第2章 > 第1節 > 1 朝鮮半島
【総論】
韓国との関係は日本にとって極めて重要であり、その重要性は、北東アジアの安全保障の観点からも、グローバル化が進展する経済の観点からも、今後ますます増していくと考えられる。日本は、自らの安全と繁栄の確保に不可欠である北東アジアの平和・安定と繁栄を実現するために、盧武鉉〔ノムヒョン〕政権とも緊密に連携しつつ、両国間の信頼関係、協調関係を一層発展させていく方針である。
2002年は、日朝関係を始め、北朝鮮をめぐり大きな動きがあった1年であった。日朝間においては、9月に小泉総理大臣が平壌〔ピョンヤン〕を訪問し、初の日朝首脳会談が行われ、10月には2年振りに国交正常化交渉が再開された。南北間においても各種の対話が活発に行われ、南北間の鉄道及び道路の連結に合意するなどの進展が見られた。
しかし、北朝鮮をめぐってはいまだに多くの懸案が残されている。9月の日朝首脳会談の際に、金正日〔キムジョンイル〕国防委員長は日本人の拉致を初めて認めた上で謝罪し、その後、5名の拉致被害者が24年振りに帰国した。しかし、北朝鮮に残る家族の早期帰国の実現と、他の拉致被害者に関する事実解明を求める日本に対して北朝鮮が応じようとしないため、事態に進展が見られていない。また、10月にケリー米国務次官補が大統領特使として訪朝した際、北朝鮮が核兵器用のウラン濃縮計画の存在を認めたことを発端として、北朝鮮の核兵器開発計画に対する国際社会の懸念が高まっている。
日本としては、米国、韓国を始めとする国際社会と緊密に連携しつつ、これらの諸懸案に対して前向きな対応を示すよう、引き続き北朝鮮に対して強く求めていく考えである。
【日朝関係】
日本と北朝鮮との間では、第2次世界大戦以降、不正常な関係が継続している。同時に、日朝間には、拉致問題や、核問題を始めとする安全保障上の問題等の諸懸案が存在している。日本の対北朝鮮政策の基本方針は、日米韓三国の連携の下、日朝間の諸懸案を解決することを通じて、地域の平和と安定に資する形で北朝鮮との国交正常化を実現することである。
〈日朝間の対話の再開〉
日朝間では、2000年10月の日朝国交正常化交渉第11回本会談以来、大きな動きが見られなかったが、2002年3月、北朝鮮赤十字会は、中止していた日本人「行方不明者」消息調査の再開の発表と日朝赤十字会談開催の提案を行い、これを受けて4月29日及び30日、日朝赤十字会談が開催された。7月31日には、ブルネイでの第9回ARF閣僚会合の機会に日朝外相会談が行われ、同会談での合意に基づき、8月に日朝赤十字会談(18~19日)及び日朝外務省局長級協議(25~26日)が行われた。局長級協議においては、日朝関係を改善し、地域の平和と安定を図るために国交正常化を実現することが重要であるとの認識を共有するとともに、日朝間の諸懸案を解決するための方途について協議し、諸問題の解決に向けては、政治的意思をもって取り組むことが重要であるとの認識で一致した。
〈小泉総理大臣の訪朝と日朝首脳会談〉
日朝間で一連の対話が行われる中、8月30日、日朝双方は、小泉総理大臣が北朝鮮を訪問し、金正日国防委員長と日朝首脳会談を行うことを発表した。日本にとって今回の会談の目的は、首脳間の率直な話合いを通じて、金正日委員長の政治的意思を引き出し、拉致問題を始めとする諸懸案の解決に向け局面の打開を図ること、また、核問題やミサイル問題等の安全保障上の問題について、国際社会の懸念を払拭〔ふっしょく〕するため、北朝鮮が国際社会の一員として責任ある行動をとるとともに、北朝鮮に米国及び韓国を始めとする関係国との対話を促し、問題解決を行うよう強く働きかけることであった。9月17日、小泉総理大臣は、日本の総理大臣として初めて北朝鮮を訪問し、金正日委員長との間で会談を行い、日朝平壌宣言に署名した。
