4.インドシナ半島
(イ) 内 外 情 勢
(a) 政 治 情 勢
タイでは71年11月の革命のあと憲法が廃止され,革命評議会という変則的な政治体制のもとに軍部を主体とする政治が行なわれていたが,72年末暫定憲法が公布され,第4次タノム内閣が成立(72年12月19日)したことにより民主政治復活への期待がたかまつた。しかし,10年を越す軍部主導政治に対する国民の不満は依然根強いものがあり,73年にはいつてからはとくに6月以降はげしい物価騰貴が国民生活を圧迫し,国民の政府に対する不満が増大した。
72年11月の学生を主体とする日本商品不買運動は対日批判もさることながら,ひとつには,こういう形でタノム政権に対する国民の不満をあらわしたものといわれていた。はたしてタイ学生運動のホコ先はその後タイ内政問題に向けられ,政府は大学自治問題,軍警高官による密猟事件,司法権独立問題等をめぐる学生の反政府デモに対しては,なし崩し的に学生の要望を入れるラインで対処した。しかし,国民の最大関心事である物価問題について政府は有効な手をうてず,政府首脳特に副首相兼内相のプラパート元帥及び物価対策責任者であるタノム首相の子息ナロン大佐に対する国民の批判の声がたかまつた。
このような中で,73年10月初旬垣久憲法公布要求文書を散布して逮捕された学生の釈放を要求する大規模な学生デモが行なわれ,軍警が学生に発砲する事態にまで発展し,ついに数百名の死傷者を出すという予想外の大事になつた。この結果,タノム内閣は総辞職し,タノム首相,プラパート副首相およびテロン大佐は国外に脱出,国王の指名により,10月14日,元最高裁長官で司法界の重鎮であるサンヤ新首相が任命され,文民を主体とするサンヤ内閣が誕生した。
サンヤ新内閣は,(i)学生の要求した憲法公布は6カ月以内に行な う,(ii)その後3カ月以内に総選挙を実施する,(iii)タノム前首油等の不当取得財産を没収する等の緊急措置を発表するとともに,10月25日立法議会で施政演説を行なつた。その中で,サンヤ新首相は,内政面では,(i)憲法の早期公布,経済力にみあつた軍備,(ii)軍民間の相互理解促進,(iii)軍部組織の改組,(iv)民主政体の確立,等の方針を述べるとともに,外交面では,(i)国連尊重,(ii)ASEAN諸国およびその他友好諸国との親善関係の増進,(iii)政治体制の異なる国との友好関係の推進などの方針を明らかにした。
73年10月政変によつて32年の立憲革命以来ほんの僅かの期間をのぞきタイ政治を牛耳つてきた軍部中心の政治体制が嶺壌したわけで,これはタイ政治史上初めての画期的なことであつた。
(b) 外 交
73年に入つてタイは前年に始った対中国政策の転換路線をより明確に推進し,またASEAN諸国との地域協力関係緊密化,ビルマとの関係改善,ルーマニア,ハンガリー等共産圏諸国との国交樹立,チャートチャイ外務副大臣のアラブ諸国歴訪等,従来の対米一辺倒政策を脱し,よりグローバルな外交をおしすすめる姿勢を示していることが注目される。
73年のタイの対中外交は前年にひきつづき新たな発展を示している。73年には中国卓球選手団のタイ訪問(6月),中国との通信衛星利用による電信電話回線の設置(8月),タイ・バドミントン選手団の中国訪問(8月),チャートチャイ外務副大臣の中国訪問(12月)など両国の接触が増大し,さらに,8月には対中貿易禁止の解除についての閣議決定が行なわれた。
一方,台湾との関係では,9月,従来タイ国内で行うことをゆるしていた対中国向け放送の禁止措置をとり,駐台湾タイ大使の交替にあたり,後任を派遣せず,代理大使にとどめるなど,対台湾関係は微妙な動きを示しはじめている。
対共産圏諸国との関係改善については,72年末まではソ連およびユーゴースラヴィアの2国のみと国交関係があつたが,同年末ポーランド,73年6月ルーマニア,10月ハンガリーと国交を樹立し,年末にはモンゴルとの国交樹立をめぐる話合いが始められ,その実現が確実視されている。
チャートチャイ外務副大臣のアラブ諸国歴訪は石油問題が背景にあるとはいえ,タイがグローバルな外交政策を展開する方向を示しはじめたものとして注目される。
対米関係では,ヴィエトナム和平協定を機に米国と駐タイ米軍の一部撤退交渉を行い,8月下旬第1陣撤退が開始され,年末には駐タイ米軍は4万5千名より3万5千名に削減された。今後もインドシナ情勢の推移をにらみながら,駐タイ米軍の削減がすすめられるのではないかとみられている。
