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白書・提言

第3章 主要地域情勢

   1.アジア及び大洋州
[中国とその近隣諸国等]

 建国50周年(10月)やマカオ返還(12月)の年に当たる99年、中国は、国有企業改革や失業者の増大などの問題を抱えつつも、安定と団結を一層重視し、慎重な舵取りで、比較的安定した内政を維持してきた。4月の気功集団「法輪功」関係者による中南海(党・政府中枢機関や中央指導者の住居が集まる地区)周辺座り込みデモや、5月の在ユーゴ中国大使館誤爆事件に抗議する米国大使館等へのデモ活動に穏便に対処して早期に事態を収束させ、6月の天安門事件10周年も平穏に乗り越えた。10月の建国50周年では、15年振りに軍事パレードが行われるなど江沢民体制の安定感を内外に強く印象づけた。また、8月には長距離地対地ミサイル「長征13号」の発射実験を成功させた。
 経済面では、GDP成長率7.1%(予測では7%)を達成したが、国有企業改革、失業者対策、大規模不良債権処理等の問題は依然深刻であり、一部ノンバンクの経営不良も顕在化した。9月の四中全会で3年前後で大多数の大中型赤字企業の苦境脱出との方針が再確認されるとともに、2010年までの長期目標と方針が示された。
 外交では、最優先課題である経済建設のために、平和な国際環境及び各国との良好な経済協力関係を確保すべく、西側諸国、近隣諸国、第三世界諸国に対する「全方位外交」を展開し、「独立・自主の平和外交政策」を掲げ、現実的な外交を推進している。一方、中国は冷戦終結後の国際秩序が米国による一極支配となることに反対し、国際社会を米・露・日・欧州連合(EU)等の「極」からなる多極構造と位置づけ、こうした大国との関係を重視していると見られる。
 中国は対米関係を重視する一方で、米国主導による北大西洋条約機構(NATO)のコソヴォ問題への対処や日本における日米防衛協力のための指針関連法等の成立などの動向を「米国の覇権主義」の現れとして警戒感を強めている。4月の朱鎔基総理による米国訪問時に世界貿易機関(WTO)加盟に関する米中二国間交渉が決着せず、5月のNATO軍のユーゴ空爆、在ユーゴ中国大使館誤爆事件もあって米中関係は悪化した。しかし、アジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議の際に行われた米中首脳会談(9月)やWTO加盟に関する米中二国間交渉の妥結(11月)により、一応の修復が図られている。
 一方、中国の近隣諸国との間では、6月の金永南(キム・ヨンナム)北朝鮮最高人民会議常任委員長の中国訪問により北朝鮮との間で7年振りのハイレベル交流が再開され、10月には唐家F中国外交部長が北朝鮮を訪問した。また、イワノフ露外相の中国訪問(6月)やエリツィン大統領の中国訪問(12月)を通じて中露関係は緊密度を増した。このほか、ヴィエトナムとの陸上国境条約の調印(12月)、江沢民主席の英・仏等への訪問、ロシア、キルギス、カザフスタン、タジキスタンとの5か国首脳会議の開催等、積極的な「周辺外交」が展開された。また、7月の東南アジア諸国連合(ASEAN)拡大外相会議で、中国は東南アジア非核兵器地帯条約の議定書に条件付きながら署名する用意がある旨表明するなど、近隣諸国との関係強化の動きが見られた。
 香港では、97年の香港返還以降、香港特別行政区(SAR)の下、「一国二制度」(外交及び防衛の分野を除く高度の自治権を有する制度)は基本的に順調に機能してきている。アジア通貨・金融危機等の影響で失業率は依然高い状態が続いているが、成長率がプラスに転じ、回復の兆しが出てきた。
 12月20日、マカオがポルトガルから中国に返還され、マカオ特別行政区(SAR)が成立(エドモンド・ホー(何厚G)が初代行政長官に就任)し、香港同様「一国二制度」が実施されている。
 中台双方の民間窓口機関を通じた両岸協議は、98年10月の辜振甫・海峡交流基金会(台湾側)理事長の中国訪問を経て、99年秋に汪道涵・海峡両岸関係協会(中国側)会長の台湾訪問が期待されていた。しかし、両岸関係は「特殊な国と国との関係」とする李登輝発言(7月)以来、海峡両岸間では話合いの糸口が見いだせない状態が続いている。台湾においては、9月に中部で大地震が発生し、2300人を超える死者を出すなど大惨事となったが、その後日本を含む各国からの支援もあり、着実に復興を進めている(また、2000年3月には台湾で新たな指導者を選出する選挙が行われ、陳水扁氏が選出された)。
 モンゴルについては、7月に金大中(キム・デジュン)韓国大統領、日本の小渕総理大臣、江沢民中国国家主席が相次いでモンゴルを訪問し、外交面で注目された。一方、内政面においては、98年以降3度にわたって内閣が総辞職し、政治の安定を求めて憲法改正が議論された。

[朝鮮半島]

 韓国の金大中(キム・デジュン)政権は、98年の発足以降、特に通貨・金融危機克服や外交政策等に成果を上げた一方、国内政治における与野党の厳しい対立状況は99年に入っても解消されず、春以降には閣僚の関与した不正等が相次いで発覚し、政権への世論の評価も低下した。また、連立与党間の約束事項であった内閣制導入をめぐる連立内部での軋みも生じたが、99年の夏には、通貨・金融危機克服を優先すべきとの雰囲気の中、先送りされた。一方、2000年4月の国会議員総選挙を前に、中選挙区制度導入を目指す与党と野党とが厳しく対立し、年内の調整と法改正は実現しなかった。また金大中大統領は、自ら率いる与党国民会議を全国的規模の政党へと改編すべく、野党の支持基盤出身者を含めた広範な有識者の参画を取り付けた。新党には連立のパートナーである自民連の合流も取り沙汰されたが、年末には見送られ、選挙協力の行方が注目される状況となった。
 97年以降厳しい危機に直面した経済は、99年に入って内需の回復と好調な輸出等に支えられ、通貨・金融危機以前の水準回復を達成した。99年の国内総生産は、9%以上を達成し、外貨準備高も740.5億ドルを記録、金大中大統領は、12月2日に通貨・金融危機克服を宣言した。
 対外政策においては、特に対北朝鮮政策をめぐる日米両国との連携強化が図られ、3月には小渕総理大臣の韓国訪問、7月には金大統領の2度目の米国訪問が行われたほか、累次にわたる日米韓協議、首脳レベル(APEC(9月)の際)、外相レベル(ASEAN拡大外相会議(7月)の際)での協議が実施された。また、露との関係においても、金大統領自ら積極的な外交を展開し、6月には金大統領がロシアを訪問した。
 北朝鮮については、依然として不透明な部分が多い。政治面では、金正日(キム・ジョンイル)労働党総書記が全般的に権力を把握している状況に変化はないと見られ、食糧及び経済状況は依然として厳しいものの、現在までのところ現体制を脅かすような反体制的な動向は観測されていない。また、98年来、「強盛大国」(思想・軍事・経済の強国)の建設を目標として打ち出している。軍事面では、「先軍政治」と呼ばれる軍重視政策を実施している。軍事力は、陸軍中心の構成で総兵力は約110万人であり、ノドン・ミサイルを配備している可能性が高く、更に弾道ミサイルの長射程化の努力を行っていると見られる。経済面では、4月に開催された最高人民会議で5年振りに決算・予算を発表するとともに、金正日総書記が自ら指導したとされる「人民経済計画法」を制定するなど、一定の取組を見せている。しかし、エネルギー及び外貨が不足しており、農業分野においても、二毛作やジャガイモの増産等に力を入れているものの、依然として食糧事情は厳しい。対外関係においては、米国との関係を安全保障に関わる最重要課題の一つと認識し、米朝協議を継続する一方、南北関係では、金大中大統領の「包容政策」を批判し、当局間対話には消極的ではあるが、韓国の民間企業との交流は推進している。また、中国との関係で6月に首脳レベルの金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長が中国を訪問するなど関係修復に努め、9月に白南淳(ペク・ナムスン)外相が国連総会に出席し、その機会に複数の国の外相等と会談を行うなど、積極的な活動が展開された。

[東南アジア]