日朝首脳会談では、国民の生命と安全にかかわる重大な問題である拉致問題について、北朝鮮より拉致の疑いのある事案に関する情報が提供され(注)、これに対して小泉総理大臣より、金正日委員長に強く抗議した。金正日委員長は、過去に北朝鮮の関係者が行ったことを率直に認め、遺憾なことでありおわびすると述べた。不審船事案についても、金正日委員長は軍部の一部が行ったものと思われると述べ、更なる調査と再発防止を約束した。また、安全保障上の問題についても、金正日委員長は、関係国との間で対話を促進し、問題解決を行っていくことの重要性を確認するとともに、朝鮮半島の核問題に関連するすべての国際的合意を遵守し、期限なくミサイル発射を凍結すると発言した。小泉総理大臣は、この会談を通じ、日朝間の諸問題の包括的な解決の促進を図る上で一定のめどがついたと考え、問題解決をより確かなものにしていくためにも、国交正常化交渉を再開させるとの判断を行った。
日朝首脳会談(9月 提供:内閣広報室)
日朝平壌宣言
日朝首脳会談当日の報道を通じ、北朝鮮外務省スポークスマンは、今回確認された生存者の家族、親戚、そして必要があれば日本政府の関係者が面会できるよう便宜を保証し、本人たちが希望する場合、日本への帰国又は一時帰国が実現するよう必要な措置をとる用意があると述べた。これを踏まえ、日本は、9月28日から10月1日まで、拉致問題に関する事実調査チームを北朝鮮に派遣した。調査チームは、北朝鮮当局からの聞き取りに加え、生存者及び関係者との面会、墓地の訪問等可能な限りの調査活動を行った。その結果、生存している5名については、拉致被害者本人と判断して差し支えないが、死亡したとされる人物については、死亡を特定するにはより具体的な情報が必要であるとの結論に達した。日本は、今後とも真相解明を北朝鮮に強く求めていく考えである。なお、拉致問題に関連し、「よど号」ハイジャック犯については、日本は従来から北朝鮮にその身柄の引渡しを求めてきているが、「よど号」犯の元妻の証言等により、彼らが欧州における拉致事案に関与していたことが明らかとなった。これに関し、9月には警察当局が魚本(安部)公博の逮捕状を得たが、北朝鮮は拉致事案における彼らの関与を認めていない。
さらに、生存が確認された5名について、その家族を含めた帰国の交渉を進めた結果、10月15日、5名は帰国を果たした。5名の帰国後、政府は、被害者本人の状況や家族の意向など種々の事情を総合的に勘案した結果、今後とも日本にとどめることとし、また、北朝鮮に残っている家族の安全の確保及び早期帰国と帰国日程の確定を北朝鮮に強く求めていくことにした。
〈日朝国交正常化交渉第12回本会談>
日朝首脳会談を受け、10月29日及び30日、マレーシアのクアラルンプールにおいて、2年振りに日朝国交正常化交渉第12回本会談が開催され、日本から鈴木日朝国交正常化交渉担当大使、北朝鮮から鄭泰和〔チョンテファ〕大使がそれぞれ首席代表として出席した。この会談において日本は、拉致問題及び核問題を始めとする安全保障上の問題を最優先課題として臨んだ。拉致問題については、5名の被害者の家族について、日本から繰り返し前向きな対応を強く求めたにもかかわらず、5名をいったん北朝鮮に戻すべきであるとする北朝鮮の立場に変化はなく、家族の具体的な帰国日程の確定には至らなかった。核問題を始めとする安全保障上の問題についても、日本から懸念を詳細に伝えたのに対し、北朝鮮は、日朝平壌宣言を遵守しているとの説明に終始した。
同会談で、北朝鮮は、国交正常化及び経済協力が中核的問題であるとしつつも、日朝双方が日朝平壌宣言に従い諸懸案の解決に努力することについては意見が一致した。双方は、安全保障上の問題につき議論するため、日朝平壌宣言に基づき、日朝安全保障協議を11月中に立ち上げることで一致した。また、北朝鮮は、日朝国交正常化交渉の次回本会談を11月末に開催することを提案し、日本は、この提案を持ち帰り検討することにした。
