[2]タ  イ

1.概   説

 タイにおいては、92年の民衆と警察・軍の衝突による流血事件以降、議会制民主主義のルールに則った文民政権の交代が行われ、97年に国民の参加を得て起草された新憲法が制定されるなど、民主主義の着実な定着が見られる。
 97年7月のバーツ暴落に端を発する経済の悪化の中成立したチュアン政権は、IMFと協調しつつ金融セクターの再建を含む構造改革に努めた。しかし、2001年1月、国民が経済回復の実感が未だ得られない時点で任期満了による下院総選挙が行われ、草の根レベルの経済発展を掲げたタクシン党首率いるタイ愛国党が過半数に迫る議席を獲得し、他の政党と連立し、安定多数を確保した上で、同2月にタクシン党首を首班とする新内閣が成立した。2001年8月には、タクシン首相の不正資産疑惑について、憲法裁判所の無罪判決が下され、政権の不安定要因が取り除かれ、政権の安定性が更に高まった。安定した政権基盤を背景に、タクシン首相は種々の経済政策を積極的に実行し、2002年の経済成長率は経済危機以降最高の5.2%を記録した。タクシン首相は高い支持率を背景に、積極的に内外の諸課題に取り組んでいる。外交面では、タイは伝統的に近隣諸国との友好関係維持を中心としたASEAN重視政策を基盤に置くと共に、我が国、米国、中国等との協調に努めてきている。タクシン政権は、近隣諸国との関係の発展を図ると共に、アジア地域の潜在力の結集をコンセプトに、アジア協力対話(ACD)、アジア・ボンド・ファンド構想等、地域における様々なイニシアティブを積極的に打ち出している。また東ティモールPKOやアフガニスタン復興のための部隊派遣等、地域及び国際社会の課題に対しても積極的な役割を果たす姿勢を示している。経済面では、97年に発生した経済危機に対し、タイ政府は我が国やIMF等国際社会からの支援を受けつつ、構造改革を含む経済再建に努力、99年には財政政策を含む景気対策、輸出の好調などにより経済は回復基調に転じ、2000年6月をもってIMFの構造調整プログラムを終了した。タクシン政権は、草の根レベルからの経済回復を掲げて政権を発足させ、従来の輸出主導による経済の牽引に加え、農民、中小企業等を重視したボトムアップ型所得拡大策による国内需要の活性化を目指すことを訴えている。具体的政策としては農民債務の一時モラトリアム、村落における開発基金の創設、一村一品運動、マイクロ・クレジットである国民銀行の創設等のボトムアップ的な所得拡大による内需拡大策をとるとともに、中小企業育成等による国内産業の強化と海外投資の積極的な誘致による国際競争力の向上を目指している。タクシン政権のボトムアップ政策の奏功と見られる個人消費の活性化等により、最近は経済の回復傾向が見轤黶A2002年の経済成長率は5.2%と経済危機後最も高い数字を記録した。
 第9次経済社会開発5カ年計画(2001―2006年)は、プーミポン国王陛下が提唱した「足るを知る経済」を強調し、従来ともすれば、経済成長を重視しがちであった政策を、持続可能な成長を目指すようになった。具体的目標として、平均経済成長4―5%、インフレ率3%、経常黒字の対GDP比1―2%の維持、貧困者比率12%以下(最終年度)、タイの労働者の教育水準を50%以上を中学校卒業とする(最終年度)、森林保護区の対国土面積25%以上、を掲げている。

(参考1)主要経済指標等
(参考2)主要社会開発指標

 我が国とタイは、両国の皇室・王室の親密な関係を基礎とする伝統的友好関係に加え、60年代からの日本企業の進出、特に80年代後半以降の我が国の対タイ投資の急増により、両国の経済関係は急速に深まっている。
 タイにとり我が国は貿易額、投資額、援助額とも第1位の地位にある。我が国とタイとの貿易関係は、タイが生産に必要な資本財を日本からの輸入に頼っているために、恒常的にタイ側の赤字となっている。2001年の我が国の対タイ輸出は139億ドル、対タイ輸入は100億ドルである。対タイ輸出主要品目は機械機器、金属、化学など、輸入主要品目は工業製品、食料品(エビ等)、原料品(生ゴム等)等となっている。
 タイへの直接投資のうち我が国からのものは外国投資総額の約4割を占めており(2001年)、各国中第1位である。従来は製造、流通を中心とした輸入代替型投資が主流であったが、85年以降の円高などを背景にタイを輸出基地としての生産拠点とする動きが本格化し、投資額は80年代後半から著しい伸びを示した。経済危機に際しても、日本からの投資企業は、概ね撤退の動きを見せず現地に止まったことに対し、タイ側から高い評価を受けた。

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