との関係では、6月の東京での日・EU定期首脳会議において、2005年の「日・EU市民交流年」の成功に向けて協力することで合意した。また、様々な国際会議の機会等を捉え、欧州各国とも活発な外交が繰り広げられ、二国間関係の強化や国際場裡での協力の推進に努めた。その一方で、EUは対中武器禁輸措置の解除(注17)を検討しており、日本や米国は、東アジアの安全保障環境に影響を及ぼしうるものとしてEUへの働きかけを続けてきている(2005年2月現在)。

(中南米諸国との関係)
 9月、小泉総理大臣は、ブラジル訪問の機会を捉え、日本の中長期的な対中南米政策に関する演説を行い、経済関係の再活性化、国際社会の諸課題への取組から成る「協力」関係を強化するとともに「交流」を促進することを通じて中南米との結びつきを強化する方向性を示した。また、交渉が一時停滞することもあったメキシコとの間の経済連携協定も、メキシコにおいて首脳間で署名され、2005年2月現在、4月の発効に向けて両国において国内手続きが進められている。

(新しいODA大綱による開発支援)
 日本は、厳しい国内の財政状況が続いた2004年も、引き続き、ODAを外交における重要な政策手段の一つとして、アジアやアフリカを主対象として戦略的に活用してきている。この趣旨は、新ODA大綱に基づき、3~5年を念頭に日本のODAの基本方針、重点課題等についての考え方、アプローチ、具体的取組等を明らかにするものとして2005年2月に策定された新ODA中期政策にも反映されている。日本は、近年関係を強化しつつあるASEANを含むアジア地域に対し、経済・社会インフラ、教育・人材育成といった分野から地方分権化、テロ・海賊、平和の構築といった分野まで、広汎な支援を行ってきた。また、感染症、貧困、紛争、債務等が依然として深刻なアフリカに対しては、これまで続けてきたアフリカ開発会議(TICAD)プロセスを通じて、継続的かつ積極的に支援を実施してきた。TICADプロセスにおいては、人間中心の開発、経済成長を通じた貧困削減、平和の定着を三本柱として具体的イニシアティブを発揮しており、11月にはTICADアジア・アフリカ貿易投資会議を開催した。

(スマトラ沖大地震及びインド洋津波被害)
 日本は、2004年12月26日に発生したスマトラ島沖大地震及びインド洋津波での大損害に対しても、災害2日後には被災国への緊急援助物資の供与や自衛隊を含む人的な緊急援助活動をNGOの協力も得つつ開始するなど迅速に対応した。2005年1月6日には、小泉総理大臣は、ジャカルタにおいて開催されたASEAN主催緊急首脳会議に出席し(同会議には町村外務大臣も出席)、資金、人的貢献及び知見の三点で最大限の支援を実施していくことを表明した。その中で、日本は、資金面で被災国へ総額約5億ドルの緊急無償支援を行うことを発表したほか、知見の面でも、1月18~22日にかけて神戸で開催される国連防災世界会議にインド洋災害に関する特別セッションを設けることを提案した。実際、同セッションでは「インド洋災害に関する特別セッションの共通の声明~より安全な未来に向けたリスク軽減~」が発出され、同声明は世界会議の終了後に発表された兵庫宣言にも盛り込まれた。




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