 東南アジア諸国連合(ASEAN)は、4月のカンボディアの加盟によって67年の創設以来の念願であった「ASEAN10」を実現した。95年にヴィエトナムが加盟してからわずか4年間でラオス、ミャンマー、更にカンボディアを取り込み10か国体制となったASEANは、東南アジア全域を一つの傘の下に包摂する地域協力体に発展を遂げたことになる。
 ASEAN10となったASEANにとり第1の課題は、新規加盟国を含み拡大したASEANの結束をいかに維持・強化し、かつ日本を含む域外諸国との関係を促進していくかであると言える。ASEANは、アジア諸国が通貨・金融危機の影響からようやく回復軌道に乗り始める中で、7月のシンガポールでの第32回ASEAN外相会議(AMM)、9月の同じくシンガポールでの第31回ASEAN経済閣僚会議(AEM)等の場を通じ、ASEANの域内協力の強化、地域情勢等について幅広い協議を行った。さらに11月にマニラで開催された第3回ASEAN非公式首脳会議においては、ASEAN10か国の首脳が一堂に会し、地域の安全保障、貿易・金融、社会問題、国際経済問題等について協議を行った。この首脳会議においては、インドネシアのアブドゥルラフマン・ワヒッド大統領よりのアチェ情勢についての説明を踏まえ、ASEAN各国首脳は、インドネシアの主権と領土的一体性を十分に尊重するとの姿勢を表明した。また、懸案の南シナ海における領有権問題については、地域的行動規範の必要性が再確認されたが、採択するまでには至らず、継続協議となった。経済面では、ASEAN自由貿易地域(AFTA)に関し、輸入関税撤廃の実現目標年を2015年に前倒しすることが首脳レベルで決定された。また、地域の平和と安定に影響を与える諸問題に対応するための閣僚級の協議の枠組み(ASEANトロイカ)の設置についても合意がなされた。
 ASEANとしては、ASEAN内部の協力体制を強化するのみならず、97年より毎年開催されているASEAN+3(日中韓)首脳会議を通じて東アジア地域協力を推進すべく努力している。11月、マニラでASEAN非公式首脳会議後に行われたASEAN+3(日中韓)首脳会議においては、「東アジアにおける協力に関する共同声明」が採択され、日本を含む東アジア諸国の政治・安全保障、経済、文化等の幅広い分野での地域協力を強化するとのメッセージが発出された。
 インドネシアでは、6月に総選挙が行われ、10月には国権の最高機関である国民協議会(MPR)で、アブドゥルラフマン・ワヒッド大統領、メガワティ・スカルノプトリ副大統領が新たに選出された。同大統領の下発足した新政権は、様々な問題を抱えつつも、順調なスタートを切った。
 東チモールでは、8月30日に直接投票が実施され、その結果、インドネシアからの分離・独立を求める票が8割近くに達した。しかし、この結果に不満を持つ勢力が暴行、略奪等を激化させ、現地は混乱状況に陥った。その後、多国籍軍の展開により治安は回復し、現在では、国連東チモール暫定行政機構(UNTAET)の下での国造りと独立に向けたプロセスが始まっている。
 ミャンマーでは、政権側(国家平和開発評議会:SPDC)とアウン・サン・スー・チー女史が率いる国民民主連盟(NLD)との対立が膠着状態のまま推移し、両者間による対話実現の見通しは立たないままであった。他方で99年は、一部大学の再開や赤十字国際委員会による刑務所訪問の実現等、政権側による前向きの動きも一部見られた。このような情勢とあいまって、同国の経済は深刻な問題を抱えており、基礎的社会サービスの悪化が懸念されている。日本は11月にマニラにおいて、15年振りとなる日・ミャンマー首脳会談を行い、民主化の進展につき働きかけを行うとともに、同国の経済改革に対し協力を行う用意がある旨表明した。

[南西アジア]

 98年5月のインド、パキスタンによる核実験により高まった両国の緊張関係は徐々に緩和され、99年2月には、インド首相が10年振りにパキスタンを公式訪問し、首脳会談が行われた。この結果「ラホール宣言」が発表され、カシミール問題を含む懸案解決のために両国が前向きに取り組む姿勢が内外に示された。しかし、4月にインド・パキスタン両国がミサイル発射実験を行ったのに続いて、5月、カシミールにおいて管理ライン(LOC)を越えてインド側に侵入した武装勢力とインド軍の間に戦闘が発生し、再び両国間の緊張が高まった。7月、シャリフ・パキスタン首相の武装勢力に対する撤退呼びかけにより戦闘が収束に向かった後も、インド軍によるパキスタン海軍機撃墜事件、インド国家安全保障諮問委員会による核ドクトリン草案の発表等両国間の緊張関係は継続した。10月、首相への権限集中を進めるシャリフ首相と軍との亀裂が広がりつつあった最中、シャリフ首相が外遊中のムシャラフ陸軍参謀長の解任を発表したことに端を発する軍事クーデターが発生した。これにより、インド・パキスタン関係は悪化し、情勢は一層不透明なものとなった。また、12月にはインディアン航空機ハイジャック事件が発生し、その背景をめぐり両国が互いに非難し合うなど、対話再開の見通しは立っていない。
 スリ・ランカにおいては、政府軍とタミル・イーラム解放の虎(LTTE)との戦闘が北・東部地域で断続的に継続している。12月の大統領選挙でクマーラトゥンガ大統領が再選を果たしたが、その際にも大統領暗殺を狙ったと見られる自爆テロ事件が発生しており、コロンボ市内等でテロ事件が頻発している。
 一方、経済面では98年の第10回南アジア地域協力連合(SAARC)首脳会議の合意事項である南アジア自由貿易地域(SAFTA)条約化に関し専門家会合が開催されるなどの動きが見られたが、上記パキスタンのクーデターを受け、11月に予定していたSAARC首脳会議が延期されたことは、域内経済交流にも影を落とした。
 日本は伝統的に南西アジア諸国と友好的な関係を築いてきている。インド・パキスタン両国の核実験に対して、日本は、緊急・人道援助、草の根無償を除く新規無償資金協力及び新規円借款の停止等の措置を採ったが、両国が日本にとってアジアの重要なパートナーであることには変わりはなく、日本は9月の国連総会におけるインド・パキスタン両国との外相会談、11月のシン・インド外相日本訪問等ハイレベルの対話を維持している。こうした対話を通じて、インド・パキスタン両国に対して対話再開を働きかけ、また、両国に対し、包括的核実験禁止条約(CTBT)署名を始めとする核不拡散上の進展を働きかけた。パキスタンに関しては、クーデター直後に山本外務政務次官が同国を訪問するなど民主化の進展等を働きかけた。

[大洋州]

 オーストラリア(豪州)は、東チモール問題において、直接投票の結果判明後の多国籍軍の派遣に積極的に関与した。他方で、豪州政府の強硬姿勢及び反インドネシア一色に近い豪州国内の世論・報道は、結果的に、オーストラリア・インドネシア関係の緊張を招いたほか、近隣のアジア諸国に警戒感を抱かせた。このような中で、豪州の親アジア路線からの離反傾向として注目する向きもあったが、豪州政府は、アジア太平洋地域は外交・貿易政策上の最優先地域であり、特に米国、日本、中国及びインドネシアは最重要国であるとする豪州の外交政策に何ら変更はないとしている。また、11月には、共和制への移行の是非を問う国民投票が実施され、反対多数で否決された。その背景として、共和制移行そのものについては賛成が過半数を超えるものの、大統領の間接選挙などを定める共和制移行法案の具体的内容について反対が多かったこと等が指摘されている。
 ニュー・ジーランドでは11月に行われた総選挙で与党国民党(シップリー党首)が敗北、労働党(クラーク党首)が勝利を収め、左派連合党と連立し、少数与党ながらも9年振りに中道左派の政権を樹立した(「緑の党」が閣外協力)。新政権は前国民党政権の経済政策が市場を偏重していたと批判し、政府主導の産業育成や環境保護の必要性も主張しており、80年代からのニュー・ジーランドの改革路線の行方が注目される。
 日本、豪州、ニュー・ジーランドが参加するみなみまぐろ保存委員会でみなみまぐろの保存管理が行われているが、資源回復状況等につき、日本と、豪州及びニュー・ジーランドとの間で見解が一致しないことから、漁獲量等が決定できない状態になっている。このため、日本は98年及び99年に自主的に調査漁獲を実施したが、豪州及びニュー・ジーランドは国連海洋法条約等に違反するとして同条約に基づく仲裁裁判が行われている。
 99年は幾つかの太平洋島嶼国で政権交代があったが、これら諸国の国内政治状況は引き続きおおむね安定的に推移した。脆弱な経済構造の改革とともに、世界貿易機関(WTO)の下での貿易の自由化の進展を始めとするグローバリゼーション、また地球温暖化などの環境問題への対応もこれら諸国の共通の重要な課題となっている。そのほか、今年、新たにキリバス、ナウル、トンガが国連に加盟した結果、この地域の12か国のうち11か国が国連加盟国となり、未加盟のトゥヴァルも加盟申請を行うなど、太平洋島嶼国が国際社会により積極的に参画していく姿勢が見られた。
 日本は、7月に豪州のハワード首相を公賓として招待したほか、ミクロネシア、ニュー・ジーランド、サモアなどの国からも首脳レベルの日本訪問が相次ぐなど、大洋州諸国とのハイレベルでの対話を積極的に推進した。また、10月に、東外務総括政務次官がパラオでの日・南太平洋フォーラム(SPF)域外国対話に参加し、12月には日本へ招待したSPF議長国のナカムラ・パラオ大統領と小渕総理大臣の会談後、2000年4月に宮崎で、大洋州諸国の首脳を招待して、「太平洋・島サミット」を開催することが発表された。

