援助の現場から 11
文化や生活の理解が湿原の危機を救う
~ イラン・アンザリ湿原の環境管理 ~
宮城県伊豆沼で外来魚類の捕獲対策を研修。右端が谷本さん(写真:谷本晋一郎)
イランの北部、カスピ海南部に面した地域に「アンザリ湿原」は広がっています。湿原の広さは193km2に及び、渡り鳥の飛来地として、湿地の保全に関する国際条約であるラムサール条約にも登録されています。イランでは近年、人口増加が続いており、特に湿原の上流域にある都市ラシュトでは、20年間で人口が3倍の約90万人に膨れ上がっています。家庭や工場からの排水、山間部から流れ込む土砂などによって、湿原の環境は急速に悪化しているのです。排水を抑制する法律はありますが、規制は十分ではありません。ラムサール条約には危機にある登録湿地をリストアップする「モントルーレコード」という制度がありますが、1993年、アンザリ湿原は、保全が急務である湿地として「モントルーレコード」に追加されました。
「湿原の水質を調べてみると、窒素やリンなどの値は日本の基準値の2~3倍に上ります。とても自然豊かに見えますが、これは湿原の自浄作用によるもの。汚染が進み、あるレベルに達すれば回復できなくなります。予断を許さない状況です。」こう語るのは、現地で湿原の環境を管理するJICAプロジェクトで総括を務める谷本晋一郎(たにもとしんいちろう)さんです。JICAでは、イランの要請を受け、2003年からアンザリ湿原の調査をスタート。保全に向けたマスタープラン作りなどを経て、2007年11月からは技術協力「アンザリ湿原環境管理プロジェクト」が始まりました。しかし、1年後にプロジェクトは休止。2011年4月の再開後にプロジェクトの総括として現地に赴任したのが谷本さんです。
生態学の専門家である谷本さんは、2001年に開発途上国への支援計画を手がける日本工営(株)に就職。同社が受託したアンザリ湿原のプロジェクトには、2003年の調査開始当初からかかわってきました。「困難だったのは、イラン人を理解し、パートナーであるイラン環境庁のギーラン州局の職員と良好な関係を作ることでした。イラン人は、自らの歴史と文化に高い誇りを持つ民族です。その裏返しとして、保守的であり、閉鎖的でもあり、州局長をはじめ職員はあまり湿原の環境悪化に危機感を抱いていませんでした。パートナーの意識がいかに変わるかが課題でした。」
アンザリ湿原でのエコツアー。宗教的なシンボルであるハスの花の開花時には多くの観光客が訪れる(写真:谷本晋一郎)
プロジェクト遂行に当たっては、行政組織の関係各機関を横断する湿原管理委員会の設立が不可欠でしたが、縦割り行政ではそれは難しいことでした。この状況を打開するため、州局長より強い権限を持つ州知事に対し、日本大使から直接協力を求めることになりました。大使の要請に応え、州知事は陣頭指揮を執って湿原管理委員会を発足させ、関係機関で連携するよう指示を出しました。こうしてプロジェクトは動き始めたのです。
プロジェクトでは、保全に向けた枠組みを作成した上で、環境のモニタリングや社会経済調査、環境教育センターの立ち上げ、エコツーリズムなどを実施。業務が具体的になっていくにつれて、現地の職員の意識は少しずつ高まっていきました。特に、日本での研修プログラムが職員たちの意識を高める絶好の機会だった、と谷本さんはいいます。「研修では釧路湿原などを訪れ、湿地管理について視察や学習をしますが、実際にその目で見て日本の技術の有効性を肌で感じ、保全の必要性やその仕事についての理解を深めることができます。また、日本人の温かいもてなしに触れる中で、日本との関係が心に刻まれ、プロジェクトに対する姿勢も熱心になるのです。」
湿原保全では技術的な支援が多いのですが、支援の前提として日本人とイラン人の間で、お互いの文化や考え方を理解し、信頼関係を構築することが大切なのです。お互いを理解することは、現地においても課題です。たとえば、湿原では狩猟や漁業で生計を立てている人たちがいます。この人たちには狩猟や漁労の捕獲エリアが割り当てられるのですが、プロジェクトが実施した社会経済調査では、こうした人々がずっと以前から自然の保全に努めてきたことが分かりました。しかし、湿原で生活を営んでいるこうした人々を除くと、同じ流域の住民の多くはこの事実を知らず、湿原の保全に無関心なため生活排水を川に流しているのです。「日本が一方的に支援を行っても、限界があります。人々がすでに持っている可能性を発揮することこそが問題解決につながっていくのです。そのためにも、現地の関係者がもっとつながりを持ち、お互いを理解して協力するようになってほしいですね。」