[9]ミャンマー

1.概   説

 88年、ミャンマーにおいては、26年間にわたる一党独裁社会主義体制の下での政治的閉鎖性及び経済困難に対する不満を背景に、全国的な民主化要求デモが発生した。国軍はこれを鎮圧するとともに全権を掌握し、国家法秩序回復評議会(SLORC)を組織した。SLORCは、総選挙実施後に政権を移譲する旨公約し、90年5月に総選挙を実施したものの、アウン・サン・スー・チー女史率いる国民民主連盟(NLD)が8割以上の議席を獲得し圧勝した結果を尊重せず、現在まで政権移譲を行っていない。なお、SLORCは、97年11月、国家平和開発評議会(SPDC)に改組された。
 89年から95年まで自宅軟禁措置を受けたスー・チー女史は、釈放後、厳しい政府批判を繰り返した他、NLD独自の憲法起草、国会を代行する委員会の召集等の動きを取ったのに対し政府側が強く反発し、両者の対立は次第に厳しさを増していった。2000年8月から9月にかけて、スー・チー女史が二度にわたり地方を訪問しようとしたのに対し、政府がこれを阻止し、同女史を自宅に強制送還して行動制限措置を課すとともに、同行したNLD党員多数を拘束した。
 そのような厳しい対立が続く中、我が国をはじめとする国際社会や、2000年4月に国連事務総長特使に就任したラザリ氏(マレーシア元国連大使)の働きかけもあり、2000年10月、ミャンマー政府とスー・チー女史との間で直接対話が開始された。
 本件対話開始後、政府は、2001年1月から現在まで、NLD所属国会議員を含め政治犯550余名を釈放してきた。その他、政府は、国営メディアにおけるスー・チー女史・NLD非難の中止、NLD地方支部の活動再開許可等の措置を取り、2002年5月にはスー・チー女史に対する行動制限措置も解除した。
 現政権は、88年成立当初、国際的に孤立していたが、中国とは、政治・軍事・経済各面にわたる特に緊密な関係を築いている。その後、東南アジア諸国等の近隣諸国と要人訪問等を通じ徐々に関係を強化するようになり、97年7月にはASEAN加盟を実現した。ASEAN各国は、内政不干渉を原則としつつも、経済面を中心とした交流を強めながらミャンマーとの関係を強化していくアプローチを推進している。
 前政権は、62年以降、農業を除く主要産業の国有化等社会主義経済政策を急速に進めたが、その閉鎖的経済政策等により外貨準備の枯渇、生産の停滞、対外債務の累積等経済困難が増大し、87年12月には国連より後発開発途上国(LDC)の認定を受けるまでに至った。88年に成立した現政権は、市場主義経済への転換を掲げ、法整備や外国投資の受け入れ等を実施し、92―95年度には年平均成長率7.5%を達成した。しかし、97年以降は、主要輸出品である米の不作やアジア経済危機の影響等により伸び悩んでおり、公式統計では2000年発表で13.6%とかなりの経済成長を実現しているものの、実体経済は極めて低迷していると考えられる。とりわけ、現政権による経済活動への統制強化(慢性的な外貨不足に対する外貨管理政策(輸入制限の強化、外国送金規制、輸出産品の国家管理の拡大、輸出税適用品目の拡大)の導入)などが同国の経済成長にとって大きな障害となっており、外貨不足や為替の下落、物価の高騰が継続し、国民経済を圧迫している。

(参考1)主要経済指標等
(参考2)主要社会開発指標

 このような経済状況の低迷を反映して、電力設備、通信設備、道路・港湾・鉄道設備などの基礎生活インフラ整備が遅れている他、保健・医療、教育分野といった基礎生活分野の立ち遅れも顕著である。
 我が国とミャンマーは、政府間のみならず国民各層における交流を通じ伝統的に友好関係にある。こうした伝統的な二国間関係を基本として、現政権に対し民主化及び人権状況の改善を促すべく粘り強く働きかけてきている。2002年8月には川口外務大臣がミャンマーを訪問し、タン・シュエSPDC議長等の政府要人及びスー・チー女史の双方に対し、民主化に向けた動きを評価した上で、両者間の対話の更なる進展につき働きかけを実施した。また、2001年11月及び2002年11月に開催されたASEAN+日中韓首脳会議の際には、小泉総理がタン・シュエSPDC議長兼首相と会談を行い、ミャンマーの民主化等につき直接働きかけを行った。
 我が国との貿易額は、2001年で、我が国からの輸出約187百万ドル、我が国への輸入約102百万ドルとなっている。ミャンマーにおける我が国企業の投資は、諸外国と比較して低調で、2002年末時点での対ミャンマー投資の累積認可額は、約2.1億ドルで第9位となっている。

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