[アジア欧州会合(ASEM)]

 アジアと欧州の関係を強化する目的で96年に発足したアジア欧州会合(ASEM)は、アジア10か国、欧州15か国・1機関が参加する大きなフォーラムとして、現在までに首脳会合が2回行われており、2000年には韓国で第3回首脳会合が予定されている。
 99年は、蔵相会合(1月)、外相会合(3月)、経済閣僚会合(10月)と、閣僚の会合が相次いで開催され、ASEMの三つの柱である政治、経済、文化・その他の各分野において、活動は更に進展している。また、10月には科学技術大臣会合が初めて北京で開催され、ASEMの活動分野も広がりを見せている。
 3月、ベルリンにおいて開催された第2回外相会合では、98年4月の第2回首脳会合を受けて、世界経済情勢や地域・国際情勢について、率直で活発な意見交換が行われた。政治面では、中でも朝鮮半島情勢について議論が行われ、大量破壊兵器の拡散防止などの懸念を解決するための当事者間の対話継続への希望が表明された。また地球規模の諸問題については、国連改革や対人地雷除去など日本の関心が強い分野についても、議長声明で言及された。経済面では、アジア経済に回復の兆候があるものの、その社会的影響が深刻との認識で一致するとともに、世界貿易機関(WTO)の下での多角的貿易体制を強化することの重要性が指摘された。また、文化、教育、科学技術等広範な分野でのASEM諸国間の協力を一層進めていくことの重要性が強調された。さらに、有識者からなる「ヴィジョン・グループ」より、21世紀に向けたASEMの中長期のビジョンについての報告書が提出され、今後、その内容について検討していくこととなった。
 10月に行われた第2回経済閣僚会合においては、WTOを中心にアジア経済、欧州経済通貨統合などの幅広い問題につき活発な意見交換が行われた。アジア・欧州間の貿易及び投資を更に促進する作業を強化することに合意するとともに、ビジネス界との交流を強化することの重要性も指摘され、民間のフォーラムであるアジア・欧州ビジネス・フォーラムとの連携を強化していくこととなった。
 2000年10月に、韓国において第3回首脳会合が予定されている。この会合は、21世紀におけるアジアと欧州の協力の在り方を議論するための重要な機会である。日本は第2回首脳会合まで取りまとめ役である調整国を務めたこともあり、その経験を活かし、現在の調整国で開催国である韓国を始めとする関係国と協力し、アジアと欧州の間の橋渡し役も担いながら、首脳会合の成功と、アジア欧州間の協力強化に向けて努力している。

   2.北米

[米国]

  • 米国内政
     米国においては、経済が引き続き好調な中で、国内政局は、共和党が多数を占める連邦議会下院が、98年12月、ホワイトハウス実習生との関係をめぐる問題で大統領が偽証及び司法妨害を行ったとする大統領弾劾訴追条項を可決したことを踏まえ、年明けとともに上院にて開始された大統領弾劾裁判によって幕を開けた。2月中旬、上院の弾劾裁判は、大統領無罪の結論を下したが、弾劾問題をめぐり高まった民主、共和両党間の党派的対立は、大統領選挙・議会選挙が2000年に予定されていることともあいまって、議会における法案審議に少なからぬ影響を与えた。
     弾劾裁判の最中という状況の中で、クリントン大統領は1月19日に一般教書演説を行った。大統領は、政権の過去6年間の実績を誇示するとともに、繁栄と平和に安住することなく「現在の世代が21世紀に向けて歴史的な責任を果たす時」であると述べ、取り組むべき政策課題としては、前年と同様に、社会保障(公的年金)制度改革、メディケア(高齢者医療保険)改革、教育等を掲げ、また、コンピューター2000年(Y2K)問題についても言及がなされた。中でも注目されたのは、今後見込まれる財政黒字の使途について、社会保障制度維持やメディケア、教育、国防等に用いるべきとして大統領自らの案を明らかにしたことである。これに対して、議会多数党である共和党は、大統領が提案する以上の財政黒字を社会保障制度の維持に投入すべしとするとともに、今後10年間で約8000億ドル規模の大型減税案を提示した。財政黒字の使途をめぐっては、結局、大統領と議会共和党の間に、財政黒字のほとんどを占める社会保障(公的年金)基金黒字分については他の政府支出財源に充当しないとの合意が形成されるに至り、また、共和党の大型減税提案については、国民の広い支持を得られず、同党が議会に提出した減税法案はクリントン大統領による拒否権発動とともに事実上撤回された。議会内の党派的な対立から、2000会計年度歳出法案が共和党の当初の期待に反し、10月1日の同会計年度開始までに成立せず、結局、最後の歳出法案成立は11月下旬にまでずれ込んだ。このため、内政上の主要課題であり、国民の関心も高い社会保障制度改革、医療保険改革、教育等の政策課題に進展は見られず先送りとなった。
     2000年に行われる大統領選挙は、88年以来12年振りに現職大統領が立候補しない選挙となるが、年央には各党立候補者の顔ぶれがほぼ出揃い、秋頃から、党指名獲得を目指した選挙戦が開始された。

  • 米国外交
     クリントン大統領は、2月にサンフランシスコにて包括的な外交演説を行い、米国が抱える課題を列挙するとともに、国防・外交予算増加、国連分担金・滞納金支払いなどへの議会の協力を呼びかけた。この演説の中でも言及されたコソヴォ問題では、米国のイニシアチブの下、3月24日より北大西洋条約機構(NATO)軍がユーゴ空爆を開始した。5月には、NATO軍機による在ユーゴ中国大使館誤爆事件が起き、中国の強い反発を招いたが、米中関係では、中国の世界貿易機関(WTO)加盟に関する交渉妥結(11月)や在ユーゴ中国大使館誤爆事件の損害支払い問題に関する合意(12月)など一定の進展も見られた。
     また、クリントン大統領は積極的な訪問外交を展開し、中南米(2月、3月)、欧州(5月、6月、7月、11月)、ニュー・ジーランド(9月)、カナダ(10月)、ノールウェー(故ラビン・イスラエル元首相追悼式出席:11月)などの国々を訪問し、米朝協議開催中の北朝鮮によるミサイル発射の停止、イスラエル・シリア交渉再開合意の仲介など外交分野での実績も上げた。
     他方、連邦議会上院において共和党の反対もあり包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准に関する同意決議が否決された。

  • 米国経済
     個人消費を中心に米国経済は好調を維持し、平時としては最長の景気拡大局面にある。失業率は4%台前半と歴史的な低水準で推移し、物価も安定した。株価は、3月に1万ドル、5月に1万1000ドルを突破するなど、史上最高値圏で推移した。連邦準備制度は、将来のインフレ圧力の高まりを見越して3度の予防的な金融引締めを実施した。
     好景気による税収増と歳出の抑制を背景に、前年度に黒字化した連邦財政は99会計年度(98年10月~99年9月)には過去最高の1230億ドルの黒字となった。
     99年の米国の貿易赤字は過去最高を記録した98年を更に上回った。対日赤字額も過去最高となったが、対日赤字の対世界赤字に占める比率は低下傾向にある。経常収支赤字も拡大傾向にあり、今後の米国の景気動向次第では、米国内で保護主義圧力が増大する可能性がある。

