[7]ベトナム

1.概   説

 べトナムは、86年より「刷新(ドイモイ)」路線を打ち出し、市場経済原理の導入等経済を中心とする開放化を進めるとともに、IMF・世銀との協調の下で構造調整計画を実施してきている。また、ASEAN、我が国、中国、韓国などの近隣諸国や米国を含む西側諸国との関係改善・拡大を目指すとの全方位外交政策をとっている。
 べトナムは、憲法に定めている「共産党一党支配」を堅持し、政治的多元主義は導入しないとの方針をとっているが、92年の国政選挙以来、共産党等の推薦がなくとも議員に立候補できる制度が導入されたほか、95年には社会主義国で初めて民法を制定している。2001年4月には第9回ベトナム共産党大会が開催され、マイン新書記長を頂点とする新指導部が誕生した。アジア経済危機からの持続的回復を図る上でもべトナム経済の競争力強化が急務となっており、また、ASEAN加盟国として貿易・投資の自由化促進の義務を負う等、べトナムは引き続き改革課題を抱えている。
 べトナムは、中国との関係正常化やASEANへの加盟など、近隣諸国との関係改善を急速に進めてきた。また、世界及び地域経済の枠組みへの参加も積極的に進めている。具体的には、95年1月にWTOに加盟申請、96年1月からはAFTA(アセアン自由貿易地域)に参加し、2006年までに共通実効特恵関税(CEPT)協定に基づく関税削減を目指している。98年にはAPECに加盟した。米国との関係改善も徐々に進展し、95年8月の外交関係樹立を経て、2000年7月には、米越通商協定が締結され、2001年12月に発効した。また、98年12月にはハノイでASEAN公式首脳会議を開催し、2001年7月にはASEAN議長国として、一連の閣僚会合を主催するなど、ASEANのメンバーとしての役割も本格的に果たしつつある。
 86年以降の財政赤字の削減、金利政策の実施、変動為替相場制の採用等といった経済面での刷新(ドイモイ)政策の効果が89年頃より現れはじめ、国民一人当たりのGDPは、390米ドル(2000年、IMF)と経済的水準は未だ低いものの、概ね良好なマクロ経済の実績を示してきた(91~2000年の平均GDP成長率7.5%を達成)。
 慢性的な貿易赤字基調に加え、97年のアジア経済危機に際しては自国製品の輸出不振、外国民間投資の大幅減少等により、GDP成長率が98年5.8%、99年4.8%へと大きく減速したが、外資奨励・輸出促進に関する具体的施策を打ち出す等、現状打開に向けた努力を行ってきたこともあり、2000年以降年率7%前後の成長率を維持しており、経済全体としては、ようやく回復基調に入ったと言える。
 また、経済に占める農業の割合は大きく、総労働人口の約70%が農業に従事している。コメについては、89年より輸出が可能となり、現在、タイに次ぐ世界第2位の輸出国となっている。一方、洪水被害によるコメ生産量の伸び悩みや国際価格の低下などの困難も存在する。
 外国投資は96年85億ドル(325件)に達したが、その後、投資環境整備の遅れやアジア通貨危機の影響により、2000年は約20億ドル(355件)、2001年は約25億ドル(518件)と回復基調にはあるもののかつての勢いは後退しており、更なる投資環境改善が急務となっている。但し、2002年は、約15億ドルと投資額は少ないものの投資件数では754件と過去最高を記録した。投資の形態が変化してきており、大型案件より小型案件が増えてきている。2002年1月に小泉総理が打ち出した「日・ASEAN包括的経済連携構想」の日越二国間の取り組みにおける具体的な第一歩と位置づけられる。

(参考1)主要経済指標等
(参考2)主要社会開発指標

 78年末のカンボジア侵攻以降、我が国との関係は停滞していたが、91年10月のパリ和平協定署名の後、我が国とは、本格的な関係強化が進められ、幅広い交流が進んでいる。2002年4月には小泉総理がベトナムを訪問し、また、同年10月には、マイン書記長が党書記長としては7年振りの公賓として訪日して、それぞれ小泉総理と首脳会談を行った。
 日・べトナム間の貿易は、従来低い水準にあったが、近年は着実に拡大し、2001年は対日輸出が約3,168億円、輸入が約2,164億円になっている。我が国への主な輸出品目は、繊維品、原油、海産物(エビ、イカ)等であり、我が国からの主な輸入品目は機械、電子機器、繊維製品等である。

前ページへ 次ページへ