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「戦後日本外交における国連」 (「外交フォーラム」4月号より転載) 平成17年3月 日本外交には、かつての言葉だけの国連中心主義ではなく、より現実を見据えた国連重視が必要である。日本外交における国連という問題を、戦後外交史の文脈で考える
【本文】私は国連中心主義という言葉が、あまり好きではない。戦後日本の平和は、国連よりも、日米安保などによるところが大きく、戦後日本の繁栄は、国連よりも、みずからの努力や自由貿易体制などに負うところが大きいと考えるからである。現在においても、日本の安全と繁栄を支えるのは、第一義的には、自らの努力であり、友好国との協力関係である。しかし、冷戦の終焉とグローバリゼーションの結果、日本は世界秩序の維持について、より大きな義務と権利を持つようになっている。その鍵が国連である。どちらかといえば国連の枠外で起こった日本の発展と東アジアの発展の経験を、国連を通して世界に提供していくことが、日本と世界の利益にかなうと考える。かつての言葉だけの国連中心主義ではなく、より現実を見据えた国連重視が必要である。このような観点から、日本外交における国連という問題を、戦後外交史の文脈で考えてみたい。 国連の成立国際連合は突然生まれたものではない。その前には、もちろん国際連盟があった。国際連盟は、1919年、第一次世界大戦後の国際秩序の中心機構として設立された。連盟設立を主導したアメリカが参加しなかったため、英仏伊日の四カ国が理事会の常任理事国となり、1926年にはこれにドイツが加わった。しかし、まず日本とドイツ(1933年)、ついでイタリアが脱退した(1937年)。連盟は、満州事変やイタリアのエチオピア侵略や日中戦争に対して有効な行動をとれず、ドイツの侵略を止めることもできず、1939年には第二次世界大戦が勃発してしまった。1934年に常任理事国となっていたソ連も、大戦勃発後まもなく、フィンランドに侵攻して連盟から除名された。国際連盟の設立から形骸化まで、わずか20年だった。この国際連盟に代わる新たな平和維持機構について、主要国の間で最初に議論されたのは、1941年8月の大西洋会談においてであった。国際連盟の失敗は、アメリカの不参加によることが大きいと痛感していたチャーチルは、まだアメリカが参戦する前のことであったが、ルーズヴェルトにこのような戦後構想を提示したのである。 その後の詳しい変遷は省略するが(英語では、Stephen Schlesinger, Act of Creation: The Founding of the United Nations, Westview Press, 2003.を参照。日本語では、加藤俊作『国際連合成立史』有信堂、2000年、が簡潔でよい)、いかなる組織にせよ、一部の有力国が中心となるのは不可避であった。とくに戦時であったため、有力国の意向は決定的であった。当初、議論は米英の間で始まったが、ソ連の参加は不可欠だと考えられた。そしてルーズヴェルト大統領は、アジアから中国を参加させ、「四人の警察官」によって平和を維持することを主張した。チャーチルは中国の参加には消極的だったが、アメリカの意向を受け入れた。他方、イギリスはフランスの参加を強く主張して、結局、この五カ国が常任理事国となったわけである。一時アメリカは、地域のバランスという観点から、ブラジルを常任理事国とすることを主張したが、これは見送られた。 戦後の歴史と国連しかし、歴史は皮肉と逆説に満ちている。国連は、米ソ協調を前提とした機関だったが、それは冷戦の開始により、たちまち行き詰まった。国連の構想の基礎にあった、主要国の協調による強制行動という手段は、一度も実施されなかった。1950年に朝鮮戦争が起こったときには、国連軍が組織されたが、それはソ連のミスによるものであった。それに、もしソ連が安保理で拒否権を行使したとしても、アメリカは国連決議をまたずに、独自に介入したであろう。 それ以後、国連がまったく無力であったわけではなく、中東紛争などで一定の役割を果たした。また、1960年代には多くの国が独立して国連に加盟した。しかし、東西両陣営が激しくぶつかる場合には、米ソの拒否権によって、国連は役割を果たすことはなかった。