[カナダ情勢]

 カナダでは、クレティエン首相の率いる自由党が引き続き高い支持率を維持し安定した政局運営を行った。経済面では、99年度の第1四半期から第3四半期までを通じ、3四半期平均4%(年率換算)に近いGDP実質成長率を記録した。この高成長は好調な米国経済に支えられた対米輸出の伸び、堅調な国内需要、特に個人消費の伸びに負うところが大きい。失業率も漸減傾向にあり、11月で6.9%(98年平均8.3%)まで低下した。消費者物価上昇率は92年以降安定して推移しており、11月の対前年同月比は2.2%の上昇となった(98年は0.9%の上昇)。
 外交面では、従来より積極的に取り組んできている国連平和維持活動や対人地雷問題に加え、近年、平和構築や人間の安全保障の構想に焦点を当ててきている。また、カナダは北米自由貿易協定(NAFTA)を通じての北米市場統合の推進、アジア太平洋経済協力(APEC)への積極的参加及び米州自由貿易地域(FTAA)構想や大西洋経済パートナーシップ(TEP)構想への積極的参画、WTOを通じての自由化推進を経済外交の主な柱としている。
 日加関係については、9月にクレティエン首相が連邦政府閣僚、州・準州首相、財界人等約420人からなる大規模経済ミッション「チーム・カナダ」を率いて日本を訪問し、小渕総理大臣との首脳会談が行われたほか、「日本とカナダ:21世紀へのグローバル・パートナーシップ」が発表された。クレティエン首相の日本訪問中には、日加合同シンポジウム「開発と平和構築」も開催された。両国間の首脳、外相レベルでは、6月のケルン・サミットでは日加首脳会談、外相会談が、12月の紛争予防G8外相特別会合では日加外相会談が行われた。また、賢人会議「日加フォーラム」の第3回会合が10月にオタワで開かれるなど日加間の協力分野は多岐にわたる。二国間の経済関係も基本的には良好であるが、98年に対カナダ輸入が減少したのに続き、99年度上半期には対カナダ輸出、輸入ともに前年同期実績を下回った。

   3.中南米

 90年代を通じた市場開放・自由化の結果、中南米は多国籍企業にとって世界拠点の一つへと成長した。また、民間の動きに対応し、政府レベルでも中南米との関係強化が図られ、欧州やアジアとの地域間枠組みづくりも進展した。他方、競争原理の浸透の影では、貧富の格差の拡大や治安の悪化といった社会問題が顕在化し、社会の不安定要因となっている。

[世界経済の戦略拠点としての中南米]

 中南米はブラジル1国のGDPが東南アジア諸国連合(ASEAN)10か国の合計に匹敵することに見られるように市場規模が大きく、安定成長傾向にある。99年は、1月にブラジルが変動相場制への移行を余儀なくされ、他の中南米諸国への経済危機の波及が懸念された時期もあったが、国際通貨基金(IMF)の対ブラジル支援が継続されたこともあり、ブラジル経済は急速に回復した。加えて、直接投資の流入が増大し、中国と並ぶ規模の外資受入国となった。北米経済圏に組み込まれたメキシコや、既に民営化を成功させているチリ、アルゼンティン等と併せ、中南米は世界の多国籍企業にとっての競争の場として成長を続けた。
 また、99年は、米政府が議会との関係でファースト・トラックを得られず米州自由貿易地域(FTAA)創設への動きが停滞したままであった一方、中南米にとって、欧州との関係強化、続いてアジア地域への関心の高まりが印象的な年であった。
 6月、リオ・デ・ジャネイロにて、中南米と欧州連合(EU)両地域の首脳が初めて一堂に会し、ラテンアメリカ・カリブ-EU首脳会議が開催され、両地域の更なる関係強化を目指す「リオ・デ・ジャネイロ宣言:行動のプライオリティ」が採択された。また併せて、メルコスール・チリ-EU首脳会議が開催され、農業分野を含めた一括交渉方式による実質的な貿易自由化を目的とした交渉の開始が宣言された。これらサミット開催の背景には、中南米でのプレゼンス向上を目指すEUと、米国に対するカウンターバランスとしてEUとの関係を強化したい中南米との思惑の一致があったと考えられる。
 また、アジアとの関係では、東アジア諸国と中南米諸国との相互理解の向上、協力関係強化を目的とした東アジア・ラテンアメリカ・フォーラムの第1回会合が両地域の国々の参加を得て9月にシンガポールにて開催された。

[政治面での動き]

 3月パラグァイで政変が起こり、クーバス大統領が辞任し、ゴンザレス上院議長が新大統領に就任したが、99年に行われた他の多くの国での政権交代は、いずれも民主的なプロセスにのっとって行われ、中南米の民主化が深化していることが見てとれた。1月、ブラジルでカルドーゾ大統領が再任され、バルバドスではアーサー首相が再任した。2月にはヴェネズエラにてチャベス新大統領が、6月にはエル・サルヴァドルにてフローレス新大統領が、9月にはパナマにてモスコソ新大統領が就任し、12月にはアルゼンティンにおいて与野党が交代し、デ・ラ・ルア新大統領が就任した。また、パナマ運河条約に基づき12月末日、パナマ運河が米国よりパナマに返還され、それに伴いパナマ駐留米軍は撤退した。
 他方、90年代を通じて中南米に高い経済成長をもたらしたグローバリゼーションは、貧困、失業増大、治安の悪化等の諸問題を生み出している。これらの諸問題を背景として、アルゼンティン等での選挙では中道左派系の候補者が国民の支持を集めた。また、ヴェネズエラでは、旧体制を批判し、力強い大衆の支持を背景として、憲法改正を含む抜本的政治改革を打ち上げており、いずれも今後の政策運営が注目される。
 チリでは、70年代から80年代の軍政時代に行ったとされる拷問等の罪によりスペインから訴えられていたピノチェット元大統領が98年10月に滞在中の英国にて逮捕されたことに端を発し、軍政時代の犯罪等の過去をいかに清算すべきかが争点となっており、アルゼンティン等他の中南米諸国も同様の問題を抱えている。6月のラテンアメリカ・カリブ-EU首脳会議や11月のイベロアメリカ・サミットには、チリ首脳が欠席したほか、アルゼンティンも首脳の出席を見合わせ、この問題は外交関係にも少なからぬ影響を与えることとなった。これら問題に対する取組は、中南米において民主主義が民政移管という制度面のみならず実体面でも定着しつつあるかどうかを試す試金石の一つとなっている。
 キューバ関連では、11月、第9回イベロアメリカ・サミットが、初めてキューバにおいて開催された。キューバ側からすれば、米国のキューバ孤立化政策に対し一定のメッセージを送るものとなったとする見方がある一方で、参加各国の首脳がキューバの反体制活動家と意見交換を行った点も注目された。

[日本との関係]

  • 中南米の中長期的安定への支援
     日本は中南米にとって米国に次いで第2位の援助国である。具体的には、政府貸付や無償資金協力のほか、中南米での麻薬撲滅、地雷除去のため米州機構へ拠出金を供与しており、また、11月のグァテマラ大統領選挙へ選挙監視団を派遣するなど、中南米が抱える様々な社会問題の解決に協力している。12月にヴェネズエラ史上最大規模の集中豪雨が発生した際には、テント50帳、毛布2700枚を含む約1500万円相当の緊急援助物資、及び緊急無償協力援助として約6000万円の資金供与を実施した。

