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「論座」猪口軍縮会議政府代表部大使寄稿文
「ジュネーブより~軍縮外交記1」
(朝日新聞社発行「論座」2月号より転載)


平成15年2月


 ジュネーブは議場都市。スイスのレマン湖のほとりにあるこの静かな街では、戦争と平和をめぐるさまざまな会議が昔から執り行われてきた。「世界には五大陸ある。ヨーロッパ、アジア、アメリカ、アフリカ、そしてジュネーブ」。大陸ほどの重みがあり、各大陸の代表が出会うのはジュネーブにおいて、と19世紀フランスの辣腕外相タレーランは言った。第一次世界大戦後に国際連盟が設立されたのも、全権松岡洋右が席を蹴って、日本の戦争と平和の運命を分けることになったのもここであった。近年では冷戦終結への最初の米ソ首脳会談(1985年)が行われている。
 平和の根本を成す軍縮でも、多国間の唯一の交渉機関である軍縮会議はここにある。冷戦期に国連中心の軍縮が低迷したことから、ニューヨークから離れた静かなジュネーブに議場が設けられ、核兵器不拡散条約や包括的核実験禁止条約、化学兵器禁止条約などの交渉がなされてきた。

特命全権への決断

 そのジュネーブに軍縮会議日本政府代表部特命全権大使として赴くようにと突然の依頼を受けたとき、学生の顔が一人ひとり浮かんだ。長年、上智大で国際政治学を講じてきた。教え子の学問と未来は、世界の軍縮交渉と同じように重い。
 何日も返答を避けた。明日にはどうしても会いたいと、依頼者は電話で言う。娘たちが早春の花をたくさん摘んで活けてくれたテーブルで夫は言った。「この日のために生まれたと思ってがんばれよ」。この日のために生まれたと思ったのは、はるか昔の結婚式の日であったが、結婚しようよ、と言った彼にうなずいたように、大使になれよ、と言う彼にうなずく。
 翌日夕方、外務省本省。お引き受けします、と告げる。
 「ありがとう。きっと新しい外務省の流れにつながる」
「不安でもあります。省内で反対意見もあるでしょうに」と気弱なことをあれこれ言う私。
 「そういうことも含めて、乗り越えられる人と思っている。学者として高みに生きる立場にあるのに、苦境の底にいる外務省の私たちと仕事をする決心をしてくれた。そのことはいずれ省内のだれもが認めますよ。あなたらしく明るく、前向きに実力を発揮して」  私の職業的人格を支え続けてくれる言葉であった。
 その後の動きは速い。閣議決定を経ると直ちに自分の軍縮外交の工程表を作成し、活動を開始することとした。大量破壊兵器分野では、2002年11月に生物兵器禁止条約の条約強化の会議が予定されているが、これは2001年12月7日に劇的な形で決裂して頓挫したままの第5回運用検討会議の再開会合である。数年にわたる交渉の最終段階で、米国が拒否した。そのニュースは当時、新聞で読み、多国間軍縮外交も黄昏だなと思ったが、着任半年後にはその会合に代表団長として臨むかと思うと一時も無駄にはできなかった。
 この交渉成功に狙いを定めて計画を考案する。膨大な資料を読破し、状況を分析し、条約なども暗記して協議での表現力を高めておく。5月21日、ジュネーブに着任。数カ月かけて数十カ国の軍縮大使を表敬訪問する形を取って、バイ(二国間)の協議を行い、各国の細かなレッドライン(譲れない国益ライン)を把握した。議長であるハンガリーのT・トット大使の信頼も得るよう努め、米国とも協議を重ね、秋風が湖畔をわたる頃には、日本が積極的なプレーヤーであることがジュネーブでは広く了解されるようになっていた。
 多国間軍縮外交においては求心性を自然な形で帯びていくことが重要だ。その作戦本部長は佐野利男公使。同年齢。同級生感覚のような率直さと、あうんの呼吸で代表部を運営する。情勢分析は常に明晰。集中力と行動力を有し、実施のストラテジーには天賦のものがある。もう一人の仲間は木村泰次郎一等書記官。転出の時期を迎えながらも、再開会合の成功のために代表部に残ってもらう優れた専門官。会議が11月14日に奇跡的に妥結してから3週間後、身重の夫人と幼子を伴って新たな任務の待つリマに向かった。民間大使を支えたのは、軍縮への思いはもとより、家族をあげて外交の夢に生きる館員たちへの共感であったのかもしれない。
 11月初めにジュネーブ入りしたトット議長は主要国と詰めを行うが、最終取りまとめ案として公表された議長提案に非同盟系数カ国が強力に反対した。会議開始が迫るなかで、議長は日本代表部にもなんとか調整を願いたいと申し入れてきた。議長から依頼されたすべての諸国に対して、議長案を守る立場から長時間のバイの協議を展開し、文字通り寝食を忘れる前哨戦を経て会議は始まった。
 しかし再開会合は初日午後、早くもサスペンド(中断)され、再度、空中分解する不安が広がった。米代表団長S・ラドメーカー国務次官補は帰国便を手配したとの噂も伝わる。あの猛烈な外交努力は甘かったのか。詳細に記してきた交渉ノートを読み返す。典雅なスリランカ大使公邸を舞台に夜まで続く一部諸国との非公式協議。不調に終わる直前、アジアの非同盟主要国と目される大使らが米国との非公式協議をセットしてもらえれば打開への見通しがたつとサインを送ってきた。それが米国のレッドラインに抵触すると知ってはいたが、別室から公使に直ちに携帯で連絡をとる。
 2日目の午前中、日米緊急協議となった。両陣営合わせて20人近く。心血を注いで築いてきた信頼関係を失うかもしれないと凍りつく思いがあったが、背水の陣で、「この段階で議長案修正の交渉に引きずり込まれる可能性のある一切のことを、米国は受け入れられないことは承知しているが、一部の非同盟諸国が米国と直接の協議を希望している」と伝える。穏やかで卓越した交渉官である国務次官補はいつになく強い感じであった。血の気が引いていくのを感じる。しばらくの沈黙の後、彼は、「珈琲を飲もう」と言う。立ち上がってポットの置いてあるところに行くと珈琲を注いでくれた。「議長案を守るべく最大限フェアな努力をしている」と、もはや動揺はなく、はっきりと言い、彼も大きくうなずく。