(c) 経 済 情 勢
73年のタイの経済は,72年の農業生産の不振,同輸出の急増により,繰り越し供給量が著しく少なかつた反面,世界的な食糧事情の悪化により,海外需要が前年に引続き殺到したため,年内の農業生産は良好であつたものの,国内産品の需給が著しく窮迫し,価格が大幅に上昇した。さらに円切上げ,世界的インフレーション等による工業原材料の輸入価格が大幅に上昇したことにより物価がかつてない大幅な上昇を示した。これらの事情もあつて,かつてない労働紛争のひん発を招くなど,72年までの経済とは打つて変った様相をみせた。後半にはいつてからは,石油供給の削減の影響も加わり,輸入原材料を中心とする供給削減と価格の急騰の影響は一段と深刻化している。一方,輸出の活発化に伴ない,国内の投資活動が70-72年の停滞を脱して,著しく活発となり,財政支出も相当の伸びを示したことなどを反映して経済成長率(GDP)は名目で17%,実質で8%程度の大幅増加を記録したと推定される。
(ロ) 日本との関係
(a) 対日批判の動きについては72年末の学生による日本品不買運動以後特に目立つた動きはなかつたが,タイ学生センターの提唱により11月30日より12月4日にかけてバンコックで開かれたアジア学生会議(豪州,香港,タイ,カンボディア,ラオスおよびシンガポールの6カ国の学生代表が参加)の最終日前目の12月3日,同会議参加国学生を含む約70名の学生が,日本の対タイ投資批判を主な内容とする対日抗議文を日本大使館に手交した。
さらに,74年1月初旬の田中総理訪タイの際タイ学生によるかなりの規模の反日デモが起こり,対日批判の根深さがあらためて浮きぼりにされた(第1部第3章第1節4参照)
(b) 日・タイ貿易関係
日・タイ貿易は,従来からわが方の大幅な出超を続けており(73年約326百万ドルの出超),タイは機会あるごとにわが国にたいし貿易不均衡の是正を要請してきている。これを受けて日本側も是正に努力しているが,わが国としては,その抜本的解決は両国問の貿易の拡大と多角化の過程で長期的かつ漸進的にはかつてゆくべきであるとの基本的姿勢でのぞんでいる。
68年に設立された日タイ貿易合同委員会は毎年,東京とバンコックで交互に開催されてきたが,73年12月には東京で第6回会議が開催され,貿易不均衡の是正にさらに努力を重ねること,このためにもタイの対日輸出振興のため日本側としてタイに技術協力を行なうことなどを両国政府問で合意した。本年の会議ではタイ側代表が,本件合向委員会の場を通ずる日・タイ双方の努力の結果,両国問貿易不均衡是正の面で顕著な成果が得られたことに対して満足の意を表明した。
(c) 経済・技術協力関係
タイにたいし68年に身16億円の第1次円借款を供与したのに引続き,72年には640億円の第2次円借款を供与した。第2次円借款はタイの第3次経済・社会開発5カ年計画の所要外貨の2割をしめ,2国間べースとしては最大のものである。第2次円借款は第1次円借款に比べ金利,期間とも条件がかなり緩和されているが,タイ側ではなおこれを不満とし,アンタイイングと条件緩和について強い要望があつた。これを受けて73年12月,プロジェクト借款460億円の一般的アンタイイングにつき、合意,さらに,本件借款の条件改善についても原則的合意が得られた。このプロジェクト借款はクアイ・ヤイ・ダム,首都圏電話施設の拡充,国営テレビ網拡充等に使用されることになつている。
無償資金協力の分野では,モンクット王工科大学の校舎建設,口跡疫ワクチン製造センターに対する協力をしている。
技術協力の分野では,72年に366百万ドルを供与した。協力の分野は農業,通信,医療等多岐にわたり現在約60名の専門家がタイ国内で活躍している。また,わが国はタイから年間100名余りの研修生を受入れており,主として農業,医療の技術訓練を行なつている。これら研修員は政府べースで2,138名が72年末までに訪日した。これら援助のうち,農業開発にたいする援助はタイの一次産品輸出の増大に少なからず寄与し,タイの貿易収支の改善に役立つている。
(イ) 内 外 情 勢
(a) 政治・軍事情勢
力ンボディアは70年3月18日の政変後インドシナ戦争に直接巻込まれることになり,戦火は国内各地に急速に拡大していつた。その後,戦況は断続的に緊迫化を重ねている。
