バングラデシュは、狭い国土(我が国の約4割)に多くの人口(約1.3億人)を抱える一方、天然資源は天然ガスを除き極めて限られている。また、洪水・サイクロン等の自然災害が頻繁に発生し、国民一人当たりGDPも400ドル以下と極めて低く、後発開発途上国(LLDC)の中で最大の人口を抱えている。
75年のムブジル・ラーマン大統領暗殺以降、バングラデシュでは事実上軍事政権が続いたが、91年の総選挙以降、民主的手続きによる政権交代が定着した。91年3月に成立したカレダ・ジアBNP(バングラデシュ民族主義党)政権は、IMF・世銀の支援を受け経済構造改革に取り組み、インフレの抑制、財政赤字削減、外貨準備高の増加等において成果をあげた。
96年6月の総選挙では、バングラデシュの独立運動の担い手であったアワミ連盟が21年ぶりに政権に復帰し、ハシナ総裁が首相に就任した。同政権は、貧困克服を最大の課題とし、併せて、経済自由化の一層の推進、治安改善、透明性の高い責任ある統治等に取り組んできた。また、チッタゴン丘陵地帯に居住する少数民族の自治権をめぐる問題についても、97年12月ハシナ政権は少数民族側と和平協定を締結した。ハシナ政権は2001年7月13日に任期満了し、ラーマン前最高裁長官を首班とする選挙管理内閣に権限を委譲した。10月1日に選挙管理内閣の下で総選挙が行われた結果、カレダ・ジアBNP総裁が再び首相に就任した。
外交面では、国連、非同盟運動(NAM)、イスラム諸国会議(OIC)等国際場裡において積極的な外交を展開しており、国際平和維持活動にも積極的に参加している。また、南アジア地域協力連合(SAARC)の提唱国としてインド亜大陸諸国との協力関係強化に対しても積極的である。
インドとの長年の懸案であったガンジス河水利問題についても、96年12月親印的なハシナ前政権下においてガンジス河水配分協定が署名された。
民主化移行後のバングラデシュでは、経済自由化政策が積極的に推進され、92年以降、年平均4.8%の経済成長を達成した。81年より導入されている世銀・IMFの構造調整政策も91年以降本格化し、財政、金融、貿易部門の改革、公的部門の合理化、民間部門の活性化、規制緩和、海外直接投資の促進などが実施されてきた。その結果、インフレ率、財政赤字、外貨準備高など、マクロ経済安定に比較的成功しており、縫製品、ニットウェアなどを始めとした製造業、建設業、エビを中心とした漁業が高い成長率を記録し、また、97年以降のアジア通貨危機の影響も、対東南アジア地域向け輸出が小さいため、最小限にとどまった。他方、2001年9月の米国同時多発テロ事件を発端とする世界的な景気後退は、欧米市場に約80%を依存している縫製産業を中心とした輸出産業を直撃しており、バングラデシュ経済に大きな影響を与えつつある。2001、2002年度は4.4%の経済成長率を達成したが、世銀によれば、人口増加率等を考慮すると、4~5%台の経済成長率では貧困克服のために十分でなく、年率7%台の経済成長が継続的に必要と指摘している。