(1) 第二次大戦後、一党体制が続いていたが、90年に入り東欧の民主化の影響を受けて複数政党制導入等の民主化が進められた。92年3月の選挙後に、戦後初の非共産主義元首として就任したベリシャ大統領(民主党)の政権は、政治の民主化、経済関連等の法体系の整備、経済改革等多くの課題に直面した。
97年1月以降、ねずみ講の破綻を発端とする騒乱が南部地域を中心に発生し、首相の辞任にもかかわらず情勢は沈静化しなかったため、4月から人道援助配給における安全確保等のためイタリアを中心とする多国籍防護部隊約6,000名が各地に展開した。6月の総選挙では、旧体制下で政権にあった社会党が圧勝し、7月メイダーニ大統領とナノ首相が選出され、国際社会の支援を受けて国内秩序の回復と経済再建に努めていたが、98年9月、民主党の有力議員が暗殺された事件を契機に反政府運動が起こり、ナノ首相は辞任、後任に社会党のマイコ書記長が首相に就任した。その後11月には新憲法が発布されるなど、混乱は一応収拾されたが、与野党間の対立は依然として続き、99年10月、社会党の党議長選挙において敗れたマイコ首相は辞任し、メタ副首相が新首相に任命された。メタ政権は、前政権の路線を基本的に踏襲し、汚職対策、治安の改善、法の支配に取り組むとともに、国営企業の民営化を進め、外国からの投資拡大を目指している。
(2) 外交面では、70年代後半から80年代末までは半鎖国的政策をとってきたが、90年にソ連と、91年には欧米諸国と国交を回復、OSCE(欧州安保協力機構)及び世銀、IMFへ加盟した。その後民主党中心の政権はNATO加盟を申請するなど、親西側路線をとった。社会党のナノ政権は、欧州への統合を目標としつつ、他のバルカン諸国との関係改善にも力を入れ、マイコ政権及びメタ政権も基本的に同路線を踏襲している。隣国ユーゴースラヴィアのコソヴォ自治州で9割を占める約180万人のアルバニア系住民の問題については、ナノ首相がユーゴースラヴィアのミロシェヴィッチ大統領と会談するなど穏健な姿勢をとって国内から反発を招いたのに対し、後任のマイコ首相は、コソヴォ・アルバニア系住民自身が決定すべき問題であるとの立場を、また、メタ首相は、コソヴォの特定勢力を支持することなく、各勢力が協力して平和を確立し、自由選挙に導くべきであるとの立場をとっている。
(3) 経済水準は世界でも低い諸国に属する。近年は、経済開発のための外国からの設備・技術導入の必要性から、90年に外資導入を決定する等、経済面での門戸開放を進めた。91年には、G24の支援対象国に加えられている。
91年4月の憲法改正により私有制を承認し、またIMFの支援の下、貿易自由化、価格自由化等経済改革努力を行っているが、計画型社会主義体制から市場経済への移行に伴う混乱により国民生活は一時的にはかえって悪化した。しかし、国際機関及びG24諸国等の援助によって、93年以降は徐々にではあるがインフレ沈静化、為替レートの安定、農業の生産向上等、回復傾向も見られるようになってきた。対外的には大幅な輸入超過による貿易赤字(毎年4~6億ドル)を抱え、外国援助への依存度は高い。
97年のねずみ講による被害の影響で、93年以来高成長を記録していたGDPも97年にはマイナス8%の成長率となった。国内混乱のため国際社会からの援助は緊急人道支援を除き事実上停止していたが、97年10月にアルバニア支援国会合が開催され、短期資金不足及び中期復興計画に対する国際的な支援が再開されることとなった。その後、世銀・IMF等から経済支援を受けて経済活動は回復傾向にある。99年3月のコソヴォ危機後、約40万人のコソヴォ・アルバニア系難民が流入し、経済的悪影響が懸念されたが、むしろ、国内需要が喚起されたのに加え、国際社会からの援助もあって経済は好調であり、99年は前年度比8%増のGDPプラス成長となった。