[4]クロアチア

1.概  説

(1) クロアチアは、1991年6月に旧ユーゴーからの独立を宣言した。これを契機に、国内のセルビア系住民勢力がクロアチアからの独立を宣言したことにより、内戦に発展した。その後、国連PKOの展開もあり、情勢は一旦沈静化したが、95年にクロアチア政府がセルビア系住民勢力の支配地域に軍事攻勢をかけ、セルビア系住民居住地域のほとんどを武力制圧、多数のセルビア系難民の流出を招き、国際社会の非難を浴びた。この武力攻勢を免れた東スラヴォニアについては、95年11月、国連等の仲介でクロアチア政府と国内のセルビア系住民代表との間で和平合意が成立し、UNTAES(国連東スラヴォニア暫定機構)が設立された。UNTAESは概ね順調に98年1月に任務を終了し、東スラヴォニアの施政権はクロアチア政府へ移管された。現在、欧州安全保障協力機構(OSCE)クロアチア・ミッションが同地域の人権監視等を行っている。
(2) 独立達成後は、欧州諸国との関係を強化し西欧民主主義国家の仲間入りを果たすことを目指し、92年5月には国連に加盟し、同年7月にはOSCEの加盟も認められた。欧州評議会へは96年11月加盟が承認された。しかし、故トゥジマン大統領が率いるクロアチア民主同盟(HDZ)を与党とする政権は、民族主義的・非民主的政策を展開し、セルビア系難民・避難民のクロアチア帰還、メディアの自由化、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの和平合意の履行等で十分な努力を行わなかったとして、国際社会の非難を浴び、国際的にも孤立状態に陥り、国内経済も厳しい状態にあった。
(3) 1999年末から2000年初頭にかけてクロアチアでは大きな民主的変化があった。即ち、1999年末、トゥジマン大統領が病死すると、国民のHDZ離れが一気に加速し、2000年初頭に行われた下院議員及び大統領選挙においては、社会民主党(SDP)を中心とする野党連合が勝利し、HDZ政権は名実ともに終りを告げた。クロアチアの民主化・経済発展を掲げる新政権は、クロアチアのセルビア人難民の帰還に積極的に取り組む姿勢を見せており、2000年3月、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのスルプスカ共和国(セルビア系住民主体)との間に、難民帰還に関する合意を締結。また、旧ユーゴー国際刑事裁判所との協力関係も良好である。クロアチア新政権のこうした取り組みは国際的にも評価されており、国際関係において次のような進展が見られた。
(イ) 5月、NATOの「平和のためのパートナーシップ(PFP)」の26番目の加盟国となった。
(ロ) 6月、EUは、クロアチアとの安定化協力協定の交渉開始を決定。
(ハ) 6月、クロアチアのWTO加盟に関するEU・クロアチア間の議定書が署名され、クロアチアのWTO加盟が間近となった。
(4) クロアチアは元来石油や天然ガス、ボーキサイト等の資源に富み、重化学工業が発達した旧ユーゴースラヴィアの経済先進地域であり、独立後中央銀行の設立、民営化法の制定、外国投資法等が実施されたが、独立をめぐる内戦により経済は不振を続けた。93年には経済安定化プログラムを導入し、インフレ、財政赤字が抑制され、94年以降は経済は安定的に推移している。主要産業の観光業は回復基調にあり、その収益により経常収支はほぼ均衡するまでになっているが、鉱工業は内戦で設備の約30%が破壊されたといわれ、低迷を続けている。
 大企業を除き民営化・市場経済化がほぼ達成され、実質的固定為替制によりインフレ抑制、通貨安定にも成功している反面、98年に導入された22%の付加価値税を含む極端に高率の税制は経済活動を困難にしているほか、物価高、低年金等への国民の不満が強い。また、政府の過大な財政支出が対外債務の増大につながっている。

(参考1)主要経済指標等
(参考2)主要社会開発指標

2.我が国の政府開発援助の実績とあり方

 クロアチアにおいては、政府開発援助実施以前に日本のNGOが我が国のNGO事業補助金を受けて、病院施設や医療機材を充実させ、難民等に対する医療事業を行っていたが、96年11月の欧州評議会加盟、12月グラニッチ副首相兼外相の訪日を機に、クロアチアを我が国の技術協力、文化無償の対象国とすることを決定した。この決定を受け、97年3月には経済協力政策協議を実施し、同国の協力ニーズが避難民の帰還・再定住、環境、行政機関の機能強化と市場経済化支援であることを確認した。その結果を踏まえ、同年4月にプロジェクト形成調査団を派遣し、環境分野での情報収集を行った。また、97年度より研修員受入れを開始し、環境・産業政策等の分野を中心に実施している。

3.政府開発援助実績

(1) 我が国のODA実績
(2) 年度別・形態別実績
(参考)99年度実施草の根無償資金協力案件
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