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第1章 総括

   1.概観(国際情勢の三つの動きと日本外交の展開)
[冷戦後の新たな国際秩序の模索]

 冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊し10年を迎えた99年、民族、宗教等に起因する紛争が引き続き世界各地で多発する中、冷戦後の新たな国際秩序を構築すべく、グローバルな枠組みや、地域的な枠組みにおいて、あるいは二国間の取組を通じて様々な努力が続けられてきた。しかし、新たな国際秩序の構築に向けた課題や問題点はなお多く残されていると言えよう。
 まず、国連を中心とするグローバルな取組においては、地域紛争、民族紛争への対処が大きな課題となり、特に99年に国際社会の耳目を集めたコソヴォ問題では、国際の平和と安全のために果たすべき国連の役割が大きな議論を呼ぶこととなった。3月、北大西洋条約機構(NATO)は、更なる人道上の惨劇を避けるためのやむを得ぬ措置として、ユーゴースラヴィア連邦共和国(ユーゴ)に対する空爆を開始したが、このような介入の是非や法的根拠をめぐってNATO加盟国等とロシアや中国といった国々との間で意見の対立が見られた。また、その後のコソヴォ和平に向けたプロセスにおいてG8が大きな役割を果たしたこともあり、国際の平和と安全を維持する上での国連の役割、国連とG8との関係について様々な議論が行われた。
 他方、東チモール問題に関しては、主要国が協調しつつ国連を中心とした取組が行われた。拡大自治案に対する東チモール人の民意を問う直接投票の実施にあたっては、国連東チモール・ミッション(UNAMET)が重要な役割を果たし、投票後の治安回復及び維持に関しては、国連安全保障理事会決議に基づく多国籍軍が展開し、更には国連東チモール暫定行政機構(UNTAET)により暫定統治が開始された(なお、東チモールにおける直接投票及びその後の動きは、インドネシア情勢にも大きな影響を与えたが、これについては本章2.(1)参照)。
 国連やG8などでは、こうした紛争に対し、事後的に対処するのみならず、紛争を予防するための政策努力を行うことが重要であるとの認識が一層高まった。6月にケルンで開催されたG8サミット及びG8外相会合では、紛争予防の問題が取り上げられ、また、第54回国連総会においてもアナン事務総長のほか多くの国がその重要性に言及した。さらに、12月には、ベルリンにおいて紛争予防G8外相特別会合が開催された。
 地域的な取組については、地域統合の進展や地域における対話の深まりが見られた1年であったと言えよう。欧州では欧州連合(EU)におけるユーロ導入や共通外交・安全保障政策の進展などが見られ、統合が一層進展したことが注目された。また、アジア太平洋地域においては、欧州とは全く異なる次元ではあるが、11月にマニラで開催されたASEAN+3(日中韓)首脳会議で初めて共同声明が採択されたほか、同会議の機会を利用して初めて日中韓3か国の首脳による対話が実現するなど、地域の諸国間の対話に一層の進展が見られた。
 二国間の関係については、主要国間、特に米露、米中、中露間の動きが、冷戦後の新たな国際秩序の構築にも影響を与え得るものとして注目された。99年、米国とロシアの間では、NATOによるユーゴの空爆に加え、米国の国家ミサイル防衛(NMD)、イラク問題、チェチェン問題などをめぐり、意見の食い違いがみられた。しかしながら、両国間の協調関係の重要性についての認識は全般的に共有され、各種レベルでの両政府間の緊密な対話は維持された。また、米国と中国の間では、NATOによる在ユーゴ中国大使館誤爆事件や米議会における中国による核・ミサイル技術等流出疑惑の議論などにより不信感の高まりも見られたが、両国政府の努力もあり、99年後半には、中国の世界貿易機関(WTO)への加盟のための米中二国間交渉が決着するなど米中関係の改善も見られた。中国とロシアの間では、12月にエリツィン大統領が中国を訪問し、長年の懸案であった中露国境の画定、チェチェン問題と台湾問題での双方の立場への相互支持の表明等により、両国の協力関係が強調されたことが注目された。

[グローバリゼーションの進展と情報通信分野の革新的変化]

 ヒト、モノ、サービス、カネ、情報などの国境を越えた移動が地球的規模でますます拡大しており、情報通信分野の革新的変化に伴いそのスピードは文字どおり時々刻々と加速化している。このようなグローバリゼーションの進展は、国境を越えた経済活動を大幅に増大させ、活発となった貿易・投資や巨額の資本の流れは世界的規模での経済の効率化を進め、全体として世界経済の繁栄をもたらした。99年は、米国が平時としては最長の景気拡大を続けたのを始め、欧州諸国も年後半には景気拡大基調となった。アジア経済は最悪の時期を脱し回復基調となった。また、貿易及び投資の自由化と新たなルール作りについての議論が一層活発化し、年末には米国シアトルにて、新しいラウンド交渉を立ち上げるため世界貿易機関(WTO)閣僚会議が開催された。同会議では加盟国の立場の違いなどによりラウンド交渉は立ち上がらなかったが、同時に、開発途上国の関心や人々の自由貿易への様々な関心等WTOの直面する課題も明らかになった。
 他方で、グローバリゼーションのもたらす恩恵を得つつ、グローバリゼーションの「影」の問題に対処することも引き続き国際社会の重要な課題であった。
 例えば、アジアの通貨・金融危機、ロシアの金融危機が中南米などに飛び火していったようないわゆる危機の「伝播」は、グローバリゼーションの進展に伴い国際社会の相互依存性が深まった結果生じた問題と言え、99年も国際金融システムの強化のための議論などがケルン・サミット等において活発に続けられた。
 また、グローバリゼーションの進展に伴い世界規模での競争から取り残されつつある国々、あるいは取り残されるおそれのある国々の問題が一層顕在化した。このようないわば周縁化された国々がグローバリゼーションのもたらす繁栄を享受できるよう国際社会が支援することは、それらの国々において起こり得る危機が世界各国に伝播することを未然に防ぐためにもますます重要になってきている。
 さらに、グローバリゼーションがもたらした世界規模での競争の激化は、各国国内においても競争の敗者や競争から取り残される者を生み出しつつあり、これが社会不安を招くおそれも指摘されている。このような国内における社会的弱者の問題に対するセーフティ・ネットを構築するため、国際社会が協力して対応する必要性が一層強く認識されるようになった。
 日本は、G8サミット等の場において、国際金融システムの強化やセーフティ・ネットの構築に向けた国際協力の重要性を訴えるなどグローバリゼーションの「影」の問題への取組に積極的に貢献した。また、日本は、アジア通貨・金融危機の影響を受けた諸国への支援を引き続き積極的に行った。

[人間個人に着目した対応の重要性の高まり]

 99年にも見られた、紛争における一般市民の被害への国際的関心の高まりやグローバリゼーションに伴う社会的弱者の問題に関する国際的認識の高まりは、国際社会において個人の尊厳の重要性、自由と民主主義、基本的人権に対する認識がより一層高まってきたことの一つの証左でもある。冷戦の終焉を経て、自由、民主主義、基本的人権の尊重という理念は、国際社会において広く共有されつつあり、その結果人間個人に着目した対応の重要性が広く論議されるようになってきている。例えば、頻発する地域紛争において女性や子供を含む多くの人々が犠牲となっており、また、環境、感染症、組織犯罪といった、人々の生命及び安全に対する脅威が顕在化しているが、このような問題を人間個人の尊厳への脅威と捉えて対応するべきであるとの認識が国際的に高まっている。
 また、人間が個人として尊重され、個人の可能性が発揮でき、社会の構成員として責任を果たし得る社会を構築するためには、市民の自発的な取組が不可欠であることから、国際社会の諸課題への取組において非政府組織(NGO)等に代表される市民社会(シビル・ソサイエティー)の果たす役割がますます重要になってきている。99年末のWTO閣僚会議において、市民社会の自由貿易に対する関心がクローズアップされたが、今後、政府と市民社会との間の建設的なパートナーシップ構築が一層必要とされよう。
 日本はこれまで、貧困、地球環境問題、国際組織犯罪、テロといった個人の生存、尊厳、生活に関係する様々な問題について、「人間の安全保障」の視点を重視して積極的に取り組んできたが、99年も国連に「人間の安全保障基金」を設置するなど様々な場で具体的貢献を行った。また、開発途上国への経済協力、地球環境問題、紛争予防等様々な分野において、NGO等の市民社会との連携及び対話を重視し、より建設的な協力関係を構築すべく取り組んできている。

[99年の日本外交の展開]