一方政治的動きとしては,政府は70年10月9日の共和制宣言以来懸案となつていた新憲法を72年5日1日公布し,続いて新憲法下で大統領選挙を実施した。この結果ロン・ノル元帥がイン・タム,ケオ・アン両候補を破り,初代大統領に就任した。その後9月には両院議員選挙が実施され,共和国体制が一応整備されるに至つた。
73年に入ると,隣国ヴィエトナムおよびラオスでは和平の動きが具体化し,1月27日,ヴィエトナムに関するパリ和平協定,2月21日にラオス和平協定がそれぞれ成立し,和平の枠組が出来たのに反し,カンボ ディアでは未だ和平協定も成立せず,戦火が続いている。カンボディア政府はパリ協定成立2日後の1月29日一方的停戦宣言を行つたが,反政府勢力側はこれに応じず,逆に各地で攻勢に出た。3月には軍事情勢の悪化に伴つて,プノンペン市内では物価の急騰に抗議する教員ストが行われ,社会不安が高まつた。そのような中で3月17日政府軍の空軍将校であるソポトラ大尉(シハヌークの女婿)による大統領府爆撃事件が発生した。政府は同日直ちに非常事態宣言を公布し,続いて23日には大統領に全権を付与する国家危急事態宣言を発し,市民の集会の禁止,一部王族および教職員組合の幹部の逮捕,民間新聞の発刊停止の諸措置をとり,一応政治危機を脱した。
4月3日,専横ぶりが批判の的となつていた大統領の実弟ロン・ノン内相が辞任し,28日には政治基盤の拡大を日的としたロン・ノル大統領,チェン・ヘン前国家元首,シリクマタク共和党々首およびイン・タム前民主党々首の4名の実力者から成る最高政治評議会が設置され,これが最高政策決定機関として機能することとなつた。一方国会は同28日6カ月の期限付きでその権限を大統領に委任し,休会に入つた。さらに5月16日には最高政治評議会の一員であり,比較的国民の人気があるインタム前民主党々首が首相に就任し,期限6カ月の特別権限を付与された非常時内閣が発足した。庶民的なインタム首相の就任により,反政府勢力側との話し合いの端緒も開かれるのではないかと期待されたが反政府勢力側はロン・ノル政府とはいかなる語し合いにも応 じないとの態度を崩さず,むしろ6月9日のポチエントン空港の砲撃を皮切りに,プノンペン市に対する包囲態勢を強めてきた。一方パリ協定成立以後も米国はカンボディア政府の要請に基き,反政府勢力の補給基地,陣地等に対する爆撃を強化したが,5月頃から米国議会で上記米軍による爆撃反対の声がたかまり,7月1日には8月15日以降,インドシナ3国における米軍の軍事活動を禁止した73年度国防省補正予算案および予算継続決議案が成立した。8月15日以降米軍によるカンボディア爆撃が停止されることとなつたため,カンボディア情勢は極めて緊迫した局面をむかえることとなつた。政府は危機打開のため,7月6日,6項日の和平提案を行つたが,反政府側はこれを直ちに拒否した。8月に入り,首都プノンペンはさらに危機感が強まつたが,8月15日の爆撃停止後反政府側は一転して,プノンペン北方約120キロに位置するコンポンチャムを攻撃した。しかし結局,政府軍は自力で反政府軍を撃退することに成功した。しかしながらその後の全般的な軍事清勢は依然として流動的である。
このような中でアフリカ諸国を中心とする31カ国(その後2カ国が追加署名し33カ国)が10月8日いわゆるGRUNK(カンボディア民族連合王国政府)の代表権復活問題の議事日程掲載の提案を行ない,17日の国遠総会本会議で賛成多数により正式に議題として採択された。12月6日の総会でカンボディア代表権問題の審議を次期総会まで延期する決議案が賛成53,反対50,棄権21の小差(わが国は賛成)で成立し,代表権問題は74年に持込されることになつた。(詳細第2部第3章第1節2参照)
カンボディア代表権問題の決着をみたのち,12月26日,インタム首相が退陣,これにかわつて,代表権問題で活躍したロン・ボレット外務大臣が新内閣の首班に就任した。
(b) 経 済 の 状 況
戦争の勃発はカンボディア経済に深刻な影響を与えており,政府は71年10月29日,変則的な変動為替相場制度を採用し,経済全般の建直しを図るために新経済政策を実施した。さらに72年3月1日には生活必需品の輸入を確保し,民生の安定を図る目的でIMFおよび友好国の協力により為替支持基金(ESF)が設立され,(なお72年末につづき73年12月26日基金の存続期間を74年12月31日まで1年間延長することに合意)わが国は,72年に500万ドル,73年には700万ドルを本基金に拠出した。 ESFに対する各国拠出状況は次のとおり。
