囲み24.アフリカ・アジア・ビジネス・フォーラム
 99年10月、国連開発計画(UNDP)の主催により、「アフリカ・アジア・ビジネス・フォーラム」がマレイシアにて開催された。
 本フォーラムは、98年10月に東京で開催された第2回アフリカ開発会議(TICAD02)において、小渕総理(当時)が、アジア・アフリカ間の直接投資と貿易の促進を図ることを目的に、日本の対アフリカ支援策のひとつとして表明したものであり、我が国はUNDPに拠出している「人造り基金」を活用して財政支援を行った。
 第1回フォーラムには、アフリカから25ヶ国計149社、アジアから6ヶ国計129社が参加。アフリカ側で10社以上の企業が参加した国は、ナイジェリア(20社)、ガーナ(16社)、南ア(15社)、ウガンダ(13社)及びナミビア(12社)。アジア側は、マレイシアが73社で突出しており、その他韓国21社、インド16社、パキスタン及びシンガポール各7社等となっている。
 また、参加企業は、国連開発計画(UNDP)が世銀グループの1つである多数国間投資保証機関(MIGA)と連携して、独自のネットワークを使って予め関心を示した企業をリストアップし(アフリカ1000社、アジア800社)、その中から、ビジネス取引の可能性が高いと判断された、自動車部品、食料品加工、電気・電子部品、保健・衛生用具、建材、エンジニアリング等の分野を中心に、最終的には個別面接などを経て上記の数の企業が選定された。
 フォーラムでは、予めMIGAが組み合わせをセットしておいた、アジア企業とアフリカ企業との一対一による交渉、いわゆる「お見合い」が行われ、右を通じて相互にビジネスの可能性を探求した。閉会式の時点で、投資のためのメモランダム調印等取引の合意に達した数は27件に上った。主な取引きの事例としては、インドとマラウィによるショックアブソーバー組立のためのジョイントベンチャー設立、韓国とマリによるスピーカー等の電気部品生産、マレイシアと南アによるインターネットビジネス等が挙げられる。また、モーリシャス企業によるザンジバルにおけるまぐろの加工工場建設や、南アの自動車部品メーカーによるマリでの生産組立等、アフリカ域内の取引も成立した。
 なお、第2回「アフリカ・アジア・ビジネス・フォーラム」は、アフリカでは西部(トーゴー及びガーナ)、東部(タンザニア)、南部アフリカ(南アフリカ)、アジアではマレイシア、インド、パキスタン、韓国、タイ、中国においてそれぞれワークショップを開催した後に、2001年7月、南アフリカにて開催予定であり、ヒッパロス・センターとともに、民間部門の育成に資する南南協力の主要な方策の一つとなっている。


第3節 広域協力への取り組み

 地域によっては、交通網・通信体系の整備など、開発に際し国の枠にとらわれない広域的なアプローチが有効な場合があり、また、感染症・寄生虫症の問題など域内を視野に入れた協力が不可欠な場合がある(注)。更には紛争終了後、敵対していた関係国への復興支援においては両国が等しく裨益するような案件への協力が、紛争の再発を防止する意味からも極めて重要となる場合がある。日本も、これまで複数国にまたがる地域を対象として、より効果的に援助を実施するために様々な試みを行っている。
 例えば、南部アフリカのザンビアとジンバブエの国境を跨ぐチルンド橋は、両国間の人・物資の往来に不可欠であるのみならず、インド洋につながる交通の要衝であるため、南部アフリカ全体にとっても極めて重要な役割を果たしている。しかし、老朽化や、狭い幅員といった構造上の問題が存在し、交通量が制約されていたことから、日本は、99年度から両国に対し新たな橋の建設のための無償資金協力を実施した。建設完了後は、チルンド地域をはじめとする両国のみならず、南部アフリカ開発共同体(SADC)域内の経済発展に寄与することが期待される。また、インドシナ地域を中心とするメコン川流域においても、同地域をタイからヴィエトナムまで横断する「東西回廊」と呼ばれる交通網整備計画が援助国、世銀、ADB等のドナー協調により進められており、日本もこれまで約40億円の無償資金協力を供与し、優先度の最も高い工区約73kmの道路建設に着手している。
 なお、98年度より、複数国にまたがる広域インフラ案件に対する円借款については、関係国の中で最も所得水準の低い国に対する供与条件を一律に適用することとしており、こうした措置を通じて地域協力の進展を促し、支援を強化していくこととしている。

