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第3章 主な地域情勢


1 アジア及び大洋州




 アジア及び大洋州

アジア及び大洋州


(1) 中国とその近隣諸国・地域



【総論】
  2001年、中国では、積極的な財政政策による持続的な経済成長が図られるとともに、引き続き社会的安定を重視した内政運営が行われた。また、7月に2008年の夏季五輪の開催地が北京に決定されたほか、10月の上海でのアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議の成功、12月の世界貿易機関(WTO)加盟の実現など、国際舞台において大きな成果を収めた。2002年秋には、指導者の大幅な人事異動が予定される第16回中国共産党全国代表大会を控えており、これまで以上に安定志向の慎重な舵取りが続けられていくと考えられる。

【中国国内政治】
 中国においては、比較的安定した政権運営が続く一方で、市場経済の進展に伴う党・政府幹部の汚職・腐敗問題は依然深刻である。このため、職階を問わぬ厳しい摘発と並行して「三講」(注1)教育や「三つの代表」(注2)論の学習運動が全国的に展開され、党内の思想引締めの強化、及び党・政府内外の安定確保が図られている。
 特に、「三つの代表」論については、2001年7月の中国共産党創立80周年の際に、江沢民総書記がこれを再度強調し、私営企業家の入党を承認する新たな方針を示すなど、今後の重要な党建設思想として定着しつつある。
 また、中国当局が1999年7月に「非合法組織」かつ「邪教」と認定した気功団体「法輪功」や、2001年10月に「国際テロ組織」と断定した新疆ウイグル自治区における民族独立組織などの取締りも強化されている。
 このほか、少数民族対策との関連では、11月に国務院が第4次チベット白書を発表し、地域の飛躍的発展と伝統文化の保護の必要性を強調し、ダライ・ラマを批判した。

【中国経済】
 2000年3月の第9期全国人民代表大会第4回会議において、第10次5か年計画に関する報告が承認され、5年間で7%前後の成長率を目指すことが決定された。8%の経済成長を達成した2000年に引き続き、2001年上半期も内需主導に経済は順調に推移し、7.9%の成長を記録した。しかしながら、2001年の秋以降、米国経済を中心に世界経済の減速の影響を受け、輸出が伸び悩み、通年では7.3%にとどまった。12月に開催された中央経済工作会議では、2002年について、引き続き内需拡大政策を中心に据えた経済運営を行っていくことが確認された。政策課題としては、国有企業改革、沿海部と内陸部の格差の是正、農業・農村問題、社会保障制度の確立などの多難な問題を抱えている。
 中国のWTO加盟については、11月11日、カタールのドーハでのWTO第4回閣僚会議において承認され(台湾の承認は翌12日)、その後、中国は直ちに受諾通報を行い、12月11日に正式に加盟した。これにより、中国国内の改革・開放が促進され、中国市場を取り巻く国際経済との関係において、透明性と法的な予測可能性、安定性が高まることが期待されている。

【中国の対外関係】
 中国は、最優先課題である経済発展の維持のため、平和な国際環境と各国との良好な経済協力関係を必要としており、そのために活発な全方位外交を展開している。9月の米国同時多発テロに際しても、中国はテロとの闘いという側面で米国への支持を表明した。一方で、「国連安全保障理事会での協議と協力の強化を望む」との立場も強調した。
 米中関係は、4月の米中軍用機接触事故(注4)により一時悪化したが、7月のパウエル国務長官の訪中、9月の唐家外交部長の訪米、10月の上海での米中首脳会談などを通じて好転した。ただし、米国のミサイル防衛(MD)構想や台湾への武器売却問題、中国の人権問題やミサイル技術拡散の問題など、両国間には様々な懸案が存在している。
 中露関係は、緊密化しており、例えば、6月に、いわゆる上海ファイブ首脳会議(注5)に際して開催された中露首脳会談では、米国のMD構想への反対が表明された。また、7月の江沢民国家主席のロシア訪問の際には、中露善隣友好協力条約が締結され、モスクワ共同宣言が発表された。なお、上海ファイブは、6月の首脳会議の際、新たにウズベキスタンを加えて上海協力機構へと発展し、中央アジアにおける国際テロの取締りなど広範な地域協力関係が深まった。
 中朝関係では、2000年5月に続き、2001年1月、金正日(キム・ジョンイル)朝鮮労働党総書記が中国を非公式に訪問し、9月には江沢民国家主席が訪朝するなど、両国関係には進展が見られた。
 中国は、5月にアジア欧州会合(ASEM)外相会合を北京で開催したほか、10月にはAPEC首脳会議を上海で開き、ホスト国としての大役を果たした。また、11月のASEAN+3首脳会議の際には、ASEANとの間で、今後10年以内に中国・ASEAN自由貿易協定を締結することで原則合意するなど、引き続き積極的な多国間外交を展開している。

【香港】
 香港は、1997年7月1日の中国への返還により香港特別行政区(SAR)となり、その後、「一国二制度」(注6)は基本的に順調に機能している。香港経済は、アジア通貨・金融危機に伴う景気後退から脱却したものの、2001年は米国経済の減速等の影響を受けた(同年経済成長率は0.1%)。不動産市況の回復、デフレ基調及び高失業率の改善等が経済上の課題となっている。日本と香港の間の要人往来においては、3月、董建華香港SAR行政長官が訪日し、森総理大臣を表敬したほか、河野外務大臣等と会談した。また、中国との経済関係では、12月、董建華行政長官が北京を訪問し、中国と香港の自由貿易区設立構想について双方が協議を進めることになった。

【台湾】
 台湾では、2000年5月に民進党・陳水扁政権が成立したが、陳水扁政権は立法院(国会に相当)で約30%の議席しか有さない少数与党であり、2001年に入っても、約50%の議席を有する国民党等の圧力のため、2月にはいったん決定した第4原子力発電所の建設中止を撤回するなど困難な政局運営が続いた。12月に行われた立法委員の全面改選は、民進党にとってこの劣勢を挽回するチャンスであり、第1党の地位を維持しようとする国民党、躍進を図る親民党、李登輝氏が支持する新設の台湾団結連盟などとの間で激しい政治的駆引きが繰り返された。選挙結果は、国民党が大敗し、民進党、親民党、台湾団結連盟が大きく票を伸ばした。
 過去20年以上好調であった台湾経済は、2001年に入って米国の景気減速などの影響から急速に悪化し、年間成長率はマイナス1.9%、失業率も5%台に達した。12月、台湾は中国と共にWTO加盟が認められ、2002年1月1日、正式に加盟した。
 両岸関係については、「一つの中国」をめぐる中台双方の立場の隔たりが大きく、2001年も大きな政治的進展はなかった。その一方で、両岸間の経済往来は貿易、投資とも大きく進展している。陳水扁「総統」によって新たに設立された経済発展諮問委員会は、8月に、従来の大陸投資に関する抑制政策を積極開放と有効管理の方向へ転換することを決定した。

【モンゴル】
 モンゴルでは、5月に大統領選挙が行われ、人民革命党の推薦する現職大統領のバガバンディ候補が、民主党の推薦する前国会議長のゴンチグドルジ候補に大差をつけ勝利した。これにより、人民革命党が大統領、国会、政府の権力を掌握し、政治の安定化が図られた。外交面では、エンフバヤル首相が2月に日本、11月に米国を公式訪問した。

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