このような経済政策の手直しにかかわらず,73年に入つても戦争のため主要産業である農業および工業生産は依然停滞を続けており,輸出の減少と輸入増,加えて政府支出の約5割を占める軍事費が国家財政を圧迫している結果,インフレが昂進し,一般庶民の生活は困窮の度を深めている。
(ロ) わが国との関係
(a) 食 糧 援 助
わが国は難民の流入あるいは戦争による輸送状況の悪化と天候不良によりにわかに深刻化した米不足を憂慮し,カンボディア側の要請に基づき72年9月20日,KR援助により約80万ドル相当のタイ米を無償供与し,さらに73年10月20日,同じくKR援助により約120万ドル相当の日本米を無償供与した。
(b) 貿 易 関 係
わが国との貿易取極は60年2月10日署名され,以後延長されているが,74年1月13日この取極の有効期間をさらに,1年間延長した。わが国のカンボディア向け輸出は69年の2,350万ドルから70年には1,078万ドルに激減し,71年には1,184万ドル,72年は1,120万ドル,73年には1024万ドルの水準にとどまつている。一方,輸入も69年の733万ドルから70年には599万ドル,71年には223万ドル,72年には188万ドル,73年には228万ドルとなつている。
(c) 技術協力関係
(i) プレクトノット計画
70年7月以降工事現場附近の治安の悪化のため工事規模を縮少してきたが,71年9月25日工事現場が反政府軍の攻撃を受けて以来事実上工事は中断されている。
(ii) メーズ開発に対する協力
わが国は68年11月の両国間取極に基づき,カンボディアのトウモロコシ開発に協力するため専門家の派遣,機材供与等の技術協力を行つてきたが,カンボディア側の強い要望に応え,この取極の有効期間を74年11月まで延長した。
(iii) その他の技術協力
わが国はカンボディアの治安が回復するまで研修員の受入れを中心とした技術協力を行つており,71年度には農林,運輸,郵政,行政関係など合計34名を受入れ,72年度(72年4月~73年3月)には農林関係9名,郵政関係6名,行政関係4名,その他建設,経営,運輸等21名,合計40名の研修員を受入れた。一方,専門家の派遣については治安上の問題から最小限にしぼつており,現在派遣している専門家は73年末現在メース関係1名となつている。
(イ) 内 外 情 勢
(a) 政治軍事情勢
73年1月27日,ヴィエトナム戦争の終結に関するパリ協定が締結され,同日24時GMT(現地時間28日午前8時)から協定に基く休戦が発効した。同協定の実施をめぐる動きは次のとおりであつた。
(i) 休戦実施状況
休戦発効以来1カ年,軍事的衝突は,依然として全土に及ぶ支配地域の争奪のほか,中部山岳地帯のカンボディア国境付近での補給ルート(共産側が建設中)並びにメコン・デルタを中心とする米の争奪をめぐつて続いている。
しかし,双方の支配地域は,休戦成立当時と大きく変化しておらず,一時的には局地的に相当規模の武力衝突はみられたものの,全般的には小規模かつ限定的なものであり,大局的にみれば,鎮静化の方向に向かつているといえよう。
なお,南ヴィエトナム政府が発表した休戦発効の73年1月28日から74年1月28日まで1年間の休戦違反は35,673件で,損害は南ヴィエトナム軍の戦死者が12,803名,共産軍の戦死者が45,202名に達している。
(ii) 合同軍事委員会(JMC)の動き
パリ協定成立後発足した米,南ヴィエトナム,北ヴィエトナム,臨時革命政府の4者JMCは,73年3月29日米軍の撤退と米軍捕虜釈放等の完了に伴い解散した。これに代つて南ヴィエトナム,臨時革命政府の2者JMCがそれぞれの支配地域の画定および軍隊の駐蟹の態様の決定,捕虜の釈放等を行うことになつたが,捕虜の釈放を除き,休戦を成立させるための基本的問題である支配地域の画定および軍駐留の態様の決定等は未だ合意に至らず,相互に休戦違反の非難を応酬するなど新たな進展はみられなかつた。
(iii) 国際管理監視委員会(ICCS)の動き
