(1) 1970年に英国から独立した。94年の総選挙でランブカが首相に再任され、その後、人種差別的と批判のある90年憲法の見直しが検討され、97年7月に憲法修正案が可決、承認された。この憲法修正は、98年7月に発効し、国名は「フィジー共和国」から「フィジー諸島共和国」に変更された。99年5月の総選挙では、労働党を中心とする野党連合「国民の連合」が大勝し、労働党のチョードリー党首が初のインド系の首相に就任したが、2000年5月、フィジー系実業家・スペイトが率いる武装グループによる議会占拠事件が発生し、首相を含む閣僚約30名が人質として拘束された。5月29日、バイニマラマ軍司令官が法と秩序の回復と人質解放を目指すとして全権を掌握の上、戒厳令を布告。マラ大統領は辞任し、現行憲法は廃止された。その後軍側とスペイト側の交渉が行われ、7月13日に人質全員が解放された。同日、伝統的首長者会議(GCC)がイロイロ前副大統領を大統領に任命、28日にガラセ・フィジー商業銀行総裁を首相とする暫定文民政権が発表された。
(2) 外交面では、従来より、(イ)英連邦諸国(フィジーは87年のクーデター後、英連邦から脱退したが、97年9月に再加盟、2000年5月の議会占拠事件を受け、現在、英連邦評議会の資格を停止されている)、特に豪州、ニュー・ジーランドとの関係強化、(ロ)他の太平洋島嶼国との協力関係重視、(ハ)アジアをはじめ各国との友好関係拡大化を基調としてきたが、共和制移行後は特に我が国、韓国、ASEAN諸国等アジア諸国との関係拡大に力を入れている。また、国連をはじめとする国際機関においても活発な活動を展開し、国連の平和維持活動にも協力している。(ニ)首都スヴァには、SPF事務局の他、南太平洋大学や南太平洋応用地球科学委員会の本部が置かれており、地域協力に積極的に参加している。
(3) 経済面では、アジアの経済不振、金の国際価格低迷に加え、長期に及んだ未曾有の干ばつで大打撃を受けた。砂糖きび生産は半減し、98年の成長率は対前年比マイナス3.9%と見込まれる。95年の大韓航空直行便の就航以来、韓国からの観光客が増加しているほか、北米大陸との航空便増加や観光客誘致に努めてきたが、97年末に至り、アジア経済の不振から観光客の対前年増加率は減少し始めている。フィジーは競争力ある低コスト経済を目指しており、財政赤字・財政支出の縮減、公営企業の民営化を推進している。
(4) 近年我が国各都市との直行便の就航等により、我が国からの観光客誘致や投資に期待をかけている。また、94年、97年のランブカ首相訪日(97年は日・SPF首脳会議に出席)など政府要人の頻繁な交流をはじめ、様々なレベルでの交流が盛んであり、対日感情も良好である。更に、98年7月、我が国は両国間の対話を促進するため、堀元駐フィジー大使を団長とする政策対話ミッションをフィジーに派遣した。また、2000年4月、太平洋・島サミットに出席するため、チョードリー首相が訪日した。