  • 資源供給地としての中南米:貿易・投資拡大に向けた民間セクターを中心とする動き
     食糧・鉱物資源・エネルギー分野での潜在的な供給能力が高い中南米諸国は、これら資源の開発を外資に開放しており、日本が政治的にも安定したこれらの国々との資源分野を中心とした協力関係を構築する好機にあると言える。このような状況を背景に、日本と中南米諸国との間で、民間セクターを中心とし、貿易・投資拡大に向けた動きが出始めている。
     ブラジルとの間では、9月に第8回日本ブラジル経済合同委員会が高村外務大臣も出席して経団連とブラジルの全国工業連盟(CNI)主催で開催された。その際、「21世紀に向けた同盟関係」構築を目指した共同コミュニケが発出され、その後具体的なアクション・プランが民間レベルにおいて検討された。
     メキシコとの間では、7月の日・メキシコ高級事務レベル経済協議の結果、日本はメキシコとの間で投資協定締結に向けた予備的交渉を10月に行った。また、7月及び10月には、両国の産業界、学界、マス・メディア等の代表からなる新日墨21世紀委員会が東京及びメキシコにて会合し、21世紀における日・メキシコ関係の在り方についての提言作成に向けて作業が行われた。
     また、日本は現在、自由貿易協定をどの国との間でも締結していないが、最近では民間部門からメキシコ、チリなどと自由貿易協定を締結すべきとの要請あるいは意見が出てきている。

  • 移住周年を契機とした日本と中南米諸国との関係強化
     99年は、ペルー及びボリヴィアへの日本人移住100周年、コロンビアへの移住70周年及びブラジルのアマゾン地域への移住70周年に当たった。日本人移住者及び日系人は、中南米と日本との架け橋として貴重な役割を果たしているとともに、各界での活躍を通じて今や現地社会を支える重要な構成員となっている。5月にペルーのリマにおいて開催された日本人ペルー移住100周年記念式典には、日本より清子内親王殿下が海部俊樹日本・ペルー友好議員連盟会長と共に出席し、フジモリ大統領と共に1万人を超える日系人ほかから熱烈な歓迎を受けられた。同殿下は、引き続きボリヴィアのラパスにてバンセル大統領への表敬を含めた公式行事に参加された後、サンタクルスに赴き、山下徳夫日本・ボリヴィア友好議員連盟会長と共に日本人ボリヴィア移住100周年記念式典に出席され、またサンファン及びオキナワ移住地を視察された。なお、コロンビアでの移住式典には武藤嘉文日本・コロンビア友好議員連盟会長が、アマゾン・ベレーンでの移住式典には藤村修衆議院議員が日ブラジル国会議員連盟を代表して出席した。

   4.欧州

[統合の深化と拡大に向け飛躍する欧州]

 99年の欧州は、欧州連合(EU)加盟11か国による単一通貨ユーロ導入を始め、大規模な産業再編等を通じて世界経済の三極の一つとしての位置づけをますます強化したほか、政治分野においても、統合を目指して大きな飛躍を遂げた1年であった。また、欧州委員会(EUの行政機関)をめぐる不正疑惑による前欧州委員会(サンテール委員長以下各委員)の総辞職を受け、9月にプローディ新委員長体制が発足し、欧州委員会も新たなスタートを切ることとなった。

  • 政治・外交的統一体へ向かうEU
     5月1日に、EUの新たな基本条約であるアムステルダム条約が発効し、EU第2の柱である共通外交・安全保障政策(CFSP)の強化が図られることとなった。その中でも、EU外交を担うCFSP上級代表のポストが創設され、ソラナ前北大西洋条約機構(NATO)事務総長が10月にこの上級代表に就任した点が特筆される。
     さらに、コソヴォへの対応を契機として欧州安全保障・防衛政策に関する論議が活発化し、12月のヘルシンキ欧州理事会(EU首脳会議)では、EUが紛争防止・危機管理等の任務を行うための危機管理部隊の創設が合意されるなど、防衛・軍事面におけるEUの役割に新たに注目が集まっている。

  • 第5次拡大を目指すEU
     既に加盟交渉を開始している6か国(ポーランド、チェッコ、ハンガリー、エストニア、スロヴェニア及びサイプラス)に加えて、12月のヘルシンキ欧州理事会はルーマニア、スロヴァキア、ラトヴィア、リトアニア、ブルガリア及びマルタの6か国について2000年からの加盟交渉開始を決定した。他方トルコは、この欧州理事会で加盟候補国として認められたが、今後加盟交渉を開始するためには、人権、領土、サイプラス問題の解決といった政治基準を満たす必要があるとされた。
     またこの拡大に対応するため、EUは、まず3月のベルリン特別欧州理事会で、拡大に伴う支出増大を踏まえた予算の枠組み等に関する戦略文書「アジェンダ2000」に合意した。さらに、欧州委員数や意思決定に関する事項を中心とした機構改革に関する政府間会合(IGC)を2000年初めに開催し、同年末までに作業を終了することが予定されている。

  • ユーロ導入後の欧州経済
     99年年初、単一通貨「ユーロ(euro)」が、大きな混乱もなく無事導入された。ただし、当初は小切手、企業間の決済手段、起債の手段等としてのみ使用することができ、紙幣と硬貨の流通の開始は、2002年1月1日の予定である。
     ユーロの対ドル相場は、米欧間の景況感格差等を背景に、99年を通じてほぼ一貫して下落傾向にあった。他方、母国外の市場で発行される債券のうち、ユーロによる起債額は、1~12月累計で約5880億ドル相当と米ドルのそれ(約5850億ドル)を超えるなど、世界のGDPの3割弱を占めるEUが単一通貨の導入を実現したことの国際的な影響は着実に現れてきている。ユーロの将来を占う上で、今後は、ユーロ未参加の4か国(特にEU全体のGDPの20%を占める英国。なお、英国のユーロ未参加のため、シティの地盤沈下を懸念する声もあったが、ユーロ導入後、シティの供給し得るサービスはますます重要視されている)の態度、欧州中央銀行(ECB)を中心とした金融政策の動向、金融政策決定に当たってのECBと加盟国(EU経済蔵相理事会(ECOFIN)及びユーロ評議会(ユーロ参加国蔵相による会合))との役割分担、経済通貨統合の一層の進展に必要な税制や社会保障制度の調和の進捗、域内の雇用政策の調整を含む雇用情勢等が注目されよう。なお、税制調和については、徴税権という主権国家の典型的な公権力の在り方に関わる問題ということに加え、企業誘致や自国の金融市場の盛衰に影響が及び得るものであることから、加盟国間の思惑の違いが特に顕著に見られ、目標とされた12月のヘルシンキ欧州理事会での最終合意は達成されず、2000年の課題として積み残しとなった。
     99年のEU域内の経済状況を見れば、通年のGDP成長率は2.1%(11月欧州委見通し)と98年の2.6%(実績)を下回ったが、年後半には域内の需要拡大、輸出増大等で景気の回復傾向が明らかとなり、2000年の成長率予想は3%となっている(同欧州委見通し)。このような将来に関する明るい材料も背景に、欧州各地の株式市場は99年後半になり活況を呈するようになった。物価については、おおむね安定的に推移した。雇用については、徐々に改善しつつあり、域内の平均失業率は98年12月の9.6%から99年11月には9.0%に改善した。
     また、経済通貨統合の進展に伴う規模の利益を享受した全欧州レベルでのビジネスチャンスの拡大やユーロ域内単一価格表示による競争激化への対応の必要性等の要因が働き、金融、通信等幅広い業界で再編の動きが本格化し、また、機関投資家の裾野が広がったことで欧州企業の直接金融シフトが鮮明となった。他方で、例えば、独政府が独有力企業に対する外国企業からの敵対的買収に介入姿勢を示したり、また、経営危機に瀕した他の有力企業の救済に公的資金の大量投入をもって乗り出したことに関し、これらの動きに対し市場が反発し、ユーロ売りが加速したと見られるなど、経済のグローバリゼーションの進展に伴う市場原理強化の流れと、労働者の利益擁護等欧州諸国が歴史的に重視してきた価値との間でどのようにバランスをとっていくかという問題が関心を集めた。
     雇用面では、6月のケルン欧州理事会で「欧州雇用協定」(マクロ経済対話による経済政策の協調、賃金・通貨・財政政策間の協調関係改善等を含む)を採択し、この分野においても域内の政策協調に向けての動きが始まったことが特筆される。

[新たな安全保障環境への適応]

 冷戦終焉から約10年、NATO、欧州安全保障・協力機構(OSCE)等の欧州の安全保障機構は、それぞれ欧州の新たな安全保障環境への適応を図っており、これらの動向は前述のEUの安保・防衛政策の進展と併せ注目される。