〈国交正常化交渉後の動き>
しかしながらその後、北朝鮮は、拉致問題及び核問題を始めとする安全保障上の問題をめぐって問題が複雑になっている現在の情勢下においては、本会談の準備のための協議を含め、日朝国交正常化交渉を行う雰囲気は整っておらず、日朝安全保障協議についても現在は協議すべき状況にないとの立場を伝えてきており、国交正常化交渉及び安全保障協議は2002年内には開催に至らなかった。一方で、日朝平壌宣言に従って国交正常化交渉を進め、その中で諸懸案の解決を図っていくという点については、日朝双方が一致しており、日本は、北朝鮮に対し、諸懸案の解決のための前向きな対応を引き続き求めていく考えである。
朝鮮半島をめぐる情勢(2002年1月~9月)
朝鮮半島をめぐる情勢(2002年10月~2003年2月)
【南北朝鮮関係】
金大中〔キムデジュン〕韓国大統領は、1998年2月の大統領就任以来、
武力挑発は拒否する、
吸収統一はしない、
和解と協力を可能な分野から促進する、との三原則を掲げる包容政策(太陽政策)を継続してきた。2003年2月に就任した盧武鉉大統領も、基本的には包容政策を継承している。
南北間では、2000年6月に、平壌で史上初の南北共同宣言が発表されたが、2001年には大きな進展が見られなかった。しかし、2002年4月3日から6日にかけて、韓国大統領特使として林東源〔イムドンウォン〕大統領特別補佐役が訪朝し、金正日委員長及び金容淳〔キムヨンスン〕朝鮮労働党中央委員会書記と会談を行い、南北間の対話と協力を進めていくことに合意した。これを受け、同月及び5月、南北間での離散家族の再会が行われた。
こうした中、6月29日、黄海において南北の艦艇の間で銃撃戦が発生し、韓国の高速艇1隻が沈没、韓国軍兵士4名が死亡するという事件が起きた。これにより、南北関係が再び停滞するかと思われたが、7月25日、北朝鮮は遺憾の意及び再発防止を表明し、閣僚級会談を提案した。これを受け、8月以降、南北間の対話は活発化し、閣僚級会談(2回)、経済協力推進委員会(2回)、南北赤十字会談、南北鉄道・道路連結、開城工業団地建設等にかかわる実務協議等が開催された。また、南北サッカー競技、北朝鮮の釜山アジア競技大会参加等の文化・スポーツ分野での人的交流も行われるなど、様々な分野での対話と協力が進展した。
【米朝関係】
ブッシュ米大統領は、2002年1月29日、一般教書演説において、自国民を飢餓に晒す一方で、ミサイルや大量破壊兵器による軍備を進めている北朝鮮は「悪の枢軸」の一国であると批判した。これに対し、北朝鮮は、外務省スポークスマン声明を通じ、「事実上の宣戦布告と変わらない」と非難した。
このような状況の中、4月末、北朝鮮が、米国と協議を開始する用意があると伝達したのに対し、米国は、6月末、米国代表団が訪朝する用意があると伝達した。しかし、7月1日、米国は、北朝鮮に対し、代表団の訪朝日程に関し北朝鮮から適時の回答が得られなかったこと、また、黄海における南北銃撃戦により、対話を行うにあたって受け入れ難い雰囲気が醸成されたことを理由として、訪朝できなくなったことを伝えた。
7月31日にブルネイで開催された第9回ARF閣僚会合の機会に、パウエル米国務長官と白南淳〔ペクナムスン〕北朝鮮外相が非公式に接触した。また、9月の日朝首脳会談において、小泉総理大臣が金正日委員長に米朝対話の必要性を強調したのに対し、金正日委員長も対話の用意があると述べ、後に小泉総理大臣はこのような北朝鮮の考えをブッシュ大統領に伝えた。
