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第1節 日本のODA草創期-1950年代-
ODAを通じて取り組むべき課題は年々変化しています。50数年にわたって世界185の国・地域に対して供与されてきた日本のODAは、世界情勢の改善に寄与し、時代とともに変化する課題に対応してきました。以下では、これまで日本が実施してきたODAのその時々の目的や、役割について紹介します。(なお、ODA50年の歴史についての詳細は、2004年版ODA白書をご参照ください。)
1946年に公布された日本国憲法では、国際協調と平和主義という理念の下、日本は武力以外の平和的な手段で、国際社会の平和と発展に向けて積極的な役割を担っていくことを明らかにしています。ODAを通じて開発途上国の福祉を増進し、各国の安定と発展に寄与することは、まさに日本国憲法の基本理念にふさわしい国際貢献の重要な手段です。
日本は1951年に調印したサンフランシスコ平和条約により、国際社会への復帰を果たしました。終戦から間もない当時、日本にとっては戦後復興を早期に成し遂げるとともに、アジアを中心とする各国との友好関係を回復し、国際社会における地位を向上させることが重要な課題となっていました。こうした状況の下で、始まったばかりの日本のODAには一般的に2つの大きな役割がありました。第一に当初の資金協力は、アジア諸国、具体的には賠償協定を締結したビルマ連邦(現ミャンマー)、フィリピン、インドネシア、ベトナム共和国(現ベトナム社会主義共和国)等に対する戦後処理としての賠償支払いとそれに並行する経済協力として開始されました。その後は、本格的な資金協力も開始され、これらのODAはアジア諸国の経済の回復および発展に寄与することによって日本とアジア諸国との友好関係を再構築するとともに、冷戦構造の下でこれら諸国を自由主義陣営に引き入れるという意義がありました。第二に中長期的には、ODAがアジア地域の発展に寄与することにより、日本の輸出振興政策にも役立っていました。また、賠償とそれに並行する経済協力は、調達される物資、役務の対象を日本のものに限定しており、日本の輸出に直接つながっていました。

羽田空港を出発する青年海外協力隊第1期生(写真提供:JICA/青年海外協力隊)

モンクット王ラカバン工科大学。1960年に日本のODAによって設立された電気通信訓練センターを前身とし、現在ではタイ有数の工学系総合大学となった。