パリ協定成立後直ちに設置されたICCSは,当初カナダ,インドネシア,ポーランド,ハンガリーの4カ国であつたが,カナダは,ICCSが休戦管理の十分な機能を発揮し得ないことを理由に73年7月31日脱退し,その後任としてイランが参加した。
ICCSの報告は,4当事者の全会一致を必要とするため,その活動は円滑を欠き,さらに運営資金の枯渇もあつて有効な調査活動は制約されているものの概ね全土に監視要員を派遣し調査活動を行つ ている。
(iv) パリ決議とパリ共同声明
パリ協定をめぐつてパリ決議とパリ共同声明の2つの国際的文書が採択された。
パリ決議は,パリ協定に基づき2月26日からパリで,協定の4当事者と英,仏,カナダ,インドネシア,ソ連,中国,ハンガリーポーランドの各国ならびに国連事務総長の13者の参加のもとに開催されたヴィエトナムに関する国際会議で,3月2日,国連事務総長を除く12者の間で調印されたもので,パリ協定を確認,尊重することを約束したものである。
同会議は議長問題,捕虜釈放問題,国連事務総長の取扱い問題等で多少の紛糾はあつたが,主として米,北ヴィエトナム間の話し合いでこれらの問題も収拾され,決議調印の運びになつた。中国,ソ連等関係諸国がこの会議に参加し,パリ協定に保証を与えたことの意義は大きいとされている。
しかし,こうした会議のあとも南ヴィエトナム現地では武力衝突,休戦違反が絶えず,また,米,北ヴィエトナム間でもパリ協定の実施をめぐつて相互の非難応酬が行われ,北ヴィエトナム領海の機雷除去の中止,米,北ヴィエトナム合同経済委員会の中断,等の問題が生じた。加えて,ラオス,カンボディアに関するパリ協定の履行の確保,等の問題もあつて,米,北ヴィエトナム間でパリ協定の厳格な実施をはかるための話し合いが行われることになり,5月から6月にかけてキッシンジャー米大統領補佐官とレ・ドク・ト北ヴィエトナム労働党政治局員とを代表とする両者の間に会談が重ねられた。
この米国,北ヴィエトナム間の話し合いの後,6月13日,パリで米国,北ヴィエトナムと南ヴィエトナムの両当事者たる南ヴィエトナム政府と臨時革命政府との4者による共同声明が調印された。
この共同声明は,パリ協定の全条項の厳格な実施を目的として,南ヴィエトナム両当事者の司令部は6月14日正午GMTに指揮下の軍隊,武装警察に対し,15日午前4時GMT以降,休戦を厳格に遵守すべき命令を発出することなど,休戦の実施,休戦の監視,政治解決その他パリ協定の諸条項の実施方式に関する合意をはかつたものである。
(v) 南ヴィエトナム二者政治会談
パリ協定は,民族和解全国評議会の設立,総選挙の実施,武装勢力の削減問題等を含む南ヴィエトナムの政治解決につき南ヴィエトナムの両当事者が協議することを定めており,これに基づき3月19日からパリ郊外のラ・セル・サンクルーで二者政治会談が開催され,73年末までに34回の会談が重ねられた。
この間,南ヴィエトナム政府,臨時革命政府の双方から数次にわたる提案が行われたが,いづれも相手側の拒否にあい,会談は非難と応酬の繰り返しとなつている。この会談で南ヴィエトナム政府側が停戦,非南ヴィエトナム軍の南ヴィトナムよりの撤退,捕虜交換,民主的自由,民族和解全国評議会の設立,総選挙の実施を一括し全体として解決するという立場にたつているのに対し,臨時革命政府側は民主的自由の保障を優先とする主張を強く打ち出している。
(vi) 南ヴィエトナムの政治
政府機関の改編,新設,上院議員の半数改選,内閣の一部改造などの動きはあつたものの,政局全般にはとくに大きな変化はなかつた。
8月26日,実施された上院議員の半数30名の改選(欠員1名の補充を含めると31名)では,全員政府派候補が当選し,この結果上院で政府派議員が大多数を占めるに至つた(下院では従前から与党系議員が多数を占めている)といわれている。
10月23日に発表された内閣の一部改造では経済閣僚の全面的更迭が行われたが,これは一つには物価上昇に悩む国民の経済政策批判を反映したものとみられている。
また,チャン・ヴァン・ラム外相が上院議員に当選したことに伴い,11月,ヴォン・ヴァン・バック駐英大使が外相に任命された。
(b) 経 済 情 勢
