前頁前頁  次頁次頁


本文 > 第I部 > 第1章 > 第2節 拡大・変化するODA

第2節 拡大・変化するODA

 時代が下るとともに、日本のODA、そしてODAを取り巻く状況は大きく変化していきました。日本は1960年代から1970年代の高度経済成長期を経て、国民総生産(GNP:Gross National Product)が米国に次いで2位となり、また、先進国首脳会議(サミット)には1975年の立ち上げ時から参加するなど、国際的に大きな影響力をもつに至りました。これとともに、日本のODAは量的な拡大、援助形態の多様化を進め、ODAの対象分野や対象地域も広汎なものとなっていきました。
 この間、国際的な援助潮流として、1970年代には基礎生活分野(BHN:Basic Human Needs)に対する援助が重視されるようになり、日本はこれと歩調を合わせ、BHN分野への支援を増加していきました。
 1980年代に入ると、1973年、1979年に発生した石油危機及び一次産品価格の下落を要因として、開発途上国の国際収支が悪化し、自国の経済状態に照らし、維持できないほどの債務を抱えることになった国が多数生じました。このため、開発途上国の経済構造の改善を目的とする構造調整融資が世界銀行を中心に援助の主流を占めるようになり、小さな政府と経済の自由化を基礎にした経済改革支援が行われるようになりました。日本は世界銀行の構造調整融資等への協調融資も行いつつも、その一方で、経済発展における政府の役割も重要であり、引き続きプロジェクトを中心とした援助も必要だとの独自の考え方に基づいた支援を行い、東アジアにおいて目覚ましい経済発展に貢献しました。これは、1993年に世界銀行が「東アジアの奇跡(East Asian Miracle)」と題した報告書を公表するなど、国際的な援助の認識に影響を与えました。
 1990年代には、冷戦構造が崩壊し、欧米諸国が「援助疲れ」でODAの量を減らす中、日本は1991年から2000年までの10年間、世界最大の援助供与国となりました。また、冷戦が終結しグローバル化が進展する中、紛争、麻薬、環境問題、感染症、男女の格差などの地球規模の課題や貧富の格差といった課題に焦点が当てられるようになりました。さらに、1990年に勃発した湾岸戦争を契機に、冷戦終結後の国際環境における日本の国際貢献のあり方が議論されました。その後、民族問題等を原因とする紛争が各地で頻発したことは、紛争予防から、平和の定着と国づくり、本格的な復興開発支援に至るまでの包括的かつ継ぎ目のない支援の重要性を浮き彫りにしました。このことは、これまでの開発を目的とした協力を超えて、被援助国の民主化や人権、良い統治、さらには、人材育成、制度構築といった課題にODAがどう取り組んでいるかという観点からODAを見直す契機となりました。
 このような状況を踏まえて日本は1991年にODA4指針*1を策定しました。続く1992年6月には、日本のODA政策の基本文書である政府開発援助大綱(以下、ODA大綱)を策定しました。大綱は、ODA4指針や国際潮流等を踏まえ、日本独自かつ積極的な援助理念として、従来の[1]人道的考慮、[2]相互依存関係の認識に加え、[3]環境の保全、[4]開発途上国の離陸に向けての自助努力の支援、の原則を掲げました。また、重点地域としてアジアが、重点項目として環境問題をはじめとする地球規模課題への対応などが取り上げられています。相手国との政策対話の強化や、女性や子どもなど社会的弱者への配慮、貧富の差の是正、不正・腐敗の防止、情報公開の促進なども明示されました。
 以後、日本はこのODA大綱にのっとり、多様化する援助需要に的確に応じられるよう実施してきています。また、その運用においては、大綱の原則に照らして開発途上国に好ましい動きがあれば、援助を通じてそれを積極的に推進し、逆に好ましくない場合は相手国に事態の改善を求め、状況に応じて援助を見直すなどの対策を講じてきました。

第2ボスボラス橋
第2ボスボラス橋


前頁前頁  次頁次頁