  • 50周年を迎えたNATO
     NATOにとって99年は転機の年であった。3月には旧ワルシャワ条約機構構成国であったチェッコ、ポーランド、ハンガリーの3か国がNATOに加盟したほか、コソヴォ情勢に対応したユーゴへの空爆が開始された。さらに4月には、ユーゴ空爆が続行される中、NATOの50周年記念の首脳会議がワシントンで開催され、21世紀に向けてのNATOの方向性を示す「新戦略概念」が採択された。総じて、99年は欧州の安全保障におけるNATOの役割について改めて関心が寄せられた年でもあった。
     NATOの新戦略概念は、冷戦終結後の新たな戦略環境に適合するため、これまでの戦略概念(91年採択)を見直したものであり、集団防衛をNATOの基本的任務としつつも、新たな任務として、欧州・大西洋地域における安全保障と安定に寄与するため、紛争予防、危機管理及び危機対応策に取り組むことを明記した。
     なお、NATOの今後の更なる拡大については、首脳会議において、引き続き加盟への門戸は開放されているとの原則が再確認されており、今後注目される。

  • 欧州安全保障・協力機構(OSCE)首脳会議の開催
     11月にイスタンブールにおいてOSCE首脳会議が開催された。本首脳会議では「欧州安全保障憲章」が採択され、国連等の国際機関との協力の促進、平和維持における役割の拡大を謳うとともに、OSCEがより迅速に機能を発揮し得るようその機能を強化していくことが示された。
     なお、本会議開催中、「欧州通常戦力(CFE)条約」加盟30か国により、「CFE条約適合に関する合意」への署名が行われた。本件合意では冷戦間の東西ブロックごとの通常戦力の制限から、新たな国別・領域別による制限へと、欧州の通常戦力の制限に関して冷戦後の環境に合致した新しい概念が導入された。

[日欧関係]

 1月に小渕総理大臣がフランス、イタリア、ヴァチカン及びドイツを訪問し、各国首脳と会談を行った。その際、小渕総理大臣は各国首脳との間で個人的信頼関係の構築に努めるとともに、政治・経済・文化など幅広い分野で二国間関係、更には日欧関係の一層強化を図ることで一致した。さらに6月にケルンにおいて日・EU首脳協議を開催し、新千年紀において日・EU間のパートナーシップを更に拡大・深化させていくことを表明した。
 このほか、99年には引き続き日本と欧州各国との間で様々なハイレベルの対話が実施された。例えば、独との間では6月のケルン・サミットの際に日独首脳会談を行った。その後、小渕総理大臣は英国及びアイスランドを訪問した。英国では日英首脳会談を行い、アイスランドでは、北欧5か国の首相と第2回日・北欧首脳会談を実施した。さらに、9月にベルリンにおいて「ドイツにおける日本年」開幕式典が開催され、秋篠宮同妃両殿下及びラウ独連邦大統領夫妻が御臨席された。さらに、10月にはシュレーダー首相が日本を訪問した。
 また、日英間では9月に東京で行われた日英定期外相協議にて21世紀に向けての日英協力を盛り込んだ「行動計画21」が策定された。
 さらに、日仏間においては、12月にジョスパン首相が初めて日本を訪問し、双方向の投資拡大等四つの分野について共同コミュニケが発出された。

[日・東欧関係]

 5月に高村外務大臣、12月に河野外務大臣がマケドニア及びコソヴォを相次いで訪問し、コソヴォを始めとする南東欧地域の平和と安定のために積極的に貢献していくことを表明した。

   5.ロシア及び旧ソ連新独立国家(NIS)諸国

【ロシア】

 99年、ロシアの政局は、5月のプリマコフ首相解任等により緊張したが、チェチェン紛争の収拾に断固とした姿勢を示すプーチン首相の人気が上昇し、12月の国家院選挙でも同首相支持勢力が躍進した。その中でエリツィン大統領は12月31日に辞任し、プーチン首相が大統領代行となった。経済は、比較的好況であった。

  • 内政状況
     99年の年初はプリマコフ首相が政権を安定的に運営し、最大の懸案の国際通貨基金(IMF)融資再開についてもIMFより原則合意を取り付けていたが、国家院における大統領弾劾提案審議直前の5月12日にエリツィン大統領が同首相を解任し、政局は一気に緊迫した。しかし15日の国家院審議で大統領弾劾提案は否決され、19日にはステパーシン首相が承認され、政局の流動化は回避された。その3か月後にはステパーシン首相も解任されたが、国家院選挙を12月に実施するとの公示もあって国家院側は宥和的な態度を示し、8月16日にプーチン首相の就任が承認された。
     この状況の中で、8月7日のチェチェン武装勢力のダゲスタン侵入を契機にチェチェン紛争が再燃したが、プーチン首相は紛争の処理に断固たる姿勢を示した。そして軍事作戦がその後比較的順調に推移したこともあり、同首相の人気は急上昇した。
     12月19日には国家院選挙が行われた。選挙戦序盤はプリマコフ元首相の率いる「祖国・全ロシア」が注目を集めていたが、プーチン首相の人気を背景に「統一」や右派勢力同盟など政権支持勢力が躍進し、プーチン首相は議会の中に足がかりを得ると同時に、2000年の大統領選挙の最有力候補としての地位を強めた。
     エリツィン大統領は、度重なる健康不安にもかかわらず、2000年夏までの任期を全うすることに執念を示してきた。しかし自らが「後継者」と評価するプーチン首相の人気が国家院選挙で裏付けられたのを受け、12月31日に辞任し、プーチン首相を大統領代行に任命した(2000年3月に行われたロシア大統領選挙の結果、プーチン大統領代行がロシアの次期大統領に選出された)。

  • 経済状況
     98年8月の金融危機の影響としてハイパーインフレの再来、ルーブル暴落等の経済状況の悪化が予想されていたのに反して、99年のロシア経済状況は、全体として好調であった。
     具体的には、インフレは前年より沈静化し(98年:84%、99年:約40%)、ルーブルも前年の金融危機に際し暴落した後は落ち着いた動きとなった(99年は20~27ルーブル/米ドルで推移)。3月以降は鉱工業生産もプラスに転じ、貿易も約300億ドルの黒字となり、好調な経済実績に支えられ徴税も好調で、GDPもプラスとなった。また、金融システムも安定化の方向に向かっている。
     このような好調な経済を支えているのは、石油(ロシアの主要輸出品)の国際価格上昇と高値維持、及び98年のルーブルの切下げがロシア国内の輸入代替産業を立ち上げたことにある。さらに、99年夏にはIMF及び世銀による融資が再開され、パリクラブ(債権国会議)において公的債務の繰延べが合意されたことも、ロシア経済にとり好ましい動きであった。さらに、例年年越えする翌年度連邦予算案の採択も、99年は比較的スムースに推移し、ロシア政治・経済の安定振りを内外に示した。
     他方、経済の回復基調は99年後半より鈍化しているとの指摘もある。これまでの回復基調が持続されるのか、また回復基調を支える好条件が今後も続くかどうかは不明である。旧国営大企業のリストラ、土地の自由化等の基本的な改革は未実施で、かつ累積対外債務はロシア経済に重荷となっている。ソ連崩壊後長らくゼロであった国内投資が経済の好況を背景に99年央より徐々にではあるが増加していることは良い兆候であるが、他方、98年金融危機により痛手を被ったロシア商業銀行が十分な投資資金を今後安定供給できるかどうかは疑問である。また、国内消費は回復の兆しを見せていない。さらに、国際市場における石油の高価格が今後も続くとは限らず、99年の回復基調は脆弱な基盤の上に成り立っているとの指摘がなされている。99年夏にいったんは再開されたIMFによる融資もロシアの経済構造改革の遅れを理由として、第2回以降の融資の実施は見合わされている。また、99年夏にニューヨーク銀行を経由しての資金洗浄疑惑等が発覚し、ロシア経済に対する国際的な信用が再び低下したのもロシア政府にとって痛手であった。
     このように、99年にロシア経済は最悪の状況を脱したものの、本格的回復基調に入ったと断定するには時期尚早と思われる。