73年1月末のパリ協定調印に伴い,一般的には経済の再建,戦後復興の時機到来と期待されたが,南ヴィエトナムの経済は全般的に停滞した。その原因は,(i)パリ協定の成立後,南ヴィエトナムでは依然として戦闘が続き,その結果生産の増強を妨げ,外国投資をためらわせ,また110万人にのぼる軍隊の維持等国防費が国家予算の56%を占め財政を圧迫した,(ii)米軍が73年3月に完全撤退した結果,米軍,米政府関係のピアストル購入が71年400百万ドルから73年100百万ドルに激減し,また米軍関係雇用者約30万人(間接的汰従業員を含む)が失業した,(iii)主要商品の国際価格が上昇し,その結果輸入品価格が高騰し,物価に大きな影響を与えた,等とみられる。
農産物では米が南ヴィエトナムの主要な産物であるが,戦争継続による治安情勢,天候の不順,肥料の国際的不足により73年の米の生産量は638万トンと過去2年間と同水準にとどまつた。
ゴムは従来から主要な輸出品であるが,73年は3万トンとやや生産量が増加した。
工業生産は需要の不振等もあり,停滞している。
73年の貿易は,輸入額715百万ドル,輸出額60百万ドルと依然大幅な入超であり,外貨保有高は73年末143百万ドルに減少しているが,輸出と輸入の対比は1対12となり,71年の1対60と比較すれば急速な改善を示した。輸入の主要品目は,石油,米,機械,砂糖,肥料等であり,輸出の主要品目は冷凍エビ等魚介類,木材,スクラップの他,鉄鋼,繊維製品が新たな輸出品目となつている。
物価は,年間65%(サイゴン消費者物価)上昇し,72年の25%上昇をはるかに上まわり,65年以来最高のインフレ傾向を示し,国民生活を圧迫している。
国家復興計画については,73年5月,8カ年にわたる戦後の国家復興開発基本方針が発表された。この8カ年計画によれば,今後8カ年間の経済復興・開発を3段階にわけて推進することとし,73年-74年は難民の復帰・定着,インフラストラクチャーの整備,戦争のために停止されていた生産の再開等に重点を置き,80年までには経済の自立を計るとしている。また73年6月には復興開発特別計画(73年7月-12月)も発表されたが,各国からの援助も少なく73年中にはこれらの施策は難民の復帰・定着対策以外顕著な成果をあげていない。
(ロ) わが国との関係
(e) 貿 易 関 係
73年のわが国の対南ヴィエトナム貿易は,輸出が86.5百万ドルと前年比17.4%減であり,輸入は29.1百万ドルと前年の2倍となり,輸入と輸出の比率は前年の1対8から1対3となり,従来の出超幅は大幅に縮小された。輸出品目の主要なものは,繊維品,機械機器,化学品等であり,輸入品の主要なものは,冷凍エビ,木材,天然ゴム,非鉄金属くず等である。
(b) 経 済 協 力
(i) 緊急無償援助
73年1月の和平協定成立後,南ヴィエトナム政府から相当額の緊急援助要請があり,種々検討の結果,次の援助が決定された。
(あ) 難民住宅建設資材および農具の供与を目的とする5億円の贈与。(73年10月3日書簡交換)
(い) 難民児童用医薬品,農業用小型トラクター,農具および難民用住宅等の供与を目的とする50億円の贈与。(74年3月30日書簡交換)
(iii) 無 償 援 助
(あ) チョーライ病院の全面改築
70年度予算で3億円計上され調査工事等を行ない,現在改築工事を実施中であるが,74年秋頃完成を予定している。
(い) 孤児職業訓練所建設
戦争孤児を対象として職業訓練を行うための訓練所を建設する計画で,71年度2億2,000万円,72年度2億7,240万円,73年度9,000万円をそれぞれ計上し建設がすすめられた結果,73年9月1日開所式を挙行した。
(う) ダニム・サイゴン送電線修復
ダニム発電所・サイゴン間の送電線を修復するため,73年8月22日,2億8,800万円を限度とする贈与を行う旨の書簡を交換。
(iii) 有 償 援 助
南ヴィエトナムの戦後の経済安定と再建復興を援助するため,82.5億円を限度とする円借款(商品援助)を供与する書簡交換が74年3月30日に行われた。(金利年2.75%,償還期間は10年据置きを含め30年)
(iv) 技 術 協 力
コロンボ計画等に基づき,73年には日本から農業,運輸,建設等の分野の専門家(調査団を含む)49名が派遣され,南ヴィエトナムから82名の研修員を受入れた。
(イ) 内 外 情 勢
