マケドニアは、91年9月に旧ユーゴスラビア連邦共和国から平和裡に独立を果たした。独立以来、社会民主同盟(旧共産党系)を中心とした連立政権下にあったが、98年11月の総選挙で敗北し、マケドニア民族主義を標榜する「内部マケドニア革命組織・民族統一民主党」及びアルバニア系政党によるゲオルギエフスキー連立政権が成立した。2001年2月、マケドニア北部のコソボ国境付近でアルバニア系武装組織(NLA)とマケドニア軍及び治安部隊との武力衝突が続き、一時は約13万人の難民及び国内避難民が発生するほど深刻な事態に発展した。その後、事態の政治的解決のため、マケドニア系、アルバニア系与野党による大連立政権が成立、2001年8月にはアルバニア系住民の地位改善を認める枠組合意が成立し、これに従い憲法改正や地方自治法改正が行われた。また、2002年3月には欧州委員会及び世銀の共催によりマケドニア支援国会合が開催された他、同年9月には紛争後初めての議会総選挙が概ね平穏に行われた。同選挙の結果、紛争中から一貫して国際社会との協調路線を歩んできた社会民主同盟とアルバニア系第一党の「統合のための民主同盟」によるツルヴェンコフスキー内閣が誕生した。
経済面では、旧ユーゴへの依存度が極めて高かったため、旧ユーゴの解体とそれに続く国連の対新ユーゴ経済制裁(92~95年)及び国名を巡って争っているギリシャによる経済封鎖(94~95年)は、マケドニアの貿易、特に輸出に打撃を与え、経済は急速に悪化した。こうした状況の中で、マケドニア政府はIMF及び世銀の支援の下で93年より経済安定化政策(為替レートの安定化、赤字国営企業の整理、賃金抑制等)を実施した。95年より旧ユーゴ地域との交易が再開したこともあり、96年GDP成長率がプラスに転じた。しかし、99年のコソボ難民の大量流入、2001年の紛争により、経済は再び大きな打撃を受けており、30%を超える失業率等、今後とも苦しい経済状況が続くものと思われる。
外交面では、EU及びNATOへの加盟が最重要課題であるが、加盟に向けた取組は始まったばかりであり更なる改革努力が必要である。95年9月、関係が悪化していたギリシャと国名問題を除き和解したことで国連、全欧安全保障協力機構(OSCE)、欧州評議会などの国際機関への加盟が実現した。また、マケドニアには93年より国連PKO部隊(国連予防展開隊UNPREDEP)が駐留してきたが、99年1月、マケドニア政府が台湾との国交を樹立したことに中国が反発し、国連安保理でUNPREDEPの任期延長を拒否したため、同年2月、UNPREDEPの任務は終了した。ただし、2001年2月以降の国内紛争を背景として、マケドニア政府は6月、中国との国交を正常化し、このため台湾はマケドニアとの国交断絶を発表した。また、2001年4月、マケドニアとEUは安定化・連合協定に正式署名を行った。同協定は、EUが将来の加盟候補国と結んできたもので、マケドニアは西バルカン諸国の中でEUと安定化・連合協定を締結した最初の国となった。
我が国とは94年3月に外交関係を樹立し、99年には高村外相(当時)、河野外相(当時)がマケドニアを訪問、マケドニアからも多くの大臣が毎年来日するなど、要人住来は活発である。