元三重大学医学部小児科教授 櫻井 實先生(寄稿)
ガーナは、野口英世博士が黄熱病の研究に取り組み、病に倒れた地です。博士の功績をたたえ、1979年に日本の無償資金協力により、野口記念医学研究所(通称「野口研」)が設立されました。以降、日本は積極的に当研究所を支援しており(注)、現在では西アフリカでもトップレベルの研究所として、世界中にその名を知られるまでになりました。WHOからは感染症調査機関として正式に認定されていることからも、その評価の高さがうかがえます。この野口研では、延べ200名以上の日本人が医療協力に携わりました。櫻井先生は、小児科医として1981年から約15年間、野口研のプロジェクトに携わり、ガーナにおける子どもの保健・衛生改善に尽力されました。また、ザンビアにおける感染症プロジェクト、タンザニアにおける母子保健プロジェクトなど、アフリカにおける医療協力に大きな貢献をされ、1990年にはザンビアから勲一等を、2007年には外務大臣表彰を受けられました。櫻井先生から、野口研でのエピソードを寄稿いただきました。
三重大学医学部小児科のアフリカ医療協力は、1982年に始まる。JICAの要請を受け、ガーナの野口研究所の感染症疫学部門を、福島県立医科大学小児科のあとを受け、支援することになった。地域医療を担当する小児科医師が不足する状況の中で、アフリカに専門家を派遣することは容易ではなかった。事前の現地調査に参加した神谷斎教授(現三重療養所、三重病院名誉院長)の説得で、感染症が専門の鳥越貞義医師が1983年4月から、首都アクラへ赴任してくれることになった。当時、野口研では、フィールドにおける母子保健の「草の根活動」が端緒を切ったところで、人口1,300人の漁村、フェテ村に診療所が設けられ、乳幼児や児童の健診と予防接種を漏れなく行い、感染症の疫学調査を行う手はずになっていた。
私も調査団の一員として、何回かアフリカを訪れることができた。折から、ガーナも第二次オイルショックと、連年の干ばつの影響を受け、ガソリンスタンドには長蛇の車の列が並び、研究所スタッフも食べ物が不足し、昼休みには自宅に戻り、庭の野菜に水をやらないと自給できないほどの困窮状態にあった。また、研究所の優秀なスタッフの中には、英国や他国の研究所に流出する人があった。
我々の宿舎は、ガーナ大学の公舎で、ブラックスターの学塔が見える小高い丘の上にあった。当初、水道水がない状況で、朝バケツに1杯の水が配布されて、洗顔からトイレまですべてを済ませる必要があった。それでも、夜が明け、百鳥のさえずりが始まると、アフリカの自然を満喫することができた。派遣された専門家の中には、フィールドの活動で日焼けした顔に髭を置く者もあり、後ほど合流した専門家や家族たちと初めて顔を合わせたとき、そのたくましい変ぼうぶりに驚嘆する場面もあった。
当時の野口研の所長はグラント氏で、温厚、誠実な学者だった。その後、ウンクルマ氏が就任したが、氏は前大統領の息子であり、学問のみならず、野口研運営の面でも国民意識の高い所長であった。グラント氏が三重大学を視察されたときには、狭い我が家にも一泊された。畳の床で眠るのが初めてという、背の高いグラント氏の足が布団から飛び出ていた。グラント氏には、我が家で宿泊したことが、よほど印象が強かったらしい。
野口研プロジェクトに参画して以来、ザンビア大学医学部教育病院プロジェクト、タンザニア母子保健プロジェクトにも携わり、三重大学医学部小児科から、延べ25名の長期専門家を派遣することができた。その成果は医療の技術移転にとどまらず、様々な面の交流が現在に至るまで継続されている。三重大学では、2007年の医学部学生の海外実習で、46名中12名がアフリカ実習を志望しているという。
アフリカを経験した医師たちが、一様に自分たちの経験の意義を高く評価しているのは特筆に値する。彼らが帰国後も、自分たちの医療保健の在り方をより多角的によく考え、実践的な問題解決の能力を身につけている。また、一部の医師たちは、開発途上国の医療保健活動を、JICAやWHOなどの場を通して継続しているのはうれしい限りである。
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注 : 日本は野口研に対し、1980年3月以降継続的に支援しており、最近では、1999年から2003年まで技術協力を実施した。また、日本から長・短期合わせて36名の専門家を派遣し、19名を研修生として日本に受け入れ、感染症対策に関する研究能力強化と研修体制の整備を行った。最近、ガーナにおいて結核は治療率が2002年の55.1%から2005年の66.2%へ向上し、住吸血虫症の発生が2002年の9,834件から2006年の4,229件へと減少したが、これらは日本の支援による同研究所の能力強化が大きく貢献したものと考えられる。