こうした動きもあり、10月3日から5日にかけて、ケリー米国務次官補が米大統領特使として北朝鮮を訪問し、姜錫柱〔カンソクジュ〕外務第一次官と会談を行った。会談においてケリー国務次官補は、大量破壊兵器及びミサイルの開発や輸出、通常兵器、人権問題・人道状況を含む広範な懸案について、北朝鮮に懸念を伝えた。この際、ケリー国務次官補が、北朝鮮が核兵器用のウラン濃縮計画を有していることを示唆する情報を入手したと伝えたところ、北朝鮮はそのような計画があることを認めた。その後、北朝鮮は、この会談における米国の対応について「極めて圧力的かつ傲慢」と非難した。
10月25日、北朝鮮は、外務省スポークスマン談話を通じ、米国に対し米朝不可侵条約の締結を提案した。これに対して米国は、まず北朝鮮が核兵器開発計画を迅速かつ検証可能な方法で廃棄し、関連する国際的な合意を遵守することが重要であるとして、北朝鮮の提案に応じていないが、ブッシュ大統領やパウエル国務長官は、北朝鮮を侵攻する意図はなく、北朝鮮の核兵器開発問題は平和的かつ外交的に解決される必要があるという立場を繰り返し表明している。
北朝鮮訪問後に訪日したケリー米国務次官補と会談する川口外務大臣(10月)
【北朝鮮のその他の対外的な動き】
ロシアとの関係では、7月28日及び29日、イワノフ外相が訪朝して金正日委員長と会談し、露朝間の経済協力等について話し合った。また、金正日委員長は、8月20日から24日にかけて、ロシア極東地域を訪問し、23日、ウラジオストクでプーチン大統領と露朝首脳会談を行った。会談では、経済分野、特にシベリア鉄道と朝鮮半島の鉄道との連結問題が議論された。ほかにも、メガワティ・インドネシア大統領の訪朝(3月)、EU諸国の局長級からなる代表団の訪朝(6月)などが行われた。
しかし、10月以降、これらの諸国を含め、国際社会は北朝鮮の核兵器開発問題をめぐり、北朝鮮に対して核兵器開発計画を迅速かつ検証可能な方法で廃棄し、関連する国際的な合意を遵守するよう求めている。伝統的な友好国である中国とロシアも、12月の中露首脳会談で発出された共同声明において朝鮮半島の非核化を求めた。
【北朝鮮の核兵器開発問題】
2002年10月に北朝鮮のウラン濃縮計画の存在が明らかになって以来、国際社会は、この計画を含む北朝鮮の核兵器開発問題に強い懸念を表明している。この問題は、北東アジア地域のみならず、国際社会全体にとっての重大な懸案となっている。
1993年、北朝鮮が核兵器不拡散条約(NPT)からの脱退を表明し、国際原子力機関(IAEA)との保障措置協定(注)の遵守を拒否したことにより、朝鮮半島において危機感が高まった。米国と北朝鮮との協議の結果、1994年、北朝鮮が核兵器の原料となるプルトニウムを生産し易い原子力発電施設(黒鉛減速実験炉)の運転を凍結・解体するとともに、NPT締約国にとどまり、IAEA保障措置協定を完全に履行することを条件に、米国は、プルトニウムの生産が比較的難しい軽水炉2基を提供することや、1基目の軽水炉が完成するまでの間、代替エネルギーとして米国が年間50万トンの重油を供給することなどに合意した(「合意された枠組み」)。この「合意された枠組み」を受け、1995年、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が設立され、北朝鮮に対し、軽水炉の建設事業と重油の供給を行ってきた。
しかし、2002年10月にケリー米大統領特使が訪朝した際、北朝鮮はウラン濃縮計画の存在を認め、国際社会は懸念を強めた。10月26日、小泉総理大臣は、メキシコで行われた第10回アジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議に際してブッシュ大統領及び金大中大統領と日米韓三国首脳会談を行い、北朝鮮が核兵器開発計画を迅速かつ検証可能な方法で廃棄するよう強く求める共同声明を発表した。APEC首脳会議においては、北朝鮮に関するAPEC首脳声明が発出され、APEC参加諸国・地域全体が北朝鮮による核兵器開発計画の放棄を求めた。また、11月に行われたASEAN+3首脳会議の議長プレスステートメントにおいても、同様のメッセージが発出された。
