(1) 91年9月の軍事クーデターによりアリスティド大統領は国外退去を余儀なくされ、国内は事実上軍の支配下に置かれることとなったが、国際社会は民主主義秩序の回復のため、国連安保理決議に基づく経済制裁を実施するとともに、94年7月には、国連加盟国に対して「多国籍軍」の創設を認める国連安保理決議を採択した。米国は、軍指導部の平和裡の退陣を実現するためカーター元米大統領らの特使を同年9月に派遣し、同特使とハイティ軍指導部の間の合意を受け軍指導部はすべて出国し、10月、アリスティド大統領はクーデター以来3年ぶりの帰国を果たした。また、退陣の合意を受け派遣された多国籍軍は、95年3月に国連ハイティ・ミッション(UNMIH)に治安維持等の任務を引き継いだ。97年11月国連安保理において、UNMIHの活動を終了し新たに国連ハイティ文民警察ミッション(MIPONUH)を設立する決議が採択され、98年11月及び99年11月にMIPONUHのマンデートが延長され、2000年3月に活動を終了し、ハイティ国連文民支援ミッション(MICAH)にその任務を引き継いだ。
94年、民主体制復帰後初めての選挙として議会・地方選挙がOAS(米州機構)を主体とする選挙監視の下実施され、95年12月の大統領選挙では、アリスティド大統領の支持を得たプレヴァル候補が約88%の得票率で当選した。
97年10月、大統領の推進する経済改革に対する反対勢力の圧力のため、スマート首相が辞任した。その後、アクレシ首相が任命され、99年3月組閣が行われた。また、97年4月、国連等の支援の下、上院改選及び下院補充選が行われたが、不正があったとして不成立となり、99年1月には上院の1/3議席及び下院の任期が終了したため、国会が機能しなくなった。3月に新選挙管理委員会が発足し、第1回投票が、再三にわたり延期された後、漸く2000年5月に第1回投票が行われ、第2回投票は同年7月に実施された。しかし、上院議員選挙にかかる第1回投票結果の算出方法がハイティ選挙法に沿っていないとして、OAS等国際選挙監視団、国連等を始めとする国際社会及び野党より非難されている。
(2) 経済面では農業が中心であるが、土壌の流出、ハリケーン等の影響、更には肥料、農具、種子不足で生産は大幅に減少した。
ハイティの経済社会開発上の問題は、農業国であるが生産性が著しく低く、見るべき産業のない国土に多数の貧困人口を抱えていることである。更に、失業率も高く(約70%とも言われる)、社会資本、医療、食糧、エネルギー供給等が大きく立ち後れている(例:電気普及率は20%)。また、軍支配下の3年間、援助の中断を含む国際社会の制裁措置により、経済は一層疲弊した。アリスティド大統領帰国後、米国をはじめとする国際社会より経済的援助を受けているが、経済の立ち直りには時間を要し、雇用創出、インフラ整備、教育拡充等が急務の課題となっている。プレヴァル大統領は就任後の96年3月、民営化推進の意向を表明し、長期の審議を経て議会は同年9月末、民営化及び行政改革法案を採択した。それを受けて、IMFの経済構造調整融資130万ドルの実施等が決定された。しかし、IDB、世銀の3.2億ドルの借款は国会承認が得られなかった。
(3) 我が国との経済関係は緊密ではなく、特に91年9月のクーデター以降、OASによる貿易禁止措置への配慮及び96年5月の国連による制裁措置のため、我が国とハイティの貿易は大きく減少した。我が国は、アリスティド大統領帰国後の同国の民主化・経済復興を積極的に支援している。