[1]インドネシア

1.概  説

(1) 98年5月のスハルト大統領辞任、それに続くハビビ副大統領の大統領昇格を経て、新しい選挙制度の下で実施された99年6月7日の総選挙の結果、メガワティ総裁率いる「闘争インドネシア民主党」が第1党になり、次いで「ゴルカル党」、「開発連合党」、「民族覚醒党」が続いた。この選挙結果を受けて、同年10月20日、国権の最高機関である国民協議会において新大統領選出のための投票が行われ、アブドゥルラフマン・ワヒッド・ナフダトゥール・ウラマ(NU:最大のイスラム社会団体の一つ)総裁がメガワティ闘争インドネシア民主党総裁を破って第4代大統領に、また、翌21日にはメガワティ総裁が副大統領にそれぞれ選出された。同月29日、挙国一致的色彩の強い「国家統一内閣」が発足したが、種々の政治勢力から成る同内閣は、短期間のうちに調整大臣2名や経済閣僚2名などが閣外に去る結果となった。
(2) このような中、2000年8月7日から18日まで、国民協議会年次総会が開催され、大統領施政報告に対する各会派からの批判的な意見表明を受けて、アブドゥルラフマン・ワヒッド大統領は内政上の日常的職務遂行を大幅にメガワティ副大統領に委任するとの方針を示し、これによって政治的対立はとりあえず収束する形となった。国民協議会年次総会終了後の8月23日、改造内閣が発表され、注目された経済閣僚は殆どが入れ替えとなった。新内閣の今後の行政手腕が注目されている。
(3) 一方、地方情勢としては、アチェ特別州及びイリアン・ジャヤ州で分離独立を求める動きが活発化したが、インドネシア政府は国家と領土の一体性を保持する姿勢を堅持しつつ、問題解決のために努力している(アチェ特別州については、分離独立を目指す武装組織GAM(アチェ独立運動)との間で「人道的戦闘休止に関する共同了解書」に署名し、治安状況の回復と人権支援の拡充に努めている)。また、マルク州及び北マルク州では1999年1月以降、イスラム教徒系住民とキリスト教徒系住民の間で大規模な抗争が発生し、2000年6月27日、両州に「非常民政事態」宣言が発動されたところ、治安回復に向けた今後の推移が関心を集めている。
 なお、東チモールについては、国連・ポルトガルとの三者協議の結果に基づき、東チモール人の民意確認のための直接投票が99年8月30日に実施され、独立賛成票が80%近くを占めた。同年10月20日、国民協議会において、直接投票の結果を受け入れ、東チモールをインドネシアに統合する旨定めた法令を無効にする等を内容とする決定が採択された。現在、東チモールは国連による暫定統治の下、完全独立を前にした移行期にある。(後述の東チモールを参照)
(4) 外交面では、従来、アジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)、非同盟諸国会議及びASEAN非公式首脳会議への参加、G15、国連における活動を重視するとともに、南南協力への意欲を見せてきており、東南アジアの平和と安定促進を基本とする積極的な自主外交を展開してきた。
(5) インドネシアは、スハルト政権以来、積極的な経済開発優先政策をとり、80年代中頃一時的に経済的困難に直面したものの、80年代後半からは、規制緩和措置等各種施策を通じて経済構造改革を進めてきた。経常収支赤字が拡大傾向(94年度34.9億ドル、96年度81億ドル)、対外債務残高が高水準(94年度965億ドル、96年度1,200億ドル)であったことは留意すべきとしても、通貨危機以前までの経済状況としてはマクロ統計上は全体として良好であったと言える。例えば、第6次5カ年開発計画(94~98年:レプリタ6)の目標値と実績値を比較すると、実質経済成長率の目標値7.1%に対して実績値は7.8%(94~96年度平均)、一人当たり名目GDPの目標値1,280ドルに対して実績値は96年度1,155ドルであった(インドネシア中央統計局資料)。
 しかし、97年7月に発生したアジア通貨・金融危機はインドネシア経済に大きな打撃をもたらした(タイ・バーツの管理変動相場制への移行を機に、ルピアの急激な下落及び著しい短期資本流出が生じ、政府は中銀の介入バンドの拡大(8%→12%)、事実上の変動相場制への移行、政府関連プロジェクトの延期等の諸措置を発表したが、莫大な対外債務等を理由に国際金融市場の不信感はぬぐえず、ルピアの下落は続いた)。以降、インドネシア政府はIMF合意に基づく包括的な経済構造改革、特に、金融セクターの健全性の回復等に関する改革プログラム、更に民間銀行の整理、規制緩和策により、国際市場の信頼回復に努力している。なお、IMFとの最終合意の特徴として、社会的弱者救済のための措置、金融改革に関する具体的内容が盛られていることが挙げられる。97年度の経済状況は、一人当たり名目GDPが1,089ドル、実質経済成長率4.7%、物価上昇率11.1%(96年度6.5%)、対外債務残高1,361億ドル(96年度1,200億ドル)である。また、98年度の経済状況は、一人当たり名目GDPがドルベースで499ドル、実質成長率マイナス13.7%、物価上昇率77.6%と、著しく悪化した。
 99年10月に新政権が発足して以降、インフレの鈍化傾向、投資の拡大傾向、農業の回復傾向等、実体経済に回復の兆しが見られ、インドネシア経済に対する市場の信認も幾分回復してきたが、銀行部門の改革の必要性、民間債務問題、政治・社会動向の不透明感が依然残っている。ワヒッド大統領は、活発な外遊を通じてインドネシア経済への信頼性の回復及び外資誘致を諸外国に働きかけるほか、国内政治勢力と協議を重ね、政争回避によるインドネシア投資環境の向上と経済の回復を最優先課題とすることで意思統一を図ってきている。なお、現政権は、2000年度予算案の基準指標として、経済成長率3.8%、インフレ率4.8%、為替レート1ドル7,000ルピアを設定している。
(6) 我が国との関係では、1958年の外交関係開設以来、主として経済面での相互補完関係を背景として緊密な友好協力関係が築かれている。例えば、ワヒッド大統領は就任後3度訪日している他、99年11月小渕総理(当時)がインドネシアを訪問するなど、日・インドネシア間の首脳同士の対話が頻繁に実施されている。
 また貿易は、石油、ガス、合板、金属原料、魚介類等の輸入により伝統的に我が国の大幅な入超である。インドネシアにおいては国内経済活動の低下から輸入活動が弱まっていることから、貿易収支に黒字拡大傾向が見られる。インドネシアの対日貿易黒字は、経済危機到来前の97年までは減少傾向にあったが、98年と99年は対日貿易黒字は増加しており、99年の対日貿易黒字は77.2億ドルとなった。
 また、我が国はインドネシアにとって最大の投資国である。我が国の対インドネシア投資額(投資調整庁認可ベース)は、67年~99年累計で412.51億ドルと全体の18.0%を占めたが、単年度では経済危機の影響により、対インドネシア投資額は98年及び99年ともに激減しており、99年は対インドネシア外国投資総額109億ドルのうち、6億ドルを日本が投資したのみであった。

(参考1)主要経済指標等
(参考2)主要社会開発指標
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