 99年の日本外交は、日米関係を基軸とし、韓国、中国、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国、ロシア等の近隣諸国との関係の強化、アジア太平洋を中心とした地域協力の強化、国連を始めとするグローバルな取組への積極的な参画などを通じて、国際社会の主要な一員として国際社会の主要問題に積極的に取り組むとともに、アジア太平洋地域の問題を始め多くの問題について独自のイニシアチブを発揮した。
 米国との関係では、通常国会において「日米防衛協力のための指針」関連法等が成立・承認されたが、このことは日米安保体制の信頼性を高め、日本の安全保障政策を一層確固たるものとするとともに、アジア太平洋地域の平和と安定に資するものとして極めて意義深いものであった。また、小渕総理大臣の米国公式訪問を始めとして、国民各界各層の幅広い分野における交流、対話、協力は両国関係を更に深化・発展させている。
 韓国との関係では、3月の小渕総理大臣の韓国訪問、9月の金鍾泌(キム・ジョンピル)国務総理の日本訪問、10月の韓国済州島での第2回日韓閣僚懇談会の開催などを通じ、相互理解と信頼関係が一層深まり、今や両国の関係は未来を志向する新たな段階に入ったと言えよう。特に、10月の日韓閣僚懇談会では、2002年を「日韓国民交流年」として幅広い分野における交流事業の促進が合意された。
 日中関係については、7月の小渕総理大臣の中国訪問の際、中国のWTO加盟に関する二国間交渉が実質的に妥結するとともに、朱鎔基総理の2000年の日本訪問が合意されたほか、幅広い具体的な協力を着実に進めることにつき一致をみることができた。
 インドネシアを含むASEAN諸国との関係については、総理及び外相レベルを含む緊密な対話などを通じ一層の関係強化を図った。インドネシアでは、10月、民主的な手続きによりアブドゥルラフマン・ワヒッド大統領及びメガワティ・スカルノプトリ副大統領が選出されたが、新政権成立直後の11月には、同大統領が日本を訪問したほか、小渕総理大臣も新政権成立後初の外国首脳としてインドネシアを訪問した。
 北朝鮮との関係については、抑止と対話のバランスをとりつつ、米国及び韓国と緊密に連携を取りながら対応した。年末には村山元総理大臣を団長とする日本国政党代表訪朝団による訪朝が実現し、その結果を踏まえ、国交正常化交渉再開のための予備会談及び日朝赤十字会談が開催されるに至った。
 ロシアとの間では、6月のケルン・サミットの際の日露首脳会談、アジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議の際の小渕総理大臣とプーチン首相の会談のほか、計6回にわたる外相会談が行われるなど緊密な対話が進められた。その結果、政治、経済、安全保障、人的交流、国際問題に関する協力等の幅広い分野において、両国間の協力関係が着実に進展した。
 欧州との関係では、ユーロ導入直後の1月、小渕総理大臣がフランス、イタリア、ドイツを歴訪し、国際通貨・金融システムの安定等につき各国首脳と議論したことを始め、緊密な協力関係を維持した。
 アジア太平洋地域における協力関係については、日本は、APEC、ASEAN地域フォーラム(ARF)、ASEAN拡大外相会議(PMC)、ASEAN+3(日中韓)首脳会議等の枠組みに積極的に参画し、地域協力の機運を高めることに貢献した。
 また、国際社会の大きな関心を集めたコソヴォ問題については、G8等における和平に向けた議論に積極的に参画するとともに、難民・避難民への人道支援、復興支援を行った。東チモール問題についても東チモール人による直接投票の円滑な実施に向け、また投票後は独立と国造りに向け、積極的な支援を行った。
 核軍縮・不拡散分野では、98年のインド及びパキスタンによる核実験を受けて日本のイニシアチブにより開催された「核不拡散・核軍縮に関する東京フォーラム」の報告書が発表されたほか、99年の国連総会に究極的核廃絶決議案を提出し、12月、圧倒的支持をもって採択された。
 経済分野では、シアトルでのWTO閣僚会議において、加盟国の立場の違いなどにより新たなラウンド交渉は立ち上がらなかったものの、日本は新たなラウンドに向けての議論に積極的に貢献した。
 また、99年は新たに国連教育科学文化機関(UNESCO)、国際電気通信連合(ITU)という二つの国際機関の長に日本人が就任したほか、東チモール問題への対処にあたっても高橋昭国際協力事業団(JICA)参与が国連東チモール暫定行政機構(UNTAET)の人道支援・緊急復興担当事務総長副特別代表に採用されるなど国際社会への人的貢献が注目された1年であった。
 さらに、8月に発生したキルギスにおける日本人誘拐事件は、10月に日本人全員が無事解放されたが、在外における邦人保護、経済協力実施上の安全対策に大きな教訓を残すものとなった。

 以上、99年を振り返り、国際情勢の三つの動きを概観するとともに、日本外交の展開について簡単に触れた。国際情勢及び日本外交の詳細については、以下の各章及び項目で述べることとする。

   2.99年の注目すべき動き
(1)インドネシア及び東チモール

[インドネシア]

  6月7日に新しい選挙制度の下で総選挙が実施され、国会定数500議席(うち38議席は国軍配分議席)のうち、メガワティ・スカルノプトリ総裁率いる闘争インドネシア民主党が153議席、ゴルカル党が120議席、開発連合党が58議席、民族覚醒党が51議席、国民信託党が34議席を獲得した。この総選挙に対して日本を含む国際社会からは、おおむね公正かつ円滑に実施され、成功であったとの評価がなされた。日本は、総選挙支援として選挙専門家等の国際協力事業団(JICA)専門家20名及び選挙監視団を派遣したほか、非政府組織(NGO)による選挙監視活動や有権者教育経費として、他国の支援額を大幅に超える約3445万ドルの無償援助を行った。
 総選挙の結果を受け、10月1日より国権の最高機関である国民協議会(MPR)が召集され、憲法改正に関する決定、東チモールのインドネシアからの分離承認の決定など種々の決定がなされた。最も重要な案件であった正副大統領選出については、最終局面で現職のハビビ大統領が大統領選出馬を断念し、国内最大のイスラム社会団体の一つであるナフダトゥール・ウラマのアブドゥルラフマン・ワヒッド総裁が、投票で60票の差をつけてメガワティ・スカルノプトリ闘争インドネシア民主党総裁を退け第4代大統領に選出された。また、続いて実施された副大統領選出では、メガワティ・スカルノプトリ氏が対立候補のハムザ・ハズ開発連合党総裁に100票以上の差をつけて副大統領に選出された。小渕総理大臣は新指導者の民主的な選出に際して正副大統領に対して日本国民を代表し祝辞を伝えた。
 また、正副大統領の選出を受けて、10月26日、「国家統一内閣」が発表された。新内閣は、国民協議会を構成する政治勢力間の全体的なバランスに配慮したもので、これによって新体制が本格的に発足することとなった。
 新政権は日本との二国間関係を重視する態度を表明してきている。アブドゥルラフマン・ワヒッド大統領は、11月15日から16日に日本を訪問し、小渕総理大臣、河野外務大臣らと会談を行った。さらにその後、小渕総理大臣も11月26日から27日、インドネシアを訪問した。この相互訪問を通じて両首脳間を含め両国の要人間で個人的信頼関係が構築されるとともに、インドネシアの改革努力に対する支援を引き続き惜しまないとの方針など日本の対インドネシア基本政策を新政権に伝達した。さらに小渕総理大臣の訪問時にはこの支援方針に基づき、(1)経済協力、(2)民間企業活動の促進、(3)人的交流の促進の面から具体的提案を行った。
 また、アブドゥルラフマン・ワヒッド大統領は、日本のほか、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国、米国、中国等を歴訪し、インドネシアの安定を強調するとともに対インドネシア投資と国際的支援を広く国際社会に要請した。
 インドネシア経済の動きについては、98年の大幅なマイナス成長を底にある程度の回復基調が見られており、為替レート及び物価上昇率も安定を見せた。
 99年中の治安情勢については98年7月以降続いている最西端のアチェ特別州における分離・独立を求める動きが活発化し、武装勢力と治安当局との衝突により多数の住民が巻き込まれて死傷あるいは避難民化した。新政権はアチェ問題を重視する姿勢をとってきており、アチェ特別州内の住民の一部による住民投票実施の要求にも留意している。また、マルク州内では、99年1月以降イスラム教徒とキリスト教徒の住民間抗争が発生し、多数の死者が出るなど、アチェ問題とともに新政権にとって難題の一つとなっている。

[東チモール]