このような国際社会の働きかけにもかかわらず、北朝鮮は前向きな対応を行わなかったため、11月14日にニューヨークで行われたKEDO理事会は、北朝鮮への重油の供給を12月以降停止することを決定し、北朝鮮がウラン濃縮計画を完全に撤廃するために具体的かつ信頼できる行動をとらない限り、将来の重油供給は行えないことを明らかにした。また、11月29日のIAEA理事会決議においても北朝鮮が核兵器開発計画を迅速かつ検証可能な形で撤廃するよう呼びかけがなされた。
これに対し、北朝鮮は、12月12日、重油供給が停止されたことを受け、米朝間の「合意された枠組み」に従って行っていた核関連施設の凍結を解除し、電力生産に必要な核関連施設の稼働と建設を即時再開することを明らかにした。21日に黒鉛減速実験炉の封印撤去等、22日から24日には使用済核燃料貯蔵施設における封印撤去等を行い、年末にはIAEAの査察官を国外退去させた。こうした動きに対し、2003年1月6日、IAEAは緊急に理事会を開催し、北朝鮮との保障措置協定の実施に関する決議を全会一致で採択した。また、7日には日米韓三国調整グループ会合(TCOG)が開催され、北朝鮮の行動に対する国際社会の重大な懸念が表明された。こうした懸念に反し、1月10日、北朝鮮は政府声明によりNPTからの脱退を宣言した。その後も北朝鮮からは何ら前向きな反応はなく、2月12日、再び開催されたIAEA理事会において北朝鮮の核兵器開発問題を安保理に報告することが決定され、2月14日に書簡にて報告が行われた。北朝鮮の措置は、北朝鮮の国際的合意における義務に照らしても遺憾なものであり、日本として憂慮している。日本は、今後とも、米国、韓国を始めとする関係諸国及びIAEA、安保理等関係国際機関と緊密に連携しつつ、北朝鮮に対して、この問題について前向きに対応するよう強く求めていく考えである。
【北朝鮮内政・経済】
北朝鮮では、金正日朝鮮労働党総書記が、主に朝鮮労働党を通じて全体を支配しており、軍事優先政策を実施している。また、思想・政治、軍事、経済の強大国である「強盛大国」の建設を標榜している。
2002年、北朝鮮は、いくつかの点で経済制度の変更を行った。7月、食糧を始めとする全般的な商品の価格や労働者の賃金を大幅に引き上げたほか、配給制度の大幅な見直しなど、新たな措置を講じた。9月には、北西部の中朝国境沿いにある新義州を「特別行政区」に指定した。同行政区においては、個人の所有権の保障、外国人のビザなしでの入国、企業に有利な投資環境と経済活動条件の保障、投資家による投資の奨励などが認められ、同行政区における経済の活性化を図った。しかし、同行政区の長官に任命された楊斌〔ヤンピン〕氏が中国当局に拘束されるなど、同行政区の先行きは不透明である。また、北朝鮮は、12月に国内における米ドルの使用を禁止した。
北朝鮮の経済状況は依然として困難な状況にあり、特に電力を始めとするエネルギー不足は深刻な状況にあると見られる。食糧事情については、国連食糧農業機関(FAO)及び世界食糧計画(WFP)によれば、2002年11月から2003年10月における穀物生産量は384万トンと見込まれ、穀物必要量が約492万トンであるのに対して約108万トンの穀物輸入が必要であり、商業輸入及び国際社会からの支援を加味してもなお、約56万トンの穀物が不足する見通しである。