ベトナム戦争のような東西が激しく対決する分野や、ハンガリー動乱のように勢力圏内部の問題について、国連は無力であった。 今年は国連成立から60年であり、また戦後60年である。これは、大国間に戦争がなく、経済が発展したという点で、歴史上例を見ないものである。それは、国連の功績というよりも、むしろ、米ソの間で抑止力が機能したからであり、また西側がアメリカを中心として結束し、自由経済体制を推進していったことが重要だった。 国連がその機能を回復しはじめたのは、1980年代後半、ソ連でペレストロイカが始まり、さらに冷戦が終焉した1989年以後のことである。それは、冷戦が、対立であると同時に、一つの国際秩序でもあったからである。冷戦時代には、アメリカもソ連も、みずからの陣営を強化するために、世界中の国々に関与した。また、地域紛争が大きな対立に波及することを恐れて、対立の拡大を押さえ込む役割を果たした。したがって、冷戦終焉後、これまで封じ込められていた地域紛争が拡大し、また、アフリカ等の途上国に対する関与が少なくなって、紛争が激化したわけである。 ここに、国連がその役割を果たすときがきた。国連が設立した国連平和維持活動(PKO)について見ると、1940年代に2、50年代に2、60年代に6、70年代に3、80年代に5(88年に2、89年に3)であったのが、90年代には35のPKOが設立されている。2000年代に入ってからは、まだ6つであるが、現在展開中のものは16もある。最近では、伝統的な兵力引き離しや停戦監視だけでなく、兵士の社会復帰や復興支援まで視野に入れており、その結果、費用は膨張し、現在では45億ドルに達しつつある。これは、国連の通常予算の2倍を超える数字である。 日本と国連日本は1952年の独立回復から、国連加盟を申請していたが、ソ連の拒否権によって、果たせなかった。日本の加盟は、1956年の日ソ国交回復のあと、56年12月、ようやく実現された。このとき、重光葵外相は出席して、東西の架け橋となるという有名なスピーチを行なった。重光の経歴を考えると、これはまことに興味深い事実であった。重光は東京裁判で有罪判決を受け、服役した経験を持つ。昨今では、戦争責任が問われることが多いが、この当時、これを問題とする人は誰もいなかった。また、重光は、戦前の外務省の主流であり、アジア主義の理想を持った人物であった。1943年、英米に対抗するため、日本も植民地解放という普遍的な理念を掲げる必要があるとして、大東亜会議の開催を推進したのは重光であった。1950年代から60年代にかけて進んだ植民地解放の理想を、重光はある程度は体現した人物であった。1956年重光スピーチにおける東西とは、おそらく、アジアを中心とする途上国ないし脱植民地の途上にある国という意味だったのであろう。1960年代におけるアジア・アフリカ諸国の国連参加を考えると興味深い。 ともあれ、何度もソ連に妨害されていた日本としては、国連加盟は悲願の実現だった。それゆえに、国連はやや理想化された。1957年の外交青書には、日本外交の基本方針として、1.国連中心主義、2.アジアの一員としての外交、3.自由世界との提携という3つが掲げられていた。順序は付されていないといえ、国連が最初に来ているのである。国連という言葉は、それほどに、重視されたのである。 しかし、日本外交が本当に国連中心だったことはないのではないだろうか。この直後から、日本外交の中心課題となっていったのは、日米安全保障条約改定であり、1960年代半ばからは沖縄返還交渉であった。実際、国連中心主義という言葉は、1957年と58年の外交青書に表れただけで、姿を消していった。 それは、冷戦時代における国連の無為と関係していた。冷戦時代には、米ソに深刻な対立のある案件は、ソ連あるいはアメリカの拒否権によって阻まれていた。 さきに述べたように、日本外交の主要課題は、日米関係であった。しかし、日本の経済力がさらに拡大するとともに、その視野は広がった。それ以後、特筆すべきは1975年以後の先進国首脳会議(サミット)への参加であろう。これは、日本が経済的にグローバル・プレイヤーとなったことの証であった。 その中で、1983年のウィリアムズバーグ・サミットにおいて、中曽根首相は「安全は不可分」であるとして、中距離核戦略の問題を取り上げた。これは、元来経済問題を課題としたサミットの政治的組織への変化を推し進めたものであった。 