  • 対外関係
     99年、ロシアは引き続き国益重視と多極世界の構築を目指す全方位外交の推進を外交の基本に据え、独立国家共同体(CIS)諸国との関係推進のほか、欧州、アジア太平洋諸国との関係強化にも努めた。
     3月、エリツィン大統領は年次教書の中で、従来の多極化世界原則、国益重視等を基本に、孤立せずロシアの特質を勘案しつつ協調していく外交を進め、CIS、G8、欧州、米、アジア、中近東等との関係強化に加え、経済外交を推進する意向を表明した。
     コソヴォ問題では北大西洋条約機構(NATO)軍のユーゴ空爆に強く反対し、米を始めとするNATO諸国と対立したが、終盤では和平仲介工作を通じてロシアの存在をアピールした。対米関係では、特に対弾道ミサイル・システム制限条約(ABM条約)修正問題をめぐり立場の食い違いが顕在化したが、この問題を含め双方の間で協議が続けられた。
     99年後半は、チェチェン問題に関し欧米諸国から強い懸念が示される中、中国との関係強化を図るなど、国際社会における立場の確保に腐心した。
     また、12月にはロシア・ベラルーシ連合国家創設条約が署名された。

[NIS諸国]

 カザフスタンでは、98年のロシア金融危機の影響などもあり厳しい経済状況が続いていたが、99年には石油価格が持ち直したこともあり、回復が見られた。1月、大統領選挙が実施され、現職のナザルバエフ大統領が再選された。一方、ウクライナでは、改革の不徹底もあり、経済状況が好転しない中、11月、大統領選挙が行われたが、現職のクチマ大統領が再選され、一応同大統領が進める改革路線の継続が確認された。キルギスでは、アカーエフ大統領の下、積極的に経済改革が進められてきたが、ロシアの金融不安以降厳しい経済情勢が続いている。タジキスタンでは、長年の内戦を終結させ、和平プロセスが進展しているが、9月、憲法改正の国民投票が実施され、旧反政府勢力を中心とする宗教政党が合法化された。また、11月、初めて複数候補による大統領選挙が行われ、現職のラフモノフ大統領が再選された。
 ウズベキスタンでは、一般的な国内情勢は安定しているが、2月、タシケントでカリモフ大統領を狙った、イスラム過激派による爆弾テロ事件が発生した。また、キルギスで、8月、日本人技師の誘拐事件が発生し(同事件については、第1章2.(5)参照)、中央アジアにおけるイスラム過激派の浸透が浮き彫りとなった。アルメニアでは、10月、ナゴルノ・カラバフ問題に関する政府の対応への不満が背景にあると目されるグループが、国会内で国会議長、首相を銃殺する事件が発生した。
 ベラルーシは、12月、ロシアとの連合国家創設条約に署名した。同条約では、それぞれの国家としての主体性を維持したままの連合国家の形態と方向性が示された。
 アゼルバイジャン、ウズベキスタン、グルジアは4月、CIS集団安全保障条約から離脱したが、中央アジアでは、イスラム過激派の浸透に対する警戒もあり、新たな安全保障体制の構築も模索されている。
 日本は、対シルクロード地域外交としてNIS諸国との関係強化に努めているが、3月にはグルジアのシェヴァルナッゼ大統領、また、12月にはカザフスタンのナザルバエフ大統領がそれぞれ日本を訪問したほか、各国よりハイレベルの日本訪問が相次いだ。一方、日本からは、5月、高村外務大臣がアゼルバイジャン、ウズベキスタンを訪問した。また、8月、武見外務政務次官が中央アジアを訪問した。

   6.中近東

 中東地域は、日本の原油輸入の8割以上を供給しており、日本へのエネルギーの安定供給の上で死活的重要性を有している。また、テロや大量破壊兵器の拡散の観点からも、国際社会の平和と安定のために極めて重要な地域である。このような認識から、日本は、この地域との関係を強化すると同時に、この地域の平和と安定の確保のために積極的に関与している。

【中東和平を巡る動き】

 91年に開始された和平プロセスは、パレスチナ暫定自治の開始、イスラエルとジョルダンとの平和条約などの重要な成果をあげてきたが、96年に成立したネタニヤフ政権の下で停滞を始めた。98年10月に、クリントン大統領の仲介により、ワイ・リバー合意が成立したが、その後、イスラエル政府内での対立のために合意の実施が凍結され、和平は再び停滞に直面した。そこで、パレスチナ側が、99年5月4日に一方的に独立を宣言する意図を明らかにし、これに対して、イスラエルが強硬に反発するなど、和平プロセスの崩壊への危惧が強まった。また、イスラエルとシリアやレバノンとの交渉についても再開のめども立たないまま、南レバノンで戦闘が断続的に行われる状況が継続した。
 このため、高村外務大臣は、1月にエジプト、レバノン、シリア、ジョルダン、パレスチナ及びイスラエルを訪問し、パレスチナ評議会において日本の閣僚として初めて中東和平政策に関するスピーチを行ったほか、南レバノン問題に関し具体的な4項目の提案を行い、和平当事者に対し和平進展と日本の支援方針を訴えた。また、日本は、引き続き、3月にはシャラ・シリア外相、4月にはアラファト・パレスチナ暫定自治政府長官やムバラク・エジプト大統領を日本に招き、和平進展に向けた働きかけを行った。
 5月、日本を含む国際社会の働きかけもあり、パレスチナ側は一方的独立を延期し、大きな混乱もなくイスラエル総選挙を迎えた。その結果、バラック労働党党首がネタニヤフ首相を破って勝利し、7月に和平推進派である左派や中道派を中心として連立政権を発足させた。バラック首相は、就任後直ちにパレスチナ、シリア、レバノンのすべての交渉トラックで和平を進展させる姿勢を示し、9月、イスラエルとパレスチナは厳しい交渉を経てシャルム・エル・シェイク合意に達した。シャルム・エル・シェイク合意は、ワイ・リバー合意の実施や最終的地位交渉の再開、2000年2月13日までにパレスチナの最終的地位に関する枠組み合意、9月13日までには最終的な合意に到達することを目指す旨定めている。長らく再開が望まれていたイスラエル・シリア交渉についても、12月15日、米国の仲介により約4年振りに交渉が再開し、バラック首相とシャラ・シリア外相の間での初の直接交渉が行われるに至った。
 日本は、公正、永続的かつ包括的な和平のまたとない機会を迎えている中東和平プロセス進展の一翼を担うとの観点から、様々な機会に当事者に和平努力を働きかけ、また、和平に向けた環境づくりのために当事者に対する経済協力を実施してきている。パレスチナ支援としては、これまで5億ドルを超える支援を行っているほか、10月には、河野外務大臣を共同議長として、パレスチナ支援調整東京会議を開催し、パレスチナ交渉進展のための政治的気運の高揚に努めた。また、和平の先駆者でイスラエル、パレスチナ両者と良好な関係を保つジョルダンに対しては、12月のアブドッラー国王日本訪問の際に、今後3年間で約4億ドルの支援を発表した。また、日本は、96年以降、ゴラン高原の国連兵力引き離し監視隊に要員を派遣するなど人的貢献を進めているほか、日本が作業部会の議長を務める環境分野を含め、観光、水資源分野などの多国間協議にも積極的に参画している。

[イラク]

 大量破壊兵器廃棄に関する国連特別委員会(UNSCOM)の査察・監視に対するイラク政府の協力拒否を発端として、98年12月、米英軍は対イラク武力行使を行った。それ以降も、イラク政府が協力拒否を継続したため、国連安保理等において約1年にわたりイラクに対する対応について審議が行われた。その結果、99年12月17日、国連安保理はUNSCOMに代わる国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)の設置、制裁の一時停止措置等を含む包括的な内容の安保理決議1284を採択した(イラク政府は同決議に対し強い不満を表明しており、決議の履行には紆余曲折が予想される)。
 イラク国内では、9年以上に及ぶ国連制裁の結果、物資の不足など、経済状況が悪化し続けている。これを受け、96年12月以来、対イラク制裁の例外的措置として、食糧や医療品等の人道物資購入を可能とするためのプログラム(「Oil for Food」計画)が、国連安保理決議に基づいて実施、更新されてきた。石油輸出許可量は順次拡大され(上記決議1284は輸出上限を撤廃)、人道物資の輸入量も増加したが、長年の戦争により疲弊、老朽化した上下水道、医療施設、発送電施設など大規模インフラが大幅に改善される状況には至っていない。