69年9月3日,ホ・チ・ミン前大統領没後のレ・ジュアン第1書記,チュオン・チン国会常任委員会議長,ファム・ヴァン・ドン首相をはじめとする労働党政治局員を中核とする集団指導体制に別段の変化はみられない。パリ協定の成立とともに北ヴィエトナムの党・政府から国民に出されたアピールは,同協定の成立は抗米救国闘争の勝利であるとし,この勝利は北ヴィエトナムで社会主義建設を推進するための有利な諸条件を作り出したものである,等を強調し,今後はあらゆる困難を克服してかつてない速度で社会主義建設に向うよう訴えた。また,その後種々の機会を通じて,経済情勢,人民生活の急速な安定,経済の回復発展,国防強化,などに対する努力が当面の任務として強調された。
9月1日,建国28周年記念式典の演説でも,ファム・ヴァン・ドン首相は,和平回復後短い期間に交通網が復旧され,発電所は急速に修復され生産体制に入つており,出力・発電量は戦前の水準に到達,田畑は復旧され和平後最初の5月末の生産性は従来の最高水準に達した,と成果を報告した。さらに当面の要求は,戦争の傷跡をいやし,生活を安定させ,生産,人民の生活と国民経済活動に直接奉仕する部門を主とする生産を復興,発展させることにあると述べており,北ヴィエトナムにとつての当面の課題が,まず国内の復興再建にあることを示している。
なお,ドン首相はこの演説で,73年から75年までに基本的復興を行い,76年から80年にかけて長期計画に入る方針を示したが,73年の6月には政府閣僚会議で73年上半期の国家計画と国家予算計画の実施状況が回顧され,73年の国家計画と73年の国家予算計画の基本的ノルマが確認された旨発表されている。
政府人事としては,6月14日,政府の一部改組と新人事が行われ,国家計画委員会委員長,建設大臣,水利管理犬臣等に移動がみられた。
パリ協定成立後,北ヴィエトナムは,わが国の他,フランス,カナダ,英国,オーストラリア等の各国と外交関係を樹立し,73年末現在66カ国が北ヴィエトナムを承認(外交関係を含む)するに至つている。
(ロ) わが国との関係
(a) 外交関係樹立
73年9月21日,わが国は北ヴィエトナムと外交関係を樹立した。(第1部,第3章,第6節1の(4)参照)
(b) 人 的 交 流
邦人の北ヴィエトナムヘの渡航(旅券発行数)は70年76件,71年92件と漸増し,72年は米国の北爆再開等の影響もあつて67件と減少したが,73年は109件(1月-9月)となつた。なお,72年2月および73年4月に外務省員が北ヴィエトナムを非公式に訪問した。
一方,北ヴィニトナムからの来日者は,70年7名,71年20名,72年30名,となつており,73年はヴィエトナム祖国戦線代表団,原水禁参加代表団,ヴィエトナム総工会代表団,機械輸出入総公司代表団,農業視察団,国際結核会議代表団等42名が来日しており,北ヴィエトナムからの来日者は漸増している。なお10月来日した祖国戦線代表団のホアン・コク・ヴィエト団長は11月9日,大平外務大臣と会見した。
(c) 経 済 関 係
73年のわが国と北ヴィエトナムの貿易は例年通り,わが国の輸入超過となつている。
わが国の対北ヴィエトナム貿易は70年の輸出502万ドル,輸入632万ドル,71年は輸出375万ドル,輸入1,159万ドルとなり,72年は5月以降米国の北ヴィエトナム港湾機雷封鎖の影響により輸出305万ドル,輸入254万ドルとなつたが,73年はパリ協定により米軍が機雷の除去を7月に完了した結果,商船の北ヴィエトナム港入港も可能となり,輸出443万ドル,輸入763万ドルとなつた。
わが国の輸出品の主要なものは,繊維品,化学品,鉄鋼,機械類等であり,輸入品の主要なものは,無煙炭,生糸,食料品,黄麻等である。
(イ) 政治・経済の状況
73年におけるラオス政治の動きで特筆すべきことは「ラオスにおける平和の回復および民族和解の達成に関する協定」および同協定の実施に関する議定書の成立をみたことである。これにより,74年4月に暫定国民連合政府の成立をみた。