なお、近年、北朝鮮から脱出し中国に逃れた「脱北者」と言われる人々が中国内に所在する各国の在外公館等に保護を求める事案が発生しているが、これらの人々が北朝鮮を脱出する背景には、北朝鮮におけるこのような厳しい食糧事情、経済難等もあるものと考えられる。
2002年日韓国民交流年記念事業「Korea Super EXPO 2002」の一場面(6月 提供:国際交流基金)
【日韓関係】
日韓関係は、1998年の金大中大統領の日本訪問及び1999年の小渕総理大臣の韓国訪問を通じ、両国間の過去の問題に一区切りがつけられ、21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップの構築が合意された。2001年には、歴史教科書問題や小泉総理大臣の靖国神社参拝問題等が問題になったが、10月に2度にわたり首脳会談が開催され、両国関係は改善した。
2002年は、ワールドカップ・サッカー大会の共催及び日韓国民交流年であり、3月の小泉総理大臣の公式訪問の際には日韓両首脳により、2002年を両国にとって真に歴史的なものとし、友好協力関係を一層飛躍的に発展させるとの決意が再確認された。
5月31日から6月30日まで開催されたワールドカップ・サッカー大会は、韓国で行われた開会式への高円宮同妃両殿下(高円宮殿下は2002年11月薨去〔こうきょ〕)及び小泉総理大臣の出席、日本で行われた決勝戦・閉会式への金大中大統領及び令夫人の出席、また同大会における日韓両チームの活躍等によって、大いに盛り上がり、両国の友好関係は飛躍的に向上した。7月1日の日韓首脳会談では、会談後発表された「日韓首脳の未来に向けた共同メッセージ」にあるとおり、ワールドカップ・サッカー大会共催の成功を踏まえ、相互の信頼と尊重を基調とする日韓協力関係をより高い次元に発展させていくことへの決意が表明された。
また、9月22日、コペンハーゲンでの第4回アジア欧州会合(ASEM)首脳会合の機会に行われた日韓首脳会談で小泉総理大臣より訪朝の結果につき説明するなど、一連の首脳会談、外相会談、北朝鮮に関するTCOG等の場で、対北朝鮮政策に関し、日韓で緊密に連携が図られた。
12月19日に行われた大統領選挙では、盧武鉉氏が勝利し、2003年2月25日に、第16代大統領に就任した。小泉総理大臣は、25日の大統領就任式出席後、他国に先駆けて盧武鉉新大統領と首脳会談を行い、新政権との間でも、特に若い世代を中心とした交流・相互理解の更なる進展を通じ、地域の繁栄と安定のためにも、未来志向の友好協力関係を更に発展させていくことが重要であることを確認した。
なお、日韓関係の課題として、竹島をめぐる領有権問題、日本海呼称問題及び小泉総理大臣の靖国神社参拝に対する韓国の反発が挙げられる。竹島は歴史的事実に照らしても国際法上も明らかに日本固有の領土であり、このような日本の立場は一貫している。今後とも両国で粘り強く話合いを積み重ねていく方針である。また、日本海呼称問題については、「日本海」の呼称は歴史的根拠に基づく国際的に広く定着した呼称であり、国際社会に対し、日本の立場への理解と支持を求めていく方針である。
2002年日韓国民交流年の主要な動き
(トピック:日本海呼称問題)
【日韓経済関係】
経済分野においても、1998年10月の金大中大統領訪日の際の行動計画に基づいて、両国間の貿易投資を促進し経済関係を更に緊密なものにするための枠組み作りや各種協議が行われている。
日韓投資協定については、1997年末の韓国の経済危機以後、韓国が外資導入の観点から提案し、1999年9月に本交渉を開始した。2001年12月の第9回本協議で基本合意に達し、2002年3月の小泉総理大臣の訪韓の際に署名された。日本は2002年5月に、韓国は10月に国会承認を行っており、同協定は2003年1月に発効した。
