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「ジュネーブより~軍縮外交記3『戦争回避に尽力す』」 (朝日新聞社発行「論座」4月号より転載) 平成15年4月
ジュネーブに赴任して9カ月がたつ。軍縮外交をパワフルに進めようと日々心掛けているが、その結果生じる過密日程と緊迫場面の連続に自分でも驚くことがある。 2月前半は、まずジュネーブの軍縮会議で北朝鮮問題に対応し、6日にはニューヨークでコフィ・アナン国連事務総長と軍縮協議を行い、8日には滋賀県の航空自衛隊饗庭野分屯基地で対人地雷廃棄完了に臨む小泉純一郎総理大臣を担当大使としてお迎えし、10日からはテロ後のバリ島で小型武器軍縮の国連議長として会議にかかわり、地球を一回りして13日、任地に戻ると同日、ステファン・ラドメーカー米国務次官補がイラク関連の懸案を抱えてジュネーブ入りし、協力を求めてきた。いずれも失敗の許されない重大任務ばかりである。 北朝鮮と議場で 今年の軍縮会議が始まって2週目の1月30日、突然北朝鮮に軍縮会議の議場で対応する必要に迫られてしまった。条約交渉の場であるジュネーブでは北朝鮮問題は直接は扱わないという暗黙の了解が議場で崩れ、NPT(核不拡散条約)脱退問題で初めて北朝鮮代表団がフロアをとるなか、米国、韓国、EU諸国が非難の応酬を展開したのである。私は米代表団は強くは出ない戦略をとったと判断し、米国の発言を支持すると述べたうえで、より強い発言をした国とは距離をとる表現を選んで平和的解決の必要を呼びかけた。北朝鮮代表団は、米国が敵視政策をとっている以上は日本のいう平和的解決に米国がコミットしているとは言いがたい、と反論する。米代表団の反論を待ったがフロアをとる意思表示がなされない。本省からの指示がないのか、迷っているのかわからないが、このままでは相手の主張を受け入れたという解釈の余地が生じるので、心臓が高鳴ったが冷静を装って「JAPAN」のプレートを挙げ、「私の判断するところ、米国は一貫して平和的解決と対話を求めているのであって、平和的解決を求める機運を信頼して受け入れていくことこそ北朝鮮には必要である」旨の発言をする。再度の反論があったが、私が米国の立場を擁護しつつも言葉の選び方で配慮を利かせたことを、北朝鮮側は気づいたことがわかる内容であった。 言われっぱなしにはならないよう、議場ではイスラエルとアラブ諸国間で激しい応酬もなされていたので東アジアの文脈を相手に気づかせようと再度フロアをとる。「そもそも軍縮会議は、この種の問題を討議するのに最適の場ではないことを、北朝鮮も含めてすべての加盟国が了解したことを想起されたい。世界にはさまざまなことがあるが、東アジアにおいては今日、どのような問題も平和的解決に導く能力があることを世界に証明していくことに我々全員の共通利益があるので北朝鮮には協力してもらいたい」旨述べ、平和的解決への相手の言質を引き出そうとした。明白な反応があった。「今の日本大使の発言に感謝する」。北朝鮮代表団は一時間を超える応酬の果て、65カ国の多国間議場で最後にははっきりとそう発言した。 閉会後、米国も私に謝意を表した。議場では公式発言を通じてさまざまな暗黙のコミュニケーションが成立する。日本は米国の同盟国として一分の隙もなく、かつ議場で真正面に立つ決意があることを米代表団はこれまでにも増して理解した。その信頼感こそ米国に対する日本の影響力確保につながるものである。同時に北朝鮮は、日本がその種の原則に揺るぎない国家であることを認め、かつ議場を北朝鮮と共にしているという回路の存在を真剣に受け止めていることを敏感に理解した。そのセンシティビティーの了解は、私が直感したとおりその後の議場運営で重要になってくる。やがて日本で206キロのプルトニウムが推定より回収量が少なかったという残念なニュースが最悪のタイミングで世界をかけめぐる。2月半ばの軍縮会議でフロアをとった北朝鮮の矛先がその問題に及ぶことを警戒したが、北朝鮮側はIAEA(国際原子力機関)の査察の不公平に言及しつつも日本非難は控える工夫を徹底していた。 総理と対人地雷廃棄へ 軍縮会議の総会は毎週木曜日午前中に開催される。1月末の総会を終えるとニューヨークに移動し、今年からアナン事務総長の軍縮諮問委員に個人資格で指名されたことから事務総長との協議に臨んだ。アドバイザーとしては時事問題の一歩先を見ることが不可欠で、和解のプロセスに資するような軍縮手法の設計に関して意見具申した。イラクの軍縮問題が安保理で沸点に近づくなか、和解を視野に入れる軍縮のあり方という視座について事務総長は鋭い眼差しで綿密にメモをとり、国連軍縮政策に反映させたいと言ってくれた。 代表部を任せてきた佐野利男公使から2月第一週の軍縮会議は中止になったと携帯に連絡が入り、安堵してニューヨークでの活動に専念する。事務総長の腹心のプリンストン大学国際政治担当教授のマイケル・ドイル補佐官とも話し、夜はアラブ穏健派らの国連代表を招いて、イラク問題も念頭に、小型武器軍縮の協議を行う。今年7月にニューヨークで行われる小型武器軍縮の国連会合の議長にすでに加盟国全会一致で私が指名されたことから、小型武器軍縮を切り口に各国と常に協議する立場にあることで、軍縮外交の幅が一気に広がった。