 東チモールでは、70年代のポルトガルによる植民地政策の転換、インドネシアの併合決定以降、独立派と併合派との間での争いが続いていたが、1月のインドネシア政府による新提案を受け、5月にはインドネシア、ポルトガル、国連の間で、拡大自治案受入れに関し東チモール人による直接投票を8月に行うことが合意された。また、この直接投票を実施するため、国連東チモール・ミッション(UNAMET)が設立され、日本からも文民警察要員が派遣された。直接投票は8月30日、おおむね平穏裡に実施され、8割近くが分離・独立を選択したとの結果が9月4日に発表された。
 しかし、結果発表直後から、この結果を不満とする勢力による暴力行為が激化、東チモールの治安は極度に悪化した。これに対するインドネシア政府の対応も功を奏さず、インドネシア政府は最終的に国際的な平和維持部隊を受け入れることを発表した。そして安保理決議1264により設立を認められた多国籍軍が現地に展開し、治安回復にあたることとなった。日本は開発途上国からの多国籍軍への参加を支援するため1億ドルを拠出し、国際的に高く評価された。
 治安悪化に伴い多数の避難民も発生した。これに対しては、国際機関等により生活環境改善や帰還促進にむけての取組が行われ、99年末までには、西チモールを始めとする周辺地域に避難した約25万人のうち、およそ半数が東チモールに帰還した。日本は、西チモールに所在する東チモール避難民のための援助物資を輸送するため、自衛隊部隊を派遣した。
 直接投票で独立を求める民意が示されたのを受け、10月には安保理決議1272により、独立までの東チモールの統治を担う国連東チモール暫定行政機構(UNTAET)が設立された。このUNTAETの下で東チモールは独立に向けた国造りを進めていくこととなるが、騒乱による荒廃からの復興には東チモール人の和解と自助努力そして国際社会からの支援が必要とされている。12月には、東京で、東チモールの復興・開発への国際的な支援の在り方を話し合うため、東チモール支援国会合が世界銀行と国連を共同議長として開催され、今後3年間で総額5億2000万ドルを超える支援が表明された。
 日本は、東チモール問題の解決のためにできる限りの支援を行うとの方針の下、資金面、物資面、人的側面それぞれでの支援を行ってきている(次頁の図表参照)。99年12月末現在、日本はUNTAETに対し国際平和協力法に基づく要員の派遣は行っていないが、高橋昭・人道支援・緊急復興担当事務総長副特別代表を始めとする邦人職員が採用されている。

(2)コソヴォ

 98年2月にアルバニア系住民とユーゴ当局との戦闘に発展したコソヴォ紛争は、いったんは停戦が実現したものの、同年末には戦闘が再燃した。
 2月、コンタクト・グループ(米、英、独、仏、伊、露で構成)は両当事者を召集し和平合意案を提示、受入れを求めた(ランブイエ和平交渉、パリ和平交渉)。この交渉においてアルバニア系住民は和平合意案に署名したが、ユーゴ当局側は最後まで受入れを拒否した。
 このような状況の中、コソヴォでは戦闘が激化し、ユーゴ軍・治安部隊も増強され、更なる難民・避難民の発生が必至となる事態に至り、3月24日、北大西洋条約機構(NATO)はユーゴに対する空爆に踏み切った。その後、ユーゴ軍・治安部隊はコソヴォへの大規模かつ組織的攻撃を開始し、80万人以上の難民が隣接するマケドニア、アルバニアへ流出した。日本は、NATOによる空爆については、これを更なる犠牲者の増加という人道上の惨劇を防止するためにやむを得ずとられた措置であったと理解しているとの立場を表明した。また、このようなコソヴォ情勢の展開も契機となり、いわゆる「人道的介入」の問題について、国連で議論が行われるなど国際社会の関心が高まった。
 空爆は3か月続いたが、その間も国際社会はG8を中心に政治解決への道を模索した。解決策の策定は難航したが、5月6日にドイツで開催されたG8緊急外相会合では、高村外務大臣を含むG8の外相が政治解決のための原則につき合意し、問題解決へ向けての国際社会の基本姿勢が固まった。この原則を基に、米・露・欧州連合(EU)の和平案が作成され、6月3日、ミロシェヴィッチ・ユーゴ大統領は和平案の受入れを表明し、10日にはユーゴ軍・治安部隊の撤退が始まった。これを受け、同日に国連安保理決議1244が採択され、またNATOの空爆の一時停止が発表された(空爆は、6月20日に正式に終了)。
 なお、空爆中の5月27日、旧ユーゴ国際刑事裁判所は、「1999年初頭からコソヴォで犯された人道に対する罪(特に殺人、追放、迫害)及び戦争の法規又は慣例に反する罪」の容疑で、ミロシェヴィッチ・ユーゴ大統領等のユーゴ政権及び軍幹部5名を起訴した。
 国連安保理決議1244は、コソヴォの平和維持にあたる国際安全保障部隊(KFOR)と民生部門の和平履行を行う国連コソヴォ暫定行政ミッション(UNMIK)の設立につき規定しており、両者は6月より活動を開始した。UNMIKの長にはベルナール・クシュネール仏保健相(閣外相)が就任した。
 ユーゴ軍・治安部隊の撤退とKFORの展開により、コソヴォの戦闘は終結し、9月20日にはコソヴォ解放軍(KLA:アルバニア系住民の武装組織)の文民組織への改組につき合意が成立するなど、治安状況は改善され、周辺国に流出していた難民の帰還も急速に進んだ。一方地方によっては、アルバニア系住民によるセルビア系住民等に対する殺害、誘拐、家屋への放火等が発生しており、約24万人のセルビア系住民等がコソヴォから流出した。
 UNMIKによる民生部門の和平履行については、12月15日に共同暫定統治機構に関する合意をアルバニア系住民との間で締結するなどの成果も見られるが、セルビア系住民の同機構への参加問題など、今後克服すべき課題は多い。
 コソヴォの和平履行における国際社会の目標は、あらゆる民族が平和に生活できる民主的な社会を構築することにある。日本も国際社会の一員としてこのような目標を達成するため、これまで周辺諸国に対する支援を含め、総額2億3700万ドルの人道支援・復興支援の実施やUNMIKに対する政務官の派遣といった人的貢献を通じ和平履行に協力している。

(3)北朝鮮

[日本の対北朝鮮政策/日朝関係]

 日本は、様々な機会に、対北朝鮮政策の基本方針が、韓米両国との緊密な連携の下、北東アジア地域の平和と安定に資するような形で第2次世界大戦後の正常でない日朝関係を正すよう努力していくことであること、及び政策の遂行に当たっては対話と抑止のバランスをとって対応する考えであることを明らかにしてきた。
 日朝関係は、特に98年8月の北朝鮮による弾道ミサイル発射以来急速に冷却化したが、1月、政府は、北朝鮮がミサイル発射や秘密核施設疑惑をめぐる国際的な懸念の解消並びに拉致疑惑を始めとする日朝間の諸懸案の解決に建設的な対応を示すのであれば、対話と交流を通じ関係改善を図る用意がある旨呼びかけた。そのような中で3月に能登半島沖で発生した北朝鮮当局の工作船の侵入事件は、日朝関係に水を差すものであった。
 その後北朝鮮は、8月、対日関係に関する「政府声明」を発出し、「日本が過去の清算を通じた善隣関係の樹立の方向へと進むなら、それに喜んで応じる」との立場を示し、日本に対して関係改善を呼びかけたとも受け取れる姿勢を示した。
 また、この時期、北朝鮮によるミサイル再発射の可能性が広く報じられるようになり、日本国内では、再発射の場合に北朝鮮に対してどのような措置を取るべきかについて様々な議論がなされたが、9月に米朝協議の結果を受けて、北朝鮮が米国との高官協議が続いている間はミサイルを発射しない旨発表したため、その後北朝鮮への対応をめぐる議論は沈静化した。
 このような状況の下、12月初め、村山富市元総理大臣を団長とする日本国政党代表訪朝団は、「政党間の協議を通じ、政府間の日朝国交正常化交渉を円滑に行うための環境整備」を目的として北朝鮮を訪問し、成果を上げた。政府は、この訪朝団により対話の環境が整備されたことを日朝対話を進めるための好機と捉え、98年のミサイル発射を踏まえて取ってきた国交正常化交渉の再開及び食糧等の支援を当面見合わせるとの措置を解除した。また、この訪朝団の結果を受けて、12月後半、北京で日朝赤十字会談及び日朝国交正常化交渉再開のための予備会談が行われた。赤十字会談では、拉致問題に関し、日本人「行方不明者」につき北朝鮮側がしっかりとした調査を行うために当該機関に依頼することや日本政府が食糧支援問題について検討することなどを確認した共同発表が発出された。また、国交正常化交渉再開のための予備会談では、交渉再開に向けた実務問題につき議論するとともに、日本側より、日本人拉致問題やミサイル、核問題についての立場を率直に表明した。

[南北関係]

 韓国政府は、確固たる安保体制を敷きつつ南北間の和解・交流を積極的に進めるとの内容の「包容政策」を引き続き遂行した。
 6月初め、南北間で、南北次官級当局会談の開催及び韓国による20万トンの対北朝鮮肥料支援が合意された。しかし、6月中旬に黄海において、北朝鮮の警備艇が「北方限界線」(韓国漁船等が北朝鮮水域に過度に接近するのを防止するために国連軍が設定している線)を越境してきて、韓国海軍との間で銃撃戦が行われる事件が発生したこともあり、6月下旬に始まった南北次官級当局会談では進展は見られなかった。
 一方、韓国の民間企業と北朝鮮との交流は非常に活発であった。98年後半に始まった金剛山(クムガンサン)観光事業も、韓国人拘束事件などがあったものの、全般的には着実に進んだ。

[米朝関係]