72年10月から始まつたラオス和平交渉はヴィエトナム和平交渉の進展とともに推移した。73年1月27日,ヴィエトナム和平協定の成立に伴ない,2月に入つてラオス愛国戦線プーミ・ヴォンヴィチット書記長がヴィエンチャン入りし,和平交渉が本格化し,2月21日,ヴィエンチャンで,ラオス愛国戦線側代表,プーミ・ヴォンヴィチットとヴィエンチャン政府側代表ペン・ポンサヴァンとの間でラオス和平協定の正式調印が行なわれた。同協定に規定する停戦,外国軍隊の撤退,暫定国民連合政府および全国政治協議会の設立等協定の具体的実施に関する諸問題はその後の交渉に委ねることになつた。その後の交渉は相当難航することが予想されていたが,プーマ政府側および愛国戦線側の和平への忍耐強い努力により,9月14日,同協定実施のための議定書が両当事者間に成立した。11月には協定実施のための混合中央委員会が開催され,その後の定期的討議を通じ,ヴィエンチャン,ルアン・プラバン両部の中立化等,協定実施の段取りは着実に成果をあげ74年4月5日にはプーマ殿下を首相とする暫定国民達合政府およびスパヌウォン殿下を議長とする全国政治協議会が成立した。外交面では,従来通り,中立主義を建て前とする外交政策を貫いており,経済面では,政治面での進展とは対照的な様相をみせた。財政収支は依然大幅な赤字を続けており,72-73会計年度(7月~6月)歳出は前年比26%項となり,緊縮財政対策が要請されている。今後は,ラオス和平の進展に伴い,難民対策等の戦後復興対策の実施などで,歳出はさらに増加することが予想されている。一方,歳入は歳出の1/3以下である。また貿易面でも大幅輸入超過が続いている。この結果国内のインフレ昂進は海外のインフレ傾向,石油エネルギー源の高騰と重なつて,一層深刻化した。
わが国を含む5カ国の援助になるラオス外国為替操作基金(FEOF)はラオスのインフレ防止のために貢献した。
(ロ) わが国との関係
わが国とラオスとの関係は極めて良好である。特に59年に始まつたわが国の対ラオス経済協力はラオスの民生安定に貢献しており,ラオスのわが国に対する信頼と期待は大きい。政治・文化面においても,アジアの一員としての両国の関係は相互理解に根ざしており,今後,さらに緊密化するものと期待される。
(a) 貿 易 関 係
ラオスとの貿易関係は,引き続きわが国の大幅出超である。わが国の対ラオス輸出は機械類,繊維品等を中心に73年は823万ドルとなつている。これに対し,輸入は主として木材,雑貨類で,最近は木材の輸入が目立つている。73年のラオスからの輸入総額は32万9,000ドルとなつている。(わが国通関統計による)
(b) 経済,技術協力関係
(i) ラオス外国為替操作基金(FEOF)への拠出
ラオスの為替安定,国内インフレ防止等を目的として,64年,米,英,仏,豪の4カ国の拠出によりラオス外国為替操作基金が設立され,わが国はこれに対し,65年以来毎年拠出しており,73年度は300万ドルを拠出した。
(ii) ナムグム・ダム建設計画に対する協力
ナムグム・ダム建設計画は,エカフェ・メコン委員会によるメコン流域総合開発のための基幹事業で,3万KW/Hの発電をめざす第1期工事(所要経費約3,100万ドル)に対し,わが国は約500万ドルの無償協力を行ない71年末に完成した。さらに8万KW/Hの発電施設の増設を目標とする第II期工事(所要経費約2,400万ドル)に対しても,わが国は所要経費の50%を対象に借款を供与する意向を表明している。
(iii) ケネディ・ラウンド食糧援助
ラオスの食糧不足の緩和と農業開発のため,わが国は67年の国際穀物協定の食糧援助規約に基づき,ラオス政府に対し莱及び農業物資を供与しているが,73年度は50万ドルの農業物資の援助を行つた。
(iv) 難民収容村建設計画
ラオスでは,長年の戦火で,全人口の1/4を越す70万人以上が難民状態にあると言われており,わが国は,ラオスの民生安定に貢献する立場から,1億4,200万円の予算で難民収容村を建設した(73 年7月完成)。
(v) ヴィエンチャン上水道補修計画
わが国の援助により64年完成したヴィエンチャン上水道の諸機器を補修するとともに給水不良地区に対する施設の改良を1億5,000万円の予算で実施するもので,工事は74年3月に完了した。
(vi) ラオス復興無償援助
ラオス和平協定の成立に伴ない,わが国は,ラオス復興のため8億円(昭和48年度補正予算)の援助を行なうこととし,74年3月,ラオス政府と取極を締結した。
(vii) タゴン農業開発協力
ヴィエンチャン平野のタゴン地区800ヘクタール農業開発計画の一環として,わが国は,このタゴン地区内に100ヘクタールのパイロット・ファームを開設するため,専門家の派遣,機材供与を行なつている。
(viii) 専門家および日本青年海外協力隊員の派遣,研修員の受入れ
わが国は,コロンボプラン等により,73年12月現在で,26名の専門家,48名の海外協力隊員を派遣中であり,5名の国費留学生を受け入れている。