モンゴルは、長らく社会主義に基づく国家建設を進めていたが、90年以降は、民主化と市場経済体制への移行に努め、改革を進めている。
政治体制は、それまで人民革命党による一党独裁であったが、90年以降、国家元首としての大統領制、複数政党制の採用、自由選挙の実施等民主化が急速に進展した。96年の総選挙では民主連合が過半数を占め、史上初めての政権交代が行われた。首相に選出されたエンフサイハン民主連合議長は、大胆な行政機関の統廃合、公共料金の自由化、国営企業の民営化、自由貿易政策の徹底といった諸改革を実施した。これに対し97年5月の大統領選挙では、与野党の関係にバランスを求める国民が、野党人民革命党のバガバンディ党首を大統領に選出した。
98年から99年にかけて、モンゴル内政は不安定な状況を見せた。すなわち、この間、内閣総辞職が三度にわたって行われ、一時は5箇月近くも新首相・内閣が決まらず、前内閣が代行するという異常な事態も見られた。この背景には、議員の閣僚兼職を認め、議院内閣制を全うしようとする動きのほか、銀行政策の失敗をめぐる首相候補に対する大統領の拒否・与党内の分裂等があった。また、カジノ建設をめぐる汚職問題があり、与党民主連合議員が逮捕され、政権に対する批判が強まる結果となった。
2000年7月、モンゴルで第3回総選挙が行われた。選挙前の予想では、野党人民革命党が優勢とされていたが、結果はその予想をはるかに超え、76議席中72議席を人民革命党が獲得する一方的な結果となり、与党民主連合に対する国民の強い不満を示すものとなった。4年振りに政権に返り咲いた人民革命党にとって、貧困対策を始めとする社会・経済政策の実施が重要な課題となっている。首相には、エンフバヤル人民革命党党首が就任した。2001年5月、大統領選挙が行われ、人民革命党の推薦するバガバンディ候補(現大統領)が、民主党の推薦するゴンチグドルジ候補(前国会議長)に得票率で約20ポイントの差をつけて勝利した。これにより、人民革命党による大統領、国会、政府の権力掌握が実現した。なお、2002年の総選挙後、計3回の補選が行われたが、人民革命党が3連勝している。
経済面では、2000年、2001年の実質GDP成長率はそれぞれ1.1%、1.0%となり、94年以降、プラス成長を維持している。2001年のインフレ率は8.0%と前年並となり、目標値(10%)よりも低く抑えられた。財政収支面では赤字幅が2000年の赤字額約786億トグログ(1トグログ≒0.1円)から2001年は455億トグログに減少し、若干の改善が見られたが、2002年には約700億トグログと増加した。一方、貿易赤字は2000年の1.48億ドルに対し、2001年は1.70億ドルと増加している。ここ数年の貿易赤字は、モンゴルの主要輸出品である銅、金及びカシミヤの国際価格が低迷していることが影響している。また、99年から2000年の冬期、及び2000年から2001年にかけての冬期の2回にわたり、雪害(ゾド)が発生した。このため1年目の雪害で家畜約225万頭、2年目には約350万頭が斃死し、多数の牧民とモンゴル経済に大きな打撃を与えた。2002年夏は雨が少なく、全国的に干ばつ気味であった上、8月中旬頃には中西部地方及び首都近郊で山林・草原火災が発生し、越冬への悪影響が懸念された。