 98年夏、北朝鮮がクムチャンニの施設で秘密裡に核兵器を開発しているとの疑惑が浮上したが、米朝間の協議の結果、米国の専門家がこの施設を訪問し、6月、米国は、この施設は「合意された枠組み」に違反していないとの報告を発表した。また、9月の米朝協議の結果、米国が対北朝鮮制裁の一部緩和を発表すると、北朝鮮は米朝高官協議が続いている間はミサイルを発射しない旨発表するなど、米朝関係は前向きな展開を見せた。
 10月、ペリー北朝鮮政策調整官は、米国の対北朝鮮政策の見直しの結果を報告書の形で発表した。これは、実質的には日米韓が緊密に協議しつつ共同で作成したものであり、まず日米韓及び北朝鮮が互いに相手方が認識するところの脅威を削減し合う道に進み、仮に北朝鮮が挑発的行動に出る場合には、日米韓は脅威を封じ込め、強制的に抑止を図る道に移行するという政策を提唱したものである。ペリー報告は拉致問題等の日本の関心も適切に取り上げており、日本として同報告に対し支持を表明した。

[KEDO]

 日本は、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が北朝鮮の核兵器開発を阻むための最も現実的かつ効果的な枠組みであり、日本の安全保障に密接に関わるとの認識の下、5月、KEDOとの間で軽水炉プロジェクトへの資金供与に関する協定に署名し、6月末、この協定の締結が国会において承認された。12月には、KEDOと韓国電力公社との間で軽水炉建設を請け負わせるための主契約が署名された。

(4)アジア及び世界の経済

[アジア経済情勢]

 97年7月のタイ・バーツ下落に端を発した東アジアの通貨・金融危機は、98年に入り、景気の後退、貿易の停滞、失業者の増大等実体経済に打撃を与えるとともに、当初影響が小さかったフィリピン、マレイシア、ヴィエトナム等、他のアジア諸国・地域に伝播し、世界経済にも影響を及ぼした。
 99年に入ると、各国の状況に違いはあるものの、通貨の安定、生産の回復、輸出入の回復、外貨準備高の増加、株価の回復等、アジア経済にようやく回復の兆しが見られ始めるようになった。アジア諸国の実質GDP成長率は前年同期比でプラスに転じ、従来の経済成長見通しは軒並み上方修正された。
 通貨・金融危機の影響を大きく受けた国の経済を見ると、韓国は、国際通貨基金(IMF)による管理体制の下で、政府機構の縮小改編、労働市場の改革、金融システムの改革、財政改革等の経済構造改革を推進し、民間消費など内需回復及び在庫調整並びに輸出増加による製造業及びサービス業の回復に牽引され、第4四半期には実質GDP成長率は13.6%、通年では当初予想を上回る10.2%を記録し、危機発生から増加傾向にあった失業率は2月の8.6%をピークとし12月現在で4.8%と大幅に改善した。インドネシアは、為替レート及び物価上昇に落ち着きが見られ始め、第2四半期より実質GDP成長率はプラスに転じた。また、インドネシアでは、一時東チモール問題や銀行不正融資疑惑といった問題が国際的注目を浴びたが、10月に発足したアブドゥルラフマン・ワヒッド新政権は金融再編及び政治・治安の安定を優先し、インドネシアへの資金の流れに弾みをつけるべく努力している。タイは、IMFとの合意事項を着実に実施することにより市場から一定の信認を獲得した。また、当初の引締め政策から景気刺激策に重点を移し、金融システム再建とともに実体経済の回復に努めている。為替の安定、インフレの収束、金利の低下、鉱工業生産指数の対前年比プラス化等をもって景気は底を打ち回復基調に入ったとの見方が広がっている。
 このようにアジア経済が危機から回復へと転じるにあたっては、各国の改革努力とともに東アジアを取り巻く国際社会の支援が大きな役割を果たしたと言える。日本は、危機発生直後よりアジア諸国を積極的に支援した。具体的には、新宮澤構想や特別円借款など世界最大規模の総額約800億ドルの支援を表明し、これを着実に実施しており、アジア各国からも高い評価を受けている。
 また、アジア経済に回復の動きが広がる中、日本は小渕総理大臣の指示により、日本の支援策を検証すること、通貨・金融危機の教訓を踏まえて、21世紀のアジアの繁栄のためにアジアが取り組むべき課題と日本の役割が何であるかを見極めることなどを目的として、奥田碩日経連会長を団長とする民間有識者による「アジア経済再生ミッション」を8月末から9月上旬にかけて、アジア通貨・金融危機により大きな影響を受けた韓国、ヴィエトナム、タイ、マレイシア、インドネシア、フィリピンの6か国へ派遣し、政府の首脳、主要閣僚、経済界の指導者、日本の進出企業の関係者等と意見交換を行った。
 同ミッションは、11月に「21世紀のアジアと共生する日本を目指して」と題した報告書を小渕総理大臣へ提出した。同報告書は、21世紀のアジアの繁栄に向けて日本が何をすべきかを念頭に、ヒト、モノ、カネ、情報の分野で30の提言を盛り込み、特にヒトの分野、すなわち人材育成及び人材交流の強化に大きな焦点を当てている。また、アジア諸国との真のパートナーシップの構築のためには、日本がアジア、更には世界に一層開かれた社会となるべきことを提唱している。
 この報告書も踏まえ、また、中長期的な経済の安定的発展を確固たるものにする必要があるとの観点から、日本は、11月末のASEAN+3(日中韓)首脳会議において「東アジアの人材の育成と交流の強化のためのプラン」(「小渕プラン」)を発表し、今後より専門性の高い人材育成、市民レベルの人材育成、留学生交流の支援の各々の強化・拡充を柱としてヒトを重視した協力を行っていくことを表明した。
 通貨・金融危機の教訓を踏まえ、アジアの中長期的な経済の安定的発展を確固たるものにするために、アジア諸国は高い貯蓄率や人的資本の蓄積など、その良好な基礎条件を十分に活かしつつ、経済構造改革や地域協力に向けて努力を継続していく必要がある。また、アジア諸国の日本の役割に対する強い期待感に応えるためにも日本はアジアにおいて積極的にイニシアチブを発揮していく必要がある。

[世界経済情勢]

 99年の世界経済は、総じて緩やかながら回復に向かった年であった。米国の景気拡大は99年中も続き、世界経済の回復を下支えした。米国経済の長期にわたる安定的な景気拡大の背景には、生産性の向上、とりわけハイテク産業の生産性の伸びがあると言われており、注目を集めている。しかしながら、株価の水準については割高感も指摘されているなど、先行きには不透明感も見られ、米国経済の軟着陸が世界経済の重要な課題となっている。
 1月1日に単一通貨「ユーロ」の誕生を迎えたユーロ圏経済では、ユーロの減価などを背景に景気の改善が続いており、特に、欧州中央銀行(ECB)による初めての政策金利引下げが行われた4月以降、景気回復の動きは強まっている。今後はユーロの国際的な流通の動向のほか、ユーロ導入を機に本格化している欧州連合(EU)内での産業再編の動きや税制調和の問題、硬直性が指摘されている労働市場等をめぐる構造改革の動向などが注目される。
 新興市場諸国経済に目を転じても、97年のアジア通貨・金融危機以降、景気が大きく後退していた東アジア経済の回復の動きは、99年中に広がりを見せているほか、98年夏に金融危機に見舞われたロシアでも、99年に入り景気は底入れしたと見られるなど、全般に回復傾向にある。しかしながら、新興市場諸国への民間資本の流れは、回復を見せつつも、アジア通貨・金融危機前の水準の約半分ともされており、新興市場諸国への信頼回復の鍵を握ると見られる金融部門を始めとする構造改革の進捗状況等を引き続き注視する必要がある。
 また、98年夏のロシア金融危機等の影響から為替市場に動揺が生じていたブラジルにおいては、99年1月にミナス州政府の連邦債務の支払い延期(モラトリアム)宣言をきっかけに、通貨レアルが大幅に切り下げられ、同時に行われた政策金利の引上げなどの影響から成長率がマイナスに転じるということがあったものの、景気後退は年初の予想よりも軽度のものにとどまり、周辺諸国への影響も特に大きなものとはならなかった。
 97年のアジア通貨・金融危機以降、動揺が続いていた国際金融市場は、99年中に安定を取り戻したと言えるものの、一連の危機により露呈した国際通貨・金融システムの脆弱性は、今後も引き続き検討し、克服すべき課題である。6月のケルン・サミットにおけるG7首脳声明において、国際金融システムの強化に向けた枠組みが示されたが、日本としてもこうした取組に積極的に貢献した。また、金融分野にとどまらず、貿易、投資、開発等の関連分野における相互の関連性を十分に踏まえつつ、幅広い議論を展開していく必要がある。

