[8]マレーシア

1.概   説

 マレーシアは、立憲君主国(議会制民主主義)であり、国民は大別してマレー系(63%)、中国系(26%)、インド系(8%)に分けられる多民族国家である。内政上の重要課題として、各民族間の調和を図りつつ、相対的に貧困なマレー系の経済的地位を引き上げることを目的とした「ブミプトラ政策」(マレー系優遇政策)を進めている。現在、マハディール首相(81年就任)は、調和がとれ安定した複合民族国家の構築のために人造りを重視し、発展の経験や労働倫理・経営哲学等を我が国及び韓国に学ぶ「東方政策」を推進している。
 内政面では、2002年6月、81年に首相に就任後、強いリーダーシップを発揮してマレーシアを発展させてきたマハディール首相が退陣を表明した。同首相は、2003年10月にマレーシアで開催のイスラム諸国会議後に首相職を退き、アブドラ副首相が首相に昇格する予定となっている。アブドラ副首相が首相に昇格することは規定の路線であり、今次政権交代に伴う内政及び経済の混乱は予見されない。
 外交面では、ASEAN諸国との協力、イスラム諸国との協力、非同盟外交(G15の推進等)、南南協力及び対外経済関係の強化等を外交政策の基本としており、マハディール首相就任以降は、「東方政策」に基づき、我が国及び韓国との関係が緊密化している。同国は、小国・途上国の立場・権利の擁護を主張するなど、途上国のスポークスマン的役割を果たしている。
 かつてはゴムと錫中心の典型的なモノカルチャー型経済であったが、85年以降急速な工業化政策(外資規制緩和)を通じて著しい経済成長を達成し、成長率は88年以来9年連続8%を超える成長を遂げた。一方、インフレ率は、3.5%に抑えられており、政府の目指す「インフレなき持続的経済成長」はほぼ達成されていた。
 このように、80年代後半からマレーシア経済は極めて順調に推移してきたが、97年のアジア経済危機の影響を大きく受け、98年にはマイナス成長を記録した。マレーシア政府は、当初よりIMFによる支援を仰がず、独自に緊縮型の経済政策をとってきたが、経済の悪化に歯止めをかけるべく景気刺激策に転換し、不良債権処理や金融機関のリストラにも取り組み、また98年9月、為替管理措置、固定相場制(1USドル=3.8リンギ)を内容とした政策を導入した。こうした政府の景気刺激や我が国による大規模な資金援助等により、経済は急速に回復に向かった。99年第2四半期からプラス成長に転じ、製造部門の輸出増加等の貢献により、経済成長率は99年は5.4%、2000年は8.5%となった。しかし、2000年末から顕在化した米国経済の減速の影響により2001年のマレーシア経済は減速したが(経済成長率0.4%)、2002年に入り、国内消費、外需に支えられ、回復基調にある。なお、98年9月に導入された短期資本の規制は完全に撤廃された。
 マレーシア政府は、20001年4月に今後5~10年間のマレーシア政府の基本的経済・社会運営方針を定めた第3次長期総合計画(OPP3。2001―2010年の計画)と第8次マレーシア計画(8MP。2001―2005年)を発表し、「持続可能な成長路線」、「回復力と競争力」を持つ経済の確立が目標として定められた。特にマレーシア経済を労働集約型から知識集約型の知識基盤経済(Kエコノミー)に移行し、情報通信技術の向上、人材の育成、情報インフラの整備を積極的に進めるとともに、産業の生産性・効率性向上等を目指そうとしている。政府は8MPにおいて5年間の目標経済成長率をOPP3に沿い、年率7.5%としている。

(参考1)主要経済指標等
(参考2)主要社会開発指標

 我が国との関係は、「東方政策」に象徴されるように全般的に極めて良好である。政府間交流も活発に行われており、マハディール首相は61年に初来日し、近年は毎年2~3回我が国を訪問している。また、我が国からも小渕総理(98年)、常陸宮同妃両殿下(2000年)等の要人がマレーシアを訪問している。2002年、我が国は、マレーシアにとって第2位の貿易相手国であり、また、マレーシアの対日輸入は輸入総額の17.8%(第1位)、対日輸出は輸出総額の11.2%(第3位)を占める。我が国への輸入は機械・機器やLNG、我が国からの輸出は電気機械(半導体を含む)や一般機械等である。対マレーシア投資は、97年度971億円、98年度658億円、99年度586億円、2000年度は256億円、2001年度は320億円であった。日系進出企業は1,368社(2002年3月時点)の主要投資業種は製造業、商業・サービス及び金融関係で、地域的にも首都に近いスランゴール州のみにとどまらず、ジョホール、マラッカ、ケダ州など地方への進出が見られる。

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