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column I-2 タイで花開いたわが国の港湾・臨海開発技術~財団法人 国際臨海開発研究センター元理事長 竹内良夫氏


竹内良夫氏
竹内良夫氏

 1970年代にタイ東南部のシャム湾沖で天然ガスが発見された。タイ政府はこれを機に、同湾を含む東部臨海地域を新たな工業化の拠点と定め、東部臨海開発計画の策定に着手した。本計画は、当時、タイにおいて経済開発の最重要課題に位置付けられる一大事業であった。
 この計画に対し、わが国は、良好な日・タイ関係を基礎として積極的に支援し大きな貢献を果たした。その発端は、1981年1月に鈴木善幸首相(当時)がタイを訪問されたことに始まる。この訪問の際、わが国は本計画に対する協力を正式に表明し、それを受け、JICAによる開発調査等が次々と実施されていった。また、当時、私が理事長を務めていた財団法人国際臨海開発研究センター(OCDI:Overseas Coastal Area Development Institute of Japan)も、この計画に照準を合わせて協力体制を整えていった。
 同年11月、タイのアモン運輸・通信大臣(当時)が訪日した際に、私は、アモン大臣を茨城県の鹿島港へ案内した。鹿島港は、私が運輸省(当時)在職時に手がけた「新産業都市」、「工業整備特別地区」の成功例であり、東部臨海開発計画を進めるにあたり参考になると考えたからである。鹿島港は、地域の人々や周辺地域の開発への影響をも考慮に入れた総合的な港湾計画に基づいて整備されており、日本の港湾建設に対する考え方が端的に表れている。視察したアモン大臣一行は、わが国の高度な産業集積、特に港湾を核とした臨海工業地帯の開発技術を高く評価し、タイの東部臨海地域の開発を推進するにあたり、わが国からも協力を得たいと要請してきた。
 翌1982年にわが国はこの要請に応じて、私がJICAのアドバイザリー・チームの代表として、港湾開発の基本政策について助言するためタイに派遣された。現地ではまず関係者に集まってもらい、鹿島港の経験を踏まえ、港湾建設と周辺地域開発を総合的に推進する港湾開発を提案した。当時、東部臨海地域をどうにかしなければいけないという気運は感じられたが、タイ国内のみならず、支援国や関係国際機関の間でも様々な考えがあり、方向性が定まっていなかった。最終的にわが国の提案が採用されたのは、日本の考え方を明確に、そして、タイの人々の目線に立って説明したためであったと思う。その後行われたわが国の開発調査によって、わが国の提案は説得力あるものとして東部臨海開発計画の中で花開いていくことになった。
 私のタイ滞在は10日程であったが、その間に知己となった経済社会開発委員会(NESDB)のサビット氏は、本計画の核であったマプタプット港 注)が開港された1992年に訪日していた。同氏との再会は果たせなかったが、彼は日本の滞在先より私に電話をくれ、マプタプット港開港の報告をしてくれた。私が日本の提案をタイ政府関係者に説明してから、実に10年の歳月が流れていた。
 現在、マプタプット工業港・工業団地は、タイの工業化の拠点となり、タイの経済社会発展に貢献している。この成功は、その地域がどうあるべきか、また、その国がどうあるべきか、という相手国政府と同じ目線に立って援助する日本の成功でもある。

注)マプタプット港に対しては、1984年度、1985年度及び1991年度に計約251億円、また、工業団地に対しては1985年度に約32億円の円借款を供与した。


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