(5)キルギス邦人誘拐事件

 8月23日未明(現地時間)、キルギス共和国南西部オシュ州で資源開発調査に従事していた国際協力事業団(JICA)の専門家4名(金属鉱業事業団より派遣)が、キルギス人通訳1名及びキルギス軍関係者2名と共に、タジキスタンより越境してきた武装勢力に誘拐される事件が発生した。犯行グループは、ウズベキスタンにおいて反政府活動を行っていたイスラム過激派勢力と見られている。キルギス政府を始めとする関係者の努力により、事件発生から64日後の10月25日、4名の専門家と通訳がタジキスタンとの国境地帯にあるキルギス領内のカラムイクで無事保護された。

[日本政府の対応]

 日本政府は、事件発生以来、(1)事件発生国であり、事件解決の第一義的責任を有するキルギス政府と緊密に連絡を保ちつつ、人質の早期無事解放に向けて努力する、(2)テロには屈せず、犯行グループによる不法な要求には「ノー・コンセッション(譲歩しない)の原則」に従って対処する、(3)タジキスタンやウズベキスタンなどの周辺国を含めて、関係国に対する協力要請を行うということを基本方針として対応を行った。
 初動体制としては、日本国内では事件発生直後に外務省のオペレーション・ルームに川島事務次官を本部長とする緊急対策本部を設置した。また、事件が発生した8月23日当日、キルギスを兼轄する三橋駐カザフスタン大使を直ちにキルギスの首都ビシュケクに派遣、同大使を本部長とする現地対策本部を設置し、更に隣国タジキスタンの首都ドゥシャンベにも本事件に対応するための拠点を設けた。外務省及び現地の対策本部等は、事件発生以来、24時間体制で現地情勢の把握、情報収集と分析等にあたるとともに、関係方面と緊密に連携を取り、本事件の早期解決に取り組んだ。
 キルギス政府との関係では、小渕総理大臣は、事件発生直後の8月24日及び9月24日にアカーエフ大統領と電話会談を行い、さらに、10月13日には総理メッセージを改めて発出するなど首脳レベルで人質全員の早期無事解放について積極的な働きかけを行った。
 また、キルギス以外の関係国との間でも、小渕総理大臣は、8月29日付けで、ラフモノフ・タジキスタン大統領及びカリーモフ・ウズベキスタン大統領に対して、人質の早期無事解放のための協力を要請すべくメッセージを発出したほか、アジア太平洋経済協力(APEC)非公式首脳会議の際、プーチン・ロシア首相に対して、情報提供等について協力を要請した。さらに、本事件発生直前にカザフスタンを訪問中であり、引き続きタジキスタンの訪問を予定していた武見外務政務次官は、8月23日、カザフスタン大統領、24日、タジキスタン大統領及びヌリ・タジキスタン国民和解委員会議長と会談し同様の協力を要請した。

[人質の解放に向けての経緯]

 今回の誘拐事件においては、キルギス政府が第一義的な責任を有する当事者として交渉に当たった。キルギス政府は、対ゲリラ作戦を実施していく中で、軍事的圧力による犯行グループの弱体化を図るとともに、民間人やタジキスタン側関係者も含めた様々なルートを通じて犯行グループとの接触を重ね、犯行グループにとって行動が困難になる冬の到来を背景とする中で軍事面等の圧力を強めた結果、人質の解放に至った。

[教訓と課題]

 外務省は、人質解放後、この事件についての問題究明及び教訓を総括するため、(1)誘拐事件発生の背景、(2)誘拐直前の状況、(3)解放に至るまでの対応、(4)今後の取組の観点から内部での調査を行い調査報告書を発表した。
 同報告書では、今後の取組について、経済協力実施上の安全対策、さらには在外邦人保護の面での安全対策を一層強化することが緊急の課題であるとし、援助実施機関との間で安全対策タスクフォースを組織し援助関係者の安全対策につき再検討を行うこと、また、国境にとらわれず、地域全体として情報収集・分析等を行う必要性も踏まえ、日本大使館が現地に存在しない被兼轄国を含めて情報収集・分析や情報提供等の体制強化・整備を図ることなどを指摘している。

(6)その他の動き

 99年のその他の動きとしては、チェチェン情勢、中東和平問題、インド・パキスタン情勢が注目された。

[チェチェン]

 8月のチェチェンの武装勢力によるダゲスタン共和国侵入を契機としてロシア連邦軍とチェチェン側武装勢力との紛争が再燃した。ロシア政府は、今回の軍事行動は、「テロリズムに対する戦い」であるとの立場であるが、チェチェンにおける戦闘が激化し、大量の避難民が発生するにつれ、欧米諸国を中心に、ロシアが過大な軍事力を行使しているなどとして非難し、ロシアに対し、早期停戦と政治的解決の必要性を訴える声が高まった。

[中東和平]

 7月のイスラエルにおけるバラック政権の成立後、直ちに同政権は和平プロセスへの取組を始め、9月には、パレスチナとの間で、98年10月のワイ・リバー合意の実施やパレスチナの最終的地位交渉のスケジュール等を定めたシャルム・エル・シェイク合意が達成された。また、12月には米国の仲介により、イスラエル・シリア交渉が約4年振りに再開し、バラック首相とシャラ・シリア外相との間で、両国間では初の直接交渉が行われた。

[インド・パキスタン]

 98年5月のインド、パキスタンによる核実験により高まった両国の緊張関係は、インド首相による10年振りのパキスタン公式訪問(2月)などにより緩和に向かっていたが、両国によるミサイル発射実験(4月)、カシミールでのパキスタンから侵入した武装勢力とインド軍との戦闘(5月)により再び緊張が高まった。10月のパキスタンでの軍事クーデターの発生は、パキスタン情勢を一層不透明とした。また、12月のインディアン航空機ハイジャック事件をめぐっても、両国が互いに非難を行うなど、両国間の緊張が高まった。

   3.米国及び近隣諸国との関係
(1)日米関係

[総論]

 新しい日米防衛協力の指針関連法の成立を始めとする日米安保体制の進展、及び日本経済の着実な回復を背景に、99年の日米関係は極めて良好に推移し、安全保障から経済、地球規模問題まで幅広い分野で日米間の協力が進展した。
 とりわけ注目すべきは、日本の総理大臣としては12年振りの公式訪問となった、4月末から5月初めにかけての小渕総理大臣の米国訪問であった。その際のクリントン大統領との首脳会談においては、自由、民主主義、人権の尊重といった価値を共有する同盟国たる日米両国が、21世紀に向けて平和で豊かな世界の構築という共通の目標を目指して一層協力していくことが両首脳間で確認された。また小渕総理大臣は、米国民との交流を深めるためにロサンゼルス及びシカゴを訪問し、アジア太平洋における日米の協力や日米関係の展望に関するスピーチを行ったほか、シカゴ大学の学生や、日本滞在経験を有する米国人青年等とも懇談し、日米関係の裾野の拡大を図った。
 成功裡に終わった小渕総理大臣の米国訪問の後も、6月のケルン・サミットにおける日米首脳会談、9月のアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議における日米韓3国首脳会談等を通じて、朝鮮半島情勢等に関する両国間の緊密な協力が首脳レベルで確認された。また、両国外相間では頻繁かつ緊密な意見交換が行われ、高村外務大臣が6月から9月にかけて、国際会議の機会を利用して4度にわたってオルブライト国務長官と会談を行い、日米関係からアジア、中東等の主要地域情勢に至るまで幅広い意見交換を行った。また、10月に就任した河野外務大臣は、就任直後にオルブライト国務長官と電話会談を行ったほか、11月末には、世界貿易機関(WTO)シアトル閣僚会議の機会に日米外相会談を行い、今後の幅広い分野における協力について確認した。
 また、99年を通じ、ハスタート連邦下院議長を始めとする連邦議員や米国州知事が多数日本を訪れ、両国間の幅広い交流及び相互理解の進展につながった。

[日米経済関係]

 99年には、経済再生に向けた日本の積極的な取組に対する米国の理解と評価が次第に高まったが、日本経済が厳しい状況をなお脱しなかったことから、早期の景気回復への米国の関心は依然として強かった。また、日本経済の回復が内需主導で実現することを重視し、日本における一層の規制緩和や市場開放を引き続き強く期待した。
 米国政府は3月に大統領令により74年通商法301条の特別手続(いわゆるスーパー301条)及び政府調達に関するタイトルVIIを復活させ、これらのもとで日本については保険、板ガラス、建設等が懸念の対象(いわゆる監視対象)として言及されたが、優先外国慣行としての特定はなかった。
 5月の小渕総理大臣による米国訪問の際、経済分野では、日米規制緩和対話の2年目の成果として第2回共同現状報告が発表され、引き続き3年目の対話を行うことが確認された。また、日米包括協議/投資・企業間関係作業部会報告書も発表され、さらに、日米両国の競争当局間の協力等を定めた日米独禁協力協定についても実質合意に至った。日米独禁協力協定は、10月に両国政府間で締結された。
 前年に引き続き、99年も日本からの鉄鋼輸入に対するアンチダンピング提訴が多数行われた。熱延鋼板等についてアンチダンピング税賦課を認める決定が下され、冷延鋼板等について調査手続が進められた。また、線材等については74年通商法201条(緊急輸入制限)手続が進められた。熱延鋼板のアンチダンピング措置については、WTO紛争処理手続に従い、11月に二国間協議を要請した。米国議会では米政府の措置を不十分として鉄鋼の輸入制限を求める法案等が多数提出された。なお、米側の要望を受け、日米政府間で日米鉄鋼対話を開催することとなった。