安保理取材で現地入りしている朝日新聞の船橋洋一氏が偶然に近くを通りかかり、がんばってと、励ましの声をかけてくれる。 ぎりぎりのスケジュールでフランクフルト経由で関空に入り、ローカル線を乗り継ぎ、滋賀県新旭町の駅に降り立つ。2月8日午後一時過ぎ。外務省改革の意を汲み、大使でも随行なしですべてのロジに自分で対応している。過密日程のどの段階でもミスることなく確かにたどり着いたと、こぢんまりしたホームで一瞬ほっとしていると、「ありがとう 本当に来てくれたんだね!」と対人地雷全面禁止推進議員連盟の小坂憲次衆院議員が疲れも吹っ飛ぶ大きな笑顔で後ろから声をかけてくれる。日本の深い懐にもどってきた、と本当に魂が蘇生する思いがした。 この日はオタワ条約に基づき日本の対人地雷廃棄が完了する日で、小泉総理が丸一日かけて饗庭野分屯基地を訪れ、立ち会ってくださる。ヘリを使えば楽なところを天候次第で間に合わなくなると、新幹線とローカル線を乗り継いでの現地入り。その姿勢を、対人地雷廃絶を目指す世界の手本とするよう広く発信したいと思う。総理より15分早く会場に着き、最敬礼をもってお迎えする。 矢野哲郎外務副大臣の冒頭の挨拶の後、総理が力強く世界の対人地雷廃絶を訴え、日本での廃棄完了への指示を会場から出して下さった。事前の連絡では私の挨拶は予定されていなかったが、当日、防衛庁と本省の配慮で、廃棄完了後に、軍縮大使として一言述べる場面が工夫されていた。いつでもどこかでだれかが静かにこの民間大使をなんとか守ろうとしてくれている。心からそう思える日々。ジュネーブでは、条約体制の根幹である地雷除去推進部門の共同議長国に日本が次期締約国会合後の期間について選ばれたことを伝え、日本の軍縮外交を信じていてほしいと訴えた。席に戻ると、隣の草川昭三参院議員がよい挨拶だったと喜んで下さる。軍縮への思いを共にでき、うれしかった。 総理を見送るときしばらく2人で話す機会があった。以前であれば直接申し上げたいことが沢山あったかもしれない。しかしそのとき私には戦争回避への願いのほかは、官邸と外務省への感謝の言葉しかなかった。非力の私が外交前線で元気であるのは、幾人もが私の無事を見届ける決意で寡黙な注意を払い続けているからにほかならなず、日本の文化の深さに感じ入る。 9日、関空からデンパサールに飛び、昨年10月の大規模テロの影響が残るバリ島で、小型武器軍縮問題に3日間没頭する。2月2週目の軍縮会議に間に合うよう、13日午前中にジュネーブに戻り、夜にはボルトン米国務次官の補佐官より懸案の相談を受ける。軍縮会議の議長は順番制で、近くイラクの番が回ってくるが、それを阻止したいという。翌日午前中の軍縮会議で米国はそれを絶対に受け入れられないと正式に宣言した。 イラクの譲歩 イラク問題が思わぬ形で軍縮会議に飛び火した。その昼には私の公邸でラドメーカー国務次官補と中枢同盟国の協議を執り行う。続く西側全体会合では焦燥感ばかりが漂うなか、日本としてはこの問題を必要以上に政治化したくないが、米国にとって絶対に譲れないレッドラインであるならば、それを守っていくのが同盟国の立場であろうと西側の結束を呼びかけた。また勝算を危惧する米国に対し、レッドラインであるならば成功する決心が必要であり、その自信がないのならば言い出すべきではない旨を諭した。別途、アラブ穏健派諸国等に情報収集の形で働きかけを行う。 翌日15日金曜日午後、国連欧州本部の軍縮会議事務局次長から急転直下の解決を告げる電話が日本代表部にいち早く入る。たった10分前、同件に関する無条件放棄の文書をイラク代表団が届けにきたという。大使室でつけっ放しのCNNでは安保理での閣僚協議が実況中継され、画面下にイラクが大量破壊兵器の生産と輸入を禁止する大統領令を布告することがテロップで流れている。電話の向こうで事務局長は、この瞬間に発表になっているその新たな立法措置と、軍縮会議議長の無条件放棄の二点を戦争回避願いの意思表示としたいとイラクは国連ルートで正式に表明したという。ワシントンに戻る機上の国務次官補がこの正式表明の情報に接していることを確認し、直ちに大臣宛て電報を佐野公使と打つ。着任以来はじめての官邸に直行する電報。新任の小笠原一郎軍備管理軍縮課長が幸運なことにそのとき私の大使室に詰めていてくれた。本省のテンポも快調で、小笠原課長は2月始めに着任すると間髪を入れずに軍縮代表部を訪問し、この重大電報を発電の地から見守った。 一段落した夜8時、新課長を囲む自宅でのプライベート・ディナーに全館員を誘う。談論風発の代表部の雰囲気を課長は誉めた。11時半。皆が帰ったあと、再び雪模様になりそうな深夜のジュネーブの空を見上げながら、米国は結果的に、多国間場裏を借りつつもイラクが米国との二国間関係において、解釈や推測の余地のない明白な屈服の意を示し得る外交場面を作ったことに気づく。米国務省の計り知れない底力を感じる。米国は軍事よりもまぎれもない外交のスーパーパワーであって、その自画像に自信を持ってもらうことこそ戦争回避への道である、と一人思索した。 |
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