囲み25.メコン河流域総合開発
 メコン河流域開発とは、メコン河流域をその地域的一体性に着目して総合的に開発しようとする構想である。カンボディア、ラオス、ミャンマー、タイ、ヴィエトナムの5ヶ国と中国の雲南省を流れるメコン河は全長4900km、流域面積79.5万km2(日本の2倍以上)、流域人口は約2億5千万人にも及ぶ。その流域は水資源を中心とする様々な資源に恵まれ、東南アジアにおける開発フロンティアとして古くから注目されてきた。以上を背景に1957年にはカンボディア、ラオス、タイ、ヴィエトナム(当時のヴィエトナム共和国、いわゆる南ヴィエトナム)の4ヶ国で構成するメコン河委員会(MRC)が設立され開発推進の機運が高まったが、ヴィエトナム戦争等一連の政治的混乱により流域開発は永らく停滞した。
 その後、カンボディア和平の実現によりインドシナ半島における政治的安定が実現したことを背景として、90年代に入ってメコン河流域の復興と開発を推進する気運が高り、各種協力が進められた。その後、97年のアジア経済危機により開発の機運は一時失われつつあったが、ラオス、ミャンマー、カンボディアのASEAN加盟による東南アジアの一体化とそれに伴う域内格差是正に向けた取り組みが強化される中で、流域開発への関心は再び高まりつつある。
 現在、メコン河流域開発を標榜する国際協力の枠組みとしては、MRCやアジア開発銀行(ADB)の進める拡大メコン圏(GMS)経済協力プログラム、日本が提唱した「インドシナ総合開発フォーラム」等の各種イニシアティブがあるが、日本とADBが流域開発を主導しているのが実状である。
 日本は従来よりこの地域に高い関心を有している。93年に当時の宮澤総理がインドシナ地域全体の調和のとれた開発につき意見交換する場として「インドシナ総合開発フォーラム」の設立を提唱し、95年に開催された同閣僚会合では、民間活力の活用、広域開発アプローチの推進、経済・法整備分野における人材育成の必要性が強調された。また、96年7月には政府関係者・専門家からなるタスクフォースにより、「大メコン圏開発構想報告書」がとりまとめられ、今後の当該地域の開発において、特に、01国境を跨ぐ基盤産業整備の積極的推進、02ラオス、カンボディアでの重点的推進、03メコン河などの国境を跨ぐ天然資源の開発と環境保全のバランスの維持、の重要性が指摘された。
 更に、「メコン河流域開発に関するワークショップ」(98年11月:日本とADBの共催)や「大メコン圏(GMS)総合開発シンポジウム」(99年4月:ESCAP主催、日本が財政支援)を開催し、この地域における「広域アプローチ」の重要性や、流域開発の推進力として期待されているタイ東北部ーラオス南部ーヴィエトナム中部を結ぶ「東西経済回廊」プロジェクトの方向性等を話し合い、流域開発のモメンタム強化を図った。
 2000年6月に行われたアジア太平洋経済社会理事会(ESCAP)総会では、2000年~2009年を「メコン河流域開発の10年」とすることが決議されたほか、ASEAN各国首脳からも流域開発推進に向けた取り組みの重要性が随時表明されている。また、2000年10月には、域内外のビジネス関係者を集めた「GMSビジネス協力会合」が開催され、民間部門の関与を一層強めていく方向性が打ち出された。このようにメコン河流域開発への関心は再度高まりつつあり、流域諸国に対するトップドナーたる日本としても、流域諸国やADBをはじめとする主要ドナーと共同で開発を推進していくことが望まれる。