日韓FTAについては、2002年1月に両国の財界人・有識者で構成されるビジネス・フォーラムが包括的な経済連携協定として早期に推進するべきであるとする共同宣言を発出した。この提言を受け、2002年3月の小泉総理大臣の訪韓において産学官で構成する共同研究会を設置することで一致した。日韓FTA共同研究会は、2003年2月までに4回の会合を行い、物品、自由化・円滑化、協力分野について幅広く議論している。
さらに、相互承認については、1999年3月の日韓経済アジェンダ21に基づき、電気用品、電気通信機器を含む分野で専門家会合が行われている。また、日韓社会保障協定については、これまで2回の予備協議が行われ、本交渉に向けた作業が進められている。
【韓国国内政治】
政権終盤の金大中政権は、かつての経済危機からの脱却、南北首脳会談の実現等といった成果にもかかわらず、各種改革の遅延、相次ぐ汚職疑惑事件等の影響で厳しい評価を受けた。特に、大統領子息の逮捕にまで及んだ政権周辺の不正腐敗の波紋が広がり、政権の求心力低下が大統領選挙に与える影響等を考慮し、金大中大統領は、2002年5月、事態の収拾のため民主党を離党した。
政権周辺の不正腐敗を一掃するとの観点から、7月に内閣改造が行われ、韓国憲政史上初の女性国務総理が指名されたが、野党の反対により国会で否決された。改めて指名された新聞社社長に対する任命同意案も否決、ようやく10月に金碩洙〔キムソクス〕国務総理任命同意案が可決されたが、国務総理の空白期間は約3か月に及んだ。
2002年の韓国内政は、12月の大統領選挙に向けての各党の攻防が中心であった。与党民主党は、3月から各地で予備選挙を行い、4月に大統領候補に盧武鉉氏を選出し、野党ハンナラ党も予備選挙を経て、5月に李會昌〔イフェチャン〕前総裁を大統領候補に選出した。次期大統領選挙の前哨戦とも言われた6月の統一地方選挙、8月の国会議員の再・補欠選挙では、いずれも与党民主党が惨敗する結果となり、野党ハンナラ党の李會昌候補が優勢と考えられた。しかし、11月、与党民主党の盧武鉉候補は、大統領選挙公示直前に国民統合21の鄭夢準〔チョンモンジュ〕候補と候補一本化で合意し、盧武鉉候補が統一候補となり、それを契機に盧武鉉候補の支持率が急上昇する中で、事実上、盧武鉉候補と李會昌候補の一騎打ちとなった。大統領選挙は、12月19日に投票が行われ、接戦の末、盧武鉉候補が当選した。新政権の任期は2003年2月25日から2008年までの5年間である。
【韓国経済】
2000年に9.3%を記録した韓国の国内総生産(GDP)成長率は、2001年は3.0%に落ち込んだが、2002年は堅実な内需と輸出拡大に支えられ、6%台への回復が予想されている。しかしながら、今後、内需の伸びが鈍化する可能性が指摘されているほか、リスク要因として、米国経済の低迷、イラク情勢を原因とする石油価格の高騰等が指摘されている。失業率は、近年では1999年2月の8.7%をピークに、その後は、低水準で推移(2002年12月3.0%)してきた。貿易収支は、2001年は93億米ドルの黒字であり、2002年は、輸出が伸長し(国では、米国、中国向け、品目では、半導体、通信機器等の増加)、108億米ドルの黒字であった。
金大中政権は1997年末の経済危機を克服するために、金融、企業(財閥)、公共部門、労働の4大改革等を推進し、1999年11月には金大中大統領により通貨危機克服宣言が出された。その後も改革は継続され、2002年に入ると韓国企業の業績は急速に回復し、ワークアウト(企業改善作業)の対象企業も相次ぎ銀行の管理下から外れ、再建を果たした。銀行の不良債権比率についても、1999年以来の最低水準(2002年6月末で2.4%)となるなど、構造改革は一定の成果を上げたと内外から肯定的に評価されている。