89年のチェコ・スロバキアにおける民主革命後、スロバキアはチェコと対等の地位をもつ国家連合形成を要求し、これに対しチェコが連邦維持か独立かの二者択一を迫ったため、93年1月連邦は消滅し、スロバキアは共和国として独立した。
独立後、メチアル首相の政権運営に反発した閣僚・党員の離党が相次ぎ、94年3月、メチアル内閣は退陣し、代わって左派・中道・右派のモラフチーク大連立内閣が成立、経済の立て直しを目標に緊縮財政を導入し、一定の成果を上げた。しかし、94年秋の選挙ではメチアル党首の民主スロバキア擁護運動(HZDS)が勝利し、極右と極左を取り込み、再びメチアル政権が発足したが、その権威主義的な政治手法等は西側諸国から批判を受けた。その後98年9月に行われた総選挙ではHZDSは第一党になったものの、合計議席数が過半数を超えた野党4党がスロバキア民主連立(SDK)のズリンダ党首を首班とする新内閣を成立させた。
外交面では、スロバキアは欧州への復帰を目指し、NATO、EUへの加盟を希望したが、メチアル内閣時代には、政治面で民主化が遅れているとの理由で両機構の第一次拡大の対象にはならなかった。ズリンダ政権は、2000年12月にOECD加盟を実現し、EU加盟交渉を行っている。
経済面では、93年の独立後、一時成長が落ち込んだが、94年には積極的な民営化と緊縮財政政策を進め、成長率が上向きに転じた。スロバキア経済はその後も高成長を維持しており(2002年のGDP成長率は4.4%)、インフレ率も東欧諸国の中では最も安定している。他方、内需拡大に伴う貿易赤字の増大、財政赤字拡大の問題が顕在化し、銀行の不良債権の増大等構造的問題も深刻化した。ズリンダ政権は、財政赤字・経常赤字削減、銀行民営化等による経済基盤強化と失業率の低下を目指している。
我が国との関係では、97年3月にメチアル首相、98年2月にコヴァーチ大統領、2000年3月にクカン外相、同年12月にミガシ国民評議会議長が訪日している。我が国からは97年6月に高村外務政務次官、2000年9月に浅野外務政務次官、同年10月に清子内親王殿下、2001年8月に綿貫衆議院議長が同国を訪問した。