[拡大する日米協力]

 93年に発足した「地球的展望に立った協力のための共通課題(日米コモン・アジェンダ)」の枠組みの下で、日米両国は、「保健と人間開発の促進」、「人類社会の安定に対する挑戦への対応」、「地球環境の保護」及び「科学技術の進歩」という四つの柱、18分野で様々なプロジェクトを推進してきた。4月にワシントンにおいて、第9回次官級全体会合が開催され、その時々の緊要な課題にアクセントをおいた取組が必要であるという認識に基づき、当面、アジア通貨・金融危機に派生した経済的・社会的諸問題に対し、社会的弱者救済といった面から日米共同で取り組んでいくことで意見が一致し、具体的なプロジェクトに取り組むこととなった。また、3月には途上国の女性支援をテーマに第1回日米コモン・アジェンダ・セミナーが、日米政府関係者に加え、主に両国の非政府組織(NGO)の参加を得て開催された。
 96年2月に発足した「コモン・アジェンダ円卓会議」(会長:平岩外四経団連名誉会長)は定期会合を開催し、地球規模の様々な問題について討議し、日米両国政府に対し助言と指針を与えてきており、また最近では日本のNGOとの連絡協議会を開催するなど、NGOとの連携にも積極的に取り組んでいる。
 日米両国は国際社会の主要課題について、99年を通じて積極的な協力を行ってきた。5月の小渕総理大臣の米国訪問の際には、アジアの社会的弱者救済や地球規模問題等に関する日米協力が確認されたほか、コンピューター2000年(Y2K)問題についての日米協力に関する声明等が発表された。また世界の安定と平和に貢献するとの観点から、日米両国は、朝鮮半島情勢、とりわけ朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)に対する協力、コソヴォ問題への対応、対ジョルダン支援等につき緊密な協力を行った。

[今後の展望と課題]

 小渕総理大臣の米国公式訪問を通じて確認されたように、世界の平和と繁栄のために日米両国が一層の協力を行うことは、引き続き両国の重要な課題となっている。日米両国は価値を共有する同盟国として強固な二国間関係を築き上げてきた。こうした両国の関係は、国民レベルの相互理解と信頼関係に支えられるものであり、日米両国の国民同士、特に青年層が、今後ともあらゆる分野において一層交流を進め、相互理解を深めていくことが、日米協力関係を更に進展させるためにますます重要となっている。

(2)日韓関係

[未来志向の日韓関係の進展]

 98年10月の金大中(キム・デジュン)大統領による日本訪問を通じて、日韓両国は過去に区切りをつけ、名実共に「近くて近い国」として未来志向の関係を築いてきた。3月には小渕総理大臣が韓国を訪問し、金大中大統領と首脳会談を行うとともに高麗大学において政策演説を行った。首脳会談では、98年に署名された「日韓共同宣言―21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」及び附属の行動計画の着実な実施が確認されたほか、日韓経済関係の一層の緊密化を図るため、「日韓経済アジェンダ21」が発表された。この首脳会談においては過去の問題は取り上げられず、日韓関係が新しい時代に入ったことが印象づけられた。また、金大中大統領の下で韓国での日本文化の開放が進み、これまで制限されていた日本映画の上映や歌謡曲の公演等が大幅に解禁された。
 このほかにも99年には、間断なき政治対話の一環として、日韓共同宣言にのっとり首脳・閣僚間の相互往来が多く行われた。10月には第2回日韓閣僚懇談会が韓国の済州島において開催され、多くの閣僚が参加して忌憚ない意見交換を行うなど、頻繁な交流を通じ緊密な友好協力関係が更に推進された。
 10月の閣僚懇談会では、日韓両国がワールドカップを共催する2002年を「日韓国民交流年」とし、各般の分野にわたる全面的な交流事業を促進していくことが合意された。このように、官民問わず国民各層での交流を深めることにより、21世紀に向けて日韓両国間の信頼の基盤がより強固に構築されていくことが期待される。
 なお、日韓関係の諸懸案の一つとして竹島をめぐる領有権の問題があるが、竹島については、これが歴史的事実に照らしても、かつ、国際法上も明らかに日本固有の領土であるとの日本の立場は一貫しており、今後とも両国間で粘り強く話し合いを積み重ねていく方針である。

[日韓経済関係]

 日韓両国は、金大中大統領の日本訪問と小渕総理大臣の韓国訪問を通じて、両国経済関係を21世紀に向けて更に高い次元のものとするため、貿易・投資等の促進に努力していくこととした。3月の小渕総理大臣の韓国訪問時に両国首脳によって発表された「日韓経済アジェンダ21」では、日韓間の包括的な投資ルールを定める日韓投資協定の早期締結に向けて交渉を行うことで意見が一致し、2月及び4月に開催された予備的協議を経て、9月末に本協議が開催された。また、98年に引き続き、日韓の投資を活発化するための取組として、12月に韓国の産業資源部長官や経済人が日本を訪れ、官民合同の投資促進協議会が開催された。
 そのほか、両国間における製品又はサービスの利用、貿易の円滑化を図るため、基準認証分野での協力として、相互承認分野での協力及び標準分野の協力についての情報交換を進めている。また、6月には実質的な対日本輸入規制措置であった輸入多角化品目制度が完全撤廃されるなど、日韓両国の一層の経済関係進展に向けた取組がなされている。

[新しい日韓漁業協定]

 新しい日韓漁業協定は1月に批准書が交換され発効した。新協定の発効により日韓漁業関係は新しい時代に入ったが、新協定の下での更なる協力関係の構築に向けて努力が続けられている。
 新協定は、両国が自国の排他的経済水域における資源状況等を考慮して相手国漁船に対する漁獲割当量その他の操業条件を毎年決定することとしており、12月28日に開催された日韓漁業共同委員会において2000年の双方の排他的経済水域における操業条件等について妥結に至った。

(3)日中関係

[総論]

 日中関係は、最も重要な二国間関係の一つである。日中関係の一層の発展は、アジア太平洋地域はもちろん、世界の平和と繁栄にとって極めて重要な意義を持つ。日本としては、あらゆるレベルでの交流と協力の拡大を通じ、中国が国際社会におけるより一層建設的なパートナーとしての役割を果たすことを期待している。
 98年11月に中国の国家元首としては初めて、江沢民国家主席が日本を訪問したことを通じて新たな段階に入った日中関係を一層促進するため、7月、小渕総理大臣が中国を訪問し、江沢民国家主席、朱鎔基総理、李鵬全人代常務委員会委員長等と会見した。中国の世界貿易機関(WTO)加盟に関する二国間交渉が実質的に妥結したほか、2000年の朱鎔基総理の日本訪問や21世紀に向けて33項目の具体的な協力を一層進めていくことで一致するなど、新世紀への「かけはし」となる訪問となった。この際、中国に対して日本の民間団体等が実施している植林・緑化運動への支援策として、小渕総理大臣は100億円規模の基金(いわゆる「小渕基金」)の設立を提案し、11月にはこの構想を具体化するための交換公文が日中間で取り交わされた。
 江沢民国家主席の日本訪問時に日本に贈られたトキの二世が5月に誕生し、日本の小学生からの公募に基づき「優優(ゆうゆう)」と命名された。同じく江沢民国家主席の日本訪問時に一致をみた「青少年交流のための協力計画」事業の一環として、8月に中国高校生訪日団一行100名が日本を訪問し、10月には日本の高校生を含む青少年100名が中国を訪問した。また、99年は日中文化交流協定締結20周年にあたり、「1999年日中文化友好年」と銘打った様々な文化交流事業が実施された。
 また、12月には、李瑞環中国人民政治協商会議全国委員会主席が日本を訪問し、未来志向の友好協力パートナーシップを一層深めることができた。
 このほかにも両国間では、趙啓正国務院新聞弁公室主任(1月)、孫家正文化部長(5月)、賈春旺公安部長(9月)、陳至立教育部長(10月)等が日本を訪問した。日本からは、川崎運輸大臣(4月)、斎藤参議院議長(5月)、野田郵政大臣(9月)、野田国家公安委員長(9月)が中国を訪問したほか、自由党(3月)、民主党(5月)、社民党(10月)、自由民主党(11月)、公明党(11月)等主要政党の代表団が相次いで中国を訪問するなど活発な交流が行われた。

[日中経済関係]

