先住民であるフィジー系と、英国植民地時代に移住してきたインド系にほぼ2分されるが、近年はフィジー系人口の方が多い。70年に英国から独立した。インド系の政治勢力拡大に対するフィジー系の不満が拡大し、87年にランブカ中佐が2度クーデターを起こし、92年の総選挙で政界に転じたランブカが首相となり、94年の総選挙でも勝利をおさめた。ランブカは90年にフィジー系に有利な憲法改正を行ったが、差別的規定に対する内外からの批判を踏まえ、右要素を緩和した新法が98年7月に発効した。99年5月の総選挙では、労働党を中心とする野党連合「国民の連立」が大勝し、労働党のチョードリー党首が初のインド系の首相に就任したが、2000年5月、フィジー系実業家のスペイトが率いる武装グループによる議会占拠事件が発生し、首相を含む閣僚約30名が人質として拘束された。5月29日、バイニマラマ軍司令官が法と秩序の回復と人質解放を目指すとして全権を掌握の上、戒厳令を布告。7月28日にガラセ首相を首班とする暫定文民政府が発足したが、高裁は右暫定政権を違法とする判決を行った。右を受けて、2001年8月末より総選挙が前倒しで実施された結果、ガラセ選挙管理内閣首相が率いる統一フィジー党(SDL)が第1党となり、ガラセ政権が改めて誕生した。現在政治情勢は安定しているが、右組閣に関し、チョードリー労働党党首が、下院において10%以上の議席数を有する労働党議員が入閣していないのは憲法違反として高等裁判所に提訴、2003年7月18日、最高裁はそれまでの二審と同様に、現内閣の構成は憲法違反であり、労働党を含めた連立政権の樹立を命ずるとの判決を下した。ガラセ首相は最高裁の判決に従う旨表明し、2003年7月末現在、労働党との協議を行っている。
外交面では、従来より、英連邦諸国(フィジーは87年のクーデター後、エリザベスII世英女王を元首とする立憲君主制から共和制に移行し、英連邦から脱退したが、97年9月に再加盟した。更に、2000年5月の議会占拠事件後、英連邦の会議出席資格を停止されていたが、2001年12月には復帰した)、特に豪州、ニュージーランドとの関係強化、他の太平洋島嶼国との協力関係重視、アジアをはじめ各国との友好関係拡大化を基調としてきたが、近年「ルック・ノース」政策をかかげ、我が国、中国、韓国、ASEAN諸国等アジア諸国との関係拡大に力を入れている。また、国連をはじめとする国際機関においても活発な活動を展開し、国連の平和維持活動にも協力している。首都スバには、太平洋諸島フォーラム(PIF)事務局の他、南太平洋大学や南太平洋応用地球科学委員会(SOPAC)の本部が置かれており、地域協力に積極的に参加している。
経済面では、2000年5月の国会占拠事件で、観光客の激減による観光業界の不況と、豪、NZ向け衣料・被服製品の輸出の激減により、フィジー経済は大打撃を受け、2000年度の経済成長率は対前年度比で-2.8%(当初は-8.4%と予想されていた)となった。しかし、2001年8月の総選挙でガラセ政権が発足し、政情が落ち着くにつれ、観光客も徐々に戻りはじめ、また、その他産業にも活気が戻り、2001年の成長率は+2.6%、2002年は+4.4%と回復の兆しが見え始めた。さらに2003年に入ってからは、南太平洋スポーツ大会の開催による大型スポーツ施設建設、ホテルの建設、その他大型プロジェクトが数多く建設されるなど、建設業が好調であり、また、観光客もほぼ全盛期のレベルまで回復し、さらに卸・小売業、鉱山、農産物(砂糖産業は除く)等の各分野でも業績は堅調であり、政府は2003年度の経済成長率を5.1%と予想するなど、全体としてフィジー経済は上昇傾向を示してきている。
(参考1)主要経済指標等