ただ、レーガン・中曽根時代においても、日本は国外の平和維持活動に入る用意はなかった。それは一つには日本の地理的位置と関係していた。すなわち、西側の対ソ戦略において、日本を守ることがそれ自体、重要なものであったので、とりわけ日本は日本国外での活動を考える必要はなかったのである。中曽根首相がイラン・イラク戦争当時、掃海艇派遣を試みて、実現できなかったことは、その一例である。 冷戦以後の国連と日本ところで、日本が国連に加盟する前から、懸念されていたことがあった。それは、国連加盟国となれば、時として軍事力行使の義務を持つのではないか、それは憲法9条と矛盾するのではないか、という懸念であった。しかし、この懸念は、重大なものとはならなかった。なぜなら、国連が強制行動を行なう可能性は、冷戦によって遠のいてしまったからである。 しかし、冷戦終焉によって国連の機能がよみがえってきたとき、日本はこの問題を避けて通れなくなった。それが、1990年の湾岸危機であった。日本のようなグローバルな経済アクターが、その石油を圧倒的に依存している中東地域の秩序について、何もできないというのは、奇妙なことであった。結局、日本は130億ドルという巨額の資金を出し、しかもさほど感謝されないという結果に終わった。 日本外交の大きな変化はこのあたりから始まった。1991年に湾岸に掃海艇が派遣されたのに続き、1992年には国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO法)が成立し、日本はカンボジアPKOに参加した。法案審議のとき、社会党は徹底した牛歩戦術で戦い、敗れ、しかもその直後の参議院議員選挙でも敗北した。社会党は、元来、平和のために平和的手段しか認めないという意味の平和主義であった。その後、自衛については、自衛隊の存在を黙認するところまで来ていた。しかし、自衛隊が国外で平和のために貢献しうるということを認めることができなかった。これは、日本における一国平和主義の敗北を象徴する事実であった。 ちなみに、自衛隊の海外における災害救助も、このときに可能となった。これがなければ、今回の津波についても、資金以外のことはできなかった可能性がある。 それから、国連と直接の関係はないが、1996年の橋本・クリントン会談において、日米安保の再確認が行なわれ、共同行動に関するガイドラインの決定など、安保の活動範囲がより広く、深くなっていった。 2001年のアメリカにおける同時多発テロ以後、日本の活動はさらに広がった。この年、米軍の作戦に対し、インド洋に自衛隊の艦船を展開して、給油に当たることができるようになった。どこからも反対はなかった。その後、2003年にはイラクへ自衛隊が派遣されるまでになった。 さらに、平和安全協力のための一般法が議論されている。個々のケースで立法するのでは迅速柔軟な行動はできないので、国連の支持などを条件に、政治的に必要かつ可能と判断すれば、いつでも参加できるようにしようというものである。 世界各地での活動に、日本が参加するかどうかは、そのメリット、デメリットをよくよく勘案して、政府が判断すればよい。そもそも法的枠組みがないからできないというのは、政策判断を停止するということである。 重要なことは、自衛隊の行動範囲が広がっただけではない。それがほとんど反対なしに実現されたことが、いっそう注目を引く。かつてシンガポールのリー・クアンユー首相は、日本をPKOに参加させることは、アル中患者に酒を飲ませるようなものだと言ったことがあるが、現在、そういう批判はほとんど聞かれない。東アジア全体に、グローバルな安全保障に対する意識が高まったということであろう。 同時に、国連の活動にも変化が生じていることも、重要な事実である。2004年6月、イラクでの多国籍軍の任務の中に、復興支援が盛り込まれることとなった。これは、安保理の役割が、狭義の軍事的役割から、さらに広がっていることを示すものである。 常任理事国入りと日本外交国連は60年の歴史を持つが、米ソ協調期、冷戦時代、冷戦以後という3つの時代に、その役割は大きく変わった。そして第3期もすでに15年になっている。1945年と比べると、大きな違いは、まず構成国である。多くのアジア、アフリカの元植民地であった国々が加わった。日独のような敗戦国が主要プレイヤーになっている。 現在、また、平和に対する脅威のあり方が、変化している。