 日中間の貿易総額は99年には7兆5328億円に達し、対前年比1%増加した。近年来、日本は中国にとって第1位の貿易相手国、中国は日本にとって第2位の貿易相手国となっており、貿易における相互依存関係が高まっている。なお、貿易収支では88年以来、日本の入超が続いており、99年の入超額は2兆2180億円であった。
 一方、対中直接投資は95年6月の「外資導入ガイドライン」の公表により一部業種の投資が制限されたことや、外資優遇政策の見直しなどにより新規の契約は伸び悩み、99年度上半期の新規契約件数は35件、353億円と前年度同期比の41.2%減となった。
 多角的貿易体制の強化、中国の改革開放政策の一層の促進、中国を国際社会のより一層建設的なパートナーとするとの観点から、日本は中国の世界貿易機関(WTO)への早期加盟実現を支持してきた。日本は7月の小渕総理大臣の中国訪問の際に、中国との二国間交渉の実質妥結を達成し、加盟交渉の進展に貢献した。
 漁業分野では、97年11月に署名された新たな日中漁業協定について、その早期発効を目指し、99年も引き続き両国間で精力的に協議が行われた(2000年2月、玉沢農林水産大臣と陳耀邦農業部長との間で行われた閣僚級協議の結果を踏まえ、3月31日に公文の交換を行い、同協定は6月1日に発効することが決定した)。

[台湾との関係]

 日中共同声明第3項において、日本政府としては「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部である」との「中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重」する旨明らかにしている。日本と台湾の関係については、この72年の日中共同声明に基づき非政府間の実務関係として民間の地域的な往来を維持してきている。
 また、両岸関係に関しては、日本としては台湾をめぐる問題が当事者間の直接の話し合いを通じて平和的に解決されることを強く希望するとの立場であり、その旨繰り返し表明してきている。
 9月21日に発生した台湾の大地震については、同日のうちに国際緊急援助隊の派遣と50万ドルの緊急無償援助を決定したほか、テント、発電機等約2980万円の緊急援助物資を供与し、仮設住宅1000戸を緊急無償援助により提供した。その後も、復興のノウハウの提供、台湾にて救援活動を行う日本の非政府組織(NGO)に対する資金援助等、先方のニーズに合わせ支援している。台湾地震に対する日本の支援は大規模かつきめ細かなものとなり、台湾現地においても大々的に報じられ、当局及び多くの住民・被災者から感謝の意が表明された。

(4)日・ASEAN関係及び東アジアにおける地域協力

[東南アジア諸国連合(ASEAN)との関係]

 ASEAN諸国は97年に発生した通貨・金融危機によって深刻な影響を受けたものの、国際社会の支援と各国の改革努力によって、99年を通して経済は回復基調を示した(詳細は本章2.(4)参照)。また、ASEANについては、4月にはカンボディアの加盟によって67年の設立以来の念願である「ASEAN10」が実現した。日本は99年を通じ、このような動きを示したASEANとの間で、通貨・金融危機後を見据え、21世紀に向けた新たなパートナーシップの構築に努めた。
 まず、7月にシンガポールで開催されたASEAN拡大外相会議では、高村外務大臣がASEAN10と対話国10か国との間の全体会合において、リード・スピーカーとして演説し、ASEAN10実現の歴史的意義とアジアの安定確保に持つ意味を強調するとともに、ASEAN各国に対して改革努力の重要性に言及しつつ日本のアジア経済再生に向けての積極的な姿勢をアピールした。また、続いて行われた日・ASEAN外相会議で、日本はASEAN10をアジアの平和のパートナーとして位置づけ、ASEANと共にアジアの平和構築に向けた決意として「アジアの平和へのコミットメント」を表明するとともに、回復基調にあるASEAN経済が本格的再生を果たすための「モノ作りのためのフロンティア・スピリット」と「情報ネットワーク構築と情報技術開発のためのフロンティア・スピリット」を提唱し、ASEAN各国から賛同を得た。
 11月末にマニラで行われたASEAN+3(日中韓)首脳会議に出席した小渕総理大臣は、8月末から9月上旬に派遣されたアジア経済再生ミッションの報告書を受け、「東アジアの人材の育成と交流の強化のためのプラン」を表明し、議長であったエストラーダ・フィリピン大統領より「小渕プラン」と名付けられるなど、ASEAN各国の首脳から高い評価を受けた。また、続いて行われた日・ASEAN首脳会議では、小渕総理大臣より、ASEAN10を実現したASEANがASEAN自由貿易地域(AFTA)等の域内協力を推進し、アジアの平和と繁栄に貢献する協力体として発展するため、日本として積極的に支援することを表明し、特にASEAN新規加盟国支援を始めとしたASEANの域内経済格差是正のための協力を発表した。
 さらに、98年末にハノイで行われた日・ASEAN首脳会議で小渕総理大臣が表明した日・ASEAN間の賢人会議である「ビジョン2020日・ASEAN協議会」(日本側議長:小和田恆日本国際問題研究所理事長)については、10月にヴィエトナムで第1回会合が開催され、21世紀を見据えた日・ASEAN間の協力関係の在り方等について活発な意見交換が行われた。右協議会は、更に2回の会合を経て2000年末にシンガポールで行われる日・ASEAN首脳会議で提言を出すことになっており、大局的かつ幅広い見地から中長期的な日・ASEAN協力関係の在り方などを議論する場として、その成果が期待される。

[ASEAN各国との関係]

 また、ASEAN各国との間での要人往来も活発に行われ、日本側からは、11月に小渕総理大臣がマニラでのASEAN+3(日中韓)首脳会議に先立ってインドネシアを訪問したほか、7月に高村外務大臣がシンガポールでのASEAN拡大外相会議に出席後、インドネシアを訪問した。
 これに対しASEAN諸国からは、カンボディアのフン・セン首相(2月)、ヴィエトナムのファン・バン・カイ首相(3月)、フィリピンのエストラーダ大統領(6月)、マレイシアのマハディール首相(6月)、タイのチュアン首相(10月)、インドネシアのアブドゥルラフマン・ワヒッド大統領(11月)、シンガポールのゴー・チョクトン首相(12月)が日本を訪問した。99年は、このほかにも、民間を含む幅広い交流が行われ、日本とASEAN各国との関係を更に強化するものとなった。
 各種国際会議の場でも首脳・外相レベルでの対話がASEAN各国との間で行われた。特に、ASEAN+3(日中韓)首脳会議の際には、日・ミャンマー首脳会談が15年ぶりに行われ、小渕総理大臣よりタン・シュエ国家平和開発評議会議長に対し、ミャンマーの民主化を働きかけるとともに、ミャンマーの経済改革に協力する意向を表明した。

[東アジアにおける地域協力]

 通貨・金融危機が各国に伝播し、その影響が東アジア全体に広がったことで、東アジア諸国は互いの間に存在する相互依存関係を強く認識するに至ったが、そうした通貨・金融危機の教訓を踏まえ、それら諸国の間で東アジアにおける地域協力を強化する気運が高まった。
 そうした気運の高まりを受け、11月末のマニラでのASEAN+3(日中韓)首脳会議において、東アジア諸国が経済、通貨・金融、社会開発・人材育成、科学・技術開発、文化・情報、開発協力、政治・安全保障、国境を跨ぐ問題といった幅広い分野で地域協力を推進していく決意を謳う「東アジアにおける協力に関する共同声明」が同首脳会議の枠組みで初の共同声明として採択された。今後はこの共同声明を着実に実施していくことが重要であり、日本の提案により、2000年7月のバンコクでのASEAN拡大外相会議の際に、初のASEAN+3(日中韓)外相会議が行われることになった。
 また、マニラでのASEAN+3(日中韓)首脳会議の機会を利用して、小渕総理大臣の提案により、日中韓3か国の首脳レベルの対話が朝食会という形で初めて実現した。右朝食会では3か国共通の文化・歴史・伝統などの話題や、世界貿易機関(WTO)を中心とする経済問題等について意見交換が行われた。また、その際に韓国の金大中(キム・デジュン)大統領よりは、中国のWTO加盟の影響等についての共同研究の実施の提案もなされ、日中韓3か国の首脳レベルの対話、更には北東アジアにおける地域協力推進に向けた重要な第一歩となった。今後はこの日中韓プロセス、三国間の協力を着実に進めていくことが、北東アジア、ひいてはアジア全体の平和と繁栄に貢献するものと考えられる。

(5)日露関係

[総論]

 日露関係については、93年のエリツィン大統領による日本訪問の際に署名された東京宣言が両国関係進展の基盤となっている。日本としては、東京宣言に基づいて北方四島の帰属の問題を解決し、平和条約を締結して日露関係の完全な正常化を達成するために最善の努力を払うとともに、ロシアの改革努力を支持しつつ、様々な分野における協力と関係強化を図ることを対露外交の基本政策としてきた。また、このような日露間の協力関係の強化は、アジア太平洋地域の安定と繁栄に大きく貢献するものと考えられる。
 99年も、日露間では、97年11月のクラスノヤルスク首脳会談における合意(「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」)や、98年11月の「日露間の創造的パートナーシップ構築に関するモスクワ宣言」等、これまでの両国首脳間の一連の合意及び宣言を踏まえつつ、引き続きハイレベルの頻繁な対話が維持され、両国関係の強化が図られた。その結果として、政治、経済、安全保障、人的交流、国際問題に関する協力等の幅広い分野において、日露間の協力関係が着実な進展をみた。
 特に平和条約交渉については、98年11月の日露首脳会談において「平和条約締結問題日露合同委員会」の下に設置されることとなった「国境画定委員会」及び「共同経済活動委員会」の会合を始めとして、引き続き精力的な交渉が続けられた。また、旧島民及びその家族による北方四島へのいわゆる自由訪問を実施していくことが合意され、9月にその第一陣が歯舞群島を訪問した。