日本の館にあっては礼節を

 3日目。朝10時。公使と情報収集をしていると、大使机の直通電話が鳴る。トット議長からで、信じがたいことを頼まれる。「どうしてものお願いがある。非同盟主要国が強く求める協議に、米国は日本大使公邸でなら応じるという。本日の昼食会を非公式協議の場としてもらえないだろうか。ただし全員が揃わなければ無意味となるかもしれない」。
 まず、公邸の西尾隆文シェフに段取ってもらえるか連絡する。連日の私の激務を見ていたシェフと心優しい夫人は何とかしてあげると言ってくれる。ここでの勝負は、果たして、議長案に反対しているすべての非同盟系諸国の代表が、米国の同盟国である日本の公邸という場面設定に納得し、私の客として参集してくれるかであった。一人ひとりに大使室から直接電話する。全員が、日本大使の招待を受け入れると言う。誠実なバイの協議を重ねてきたことが実った。秘書のシルヴィーが、全員が揃うと米国務次官補に連絡を入れる。
 早めに公邸に戻る。装いは、甘さを排したモスグリーンのスーツにバックスキンのピンヒール。真珠の二連ネックレス。ホストとして皆の礼儀正しさを引き出す品格と権威が必要である。冒頭の言葉を寝室の鏡の前で練習する。重さと希望のある表現を選び、何回も練習する。二階の窓から最初の車が車寄せに着くのが見えた。定刻より15分も早かったのは米国務次官補。深紅の絨毯の螺旋階段を下りて出迎える。「議長案を修正しようとすれば、会議は泥沼にはまって決裂する。貴使がホストならきっと大丈夫だと思う」と次官補。「フェアなホストであることによってのみ議長案を守り得ます」と伝える。
 外交ナンバーで1から始まるのは大使や代表団長の車。CD(外交団)1のプレートの車が次々車寄せに入る。
 ダイニングホールからは、枯れ葉を落とした大木越しにレマン湖と対岸の国連欧州本部が見える。「トット議長を主賓とするこの昼食会に全員が参集してくれてうれしい。一年前の会議が決裂したとき、私は教授として多くの未来のある学生を教えていた。大使として赴任することが決まって残念がる学生たちに、必ず世界の軍縮を進めるよう全力を挙げると誓ってきた。若い世代に約束したことを果たす日がきた。若い世代への平和の約束は、各国のベスト・アンド・ブライテストとして外交の責任者となったみなさん全員が負っていることでもある」。緊張感の漲る室内で一人も微動だにしない。全員が男性であることに初めて気付く。前口上に続き、議長案への支持をお願いしたい、と協議内容を隙なく述べた後、「日本の館にあっては、全員が寛容の精神と礼節をもって建設的に協議してもらいたい」とホストの強い立場を打ち出した。非難が応酬し、席を蹴って退出する国が出るのを防ぐには、各人の自制を引き出すしかない。
 だれもが、ガラス細工のような微妙なバランスの議長案をつき崩せる立場にいたが、ホストの許可をもってしか発言しないという礼儀正しさを全員が最後まで貫き、みな言葉を選んで慎重に発言した。議長案の修正は展望のないことが次第に全員に了解され、協議の後半に入ると大半の諸国が相次いで議長案支持を表明していった。チャンスだ、まとめなければとあせり、公使に合図を送る。遠くの席から飛んでくる。「どうやってまとめたらいい?」と聞くと、彼は険しい顔で、「絶対にまとめてはいけません」ときっぱりと言って自分の席に戻った。鋭い。その通りだ。まとめないでおけば、ここで妥協したすべての国に名誉ある自発的な退路を残すことができ、議長の求心力を守ることにもなる。私は明るく軽く閉会を述べた。
 「今日はありがとう。いろいろな意見交換ができて私はとても参考になったわ。トット議長の幸運を祈っている」
 客は一人ひとり私と挨拶を交わし、公邸のある丘からレマン湖畔の街道へと消えていった。「見事な運営だった。分水嶺だ。こんなに緊張したランチは自分の職業生活のなかで記憶にない」。そう述べてくれたのは米国務次官補であった。そしてそれ以上にうれしかったのは、「貴使はフェアであった」という数々の非同盟諸国の大使や担当局長らの言葉であった。それから24時間後の14日午後、議長案は全員が固唾をのむなか全会一致で採択され、長年合意できなかった条約強化のフォローアップ体制が作動することとなった。
 会議の決裂を防ぐために全力を挙げよ、という大臣の訓令を無事に執行し得た、と淡々とした気持ちで大使室を出ると、本省から総監督のために来てくれた伊藤康一生物・化学兵器禁止条約室長が「やりがいのある出張でした」と、ゆっくりと言ってくれた。大使への本省よりの最高の言葉であった。

いのぐち くにこ: 軍縮会議政府代表部特命全権大使。上智大学法学部教授を休職中。1952年生まれ。米エール大学大学院修了、政治学博士(Ph.D)。著書に『戦争と平和』など。


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