[1]アルゼンティン

1.概  説

(1) 1989年に発足したメネム政権は、軍部を含む国内各勢力の融和を促進し、民主体制安定に成果を上げるとともに、経済面では、経済自由化、経済構造改革を進め、ハイパーインフレを収束させ経済安定化に成功した。95年には新憲法の下で、メネム大統領が再選されたが、99年の大統領選挙では野党同盟のデ・ラ・ルア候補が勝利し、12月に就任した。
 外交面では、95年に発足したメルコスール(南米南部共同市場)を中心に米州経済統合プロセスに積極的に取り組んでいるほか、ブラジル、チリとの三国関係を戦略的紐帯と定義、米国との協力を謳っている。なお、前政権に引き続き、核不拡散、PKO参画に積極的である。
(2) 経済面では、アルゼンティンの伝統的産業は農牧業で、肥沃で広大な国土に恵まれ、現在も穀物類、皮革、冷凍肉、飼料等の農牧産品及び農牧加工品が総輸出額の約6割を占める。
 70年代には国民総生産に占める工業部門の割合は35%以上となり、いわゆるICS(新興工業諸国)と呼ばれるまでに工業化が進んだ。しかしながら、その後、長年の保護主義的工業育成政策が行き詰まりを見せたため、メネム政権は市場原理に基づく自由化・開放化政策を推進し、構造調整に努めた。
 94年末のメキシコ金融危機の影響により、95年は深刻な不況に陥ったが(95年経済成長率マイナス4.4%)、96年以降は順調に回復(96年4.4%、97年8.4%)し、貿易拡大が顕著となった。しかし、その後アジア、ロシア、ブラジルの金融危機、世界的低成長、一次産品をはじめとする商品価格の下落、高金利といった要因により、輸出は量的に増加しても収入は下落した。98年中頃から経済成長に陰りがみえ、99年はマイナス成長となった。また、メネム政権下の経済改革の結果、経済安定と高度成長を達成した反面、構造改革の影響もあり失業率は高い水準(99年10月時点で失業率13.8%)で推移している。また、ペソの過大評価が指摘される中で兌換法(カレンシー・ボード制、1ドル=1ペソの固定相場)を維持するとともに、緊縮財政を表明しているデ・ラ・ルア政権は困難な経済運営を強いられている。
(3) アルゼンティンは我が国と1898年に外交関係を開設し、伝統的に友好関係にあり、約3万人の日系人・在留邦人(ブラジル、ペルーに次ぐ規模)が在住している。要人往来も盛んで、93年にメネム大統領、96年にディ・テラ外相、97年にルカウフ副大統領が訪日し、94年には河野外務大臣、97年5月には天皇・皇后両陛下がアルゼンティンを御訪問された。特に、98年は日・アルゼンティン修好百周年にあたり、秋篠宮同妃両殿下のアルゼンティン御訪問、メネム大統領の国賓訪日をはじめ、種々の交流行事が両国において成功裡に実施された。
 90年代のアルゼンティンにおける経済の安定化にも拘わらず、我が国からの民営化関連の投資は立ち遅れているが、94年のトヨタ自動車の進出発表以降、財界人の訪亜は着実に増加している。

(参考1)主要経済指標等
(参考2)主要社会開発指標

2.我が国の政府開発援助の実績とあり方

(1) 我が国は、アルゼンティンが伝統的に我が国と友好関係にあること、89年以降の民主体制の定着及び経済の安定化に成功していることを踏まえ、アルゼンティンの所得水準が比較的高いことから技術協力を中心に協力を行っている。
(2) 技術協力は、行政、農業、水産業、工業等の幅広い分野で主に研修員受入れ及び専門家派遣により協力を行い、また、第三国研修を実施している。プロジェクト方式技術協力としてこれまでに農林水産業分野等における協力を行っており、また、開発調査についても鉱工業分野等において多くの協力実績があり、85~86年に開発調査として実施した「経済開発調査」(通称「大来レポート」)がアルゼンティンの経済社会開発に対し基本的な助言を与えるものとして高く評価され、94年度から96年度にかけてその第二弾としての調査を実施し、96年6月に最終報告書をアルゼンティン政府に提出した。
 有償資金協力では、94年度にアルゼンティンに対する初めてのプロジェクト型の円借款として「レコンキスタ川流域衛生環境整備計画」の環境案件を実施した。
 無償資金協力は、水産無償を83、87、88、92年度に行ったほか、多くの文化無償を供与した実績がある。

3.政府開発援助実績

(1) 我が国のODA実績
(2) DAC諸国・国際機関のODA実績

DAC諸国、ODA NET
国際機関、ODA NET
(3) 年度別・形態別実績
(参考)99年度までに実施済及び実施中のプロジェクト方式技術協力案件
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