(1) 概要
ギニアビサウでは、1990年代から複数政党制の導入など民主化に向けた動きが見られたが、1998年6月に軍の反乱により大統領が亡命し、その後の政権でも首相、閣僚が頻繁に交代するなど政情は安定しなかった。2003年9月に、軍部による無血クーデターが発生し、その後、ロサ臨時大統領及びサーニャ臨時首相から成る暫定政府が成立した。2004年3月には民主的な国民議会選挙が実施され、ゴメス首相を首班とする内閣が発足し、暫定統治の第一段階が完了した(暫定統治は、2005年に実施予定の大統領選挙までとされている)。また、暫定統治を支援するため、国連開発計画(UNDP:United Nations Development Programme)、世界銀行、国際通貨基金(IMF:International Monetary Fund)及びアフリカ開発銀行(AFDB:African Development Bank)の助言の下、「緊急経済運営計画」が策定されるとともに、右計画を支援するため、UNDPにより「緊急経済運営基金」が設置されている。しかし、2004年10月には一部軍人が反乱を起こすなど、安定への道のりは平坦ではない。
ギニアビサウは、独立後非同盟路線を堅持し、ポルトガル語圏、欧米諸国、アラブ諸国と良好な関係を維持しつつ、近隣諸国との協調に努めている。
ギニアビサウは、農業が労働人口の約8割、国内総生産(GDP:Gross Domestic Product)の約4割を占めており、主要輸出産品はカシューナッツである。1980年以降、市場経済化の導入、民営化の促進等を目指したが、1990年代世界の最貧国の一つで、一人当たりのGNIは130ドル(2002年)、国民の約9割は絶対的貧困にある。1998年から1999年にかけての内戦により、同国では、公共施設、学校、病院などのインフラが徹底的に破壊された。内戦後も、財政難により公務員に対する給与の遅配が恒常化したため、病院や学校ではストが頻発し、国民は窮状に喘いでいる。
(2) 「貧困削減戦略文書(PRSP:Poverty Reduction Strategy Paper)」
ギニアビサウが2000年に策定した貧困削減戦略文書では、2015年までに、「極度の貧困層」の割合を半減すること、
乳児死亡率を2/3にすること、
基礎教育において就学率100%を実現すること、
(2005年までに)教育において性差別を根絶すること、
国内全土で、天然資源を効果的に活用することを目標として掲げている。しかし、ギニアビサウ政治・社会情勢が極めて流動的であるため、同文書の実施は困難な状況にある。