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ColumnIII-9 日本のセルビア・モンテネグロ(ユーゴ)復興支援

 1998年春、コソボ地方でアルバニア系住民の武装組織コソボ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊の衝突がおこり、コソボ問題が緊迫化しました。その後、和平調停決裂後の1999年3月24日、ユーゴ(当時)は和平案の合意を迫るNATOの空爆を受けました。2000年秋の選挙でミロシェビッチ大統領(当時)が敗退して同国は民主化に向け歩み始めたものの、国土は破壊され、1990年代のミロシェビッチ政権の膨大な軍事予算(国家財政の半分以上)が残した負の遺産があり、インフレ率は約3桁という厳しい経済状況に置かれていました。そのような中、日本は、1991年以来停止されていた経済協力の再開を正式に表明するとともに、目前の2000年の冬をどう越えるかという課題を抱えるユーゴに対し、1,000万ドルの緊急支援を実施し、難民救済を目的とする人道支援や農業支援を行いました。また、続く2001年6月のユーゴ支援国会合では5,000万ドルの支援を表明しました。これらの支援は、主に医療、インフラ整備(運輸・電力)、農業分野等に使われ、セルビア・モンテネグロの復旧・復興を通じた経済成長、貧困削減に貢献しています。
 ベオグラード市民の多くは移動手段としてバスを利用しますが、バスの老朽化、台数不足等の原因により、適切なサービスを提供することが困難な状況でした。そこで、利用者が特に集中する同市街地の路線に日本の無償資金協力により93台のバスが整備され、現在市民の足として活躍しています。医療分野においては、医療機材の不足が深刻であるため同国の最優先課題となっていますが、日本の無償資金協力によって地方中核4病院の診療及び緊急医療用機材を整備するなどの協力が実施されています。
 また、農業分野については、2000年の緊急無償で実施された肥料の購入に加え、2001年のノンプロ無償による大型トラクターの支援などを実施し、同国の農業生産に貢献しました。当時の日本政府の援助関係者によると、セルビア・モンテネグロ側の実施能力と対応能力の高さ、国内での政府側の宣伝努力の2点が、大きな成功要因だったということです。
 他にも、日本のNGOとの連携で行った草の根支援案件の1つに、コソボのアルバニア系住民とセルビア系住民が混在する地域で、アルバニア系、セルビア系双方の小学校の修復と町の清掃を行うという事業を行いました。これは、地域に秩序をもたらす点でも、効果がありました。
 このような日本の援助、また各援助国の支援を受け、セルビア・モンテネグロの経済・財政金融状況は徐々に改善しています。これまで日本は、インフラ整備や人道支援を中心とした復旧・復興支援を中心に行ってきましたが、依然民族問題や紛争に起因する多くの貧困層を抱えており、現在では平和の定着や経済発展に資するような支援を模索しています。

テレビで日本の支援を紹介したことをきっかけに市内に登場した日本大使のビルボード(ベオグラード市)
テレビで日本の支援を紹介したことをきっかけに市内に登場した日本大使のビルボード
(ベオグラード市)


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