国連が生まれたとき、平和に対する主たる脅威は、国家であった。しかし、いまや非国家主体が重要となり、また、破綻国家や、テロリズムや、大量破壊兵器の拡散、組織犯罪など、新しい脅威が増えている。そうした新しい脅威に対し、新しいアプローチが必要である。 日本が常任理事国となることは、こうした構成とアプローチの両方で重要なことである。 まず構成において、第二次世界大戦直後の戦勝国(およびその継承国)だけが特権を持っているのはアナクロニズムである。主要なプレイヤーが重要な地位についていないような組織は、控えめに言って、不健全である。日本が常任理事国になることは、また、従来、十分代表されていなかったアジアのプレゼンスを増し、また、非核国を常任理事国に入れるという点でも意味がある。 アプローチにおいても、日本がこれまで行なってきたような、経済協力を中心とした静かなアプローチや、人間の安全保障といった概念は、平和の定着にとって重要である。それは、現在の新しい脅威のすべてではないにしても、いくつかに対して、有効なものである。 一部に、日本が常任理事国に入って、国連はどう変わるのか、あるいは、日本は常任理事国になれば、どのようなことをするのかとたずねる人がある。私は、これは問題の立て方が間違っていると思う。現在、日本は、常任理事国のすべてとは言わないが、そのいくつかの国を上回る貢献を、すでに行なっている。つまり、日本は常任理事国になっているのが当然なのであって、現状は差別を受けているといって過言ではない。常任理事国入りは、この差別を是正するだけのことである。そして日本とアジアの経験にもとづくメッセージを発し続けることで、徐々に国連を変えていくことになるだろう。 他方で、常任理事国になることは、日本にとって本当に利益のあることなのか、疑問を呈する人もある。日本は経済大国なのだから、たいていのことはできるでしょうという人がいる。たしかに、たいていのことはできるにしても、そのために大変な手間隙がかかり、また、日本の好まないことが安保理で決められて、自動的にその負担を負わされることは、その例に事欠かない。 こうした点については、別のところに書いたので(『中央公論』2005年1月号および3月号)、ここでは詳述しないが、1つだけ指摘しておきたい。それは、日本だけでなく、ドイツ、インド、ブラジルも常任理事国をめざしており、アフリカからは南アフリカやナイジェリアがその意思を表明しているという事実である。他方で、イタリアはドイツの常任理事国入りを阻止しようとして、またパキスタンはインドの常任理事国入りを阻止しようとして、必死で活動している。彼らとて、常任理事国になるチャンスがあれば、これを見過ごすことはありえない。要するに、常任理事国になる可能性がある国は、すべて、これをめざしている。それこそ、常任理事国入りに大きなメリットがあることの証拠である。 仮に日本が常任理事国になれなくて、上記のいくつかの国がなったとしたら、常任理事国入りに消極的な論者は、これを歓迎するだろうか。一転して、政府外務省の失敗を非難するのではないだろうか。 国際秩序というものは、戦争のあとに、戦勝国主導でつくられることが多い。しかし、幸いにして、主要国の間の戦争は、当分起こらないだろう。主要国を取り込む形の変革を、平和のうちに行なうことが必要である。これはいかなる組織にとっても真理である。強い組織というものは、環境の変化に応じて自ら変わる能力を持っている。その点で、国連が21世紀になお有効な組織でありうるかどうか、この変革が実現できるかどうかにかかっているし、それは、日本の努力に相当程度かかっているのである。
【略歴】北岡伸一 きたおかしんいち東京大学法学部卒業、同大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。法学博士。立教大学法学部教授、プリンストン大学客員研究員などを経て、1997年より東京大学教授。2004年4月より国連代表部次席大使を務める。著書に『清沢洌』(サントリー学芸賞)、『日米関係のリアリズム』(読売論壇賞)、『自民党―政権党の38年』(吉野作造賞)、『政党から軍部へ』、『「普通の国」へ』、『独立自尊―福沢諭吉の挑戦』、『日本の自立―対米協調とアジア外交』など多数。 |
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