[緊密な政治対話の継続と諸分野における関係の進展]

 99年も日露間ではハイレベルの緊密な政治対話が維持され、1回の首脳会談と6回の外相会談が行われた。また、アジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議の際の小渕総理大臣とプーチン首相の会談のほか、「貿易経済に関する日露政府間委員会」のロシア側議長を務める第一副首相が2度日本を訪問した。
 6月のケルン・サミットの際に行われた日露首脳会談では、小渕総理大臣より、クラスノヤルスク合意を実現して国境線を画定し、平和条約を結ぶという歴史的仕事を行いたいと述べたのに対し、エリツィン大統領はこれに全面的に賛成するとともに、「国境画定は私の提案である」と積極的な姿勢を示した。
 外相間では、2月にイワノフ外相の日本訪問、5月に高村外務大臣のロシア訪問が行われ、それぞれの機会に平和条約締結問題日露合同委員会の共同議長間会合及び日露外相間定期協議が開催された。平和条約交渉については、98年の首脳会談において交換されている日露双方の提案を踏まえて率直な議論が行われ、クラスノヤルスク会談以降の一連の合意及び宣言に従って引き続き精力的な作業を進めていくことが確認された。
 両国外相は、G8外相会合(6月及び12月)、ASEAN地域フォーラム(7月)、国連総会(9月)の機会を利用して頻繁に会談を行い、二国間の諸案件とともに両国が関心を有する国際問題についても幅広い意見交換を行っている。
 経済分野では、3月にマスリュコフ第一副首相が日本を訪問し、高村外務大臣との間で「貿易経済に関する日露政府間委員会」の共同議長間会合が開催され、また、8月末~9月初めにはフリステンコ第一副首相が日本を訪問し同委員会第3回会合が開催された。日露間の経済分野の協力を包括的にとりまとめた「橋本・エリツィン・プラン」についても、99年を通じて着実な実施と拡充が図られた。世界銀行との協調融資による国際協力銀行の15億ドル相当円のアンタイドローン(98年2月表明)については、98年夏のロシアの金融危機を原因として中断していた融資が9月に再開され、その後着実に実施されている。
 政治対話や経済分野の協力の進展と歩調を合わせつつ、両国間の人的交流及び防衛交流も一層進展した。5月には日露青年交流センターが開設され、年末までに約400人のロシア青年を日本に招聘した。防衛交流については、8月に野呂田防衛庁長官が訪露し、セルゲーエフ国防相との間で日露両国の防衛政策や地域情勢に関する意見交換を行い、防衛交流の発展に関する覚書が署名された。また、5月に日本側が提案した、退役原子力潜水艦の解体協力を含む「軍縮と環境保護のための日露共同作業」は、新たな分野の日露協力としてロシア側からも高く評価されている。
 こうして、99年を通じ、様々な分野において日露間の協力が一層進展し、日露関係は「創造的パートナーシップ」の構築に向けて着実に前進した。12月末、これまでロシア側において日露関係の進展をリードしてきたエリツィン大統領が辞任したが、両国関係改善の趨勢は、既に「歴史の流れ」とも言うべきものになっており、ロシアの政権交代にもかかわらず押し進められていくものであると言える。日本としては、エリツィン大統領との間で達成された成果を基礎としつつ、新たな大統領が率いるロシア政府との間で、日露関係の更なる発展のために緊密に協力していく方針である。

   4.国際連合
 冷戦時代には東西対立が国連の場にも反映され、国連はその第1の目的である国際の平和と安全の維持に必ずしも十分な役割を果たすことができなかった。しかし、冷戦の終結に伴い、安全保障理事会が本来の機能を果たし得るような状況が生まれるとの期待が高まり、また、開発、環境、人口、難民など様々な問題への対応に当たって、国連は一層大きな役割を果たすことが期待されるようになっている。
 冷戦終結後、世界規模の紛争が発生する可能性は低下したが、地域紛争は頻発している。99年は、特に、コソヴォ、東チモール等の問題に対して国連を含む国際社会全体がいかに対応するかということが注目された。まず、コソヴォ問題への対応を契機として、安保理の紛争への対応能力の強化について様々な議論が行われた。また、コソヴォ問題をきっかけに、紛争を未然に防止することの重要性に対する国際社会の認識が一層深まった。アナン国連事務総長は、第54回国連総会における一般討論演説において、これまでの「対応の文化」(Culture of Reaction)に代わり、「予防の文化」(Culture of Prevention)を育てていかなければならないと訴えた。
 99年の日本は、1年後に控えたミレニアム総会及びミレニアム・サミットに向けて、紛争や貧困といった21世紀の国際社会が直面する問題を見極めることが重要であり、これらの課題に国連が有効に対処することを確保するために国連改革・機能強化が不可欠であることを国連の場などで訴えた。
 なお、日本の国連に対する大きな財政貢献に比し、国連に勤務する日本人職員の数は望ましい水準に達していないのが現状である。このような状況を改善するため、日本は若手職員派遣制度(JPO)の活用や国連事務局採用ミッションの受入れ等を行い、日本人職員の増強に努めている。

[安保理改革]

 冷戦後の安保理は、伝統的な安全保障の分野のみならず、紛争の防止や紛争後の状況の安定化に向けて、人道、人権等の分野でも役割を担うことが期待されている。これは、政治・安全保障面のみならず、経済・社会分野においても幅広く貢献できるような資質が安保理メンバーに求められていることを示している。このような中、安保理改革に当たっては、国際社会の現状を踏まえて新たなメンバーを安保理に加えるとともに、安保理の作業方法等を改善していくことが必要であるとの認識が広がっている。安保理改革については、94年1月以来、「安保理改革に関する作業部会」等の場において集中的に議論されてきている。これまでの議論を通じて、安保理改革の早期実現については加盟国の総意と言え、また、日本の常任理事国入りについては、大多数の国の支持が得られている。しかし、拡大後の安保理の規模、拒否権の扱い、途上国からの新常任理事国の選出方法など具体的な論点になると各国の意見が収斂していない状況にある。日本は、グローバルな責任を担う能力と意思を有する限定された数の国を新たに常任理事国に加え、安保理の実効性を強化し、非常任理事国の議席数の適当な増加により安保理の代表性を強化することの必要性等を主張するとともに、既に6年にわたり議論されてきているこの問題に対する各国の政治的決断の必要性を訴えるなど、議論の進展に向けて積極的に取り組んできた。9月の国連総会の演説において、高村外務大臣は、第2次世界大戦終結後50年以上の間に生じた国際情勢の大きな変化を踏まえ、国際の平和と安全に主要な責任を担う機関として安保理の機能を強化する必要があり、そのためには、常任・非常任双方の構成を改革し、安保理自身が現在の国際情勢を反映した形で生まれ変わることが不可欠であることを訴え、また、日本は安保理改革が実現する中で安保理常任理事国として一層の責任を果たしたいと考えているとの従来よりの立場を改めて表明した。

[財政分野の改革]

 財政面では、99年末、米国による分担金の一部支払いはあったものの、同国を始めとする幾つかの加盟国の分担金滞納などにより引き続き深刻な状況にあり、健全な財政基盤の確立のための改革が必要である。特に、加盟国中第2位(2000年の分担率は20.573%)の財政負担を行っている日本としては、滞納金の解消、予算の効率化、財政負担の衡平は引き続き重要な課題であると主張してきている。国連の活動を効果的かつ効率的なものとする観点から、日本としては、今後ともこの分野における改革を推進していく考えである。

[開発分野の改革]

 先進国と途上国の「グローバル・パートナーシップ」に基づく冷戦後の新しいアプローチを通じて開発問題に効果的に取り組む必要があるとの認識の下、日本は「新たな開発戦略」を提唱してきている。また、国連諸機関間の円滑な連携、世銀等ブレトン=ウッズ機関との対話の促進、市民社会(シビル・ソサイエティー)の広範な参加と調整といった改革の必要性を主張している。
 また、日本は近年、「人間の安全保障」の考え方を開発分野でも重視しているが、この考え方を実践するに当たっては、国連を始めとする国際機関や非政府組織(NGO)等の市民社会との連携が重要である。6月に東京において、国際機関、各国政府関係者、NGO等を招き、「開発:人間の安全保障の観点から」と題する国際シンポジウムを開催し、保健医療、貧困撲滅及びアフリカ開発について議論を行った。また、国連に「人間の安全保障基金」を設置し、国際機関の実施する社会的弱者等地域住民に直接裨益するプロジェクトを、NGOとも協力しつつ支援している。



第2章 第1節 / 目次


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