[イラン]

 97年8月に就任したハタミ大統領は、法の支配、言論の自由、文明間の対話等の政治理念を掲げ、多様な価値及び言論の容認を始めとする市民社会の形成を目指す改革及び対外緊張緩和に取り組んでいる。国内世論も改革の進展に大きく傾いており、そうした改革に向けた風潮の中、言論の自由の拡大を求める学生による大規模なデモが発生した。国内改革の進展に呼応し、近年、イランと欧州諸国及び湾岸諸国を中心とする国際社会との関係改善も進んでいる。米国との関係改善は、若干の歩みよりはあったものの、両国の国内政治との絡みもあり、99年中は目立った変化は見られなかった。
 日本は伝統的にイランとの関係を重視しており、友好協力関係の維持に努めるとともに同国が国際社会への建設的関与を進め、地域の安定に貢献するよう、対話を通じた働きかけを行っている。8月に高村外務大臣がイランを訪問した際には、両国の懸案事項であったダム建設のための円借款の追加供与が決定された。また、10月にはローハニ国会副議長が日本を訪問し、ハイレベルでの関係深化が見られた。

[湾岸協力理事会(GCC)諸国を中心とする湾岸諸国]

 将来的に世界、特にアジアの中東に対するエネルギー依存度が拡大すると見込まれている中、湾岸地域の安定・平和の維持へ貢献し、同地域と友好関係を深めていくことは、エネルギーの安定供給の観点からも極めて重要である。
 日本は97年11月の橋本総理大臣によるサウディ・アラビア訪問及び総理特使によるその他のGCC諸国の訪問を踏まえ、湾岸諸国と政治対話の強化、経済的相互依存関係の進化、新分野(教育・人造り、環境、医療・科学技術、文化・スポーツ)における、二国間の枠組みを越えた包括的な友好協力関係の構築を積極的に推進している。
 湾岸諸国全体を俯瞰してみると、99年はハイレベルでの交流が着実な進展をみた。要人往来については上記のほかに、3月にイエメンのサーレハ大統領、4月にカタルのハマド首長が日本を訪問し、また、日本からも4月に与謝野通商産業大臣がサウディ・アラビア、アラブ首長国連邦及びクウェイトを訪問するなど、実務面での関係進化に伴い、人的交流の促進及び強化が実を結んでいる。
 なお、3月のイーサ・バハレーン首長逝去の際には、町村外務政務次官が特派大使として同国を弔問に訪れた。同国は若いハマド新首長の下で新しいスタートを切ったところであるが、全体的に湾岸諸国には若い指導者層が育ちつつある。

[フセイン・ジョルダン国王及びハッサン二世モロッコ国王の崩御]

 2月7日、ジョルダンのフセイン国王が崩御した。94年にイスラエルとの間の平和条約を締結するなど、同国王の地域の平和と安定に対する功績は世界各国から高く評価されており、8日に行われた葬儀には、日本から皇太子同妃両殿下及び小渕総理大臣が参列したのを始め、45か国の元首・政府の長を含む64か国が弔問に訪れた。同国王の崩御に伴い、アブドッラー皇太子が新国王に即位した。
 また、モロッコでは7月23日、ハッサン二世国王が崩御した。モロッコの繁栄と北アフリカ・中東の安定に大きく貢献された同国王の葬儀には、日本から高円宮殿下及び橋本総理大臣外交最高顧問が参列したほか、米、仏大統領等各国首脳・要人が弔問に訪れた。同国王の崩御に伴い、シディ・モハメッド皇太子がモハメッド六世として国王に即位した。

   7.アフリカ

[99年の動き]

 政治面では、90年代アフリカで急速に進展した民主化の流れの中で、99年には南アフリカを始め多くの国で民主的な大統領選挙が実施され、平和的な政権交代が実現した。特に、アフリカ地域で最大の人口を擁する大国ナイジェリアにおいて5月、長年の軍政に終止符が打たれ約16年振りの民政移管が完了したことなどは、アフリカ地域における民主化の進展と政治的安定の確保に貢献するものとして評価できる。また紛争問題については、アフリカ統一機構(OAU)や西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)、南部アフリカ開発共同体(SADC)などの地域的機関や周辺国による和平努力を受けて、シエラ・レオーネ内戦、コンゴー民主共和国をめぐる紛争で、紛争当事者間の和平合意が成立し、シエラ・レオーネでは、11月末より国連平和維持活動が開始されるなど、地域の安定に向けて一定の進展があったが、いずれの紛争においても真の和平の達成までは未だ予断を許さない。
 他方、エティオピア・エリトリア間の紛争については、OAUを中心とする和平仲介努力、日本を含む国際社会による和平実現のための関係国への働きかけにもかかわらず和平達成には至っておらず、またアンゴラ内戦については、9~10月の政府軍による軍事攻勢により動きがあったものの、和平達成までにはなお紆余曲折が予想される。
 またOAUが7月の首脳会議において非合法的手段による政権交代を非難する旨の決定を採択した一方で、コモロ、ニジェールではクーデターが発生したのを始め、西アフリカの指導的安定国家の一つと見られていた象牙海岸においても、12月末、給与未払い等に対する不満を背景にした一部兵士による騒擾事件に端を発し、べディエ大統領が失脚し、ゲイ元参謀総長が実権を握るに至った。アフリカにおいては、政治的安定の確保が、依然として大きな課題となっている。
 経済面においては多くの国が世界銀行及び国際通貨基金(IMF)と協議しつつ、市場経済原理の導入、緊縮財政等を中心とする構造調整政策を進め、サブサハラ・アフリカ地域の20か国以上が5%以上の経済成長を達成している一方で、ココアなどの一次産品市況の動きによって影響を受ける国も多く、同地域の人口の約4割が1人1日1米ドル以下の所得での生活を強いられる状態にあるという絶対的貧困の状況に大きな改善はない。さらに、アフリカ諸国の多くで累積した対外債務の返済が国家財政の大きな負担となっており、世銀・IMFが認定する重債務貧困国41か国のうちアフリカ諸国が33か国を占めるなど、アフリカ諸国の債務問題は、国際社会においても深刻な問題となっている。
 また社会面においては、マラリア等の寄生虫症やその他の感染症が解決すべき課題となっているが、とりわけエイズ(HIV/AIDS)の蔓延は、労働力の減少、平均寿命の低下をもたらすほど深刻化しており、経済発展のみならず、人類全体の安全の問題として、その悪影響が懸念されている。
 このような、アフリカをめぐる経済・社会的諸問題には、貧困の解消、持続的成長を実現するためのインフラ整備、人造り強化、保健・医療の改善等の解決が喫緊の課題となっている。

[日本との関係]

 日本は、アフリカの安定と繁栄は国際社会が取り組むべき重要な課題であるとの考え方から、これまでアフリカの開発及びその基盤となる政治的安定の確保のため、アフリカ諸国による努力を積極的に支援してきている。
 政治的安定のための支援については、日本は、紛争予防の観点から、紛争関係国要人等に対し直接和平の働きかけを行っているほか、民主化プロセスの推進を支援するため選挙監視要員の派遣、資金援助等の各種選挙支援、紛争等により発生した難民等に対する国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)等の国際機関を通じた人道支援、アフリカ統一機構(OAU)平和基金に対する拠出を通じたアフリカ諸国自身による紛争予防・解決努力への支援等を行っている。
 開発のための支援については、日本は98年10月に東京にて開催された第2回アフリカ開発会議の際に採択された「東京行動計画」の着実な実施に向け、他のドナー国・国際機関、アフリカ諸国と共に、フォローアップに積極的に取り組んでおり、教育、保健・衛生等基礎生活分野を始めとする支援を行っている。特にエイズ(HIV/AIDS)対策では「アフリカ地域エイズ国際会議」開催支援を始めとする貢献を強化し、また債務問題では、ケルン・サミットに先立つ4月に、日本としての債務問題に関する新たな提案を行い、重債務貧困国(HIPCs)に対する国際的な債務救済措置の枠組みの改善・拡充に向けた貢献を行った。また、アフリカ諸国の債務管理能力向上を支援することを通じて債務問題の解決に貢献するとの考えから、8月にケニアで世銀・IMF等と共催で債務管理セミナーを開催するなどの取組を行っている。



第4章 / 目次


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