トピックス:14.ジョルダン川に架かる中東和平のシンボル
 イスラエル・ジョルダンの国境、ジョルダン川に架かるシェイク・フセイン橋は、1948年の第1次中東戦争で破壊されたまま架け替えられることなく放置されていた。
 しかし94年に両国間で平和条約が締結され、北のシェイク・フセイン橋と南のワーディ・アラバの二ヵ所で国境が開放されることとなったことから、軍用の仮設橋が架けられた。しかし仮設橋の床板は木製、幅も狭く、両国間を行き来する交通需要にとても耐えられるものではなかった。その後、イスラエル・ジョルダン運輸協定が締結されたこともあり、仮設橋から本格的な橋建設への要望が高まっていった。こうした状況の中、ジョルダン政府は橋の架け替え計画を策定し、日本に無償資金協力を要請した。村山総理(当時)は95年の中東歴訪時に、日本の中東和平への積極的な貢献の一環として、仮設橋の架け替えに対し協力の用意を表明した。そしてシェイク・フセイン橋は、98年3月に完工、ジョルダンの国境施設の移設・整備の後、98年12月に使用が開始された。
 シェイク・フセイン橋の完成は、両国経済にとって大変に大きな意義を持つ。ジョルダン唯一の港であるアカバより、首都アンマンから近い地中海に面したイスラエルの商業港ハイファを用いた物資の輸送が可能になり、またイスラエルを訪れる観光客等の、ぺトラ遺跡等ジョルダンの観光名所への回遊が期待できるという。
 99年8月の同橋の開通式典にはジョルダン、イスラエル両国の外相、及び当日ジョルダンを訪問中であった中馬衆議院外務委員長(当時)一行等が出席、外国からも多くの報道陣が取材をし、世界的に注目されることとなった。
仮設橋
完成後のシェイク・フセイン橋


トピックス:15.ジョモ・ケニヤッタ農工大学
 アフリカにおいては、GDPと雇用の創出を支える主要産業たる農業及び輸出産品の多様化と所得増大を可能にする工業の開発が、経済成長と貧困削減を実現し、国造りを進める上での課題となっている。
 77年、農・工業分野での技術者不足が課題であったケニア政府は、職業技能訓練に重点を置いた新大学設立のため日本政府に協力を要請した。日本側は、ケニア側の要請を踏まえ、無償資金協力による校舎の建設、機材の整備への支援を行った後、実際の職業技能を教えるための技術協力を開始した。
 当初は、専門学校レベルの教育機関であった同校だが、恵まれた実験施設、実践的な教育が評判を上げ、設立から約15年後の94年にはケニアで5番目の国立の総合大学に格上げされた。
 このため、現地の教師達は、進路指導の際、農学・工学分野を希望する学生に対しては、一般にケニアの最高学府と呼ばれるナイロビ大学よりもジョモ・ケニヤッタ農工大学を進学先として勧めると言われている。
 この協力に携わった専門家は延べ約530名、青年海外協力隊員は約110名、日本で研修を受けたケニア人スタッフは約230名に上る。人材育成に対する協力はその効果が表れるまでに時間がかかるものであるが、20年に亘る息の長い、地道な努力が実を結んだものと言えよう。
 総合大学となった今も、職業技能訓練重視という建学の精神は変わっていない。また、国内各地の農民の女性リーダーを対象に大学の農場を使用した研修を行うなど、開発における男女平等参画というジェンダーの視点を踏まえた職業教育も行われている。
 更に、本大学施設を使用した第三国研修も行われており、アフリカ各地から研究者や実務者が参加する等、地域の人造りの拠点としても機能している。2000年8月には、本大学を中心とする「アフリカ人造り拠点プロジェクト」が開始され、ジョモ・ケニヤッタの成功をアフリカ域内に稗益する試みが始まっている。同プロジェクトには日本も積極的な支援を検討しており、いわゆる「南南協力」支援の代表例といえよう。
 ジョモ・ケニヤッタ農工大学は毎年約500人を超える卒業生を送り出している。日本からの協力プロジェクトは2000年4月をもって終了したが、ケニアの農工業を支える卒業生達の今後の活躍を見守っていきたい。
ジョモ・ケニヤッタ農工大学第三国研修修了式



(注) 98年のバーミンガム・サミットにおいて橋本総理(当時)が提唱し、TICAD02においても取り上げられた、国際寄生虫対策のための「人造り」と「研究活動」を推進するためのセンター(拠点)をアジアとアフリカに設置するとの構想を実現するため、現在準備が着実に進められている。そのうち、アジアにおける拠点はタイのマヒドン大学熱帯医学部とすることが決まり、2000年度から「国際寄生虫アジアセンター・プロジェクト」として人材育成を中心としたプロジェクト型技術協力及び第三国研修が開始されている。

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